能海寛の非命と栄光

ちょうど19世紀から20世紀にかわるころ、当時鎖国チベットに入り込もうとしていた4人の日本人がいた。河口慧海・成田安輝・寺本婉雅と、石見国は波佐村出身の能海寛(のうみ ゆたか、1868-1901?)である。俗人(クリスチャンであった)の成田以外はみな僧侶で、河口は黄檗宗、寺本と能海は真宗大谷派、「西方取経」を志す「今西遊記」の人々であった(「西遊記」ぶりは、まさに玄奘の道西域タリム盆地を行くいわゆる大谷探検隊でピークに達する)。
能海の入蔵行を簡単な年表にすれば、次のとおりである。
明治31(1898)年11月12日 出発
明治32(1899)年 1月 8日 重慶
   4月 1日 重慶出発(四川ルート)
   5月12日 打箭炉着
   7月 8日 打箭炉出発 6月27日に打箭炉に到着した寺本婉雅(日本出発1898年7月2日)とともに
   8月11日 巴塘着 進蔵をはばまれる
   10月−翌年5月 打箭炉滞在
明治33(1900)年 5月17日 打箭炉出発(青海ルート)
  *7月 4日 慧海チベット入り(日本出発1897年6月28日)
   7月15日 丹喝爾着 賊難にあい、重慶に引き返す
  10月 4日 重慶
 *12月    寺本、北京でチベット大蔵経入手
明治34(1901)年 2月21日 重慶出発(雲南ルート)
  *3月21日 慧海ラサ入り
   4月18日 大理から最後の手紙を送る 翌日出発、以後消息不明
 *11月12日 成田チベット入り 12月8日 ラサ入り
*明治38(1905)年 5月19日 寺本ラサ入り
出発以来2年半を落ち着かぬ旅の枕に暮らしたが、重慶に2回、計7ヶ月ばかり過ごしたほかに、打箭炉にも前後9ヶ月を送っている。能海の入蔵行は、最初のアタックで同道した同門の寺本婉雅と対照するとよく理解できると思う。


明治・大正期に入蔵した日本人7人のうち、いちばん知られており人気があるのはもちろん河口慧海だが、それに次ぐ、と言ってもいいのではないか。成田安輝や矢島保治郎の名はほとんど知られておらず、寺本婉雅は忘れ去られている。多田等観・青木文教の両僧(ともに真宗本願寺派)と並べても、知名度では劣るにせよ、人気なら能海のほうがあるいはやや勝るのではないかと思われる。この7人のうち、ただ1人チベットの内地に入ることができず、その目前で命を落とした人、つまり「失敗者」でありながら、研究会が組織され、著作集(全14巻・別巻3巻、うしお書店)が刊行されつつあるというのは異常である。伝記も書かれているのだ。
黒龍会『東亜先覚志士記伝』の入蔵僧の扱いがおもしろい。河口慧海はわずか2行で触れられるだけで、能海には5ページが割かれているのみならず、列伝の部にも略伝が掲げられる。黒龍会などに賞賛されなくても不名誉ではなく、むしろその逆かもしれない。列伝中に「スパイ」成田安輝と並ばなくとも大事ない。しかし、寺本婉雅をとってみると、彼は純粋な仏教研究よりもむしろ国事に奔走するのを好んでいたように見え、黒龍会の主義に重なる部分が多かったはずで、実際本文中彼の活動に能海以上の紙幅を割いているが、なぜか列伝には名前がない。入蔵も大蔵経将来も果たし、大ラマ阿嘉呼図克図を日本に招いたり、ダライラマ本願寺連枝大谷尊由の会見を設定するなどした彼よりも、ナイーブな仏教学徒で、しかも目的を果たせず犬死にしただけと言えば言える能海のほうが高く評価されているのは、奇とするに足る。志をもって人をはかるならば、こういうことにもなるのだろう。
心ある人は能海を惜しむ。彼が雲南の奥地へと旅立ち、消息を絶つ前の最後の手紙がその理由の一端を示す。胸を打つものがそこにある。
「今や極めて僅少なる金力を以て深く内地に入らんとす、歩一歩艱難を加へ、前途気遣はしき次第なれど、千難万障は勿論、無二の生命をも既に仏陀に托し、此に雲南を西北に去る覚悟なり、重慶より連れて来りし雇人を当地より重慶に返すに当り内地への書状を托す、今後は多分通信六ケ敷かるべし、明日出発、麗江に向はんとす、時に明治三十四年四月十八日なり」(「遺稿」p.200)。
