留学のいろいろ (5)

客死
西周らのオランダ留学に同行した職人の大川喜太郎は、留学中に病死した。江戸小石川の名高い宮大工久保田伊三郎もこの留学に選ばれていたが、船中で病気になり、長崎で下船、江戸に帰って間もなく死んだという。士分の留学生は無事帰国したが、それでなくても医学のまだ十分に発達しない時代、病に倒れることはよくあるし、まして気候環境が激変すれば心身の負担が大きいのは道理で、異邦での孤独な死は留学につきものであった。
留学は帰国が前提だ。南方熊楠アメリカ留学に発つとき友人に与えた無邪気な詩に見るように。
「僕もこれから勉強をつんで、
洋行すました其の後は、
ふるあめりかを跡に見て、
晴るゝ日本へ立帰り、
一大事業をなした後、
天下の男といはれたい。」
けれども、みんなが帰ってくるわけではない。仏学の先駆者の一人である松江藩士入江文郎(1834−1878)は、蕃書調所・開成所教授を勤め、明治4年(1871)フランスに留学し、学制調査などをした。フランス語の著作もあったそうだが、結核のためパリに死した。そんな人のことなど知らない? 当然である。事をなす前に死んでしまったのだから。事をなさなかった人は忘れられていい。歴史にそんな余裕はない。知る人にのみ知られ、瞑すべし、ということだ。
三笠の山の月を思った阿倍仲麻呂、入竺の志を抱き、その途上マレー半島で虎に食われた高岳親王。異国の土となった人は数多い。「日本未帰還者の歴史」というのも書かれてよい。勝者成功者の歴史を書くのは簡単だ。というより、歴史は勝者成功者が書く。だが、それだけでいいはずがない。


南條文雄とともに渡英し、マックス・ミュラーに師事した笠原研寿は、結核を病んで明治15年(1882)9月に帰国し、養生もかいなく翌明治16年(1883)7月16日に世を去った。帰国こそしたものの、帰ってもただ病に伏していたばかり。ほぼ客死だ。彼の死を聞くと、ミュラーは即日筆をとって心のこもった追悼文を書き、「ロンドン・タイムズ」に寄せた。
「日本よりの最近の郵信は、わが若き友にしてかつ門人なるケンジュ・カサワラの死を報じ来った。彼の名は英国においてはよく知られていないが、彼の死は知られざるままに過すべからざるものである。われらが自分らのために記録しおかねばならぬ人々の伝記とは、世間がこれに意をそそがず、ほとんど聞き及ばざるところの人々にして、しかもその事業に全力を献げ、そがいかにして最善の途においてなされたかをわれらに教えてくれるもの、かかる人々の伝記であるとラスキン氏の言ったのは真に至言ではなかろうか。
わがこの仏弟子なる友の生涯はその道に身をささげ、しかも成果を得なかった多くのものの一であって、われのこれを讃歎し痛惜するは、あたかも己れが庭園のよき果物の若木が爛漫たる花に匂いながら、そのあらゆる美しさと将来の待望とを、一朝の厳霜にて凋落せしめられたるのを見るにも似ている。…… 彼は日本に帰って後はもっとも有為な人となったであろう。なぜならば彼はただに欧州文明の長所をあまりなく評価しえたばかりでなく、己れが民族的の誇負をもうしなわず、けっして単純な西洋文明の模倣者とはならなかったと思われるからである。
彼の行状は完璧であり、我執なき人の自然のままの挙措であった。その品性については、わが言いうることは次の言に尽く。すなわち長年月われは彼を観察したが、一つの欺瞞をもそこに見出すことはできなかったと。最近四ヶ年間においてオックスフォードは、その学生中にこの可憐なる仏弟子よりも清浄にして高潔な魂をもった者を、ただ一人でも有したかを私は疑わしく思っている。
…… 彼はいくつかの草稿をあとにのこして去り、われはその公刊の準備にあたり得んことを望んでいるが、とりわけてナーガールジュナ(竜樹)の著とされた仏教述語集『ダルマサングラハ』を挙げる。多年蛍雪の労も、ついにその果を結ばぬと考えることは痛ましい。しかし、三千二百万の日本仏教徒の中にあって、かの一顆のすぐれて覚りを開きえた仏弟子が、いかにあまたの善事をもなすべかりしものをと考えるのは、さらにいたましいことである。(Have, pia anima!)(なおきみたまよ、いざさらば)……」(前嶋信次「美しい師弟」。前嶋:72ff.)。
死なせたくない人が死ぬ。それにわれわれは抗えない。できるのはただ、しかるべく弔うことだけだ。日本ですらまだ無名だった学徒を、マックス・ミュラーはよく弔ってくれた。われわれはミュラーを弔わねばならない。そのことは、南條とも併せ、前嶋氏がこの上なく美しくしてくれた。


入蔵志願者
