クチンの日本人墓地

 ボルネオ島西海岸のサラワク州の首都はクチン。その中心部から南に下がり、バトゥ・リンタン通りから少し北に入ったところ、かつての捕虜収容所から遠からず、華人墓地の東に、「極楽山」と書かれた門と柵に囲まれた日本人墓地がある。紀元2600年(1940)記念に日本人会によって整備されたものだ。現在、明治35年(1902)から昭和19年(1944)まで、30基の墓がある。かつては46基あったらしい。

 すでに中川平介氏が「郷土石見」(100号・2016)で報告しているように(「ボルネオ島の日本人入植者」)、そこに渡津出身(島根県石見国邦賀郡渡津村とあるが、「邦賀郡」はもちろん「那賀郡」の誤記)の永井潔造の墓がある。大正8年(1919)4月29日死亡、行年27歳。「日沙商会建之」とあるから、1912年からクチン近郊サマラハンでゴム園などの事業をしていた日沙商会の職員だったのであろう。その人となりはわからないが、「春誉勇進信士」という戒名からある程度感じ取ってもいいかもしれない。死因もわからないけれど、南方特有の病気の多い土地だ、若くして亡くなる人も多かった。享年が読み取れる16人のうち、11人が20代で、1人が18歳で死んでいる。あとの4人も32歳・40歳・44歳・55歳である。海外移住者はそもそも若い者が多かったことのほかに、風土に慣れてしまうまでは温帯人は環境に圧倒されることがしばしばあったということだろう。

 

  この墓地には、島原・天草出身の女性の墓が多くある。いわゆる「からゆきさん」であろう。明治36年(1903)に18・20・21歳の若さで死んだ彼女らの墓標の前に立つと、感慨を催さずにはいられない。山崎朋子の「サンダカン八番娼館」によってボルネオのからゆきさんの居留地としてはサンダカンがとりわけ有名になったが、クチンにも彼女らはいた。

  鰐集うボルネオ島に来てみれば港々に大和撫子

 1915 年にボルネオ各地を訪れ、「邦人新発展地としての北ボルネオ」を書いた三穂五郎がこんな戯れ歌を詠んでいるが、まさにそのとおりだった(「アグネス・キースのボルネオと日本」、p.83)。

 「ボルネオ視察報告書」(1910年)というものがある。あの日沙商会の創立者依岡省三が事業の可能性を探るためサラワクに来たときの同行者、林基一が書いた。そこにはこう記されている。

 「クチンはサラワーク河の上流二十里の所にある、サラワーク国の首府にして、人口凡そ二万其内支那人六分を占め、馬来人三分、其残り一分が欧州人印度人其他の人種なり。言語は馬来語を通用語とす、支那人との間にても、馬来語を使用せるには驚くの外なし、英語を知るものは不便を感ぜず。

 欧州人の此地に住するもの凡そ四十人、何れも官憲の関係者なり、我が同胞は凡そ六十人あり、内男二十女四十あれ共、其大多数は例の賎陋なる醜業婦と、是れに関係の無頼の徒のみなるに至つては又驚くの外なし。

 新興国として一等国の列に入り、其一挙一動悉く世界の視線を惹くに至れる我が日本帝国の人民が、斯く万里異域の地迄も、身を汚し、醜を売り、以て我が国民の体面を汚せるは真に寒心に堪江ず、余は市中を散歩して之等売笑婦人を見、傍ら額に汗して車を挽ける支那苦力に対し、誠に穴にも入りたき心地せられし事幾度なるを知らず」(「日本とサラワク」、p.259)。

 「サラワク王国在留邦人の状況」(1928)では、在留邦人総数は男52人・女38人・子供25人の計115人、そのうちゴム園関係者は78人、ほかには商人16人・その他21人となっている(「日本とサラワク」、p.274)。その頃までには「からゆきさん」はほぼ消えていたようだ。1920年に日本領事はシンガポールをはじめマレー半島の娼楼をやめさせたというから、その廃娼令によるものだろう。