この調子の高い告別辞のあとのぷつりと切れた空白が、人に思い入れの余地を与える。もし入蔵に成功していたら?「高楠順次郎がインド学に貢献したように、日本のチベット学を大きく変えていたかもしれない」(山口瑞鳳(*1))。「嗚呼、君をして留蔵数年ならしめば、其の学の造詣と、国家社会に貢献せらるゝこととは、実に測るべからざるものありしならん」(太田保一郎、「遺稿」p.1)。まぎれもない「成功者」で、最終的には大谷大学教授となった同志寺本婉雅が今日忘れられていることを考えれば、それは過大な思い入れである可能性のほうが高いのだが、それにもかかわらず、そう思わせてしまうものが彼にはある。消息不明になったあとに伝えられた話、賊に襲われ死を覚悟した能海が、人家の壁に辞世の歌を書き残して殺された云々の「伝説」は、すぐに否定されたものの、そんな語りを誘発するものが彼の側にあったことを示している。
明らかにチベットを見下していた慧海や寺本と違い、能海はチベットに正当な尊敬の念を抱いていた。これがチベット愛する人々の間で能海に好意が寄せられている理由である。ひどい扱いを受けた裏塘のラマたちのことは罵るが、すぐに元の自分に返る。「同人間には、能海君といふよりは、寧ろ「西蔵」といふ方が通りのよかった位」(*2)だった彼に。打箭炉で取経訳経に日を送っていたときの書簡中のよく引かれる次の一節に、彼の真骨頂がうかがえる。
支那人は多く西蔵人を蛮家々々など称し候へども、今彼西蔵人の用ふる真行草隷の書、及干殊爾、丹殊爾の翻経を見れば、西蔵の文字は一千三百年前印度字より製作せられたるものにて、更に他国の文字を借ることなく自在に文章を書き顕したり、経典は一千乃至一千一百年前頃既に自国の語に翻訳せられて、少しも他国の言語文字を借りたることなし、我日本の如きは人口は西蔵の十倍以上を有し、長き歴史を有するにも関らず、文字といへば片仮名平仮名のみ、これとても大半は漢字により、漢字にあらずんば完全に文章を形成し完全に意志を表出するを得ず、仏教盛なりと雖日本文の経典とては七千余巻の中、一部半部一巻半巻一品半品もあらざるなり、予は実に日本の学者日本の仏教徒に対して大々的不平を有せざるを得ず、美しくかゝれたる(元来美なる)西蔵文字の経典を見て、予は実に羨望に堪へず候」(「遺稿」p.111f.)。
 彼こそがチベットに入り学ぶべき資格を第一に有していた人なのに、その彼のみが成功しない。世の中にままあることながら、感慨なしとしない。
純粋さ真摯さが彼の魅力で、スパイそのものである成田はもちろん、河口や寺本とも違いがある。金を盗まれ舞い戻った重慶で、領事館に預けておいた48両の金を受け取ろうとしたら、それを上海から運んでいた船が沈没したために、長江の底に沈んでしまった。不運続きの能海が、青海での賊難と合わせ、100両あまりを失って困窮しているとき、領事はそれを自弁で調達してくれた上、能海の雲南への出立を外務省に報告した文中に、「同僧が単身飄然辺彊行路の艱苦を意とせず再三其目的を達せんとする熱心に至っては頗る称道するに足るものと存候」と付言したのも(*3)、彼の姿勢が人に訴えるものをもっていたからであろう。


入蔵のために乗り込んでいったインドや中国でようやくチベット語を学び始めた河口寺本と異なり、能海は日本ですでに勉強に励んでいた。逆にそのことが彼の失敗と二者の成功を分けたかもしれないが。言葉は現地で学ぶに限る。現地で準備に時間をかけた(成田を含む)3人と、日本でいくらやったとて不十分でしかないのに、ひたすら直行しようとした能海。かえって仇になることは世の中に多い。けれどその勉強ぶりはほめられてよい。たとえば、出発直前の明治31年10月9日、入蔵を目指してダージリンで準備しながら果たせず帰国した川上貞信と京都で会っている(「渡清日記」)。そのときウォデルの『チベット仏教あるいはラマ教』について教えてもらったらしく、出版年出版社までメモしている。打箭炉からの手紙でウォデルのボン教解釈に触れているところから見ると(「遺稿」p.111)、それまでに読んでいたのだろう。出発まであとひと月と迫ったあわただしい中でも勉強を続けていたわけだ。南条のもとでは梵語の学習も熱心に行なっていた。南条の梵文大蔵経講義を受けており、また「枳橘易土集」附録をせっせと書き写している(明治30年日記)。これは江戸時代の慧光の編んだ梵語字典で、おそらく哲学館講義録仏教部第一輯として明治38年に刊行されたものの下請け仕事であろう。