明治時代、当時鎖国だったチベット入りを目指し、その途上に死んだ能海寛(1868-1901?)も留学生(東本願寺派遣)だったが、その目的は普通の留学とは違っていた。能海は明治元年(1868)安芸との国境に近い石見の山村の真宗大谷派の寺に生まれ、東京で南條文雄の弟子になり、大蔵経の経典を求め入蔵を志した。ダライ・ラマ宛の法主からの親書を携えて、明治31年(1898)11月に渡清して以来、明治34年(1901)4月の最後の通信まで、入蔵を遂げんと清国内を西に東に旅していた彼は、求法取経僧というべきで、あまり近代留学生らしくはないが、しかし同じく入蔵を目指していた河口慧海・寺本婉雅がチベット仏教の寺院で修学していることから考えて、彼もチベット入りすれば寺院で学んだだろうと思われる。
能海がチベットを目指していた頃は、「入蔵熱」の時代であった。世界に鎖された秘密国、ヒマラヤの奥地の古い仏教国に仏教再興の鍵があると新生明治仏教の若き僧侶たちは考えていた。前出法竜もそうだし(熊楠はまあ除くとして)、一番乗りを果たした河口慧海チベット大蔵経請来に最初に成功(北京から!)した寺本婉雅のほか、明治21年(1888)セイロン留学に出発した東温譲、明治26年(1893)彼がボンベイで客死したときそれを看取った川上貞信も。彼は東の遺志を継ぎ、入蔵を目指してダージリンのチャンドラ・ダス(英国のスパイとしてチベットに潜入、のち蔵英辞典を著す)の別荘に住み、チベット語を勉強しつつ準備をしていたが、このルートは結局断念し明治30年(1897)帰国、別ルートの入蔵を目指して北京にまた留学したのだけれども、ここで北清事変に巻き込まれたことは前述した。
能海はまず重慶から打箭炉へ行き、そこで寺本婉雅と落ち合い、ネパールの使節団について行ったが、巴塘で進蔵をはばまれた。次に単独で青海へ向かったが、金や持ち物を盗まれ、やむなく重慶へ引き返す。三度目は雲南からのチベット入りを試みて、消息不明となった。この間打箭炉と重慶で二度の越冬をする以外は旅の空であるが、打箭炉でささやかなチベット経典収集と翻訳を行なっている。「金剛経、般若心経、外二部西蔵経文直訳」を本山へ送っているが、「般若心経西蔵文直訳」以外の稿本は紛失した(能海:195)。その訳経時の感慨を手紙に記す。「支那人は多く西蔵人を蛮家々々など称し候へども、今彼西蔵人の用ふる真行草隷の書、及干殊爾、丹殊爾の翻経を見れば、西蔵の文字は一千三百年前印度字より製作せられたるものにて、更に他国の文字を借ることなく自在に文章を書き顕したり、経典は一千乃至一千一百年前頃既に自国の語に翻訳せられて、少しも他国の言語文字を借りたることなし、我日本の如きは人口は西蔵の十倍以上を有し、長き歴史を有するにも関らず、文字といへば片仮名平仮名のみ、これとても大半は漢字により、漢字にあらずんば完全に文章を形成し完全に意志を表出するを得ず、仏教盛なりと雖日本文の経典とては七千余巻の中、一部半部一巻半巻一品半品もあらざるなり、予は実に日本の学者日本の仏教徒に対して大々的不平を有せざるを得ず、美しくかゝれたる(元来美なる)西蔵文字の経典を見て、予は実に羨望に堪へず候」(同前:111f.)。後述の成功者慧海・婉雅がチベット人を見下す発言をしているのに対し、この人こそチベットに入って学ぶべき資格を第一に十全に有していたと思わせる。だが、「今や極めて僅少なる金力を以て深く内地に入らんとす、歩一歩艱難を加へ、前途気遣はしき次第なれど、千難万障は勿論、無二の生命をも既に仏陀に托し、此に雲南を西北に去る覚悟なり、重慶より連れて来りし雇人を当地より重慶に返すに当り内地への書状を托す、今後は多分通信六ケ敷かるべし、明日出発、麗江に向はんとす、時に明治三十四年四月十八日なり」(同前:200)と書いた通信を最後に、ふっつりと消息を絶つ。旅人を殺して金を奪うのはあのあたりの住民の「経済活動」の一部であるから、その犠牲になったのであろう。われわれはただ合掌するのみだ。
寺本婉雅(1872−1949)は能海と同じく真宗大谷派の僧で、明治31年(1898)7月私費で渡航、北京雍和宮チベット語モンゴル語を習い、能海と同行した最初の試みに失敗したあと、一旦帰国、明治33年(1900)の北清事変に際し陸軍通訳となり、8月再度北京へ行った。12月、義和団と欧米兵に重ねて荒らされた黄寺および資福院でチベット大蔵経を発見し、日本へ送った。その後明治36年(1903)青海のタール寺に滞在、チベット語の学習や翻訳などを行なった。38年(1905)そこからラサへ行く。タール寺には明治39年から40年(1906−07)にかけても滞在している。だが、軍とも密接に連絡を取っていた彼は、研究のほうもやっていたとしても、仏教政治の工作者という面が強い。
