ハインリヒ・フォン・ヴリスロツキ

ハインリヒ・フォン・ヴリスロツキは、十九世紀のジプシー研究者として知られた人である。ジプシー研究者はそれ以前からいるし、ジプシーと一緒に生活した人々も昔から数多くいるが、民俗学的な目的で放浪ジプシーの集団と行動を共にした、「フィールドワーク」をしたという点では、ごく初期の人物である。その研究や報告は、実地調査のきわめて困難な時代になされたという時代的な貴重さもあって、現在でも価値を失っていない。邦訳のあるマルティン・ブロックの「ジプシー」(相沢久訳、第三文明社、1978)やリーランドの「ジプシーの魔術と占い」(木内信敬訳、国文社、1986)にも先達として何度も言及されている。
ヴリスロツキは1856年トランシルヴァニアのブラショヴ市(ドイツ名クローンシュタット、ハンガリー名ブラッショー)に生まれた。カルパチア山脈に囲まれたトランシルヴァニア地方は、当時ハプスブルク帝国に属し、のちオーストリアハンガリー二重帝国のハンガリー王国領で、現在はルーマニアに帰属する。父はガリチア地方生まれのポーランド人小貴族で、財務関係の役人としてクローンシュタットに赴任してきた。母は近くの町出身のトランシルヴァニア・ザクセン人(十二世紀に植民してきて以来トランシルヴァニアに住んでいるドイツ人)で、したがってルター派新教徒であった。父はカトリックであるが、息子たちはルター派の洗礼を受けた。長じてクルージュ(ドイツ名クラウゼンブルク、ハンガリー名コロジュヴァール)大学に学び、1880年そこで学位を取得する。この大学は1872年に創立されたばかりであり、新しい試みへの意欲があったのであろう、ヴリスロツキ在学中の1877年に、世界初の「比較文学雑誌」が、彼の師事したメルツル教授らによって創刊された。ルーマニア人、ハンガリー人、ドイツ人(ザクセン人)などの暮らす多民族多言語地域であるトランシルヴァニアという土地が、比較文学のような分野への熱意を育んだことは間違いなかろう。ヴリスロツキ自身、独仏英語とロマニ語はもとより、ハンガリー語ルーマニア語ポーランド語ができたし、アイスランド語も解した(小説を翻訳している)。学生時代この比較文学雑誌に寄稿したのが、執筆活動の始まりとなった。本書や「放浪のジプシー民族」(Vom Wandernden Zigeunervolke. Hamburg, 1890.)「ジプシーの民間信仰と宗教的習俗」(Volksglaube und religiöser Brauch der Zigeuner. Münster, 1891) などが主著であるが、ジプシーばかりでなく、トランシルヴァニア・ザクセン人ハンガリー人、ルーマニア人、アルメニア人など、トランシルヴァニアという地域に共生する民族のほとんどすべてについて、彼らの民間習俗・信仰・民話といったフォークロアについて本を著している。多民族共生地域といっても、このように共に暮らすすべての民族について研究する人は少ない。ジプシー研究者として名を残している人だけれども、こちらのほうでも評価されなければならない。なお、彼の妻はハンガリーに同化された改宗ユダヤ人である。これで民族カタログはほぼ完成する。この妻も、ハンガリー人の民俗について論文をいくつか書いたような人であった。子供はなかった。
ジプシー研究は学生時代から始めていた。序文にある通り、1883年には放浪ジプシーの集団に入り、行動を共にしている。その後も何度か「フィールドワーク」をしたらしい。ジプシーの娘と一時結婚もしていたというが、彼女とは頭領の認可を得て「正式に」離婚した。きわめて無口で、廊下の隅に身をひそめ、教師が教室に来るとその後ろについて入っていき、他の学生とほとんど話をしなかったというような内気な学生だった彼が、ジプシーの群れに身を投じるというのは、まことに思い切った行動、「死の跳躍」であったろう。文字通りの意味でも。
