クルージュの迷い方

<歴史>
「歴史の恐怖」を説くエリアーデではないが、東欧の歴史を語るのはかなり面倒で憂鬱なのですね。屈折多く、立場によって叙述が変わるし。トランシルヴァニアはそんな歴史の「東欧性」の強い地域で、たぶんあの不幸なボスニアを横において眺めると、腑に落ちるところが多々あるのではないかと思うが、そんな御託はさておき、ごく簡単に。
石器時代はとばして、クルージュの歴史はまずダキア人の集落から始まるとしておこう。やがてローマ帝国領になったとき、この町はナポカと呼ばれたが、その名はダキア語起源である。そののち、東方からやってきてカルパチア盆地に定住したハンガリー人が、トランシルヴァニア支配下におく。町は1241年、モンゴル人襲来で打ち壊され、その荒廃から建て直すため、ドイツ人(ザクセン人)が招来された。1316年、都市権を与えられる。中世都市としてのクルージュザクセン人によって築かれたが、ハンガリー人も多数流入した。1458年以降、両者は交替で市長を選出する取り決めとなった。16世紀の宗教改革で、町はまずルター派、次いでカルヴァン派、さらにはユニタリアン派に改宗し、この時期1580年に、対抗宗教改革の前衛イエズス会がここに大学を創立したが、1603年には撤退させられた。18世紀、ハプスブルク帝国支配下にはいり、再カトリック化が進み、1716年、町の中心聖ミカエル教会もカトリックにもどる。しかしザクセン市民は、まわりに同胞の村がほとんどなく孤立していたこと、他地域のザクセン人の宗派であるルター派でなくカルヴァン派ないしユニタリアンとなっていたことにより、18世紀までにハンガリー化してしまう。近世近代のクルージュハンガリー人の町であった。1790年、総督府がシビウから移されて以来、1867年ハンガリー王国との合同まで、クルージュトランシルヴァニアの首都だった。この間、1848/49年の革命で反ハプスブルク陣営だったため、1848年から65年までシビウにまた総督府が移されていたが。
シビウ(ヘルマンシュタット)はザクセン人の町で、トランシルヴァニアにおけるルーマニア人の文化のひとつの中心としても大きな役割を演じた。「首都」の交代でもそうだし、「大学都市」としても、クルージュとは町の性格が違い、対抗する位置にあった。対立というよりも相互補完的なありかたと言ったほうがよかろう。クルージュ大学史は面白い。1872年、クルージュハンガリー語で教授する大学が創設された。しかし第一次大戦の敗戦でトランシルヴァニアルーマニアに割譲されたとき、この大学はハンガリー南部のセゲドへ移転してしまい、あとにはルーマニア語の大学が設立された。だが1940年のウィーン裁定により、クルージュを含む北トランシルヴァニアハンガリー領に復帰すると、ハンガリー語大学もクルージュにもどり、ルーマニア語大学のほうはシビウに移ってしまった。第二次大戦後、再びルーマニア領になったあと、もどってきたルーマニア語大学はバベシュ大学(ルーマニア生物学者の名をとって)、ハンガリー語大学はボヤイ大学(ハンガリー人の非ユークリッド幾何学発見者の名をとって)として続いたが、1959年、合同してバベシュ・ボヤイ大学となった。
トランシルヴァニア三都のもうひとつ、ブラショヴ(クローンシュタット)は、人口ではこの地方でいちばん大きく、経済的文化的に常に最先進都市であったが、政治都市ではなかった。もっとも1950年代にオラシュル・スターリン(「スターリングラード」)の名を押しつけられていたけれど。
第二次大戦後、クルージュは急速にルーマニア人の町へと変わりつつある。1910年にはハンガリー人が市の人口の83%を占め、ルーマニア人はわずか12%だったが、1956年にはそれが50%と48%とほぼ半々になり、現在では3/4がルーマニア人、1/4がハンガリー人である。
けれど、町で通じる最大の「外国語」は、こんな事情から、ハンガリー語である。何せ人口の1/4のネイティヴ・スピーカーがいる上に、この地で生まれた年配のルーマニア人は、子供のころ遊び友達から習得していて、ハンガリー語をかなり解す。だが若い人には通じない。ルーマニア人の間では伝統的にフランス語が第一外国語だが、現在では英語も強い。ドイツ語の通用度はかなり落ちる。このへんもシビウとの大きな違いだ。
なお、クルージュの公式名称はクルージュ・ナポカ。だがナポカは略してもよい。ハンガリー語名コロジュヴァール、ドイツ語名クラウゼンブルク。