貧乏書生のこととて、専門書を購えたわけではなく、もっぱら人に借りて勉強していたようだ。彼自身の覚書によると、
「チョーマー氏『西蔵文典』英書、右真宗大学図書課蔵書第百参号(1)
 ヤシュケー氏『蔵英字書』英書(2)
 エメギントウヰト氏『西蔵仏教』英書(3)
 『西蔵史文学等』英書(4)
 アンナルス・ツー・ミュージー・グィメット『西蔵大蔵経目録(第二巻)』仏書(5)」(*4)
(2)(H. A. Jäschke: A Tibetan-English Dictionary. 1881)は、師南条文雄から借用し、中国へも持って渡った。(1)(Csoma de Körös: A Grammar of the Tibetan Language. 1834)からはその付録「西蔵国歴史年表」「西蔵国所伝釈尊入滅考異説」を訳し、(3)(E. Schlagintweit: Buddhism in Tibet. 1863)の一部を「西蔵喇嘛教の分派」(「反省雑誌」11−8、明治29年)で、(5)(Annales du Musée Guimet, tom. 2. 1881)を「西蔵大蔵経総目録」(「東洋哲学」5−3、明治31年)で使っている。慧海がダージリンで世話になるチャンドラ・ダスの「西蔵新教の開祖ツヲンクハパの略伝」を翻訳してもいて、明治29年から31年の間に矢継ぎ早に発表されたこれらの「南条ゼミのレポート」から、孜々として勉強に励んでいるさまがうかがえる。(4)の原題は不明。
しかしながら、よく勉強はしていたが、視野が狭くはなかったか。読み方が足りていないように感じる点がいくつかある。
同じ真宗大谷派の先達で、明治6年中国に渡って仏教事情を調べ、上海に本願寺別院を開いた小栗栖香頂は、帰国して『喇嘛教沿革』を著した(明治10年)。彼に能海は論経を習っている。『喇嘛教沿革』はもちろん読んでいたに違いない。香頂は北京雍和宮の洞闊爾呼図克図にチベット語を学び、チベット経典も一二得ている。いわゆるラマ教チベット仏教は、単にチベットにとどまらず、モンゴル人や満洲人にも信仰されていたこと、その寺院はモンゴルや中国本土にもあり、経典もまた蔵していること、チベット僧(ないしチベット語のできるモンゴル僧)がその寺院にいること等々の情報がこの書から得られるのだが、能海はこの可能性を考慮していない。もっぱら欧人に学ぼうとしているように見える。香頂の開いた道をたどったのは寺本で、彼は同じく北京で雍和宮の僧侶にチベット語の手ほどきを受け、北京のラマ教寺院からチベット大蔵経を得、呼図克図についてモンゴルを通って青海クンブム寺へ行き、そこからモンゴル僧の一行にまじってラサ入りを果たしているのだ。
また、蔵英辞典・蔵語文典を著し、西洋のチベット学の祖と仰がれるハンガリー出身のケーレシ・チョマ・シャーンドル(アレクサンダー・チョマ・ド・ケーレス、1784-1942)という学者がいる。能海は彼の文典を独習しており、その付録から翻訳を行なっていた。細かいことだが、彼の名前の表記を追ってみると、興味深いことがわかる。その最初の翻訳「西蔵国歴史年表」(*5)では、彼の名を「クソーマ」としている。Csomaという表記なのだから、そう読むほうが自然であって、ハンガリー語正書法を知っているか(そんな日本人は当時ほとんどいなかったろう)、正しい読みを聞いて知っているかしなければ、実際の発音はわからない。能海以外でも、「明教新誌」に載った「吾人の北方仏書を知得したる由来」(明治26年1月28日)は「ソマ」と書いている。