1879年に父が死んで以来、大変な困窮の中にあった。勤め口が見つからず、大学を出て4年もたった1884年にやっと、現在はスロヴァキア領の小都市の高校に職を得るが、同僚たちと合わずに半年で辞めてしまう。非常に内気で社交的でないという彼のほうの性格的な問題もあったのだろうと思うが、「ジプシーなんぞと関わっている人間はろくなものではあるまい」という社会の偏見に痛めつけられた面は大いにあろう。寝たきりの母をかかえていたという事情もあって、かなりの逼迫ぶりであった。三日の間病気の母と二人で二個のゼンメル(菓子パンほどの大きさの小型パン)しか食べていないこともあった。ブダペストに住む同郷同窓の親友で、草創期ハンガリー民俗学の重鎮であったアントン・ヘルマンに、書いた原稿を送って新聞雑誌に斡旋してもらい、その稿料を主な収入源にしていたが、それを送る切手代にも事欠き、切手を貼らずに投函する、許されたし、という文言が彼への手紙の中にたびたび見られる。またジプシーに習った手業で鳥篭をこしらえ、それをジプシーの老婆に売り捌いてもらって家計の足しにもしていた。経済状態は著書が続けざまに刊行されはじめる1886/87年頃から徐々に改善していったようだ。1890年に現在はユーゴスラヴィア領の町の高校の教師となったが、そこも一年で辞め、その後も定職はなくいろいろな仕事をしていたらしく、「文筆業」というのが結局彼の職業と言えよう。物質的な(おそらくは精神的にも)安定を徹頭徹尾欠いた人生だった。
あるザクセン人の教師はこう回想している。「1890年ごろ、と、私が何年も前に初めてハインリヒ・ヴリスロツキのジプシーの詩の翻訳に接したとき、祖母は語った。医者としてミュールバッハに住み、1891年、私の生まれるずっと前に死んだ祖父は、しばしば、いくらかの間を置いて、あるジプシーの訪問を受けていた。そんなとき彼は妻に、子供たちを別のところへやり、料理を食卓に出すように頼んだ。いつも二人の男は、長いこと活発に話し合いながらいっしょに食事をしていた。いぶかしんでこの奇妙な客人は誰なのかと問うと、祖母が得た答えは、それはハインリヒ・ヴリスロツキだ、ジプシーの言葉や習俗や詩歌を研究するために、みずから流浪のジプシーとなり、放浪の途次ここへ立ち寄るのだというものだった。自由で衝動的な生き方にすでにどっぷりと落ち込んでいたので、医師の、こんな厳しくて何事にも不足がちな放浪生活、体がそれに慣れておらず、間違いなく身を滅ぼすことになってしまうに違いないような暮らしをやめるようにとの懇請を、この研究への衝迫に取り憑かれた男はまるで気にかけなかった。祖母が知っているのはこれだけだった。すぐそのあとに続いた夫の死とともに、この研究者の姿は彼女の生活の周囲から離れ去った」。しかしこれは一種の「伝説」と言うべきで、彼はそのころこのミュールバッハ(セベシュ)の町に定住していたし、たいへんに内気な性格だったから、こんな田舎町でジプシーのなりをしていたはずはない。この医師は恐らく彼の数少ない友人の一人、彼に対して割合に偏見の少ない人だったのだろうが、そこからも、周囲のザクセン人が彼をどう見ていたかがうかがえる。