<通りと建物>
クルージュの旧市街は、四角い中央広場を中心に、東西に平行に二つずつ、北に二つ、南に一つ道が走る碁盤目に近いつくりだから、たいへんわかりやすい。わかりにくく感じたら、紙と定規をご用意あれ。すぐ納得いただけると思う。
中央広場(統一広場が公式名)は、その中央にカトリックのゴチック式聖ミカエル教会がそびえる。1349−1450年の建立。塔は新しく、1837−60年に添えられた。宗教改革後、教会がカルヴァン派およびユニタリアン派の手にあったころ、禁欲的な彼らによって内部の装飾が撤去されたので、カトリックとしては質素である。南側にルネサンスハンガリー王国の名君マーチャーシュ王(ルーマニア語でマテイ・コルヴィン王)の像がある。彼はこの町の生まれで、像は1902年の作。広場に面して東にバロック建築のバーンフィ宮殿がある。トランシルヴァニアの大貴族バーンフィ家のものであったが、今は美術館となっている。南西角に大学書店があり、広場に面してホテルやレストランがいくつかある。
中央広場の東にヤンク広場がある。正教カテドラルと国立劇場が向かい合っているその間に、むやみと高いアヴラム・ヤンク像が立つ。以前そこにあった赤軍兵士の碑を撤去したあとに新しく建てられた。ヤンクは1848/49年革命のときのルーマニア人指導者だ。カテドラルは1923−33年の建立。トランシルヴァニア諸都市にある町でいちばん大きな正教教会は、たいていが第一次大戦後、この地がルーマニア領になって以後のものである。正教教会に入るときには、小銭の用意をしておかなければならない。入口に必ず物乞いがいて、善行を積む手助けをしてくれる。国立劇場は1906年に建てられた。オペラも上演する。この広場に面しては、裁判所や正教の神学校、カテドラル裏にプロテスタントの神学校が並ぶが、華やかな中央広場に比べてかなり地味。


この二つの広場を、北で12月21日通り、南で英雄通りが平行して結んでいる。
12月21日通りの旧名はレーニン通り、ハンガリー時代はコッシュート(1848/49年のハンガリーの革命指導者)通りであった。政治や革命で名づけられる習いらしい。12月21日というのは、1989年のあの出来事の記念だが、国の革命記念日は実は12月22日である。クルージュ市の場合は、この町で衝突があり市民の犠牲者が出たその前日を取っている。革命勃発の地ティミショアラでは、その日12月16日を取って通りを名づけている。正しいローカリズムである。かつてレーニンの名を冠せられたこの通りには、中央広場聖ミカエルのカトリックから始まって、角にルター派(1816−29年建立)、それからユニタリアンの教会(1790−95)、正教カテドラルの裏をかすめたのち、カルヴァン派の「二つの塔の教会」(1829−51)、さらに行くと道の中央に新ゴチック様式のカトリック聖ペトリ教会(1844−48)と、教会通りの様相を示す。レーニンでよかったのかしら。ペトリ教会の前には、ハプスブルク帝国各地で見受けるバロックのペスト記念塔が立つ。通りの南側、ヤンク広場と交わる角に、1910年に建てられたセツェッシオ様式(ハンガリーアール・ヌーヴォー)の元商工会議所、今の県庁がある。セツェッシオはクルージュにはめずらしい。西隣にヴィクトリア・ホテルがある。
英雄通りは、その中央広場に面した入口にメモランダム記念碑が立つ。メモランディストというのは、ハンガリー時代のルーマニア人権利闘争者たち。百周年を記念して1994年に作られた。前にはここに、第一次大戦後ローマから贈られた、狼に養われるロムルスとレムス像があった。通りの右側に市庁舎、その先にバロックのミノリタ教会(1780−84)。今はギリシアカトリックである。この教会の角を右に曲がって脇道に入ると、国立ディマ音楽院がある。その隣に人形劇場。
この二つの通りの間に、細い通りがやはり平行して中央広場とヤンク広場を結んでおり、ユリウ・マニウ通りというのだが、私はひそかにニュルンベルクフィレンツェ通りと呼んでいる。西を見ればドイツ・ゴチックの教会が、東に転じれば正教カテドラルのドームが目に入る。ただそれだけのことだが。それとも、独伊枢軸通り?