当時留学中の友人高楠順次郎は、能海の文を読んでか、正しくは「チョーマ(クソーマに非ず)ド、クルシー」であると指摘した(*6)。ヨーロッパのインド学者チベット学者と交わっていればこそわかることで(さらに正しくは「チョマ」だけれど)、それを受けて、翌年の「西蔵国所伝釈尊入滅考異説」(*7)では能海は「チョーマー」と記している。たとえイギリスにあったとて、学界と無縁に独学していた南方熊楠は「クソマフガス」(クソマケリス?)と読んでいたのだから(*8)、能海の表記を云々するのは重箱つつきのように見えるかもしれないが、しかし彼はそのころ南条文雄の家に住み込んでおり(チョマの文典も師から借り受けていたのだろう)、その南条は「チョーマ」と読み、そう論文に書いていること(*9)を考えると、能海の勉強のしかたについて、師匠からの学びようについて疑問がわくのだ。このチョマは、ラダックの僧院でチベット語と経典を学び、カルカッタで辞書や文典を刊行したのち、ラサへ行こうとしてその途上で病没した人である。チベット内地には結局足を踏み入れなかった点で能海と似ており、だから高楠は「遺稿」の序文で能海を「チョーモ」(ここではそう書く)と並べ称した。しかしながら、文典を読み翻訳もしているのに、チョマから学ぶべきもっとも重要な教訓をそこから得ることがなかった。チベット内地に入らなくてもすぐれた研究はできるのだということを。


すでに明治26年刊行の自著『世界に於ける仏教徒』において、「西蔵国探検の必要」に一節をあてていた能海。彼の入蔵行の目的は二つあった。
1)チベットに入ることそれ自体
2)チベット仏教を学び、経典を将来する
けれども、1と2は一体のものではない。1を達成すれば2は容易になるだろうが、その成就を保証するものではないし、2を実現するために1が必須の前提になるわけでもない。現に寺本婉雅は、大蔵経を北京で入手し、青海のクンブム寺(タール寺)でチベット仏教を学び、そのあとでラサ行きを果たしているのだ。ネパールに道をとった河口慧海は、かりに入蔵できなくとも、ネパールで梵語経典を集め仏跡を訪ねるなど有益な仕事ができるという目算があった。わが石見人は戦略に乏しいと評されてもしかたがない。
ふたつの目標とも、限定的には達成している。鎖国をしているダライラマチベットを小チベット、ないしチベット内地とし、その周辺のチベット人居住地域(四川・雲南・青海のチベット人地域やラダックなど)を含めたものを大チベットとすれば、大チベットには足を踏み入れているので、寺本とともに、「初めてチベットに入った日本人」と言えるかもしれない。しかし彼の目的地はあくまでチベット内地であり、目標を達成したとは自身全然思っていなかった。経典も、手に入ったものは逐次日本に送っていたし(「賢功経」上巻220葉・下巻238葉、「賢功千仏名経訳経」358葉、「聖金光明之帝王大乗経」221葉、「八千般若」上巻204葉・下巻200葉など)、訳経もいくつか試みていた。「金剛経、般若心経、外二部西蔵経文直訳」を明治33年5月に本山へ送っているが、「能海寛遺稿」に載せられた「般若心経西蔵文直訳」以外の稿本は紛失したという(「遺稿」p.195。寺本の言うとおり、惜しみても余りある)。だが、ラサ一番乗りを果たし西蔵事情を生き生きと伝えた慧海の『西蔵旅行記』や寺本のチベット大蔵経将来という輝かしい成功の前では、いくつもの限定辞句を並べてやっと評価される業績は、昼間の蝋燭のようなもので、そこに能海伝の真価があるわけではない。


失敗の理由はいくつか考えられる。
短気であったらしい。門出にあたって父から「堪忍大事なり」と言い聞かせられていたのだが、裏塘から巴塘までの道中、怠慢目に余る同行兵士を殴っている。殴られた男が石をもって報復しようとしたのを寺本が仲裁したが、彼がいたからよかったものの、一人だったらどうなったろうと案ぜずにはおられない。日記からも感情の起伏が激しいのがわかる。若さという言い訳を顧慮しても、探検には向いていないと断ぜざるを得ない。
