「探検」論、あるいはユーラシア交通史の中の能海寛

「探検」というのはなかなかに人の心を騒がすことばである。能海寛も「チベット探検家」とされることにその人気の大きなよりどころがある。だが、能海をよりよく理解するためには、この「探検」をはぎとってみる必要があるだろう。
初めて大西洋を渡ったり、南極のような人跡未踏の地に足を踏み入れたりするのは、なるほど「探検」である。だが、人が住んでいる土地に出かけて行って、何が「探検」だろう。
「探検」については、こういう真理がある。「文明人」が行なえば「探検」になる(「発見」もそう。昔のヨーロッパ人の書いたものを見ると、日本も彼らによって「発見」されていたりするからね。「発見」とはそういうことだと肝に銘じておかねばならない)。それが「探検」であるかどうかは、それを行なった者が「文明人」であるかどうかどうかによって決まる、という資格の問題なのだ。ホップカークの「チベットの潜入者たち」(白水社、2004)は19世紀後半にラサ一番乗りを競う「探検家」群像を描いているが、その中で著者は、欧米人に先立ってラサ入りを果たした河口慧海について、「彼は厳密な意味でこのレースの勝者と言うことはできない」などとコメントする。外見上宗教上白人より有利だから。つまり白人のレースなのである。みずからを「文明人」ともって任じる日本人は、もちろんそうは思わない。西洋人に先んじた慧海の「偉業」を割り引くべき理由はないと考える。では、ダスはどうだ? ドルジェフは?
慧海がそのもとでチベット語を学んだダスはベンガル人で、紛れもないイギリスのスパイであった。1881年にラサ入りを果たす。インドに帰ってのち蔵英辞典を編んだ。ロシア帝国臣民であるドルジェフはブリヤート人の高僧で、1880年にラサに来て、慧海の潜入当時もそこにいた。僧侶として重きをなしたが、欧米では一貫してロシアのエージェント扱いをされている。国籍こそロシアであったかもしれないが、モンゴル人仏教僧としてなんら問題なくラサ入りでき、僧として生きたドルジェフはたしかに「探検家」とは言えない。だがダスを「探検家」と見なすさまたげになるものは、彼がアジア人であるという点にしかない。
同じことがブリヤート人のツィビコフ、カルムィク人のノールジーノフについても言える。ウラジオストク東洋学研究所のツィビコフは、モンゴル僧の巡礼団に紛れて1900年にラサに達した(薬師義美「大ヒマラヤ探検史」、白水社、2006;神戸応一「中央亜細亜及拉薩に就き」「地学雑誌」183号(1904))。ラサ入りが1901年である慧海に先立っている。それより前にもロシアからは使節が来ていたらしい。
(これに限らないが、西欧や日本の研究ではロシアが盲点になっている。ホップカークもプルジェワルスキーしか取り上げていない。ロシアの活動は正当に位置づけられなければならない。)
しかるべき報告をするというのが「探検」の要件のひとつで、この点でたとえば矢島保治郎などは「探検家」資格が失われるが、当然のごとく学会で報告しているツィビコフがどうして「探検家」でないことがあろうか。
慧海を「レースの参加者」と認めれば、このように参加者はどんどんふえていって際限がなくなる。だから日本人慧海を含めて白人以外をカテゴリー的に拒絶するというのはそれなりに合理的だ。だが、そんな「合理性」って? 民族的出自によって、あるいはもっと露骨に、帝国主義国家の完全な成員であるか否かによって「探検家」としての認知が左右されるのはおかしいし、そういうシステムは全体として無効である。