彼はどこにも属さない人間であった。ポーランド人官吏の父とトランシルヴァニア・ザクセン人の母の間に生まれた「半ザクセン人」で、地元のザクセン人社会には成員と見なされていなかった。著書はほとんどがドイツ語だが、あの名前でドイツ人でありえただろうか。といって、トランシルヴァニアに生まれ育ったルター派新教徒だから、ポーランド人でもない。高校の最後の年からはハンガリー語で教育を受け、勤め先でもハンガリー語を話し、弟妹の配偶者はハンガリー人だったけれど、もちろん彼自身はハンガリー人と思いもせず思われもしなかった。むろんジプシーでもありえない。何人でもなく、あえて言うなら「オーストリア人」、二重帝国の子供(いったいここまでいくつの民族名を挙げてきただろう?)であった。このような人間の暮らせる場所は、同じような人々の多くいるウィーンか、でなくとも帝国内の大都市しかなかったろうに。偏狭な田舎の町では暮らせまいに。自ら望んだのか、いたしかたがなかったのか、彼はトランシルヴァニアで生涯のほとんどを過ごした。この土地に暮らしてくれたおかげで、彼の書き残した著作をわれわれは利用することができる。けれどそれらを読むときに、それらを書くことの裏にあった諸事情を知っておいても悪くない。生存のための苦闘の結果でもあろうか、1899年に発狂し、トランシルヴァニア中部の村の小学校に職を得た妻に養われ、1907年に没した。51才であった。


トランシルヴァニアの属するルーマニアは、そこに生活するジプシーの人口がヨーロッパで最も多いとされている(彼らの常として正確な統計はないのだけれど、一説には二百万とも言われる)。派手な衣裳を着けた浅黒い彼らの姿は、今もトランシルヴァニアの各地で目にすることができる。さすがに幌馬車で放浪するジプシーの数は断然少なくなったけれども。ヴリスロツキの時代には、放浪の天幕ジプシーは土地の風景の一部であったろう。鋳掛け屋、鍛冶屋、馬喰、楽師、篭編み、木工職人、仲買人、季節労働者、占いや物乞いなどを生計にしていた。目には眺められるし、彼らのほうから定住民の生活や社会に入ってくることはあったが、その逆はきわめて難しい不思議な集団であった。昔から、今もなお根強い偏見と差別、悪い風評に事欠かず、その生活の実態はほとんど知られず、知りたいとも知られたいとも思っていなかった。そんな中で、十九世紀後半というのは、初めは好事家的ながら、学問的なジプシー研究が起こってきた時代で(イギリスでは「ジプシー伝承研究学会雑誌」が1888年に創刊される)、ヴリスロツキの研究や採集も時代のある流れに乗っていたと言える。


最後に、「ジプシー」という民族名について一言しておく。英語のジプシー、スペイン語のヒターノなどはもともと「エジプト人」という言葉から来ており、フランス語のボエミアンは「ボヘミア人」、ドイツ語のツィゴイナー、ハンガリー語のツィガーニなどはギリシア語で「異端者」を意味するアツィンガノスから由来したとされる。これらはすべてジプシー以外の人々のそうと名付けた言葉であり、蔑みの意味がつきまとっているので、彼ら自身が自分たちを指して言う「ロマ」(人間の意)を使うことが一般的になりつつある。けれどことはそう簡単ではない。ロマニ語を話しているか、かつて話していた人々が「ロマ」と呼ばれるのはいいが、「ジプシー」の中には、もともとロマニ語を話さないけれど、生活形態が似ていたために「ジプシー」とされていた人々、つまり「ジプシー」ではあっても「ロマ」ではない人々も含まれている。彼らも「ロマ」にならなければいけないのか。それは現在の冷戦後の世界を不幸にしている「民族主義」の罠に彼らをも押しやることではないか。蔑称のきらいがあるとしても、他人が付けた名称にもある価値があるのではないか。変換キーでも押すような気安さで、「ジプシー」を「ロマ」と言い換えることはできない。安易に由来もあり、歴史もある呼称を斥けるべきではない。日本人に限って言えば、「ジプシー」を何の疑問もなく「ロマ」と言い換えて、自らを公正と見なす「良識人」は、彼らをよく知ってもいなければ深く考えてもいない、さらに言えば愛してもいない人々ではないかという疑いを強く持っている。

(2000/7)