能海は異貌の持ち主だった。いわく「巨眼豊頬の容貌」(寺本、「遺稿」p.253)、いわく「氏風貌奇古、円面にて漆黒、眼孔深くくぼみ、爛々巌下の電の如し、一見尋常人に非ざるを知るべし」(梅原融、「旅人」p.16)。研究室や事務室での仕事などと違い、探検は全身的営為である。もし筆者がスパイの元締だったら、能海が応募してきても不採用にするだろう。チベット知識や熱意がいくらあっても、モンゴル人や漢人に見えなければ、とても潜入はおぼつかない。彼はもちろんスパイではないが、潜入を試みた点では同断で、彼のあの顔が不利に働いた場面はあったのではないかと思う。
 性格も外見も、そもそもこの仕事には不向きであった。
そして、性急に突入をくりかえした。ひとつのルートがだめならその次、またその次と。しりぞいて時期を待つことをしなかった。そのことを成功した3人は辛抱強くやっている。この点で成功者と失敗者の行動は対照的で、後進に成功の要諦を知らしめている。思うに、能海は待たされすぎていた。それが性急さの一因であろう。「予ト西蔵」の中で、自身入蔵を決意したのは明治25年12月だと書いている。明治27年1月3日には檀家にあて「口代」なるものを書いて西蔵探検の決意を述べ、2月27日には髪を切り、「予無事帰国せば吉祥也若し業のために死さば、遺体と思ひ御葬送を仕乞ふ」と書き置いているのであるが、同年8月勃発した日清戦争のため、それから4年旅立ちを待ち続けなければならなかった。
能海は決してチベット一番乗りは目指していなかった。明治21年東温譲がインド留学に行くとき、送別会で彼に入蔵の必要を説いているし、川上貞信が蔵行を企てているのを知ったとき、もしこのことを早く知っていたら自分みずから行こうとは思わなかったかもしれないと漏らしている(「予ト西蔵」)。慧海が自分よりずっと早く日本を出たことも知っており、だから明治32年3月頃、彼が入蔵に成功したとの報(誤報であったが)に接したときも、「川口慧海氏印度より入蔵之事、何より以て仕合に存候。多分布達拉に於て面談被致事と存候」(「遺稿」p.49)と平静に受け止めている。だが一方で、入蔵は義務だと思っていたのであろう。雲南ルートもだめなら、インドへ回るつもりだったらしい。彼は東本願寺からの公的派遣であり、本願寺法主からのダライラマあて親書を持っていた。私費で入蔵をはかっている寺本や河口を横に見た場合、公費派遣の自分の使命を強く意識せざるを得ないことは、容易に想像できる。あくまで第一の目標にこだわり、それが結局命取りになった。
打箭炉でラマ僧になるか、寺院に入れずともじっくり腰を落ち着けて取経訳経をしつつ時を待つ、というのが考えられる最良の選択であった。実際、前に半年それをやっているではないか。成田安輝は明治32年4月、能海・寺本の出発に先立って領事とともに打箭炉へ行っているが、そのとき打箭炉の庁長と会談し、入蔵はむずかしい、当地でラマ僧になり言語を研究すればあるいは進蔵することもできるかもしれないがなどと言われている(*10)。成田にはできないけれど、能海にはできたことだ。
明治33年12月2日付の重慶からの寺本あて書簡に、打箭炉へ行くつもりだったが、引き止められ、翌春雲南へ向かうことにしたと書いている(「遺稿」p.137)。打箭炉へ行くというのも、ただ経由地とのみ考えていて、デルゲの方面に向かおうとでも思っていたのだろうが、しかし半年を過ごした打箭炉には土地勘があり、情報も得やすくなっていただろうし、すぐに進めないとわかれば腰をすえることにしたかもしれない。訳経に日を送っていれば、土地のチベット人の信頼もかちえただろうし、そうすればいろいろな可能性が見えてきたのではないかと思う。ここが運命の岐路であった。だが神ならぬ人の身が、そこが岐路だったと気づくのは、もう戻れないほど行き過ぎてしまってから、すべてが終わってしまってからである。