「探検」には2種類がある。「地誌探検」と「極地探検」だ。後者は人の住まない(住めない)地を踏破するスポーツ的なものであるのに対し、前者は「地図(彼らの地図)上の空白」を埋めるために行なうので、その仕事は要するに情報収集であり、つまり「スパイ」である。その任に当たる者に軍人が多いこともそれを示す。「隠密」間宮林蔵を見よ。「探検家」は「スパイ」の美称であり、「スパイ」は「探検家」の蔑称であるという関係だ(だいたいにおいて、自国の「スパイ」は「探検家」と呼び、敵国の「探検家」は「スパイ」と呼ぶことになっているようだ)。
大谷「探検」隊はかつての暴君の都ブハラ駅で日本人に会っている。能海も旅の途上で同じようにチベット行きを企図する日本人とすれちがっていた。すでに鉄道網が形成されていたあの時代、中央アジアの「探検家」たちがしたことは、極言すれば鉄道のない土地を旅したというだけのことだ。イザベラ・バードの「日本奥地紀行」と同じである。もちろんあれは「大旅行」ではあっても「探検」ではない。ならばほかも同じだ。明治日本なら「探検」でないものが、大清帝国なら「探検」だというのは妙な話ではないか。
現代はテレビ局とタイアップした「探検家」たちの時代となった。われわれは犬橇をあやつる「探検家」を空撮したテレビ画像を見ることになる。「探検」の果てである。「探検」であるためには、そこが「危険」でなければならない。「野蛮」でなければならない。ジャーナリストと同じだ。「危険」を売る商売なのだ。まっとうに生活する土地の人々をおとしめて金を得る、かなりまっとうでない行為なのである。「売名」臭もぷんぷんだ。それが能海の時代のチベットでもそうであったことは、ホップカークの本に出るランドーその他の者どもの行状から明らかだ。


「探検家」はいつも商人のあとから行く。観光客にはむろん先行するが、その意味では「最初の観光客」であるに過ぎない、と言ってもいい。「鎖国」のチベットには外国商品がいろいろ入っていた。ラサ入りした慧海や成田安輝が見たのは日本製のマッチであり、ヘディンがもしラサに到達することができたら、そこで売られているスウェーデン製のマッチを手にしたはずだというのがそのあたりの事情を象徴している。チベット人漢人のほかにも、カシミール人・グルカ人・シッキム人の商人がいたのである。
17世紀にキリスト教徒のアルメニア人がラサで商業に従事していた記録がある。イスラム教徒のカシミール人と共同体を作っていたそうだ。チベット学の祖チョマはアルメニア人に扮して旅をしていたことが思い起こされる。商先学後である。
歴史は交通史であると喝破したのは宮崎市定である。人間の住むところ、商業に限らず、宗教的(修行や巡礼など)・政治的(使節や亡命など)な往来や流民・移民の波は絶えることがない。
能海は、四川ではグルカ使節団のあとを進んだし、青海では商隊について入蔵を考えた。寺本婉雅は青海からモンゴル人巡礼団にまじり、成田はシッキムから中国人商人に扮してラサに至った。「秘境」の名を枕詞のように冠せられるチベットにも、旅人は常に往来していた。見てくれがちがいすぎ、紛れて潜入することのかなわぬ欧米人は力まかせに押し入るしかないが(外見についてはお互いさま、ユーラシア西半では逆に日本人は扮装がきかぬ)、日本人は通行する人々の群れに掉さしてチベット潜入を図った。紛れ込みを許すだけの交通があったればこそできたこと。交通あっての「探検」だ。交通史こそ主であり、「探検家」は従なのである。
青海・四川・雲南ルートを試み、ビルマからインドに出るルートも真剣に検討していた能海の旅路は、チベットをめぐるユーラシア交通史を浮かび上がらせる。この方面から能海を研究する、あるいは能海の旅を通じてユーラシアの交通を語るという視角もあっていいし、それは豊かな収穫を約すもののように思える。
また、チベット大蔵経の将来というのが入蔵熱にかられた青年僧たちの大目標であったが、それが初めて日本にもたらされたのは北京の寺からである。清という多民族帝国の本質を考える手がかりのひとつがここにある。
ユーラシア大の視野で見れば、一能海、一寺本の身の丈いっぱいの右往左往が、正しくそのあるべき位置において眺められるはずである。われらはかない死すべき者どもの営為を正しく測るのが、天上からの視点であるように。