 この墓地に墓のある者は、男16人・女20人である。次に見るように移民の土地はふつう男が多いのだが、ここで女に上回られているのは、やはり彼女たちがいたからだろう。それでも1910年の数字ほどでないのには少し安心する。

 この問題を考えるときには、なぜ彼女らが必要とされたかを視野から外してはならない。サンダカンの1891年の男女比は3対1だった。半島マレーシアの華人の男女比に至っては10対1である。ヨーロッパ人も圧倒的に男が多く女が少ない。新開地の常である。男たちが土地を開く。だが男ばかりで労働できるわけではない。そこに需要がある。それがプル要因。貧しい日本の農村がプッシュ要因だった。自分で自分を売りとばしたり、人に売りとばされたりしてやって来た苦力たちと同じ境遇だ、ということである。肉体労働をする男たちと、同じく「肉体労働」をする女たち。女性残酷物語は男性残酷物語と地続きの場にある。膨大な数の中国人と違い、日本人の男にはそういう境遇で海外へ出て行った者が彼らほどに多くないから、からゆきさんの商売が際立つのである。それでも、たとえば明治36年(1903)、マニラとバギオを結ぶ道路建設の難工事に3000人の労働者が応募して海を渡り、700名の犠牲者の墓標を路傍に並べた(「排日の歴史」、p.41f.)。大正3年(1920)にボルネオからフィリピンへの船旅をした原勝郎は、サンダカンから三等船室に乗り込む20人ばかりの日本人と遭遇した。ホロ島で真珠貝採りをしに行く労働者である(「南海一見」、p.134)。真珠貝採りはそのころこの海域で盛んであり、日本人は優秀なダイバーだった。特に有名なのがニューギニアの南にあるオーストラリア領の木曜島で、かつて800人も日本人がいた。それはなかなかたいへんな仕事で、ダイバーの死亡率は10%だったそうだ。シベリア抑留者の死亡率と同じである。「あの時代(昭和初年)が食えるというような時代だったかね。(…) われとわが身を売って行ったようなものじゃ」(「木曜島の夜会」、p.23;25)という老人の述懐。危険に見合ったものか、金をつかんで帰る人も多くあった。からゆきさんもけっこう金を稼ぎ、「サンダカン八番娼館」の主人公、あばら家暮らしのサキさんも、仕送りで兄に田を買わせ、自分も小金を持って帰ってきている。木曜島の真珠貝採りの男たちは、そこにも来ていた日本人娼婦たちと互いを慰め合う対のありようであるのだ。年季奉公である点も同じだ。

 「醜業婦」と蔑む戦前の一等国志向の人々も、「残酷物語」「性搾取」として糾弾する戦後の意識高い人々も、高みから見下ろす点で同じものの裏表である。哀史はもちろん哀史であるが、大きな全体の中で見ること、現代の価値基準で過去を見ないことが必要である。

 

 サンダカンと同じく、クチンの日本人墓地も南向きである。つまり、日本に背を向けている。山崎朋子の「からゆきさんの墓は日本に背を向けて建っている」との指摘にははっとさせられるが、しかしよく考えてみるとおかしい。そもそもからゆきさんの墓がそこにそんな向きで置かれているのは、日本人墓地がそこにそんな向きであるからである。彼女たちの意志ではない。意志があるとしたら、それはこの墓地を造った八番娼館の主人木下クニ(彼女も元からゆきさんだった)の意志である。だが、彼女も華人墓地の続きに日本人墓地を造ったわけで、意志をいうならそれは華人の意志だろう。同じく北方からやって来た彼らにとっても、祖国に背を向けることになる。だが、地理をこそ考えるべきだ。サンダカンの町は南の海を向いてできているから、北向きに墓地を造るならひと山越えなければならない。そうすると町から遠くなる。墓参りに負担がかかる。より近い海を見下ろす斜面に造るのが自然だ。それに、港から中国や日本へ行く船が出るのである。南向きはむしろ望郷の念こそ表わすものではないか、と考えられよう。たぶん正解は、意志や望郷などというセンチメントの問題でなく、風水ではないか。北に山を背負い、南に水に臨むという風水の考えによる墓地選択であり、その華人墓地の並びに造られれば、日本人墓地は当然同じ向きになる。クチンの墓地も華人墓地の続きにある。日本人だけを見ていてはいけない。海外の日本人は中国人と寄り添っているのだ。