重慶出立の前日(2月20日)南条文雄にあてて、「兼て借用の西蔵字書は大事に致し用ひ候へ共、今回の旅中は甚だ案じ居候間、若し欧洲に於て得らるゝ事に候へば、本山より一部御購求相成事は叶不申儀に御座候哉」(「遺稿」p.150)と書いている。つまり、重慶を出発した時点では辞書を持っていたのである。そのイェシュケの蔵英辞典は今波佐にある。彼が最後に携えていた荷物は遺体とともに失われているのだから、どの地点かで後方に送り返しているのだ(おそらく大理で重慶から連れてきた雇人を返したときであろう)。チベットに入れば、辞書こそがいちばん必要になる。なのになぜ送り返したのか。荷物を極力少なくするためでもあろう、英語の書物が疑いを招きやすいことも考慮したのかもしれない。そして、手紙で漏らしていたように、借りたものが返せなくなる事態を懸念もしていて、これがいちばん大きかったのではなかろうか。この旅は五分五分よりだいぶ分が悪いと、予感もあり覚悟もしていたのであろう。身辺整理をし、「不惜身命」と書き置いて、西北の奥地へと歩を進めた。その後姿に、明治32年元旦、長江を遡る船旅の途上で詠んだ歌を重ねて、この求法僧を送ろう。
  月も日も我身も西に入りてこそ東のそらにまたのぼるなれ


失敗にはむろん理由がある。だがそれを指摘するだけなら、単なる空しい後知恵だ。能海の失敗は、失敗をしたことのない人が難ずればよい。その入蔵行は決して愚かな行為ではなかったし、仮にもし愚かなら、なおのこと愛される資格がある。畳の上で大往生するだけがいい死に方ではない。多くの人に愛惜される能海は、正しく死んだと言っていいのではないか。そして、正しく死んだ者は、正しく生きたのである。出発直前に結婚したばかりの夫人を寡婦として残したことだけは、ほめられないけれど。


参考文献および註:
『能海寛遺稿』、五月書房、1998(原著:1917)(「遺稿」)
江本嘉伸『能海寛 チベットに消えた旅人』、求龍堂、1999(「旅人」)
隅田正三『チベット探検の先駆者 求道の師能海寛』、波佐文化協会、1989
寺本婉雅『蔵蒙旅日記』、芙蓉書房、1974

*1:山口瑞鳳チベット』上、東京大学出版会、1987、p.75。
*2:米峰「能海寛君を悼む」、「新仏教」6−9、明治38(1905)年、668。
*3:木村肥佐生「成田安輝西蔵探検行経緯」資料編1、「亜細亜大学アジア研究所紀要」13、1986、p.28。
*4:岡崎秀紀「能海寛・文献紹介(未定稿)」、p.8。
*5:「西蔵国歴史年表」、「仏教」115、明治29(1896)年。
波佐にある「西蔵文典」(1)を見ると、表紙に「第百参號/西蔵文典」と朱書、さらに「本願寺/能海寛」とあり、裏表紙には「光緒二十五年五月十六日」と墨書してある。これが借物であったのは明らかだが、後述のように、同様に南条からの借物である(2)については返却方に苦心している能海が、こちらについては返却を案じた形跡がない。それは、貸与から供与に切り替わって、自分のものになっていたからではないか。光緒25年(1899)5月16日、彼は打箭炉にいた。入蔵へ出立する彼へのはなむけとして、本山が贈与してくれたのではないかと想像される。そう考えれば、「本願寺/能海寛」という署名には本山からの派遣であり贈与であるという誇りがうかがえそうである。
*6:高楠順次郎西蔵語及び巴利語の研究に就て」、「反省雑誌」11−9、明治29(1896)年。ちなみに、チョマが没した土地ダージリンに滞在して入蔵の準備をしていた河口慧海は「チョーマー」と書いている(『チベット旅行記』第89回)。
*7:「西蔵国所伝釈尊入滅考異説」、「仏教」128、明治30(1897)年。
*8:明治27年3月19日付土宜法竜宛書簡、『南方熊楠全集』7、平凡社、1971、p.302。
*9:南条文雄「仏涅槃年代考」、『向上論』所収、東亜堂書房、1914。初出:「令知会雑誌」8・13・14・15、明治17・18(1884・85)年/「教学論集」15、明治18(1885)年。この中で南条は、のちに能海が訳すチョマの西蔵文典付録の釈尊入滅年代の部分をすでに抄出している。
*10:木村肥佐生「成田安輝西蔵探検行経緯」上、「亜細亜大学アジア研究所紀要」8、1981、p.68。