西蔵旅行記」で名高い黄檗宗の僧河口慧海(1866-1945)は、明治30年(1897)6月インドへ出発した。ダージリンのチャンドラ・ダスのもとに寄寓し、チベット語を習う。明治32年(1899)1月ネパールに入り、さらに西行し、翌年7月ラサから1000キロほども離れた間道からチベット潜入に成功した。カイラス山を巡礼したあと、ラサに到達したのは明治34年(1901)3月である。ラサではセラ寺に入門した。翌年5月に日本人であるとわかり、チベットを脱出しダージリンに戻った。日本への帰国は明治36年(1903)5月である。その後明治37年(1904)にまたインドに渡り、翌年からはベナレスの中央ヒンドゥー学院でサンスクリットを学んでいる。ベナレスには7年滞在した。大正3年(1914)ラサを再度訪問。前回できなかった大蔵経請来を果たす。
セラ寺での勉学について、慧海はこう紹介している。「そこには十四、五の子供から四、五十歳までの僧侶が居って、問答を稽古しますので、その問答は我が国の禅宗のような遣り方とは全く違って居るです。それは余程面白い。また非常に活発である。甚だしきは他から見ますとほとんど彼は喧嘩をして居るのではなかろうかと見らるる程一生懸命にやって居るです」(河口:40)。「今問者が言葉を発すると同時に左の足を高く揚げ、左右の手を上下向い合わせに拡げて、その手を拍つ拍子に足を厳しく地に打ちつける。その勢いは地獄の蓋も破れようかという勢いをもってやらなくてはならんというのであります。またその拍った手の響きは、三千大世界の悪魔の肝をこの文殊智慧の一声で驚破する程の勢いを示さなければならんと、その問答の教師は常々弟子達に教えて居るです」(同前:41f.)。「その問答は因明の論理学の遣り方であって因明論理の法則により、まず始めに仏というものは人なるべしと言うて問いかけると、答者はそうであるとか、そうでないとか答える。もしそうだと言えば一歩を進めて「しからば仏は生死をまぬかれざるべし」となじる。そこで答えて「仏は生死をまぬかれたり」と答えると、問者は「仏は生死をまぬかれず。何となれば仏は人なるがゆえに、人は生死をまぬかれざるがゆえに、汝は爾く言いしがゆえに」と畳みかけて問い詰めるので、そこで答者が遣手でありますと「仏は人にして生死をまぬかれたり。仏の生死は仮りに生死を示現したり」などと言うて、仏に法身報身化身の三種のあることを解するようになるのです。またもしそうでないと答えると、いやインドの釈迦牟尼仏は確かに人であった、これはどうであるかというようにどこまでもなじって行く。どっちへ答えてもなじるようにしてだんだん問答を進めますので、その問い方と答え方の活発なる事は真にいわゆる懦夫をして起しむるの慨があるです」(同前:41)。チベットの習俗を概して軽蔑的に見ている彼が珍しくほめている部分だが、それでもやはり「確かにこの問答が怠惰なるチベット人、蒙昧なチベット人を鞭撻して幾分仏教の真理に進ませるので、半開人に似合わず案外論理的思想に富んで居るという事も、こういう事から起って来て居るのです」(同前:45)などと言う。山口瑞鳳はしかし、「河口はセラに入っても、学僧としての論議を実はしなかったのではないかと思われる」と言っている。論議のはじめに言う「チー・チタワ・チョエ・チャン」を「文殊菩薩の心という真言」だと見当違いの解説をしているからだ(山口:69)。しかし、チベット仏教の修行をすることは彼の目的でなかったから、見聞で十分に満足だっただろう。能海ならどうだったか? 言って詮無い問いだが、つい問いたくなる。


インドやセイロン(スリランカ)への留学はやはりほぼ仏門の専管である。そして、環境のしからしむるところか、病没者を多く出している。前出東温譲、インド留学中に第一次大谷探検隊のインド調査に加わった島地黙雷の息子清水黙爾など。島崎藤村の「椰子の葉蔭」のモデルになった藤井宣正(1859−1903)は、留学地はロンドンだったが、このインド調査に同行し、イギリスへ帰る途中マルセイユで病没した。もともと病身だったが、インドで死に至ったようなものだ。
なお、セイロンへの留学では、釈興然(1849−1924)の名を挙げなければならない。釈雲照(1827−1909)の甥で、出雲神門郡塩冶村出身、もと真言宗の僧だが、明治19年(1886)にセイロン留学、ゴールのランウェルレー寺、コロンボの仏教学院ウィドヨーダナ・ピリウェナに学び、明治23年(1890)具足戒を受け、上座部仏教(いわゆる小乗)の最初の日本人僧となり、グナラタナの名を得た。帰国後釈尊正風会を起こし、上座部仏教の広布をはかったが、それはなかなか進まなかった。セイロンに渡る前に南條文雄にサンスクリット語を学び、帰国後インドへ向かう河口慧海パーリ語を教えた。慧海を上座部仏教に勧誘したが、断然大乗の慧海は峻拒し、放逐されたという。
留学といえば欧米のみを想起するのは正しくない。学ぶべきものがあると考えれば、赴いて学ぶのが当然だ。中国でもインドでも、その国が植民地化に悩む近代にあっても。仏教であれば、タイで学ぶこともあるのだし。