 少し前まで(いや、ことによると今でも)、「日本は中国の一部だ」と思っている外国人は多かった。日本人はそれに反発するが、実のところそれは半分は真実だ。ほぼすべての文化要素が中国由来で、まず漢字がしかり。チベットへ経典を求めに行く途上で行方不明になった求法僧能海寛が、西蔵の「経典は一千乃至一千一百年前頃既に自国の語に翻訳せられて、少しも他国の言語文字を借りたることなし、我日本の如きは人口は西蔵の十倍以上を有し、長き歴史を有するにも関らず、(…) 仏教盛なりと雖日本文の経典とては七千余巻の中、一部半部一巻半巻一品半品もあらざるなり、予は実に日本の学者日本の仏教徒に対して大々的不平を有せざるを得ず、美しくかゝれたる西蔵文字の経典を見て、予は実に羨望に堪へず候」(「能海寛遺稿」p.111f.)と言っているとおりだ。日本語に翻訳されておらず、漢文、つまり中国語のままで読んでいるのである。仏典から見れば、チベットは中国でなく、日本はまぎれもなく中国だ。

 江戸中期に南洋へ漂流した唐泊の孫太郎は、南ボルネオはバンジャルマシンの華僑の商家に売られ、そこでさまざまな見聞をしたうち、その地の華僑の盆会のようすをこう報告している。「七月朔日の夜より盆の祭りとて、門口に大燈籠を燈し、十三日より盆会として仏壇を錺り、朝夕の霊供を備るに、豚羊鶏抔の肉料理して祭る。(…) 十五日の夜ハ、近所組合のもの銘々出て、大筏を拵え、前成大川に浮め、右の霊供を持出し積重ね、一二斤掛の大蝋燭を燈し、川に流す。斯のごとくにして、川上より流れ通る事夥敷、其火、何様風に当りても消へず、川水に移(写)り流れ行有様ハいわん方なし」(「江戸時代のロビンソン」、p.188)。肉料理を除けば、まったく日本の盆とそっくりではないか。もちろん、中国が日本に似ているのではない。日本が中国に似ているのだ。

 

 「底辺女性史」は「底辺男性史」と合わせ考えねばならぬこと、日本は中国の一部だというのは客観的に見て半分は正しい認識であること、これらのことをクチンの日本人墓地は教えてくれる。

 

 

参考文献

中川平介「ボルネオ島の日本人入植者」、(「郷土石見」100、2016.1)

日本サラワク協会編「サラワクと日本人」、せらび書房、1998

山崎朋子「サンダカン八番娼館」、文春文庫、2008

森崎和江「からゆきさん」、朝日文庫、1980

林芙美子「ボルネオダイヤ」、青空文庫

モーム「ニール・マックアダム」(「怒りの器」所収、増野正衛訳、新潮社、1956)

キース「風の下の国」、田中幹夫訳、Opus Publications、2018

原勝郎「南海一見」、中公文庫、1979

司馬遼太郎「木曜島の夜会」、文春文庫、1980

若槻泰雄「排日の歴史」、中公新書、1972

「能海寛遺稿」、五月書房、1998

岩尾龍太郎「江戸時代のロビンソン」、新潮文庫、2006

林ひふみ「アグネス・キースのボルネオと日本(1) 「ボルネオ-風下の国」」、(「明治大学教養論集」513、2016.1)