中央広場から西へは、北にメモランダム通り、南にナポカ通りが走る。
ナポカ通りの南側中ほどに民俗博物館があるが、この18世紀の建物はもと舞踏会場で、リストのコンサートも開かれ、1848年から65年までトランシルヴァニア議会もここに会した。ここでまた1894年、通りの名の由来となったメモランディストの裁判が行なわれた。1923年以来博物館。その先の塔のそびえる威圧的な建物は市庁舎。この通りはここからモーツ通りとなり、さらに行くとコーシュ・カーロイの設計したカルヴァン派教会がある。道はマナシュトゥル地区へと続く。
ナポカ通りは、昔のホテル・ニューヨークで文人カフェのあったホテル・コンチネンタルから始まり、平和広場で終わる。これは少し前にルチアン・ブラガ広場と改称されたが、この哲学者がここの大学図書館で司書をしていたことにちなむ。広場の南に学生文化会館、はす向かいに大学図書館があり、その横を病院街が続く。
平和広場から南へ共和国通りが上がっていく。すこし行くと右手にヤンク通りが分かれるが、この通りへ曲がり最初の角を右に折れると、正教の小さな教会がある。クルージュ市内で最も古い正教教会で、1797年の建立(当時はギリシアカトリックだったが)。町中にひっそり、村の教会然と立っている。通りの名も正教教会通り。ヤンク通りをさらに行くと、右手にハージョンガールド墓地の入口がある。いろいろな彫刻をした古い墓碑があり、墓地のことだから静かだし、散策にも向いている。共和国通りにもどり、さらに南へ登っていくと、右手に植物園がある。1920年にできた。日本庭園もある。ここも散策に適当。ゴミゴミした街中を離れて休息できる。


ルター派教会の角から北上するドージャ通りは、右手に外国貿易銀行や百貨店チェントラル、左手に中央郵便局などのある用足し通りで、ソメシュ川を越える。小さな橋と大きな橋の間の右側には、16/17世紀のワラキア公ミハイ勇敢公の像(1976)が立つミハイ勇敢公広場がある。この広場南側の通りのつきあたりに市場があり、いつも人出が多い。派手な色のスカートやつば広の帽子をつけたジプシーの姿もよく見かける。ドージャ通りは橋を渡ってホレア通りとなる。ドージャは16世紀、ホレアは18世紀の農民反乱の指導者。ちなみにホレア通りの二重王国時代の名はフランツ・ヨーゼフ(ハプスブルク皇帝)通りである。人民権力への移行がよくわかる。ホレア通りには途中左側にモール様式のシナゴーグ、大学文学部があり、駅に終わる。また橋を渡ったたもとにあるホテル・アストリアから、その裏手の川べりの道を行くと、城砦跡へ登ることができる。トランシルヴァニア支配下に収めたオーストリアによって1716−18年に建てられたが、今はその跡に高級ホテル・トランシルヴァニア(旧名ベルヴェデーレ)が立つ。この山上からはクルージュの市街が一望できる。
中央広場から北へはもうひとつ道が出ており、狭いコルヴィン通り。マーチャーシュ王の生家につきあたる。飾りのない中世風の質素な造りで、聖ミカエル教会やバーンフィ宮殿などをさしおいて、あえてクルージュでいちばん美しい建物と呼ぼう。15世紀前半の建築。現在は美術アカデミーとなっているのもまた結構だ。脇の通りを行くと、小さな広場に出る。東側にバロック式に改築されたフランシスコ会教会(1693)、横はかつてのドミニコ会修道院で、15世紀のもの。今は音楽学校となっている。広場中央には皇帝夫妻の訪問を記念する石柱(1831)。広場西端に歴史博物館がある。


名君として名高いマーチャーシュ王(1443−1490)は、対トルコ戦争で何度も武勲を立てたトランシルヴァニアルーマニア人貴族フニャディ・ヤーノシュ(ヤンク・デ・フネドアラ)の息子であり、1458年に国王に推挙された。その治世が輝きを放つ敬愛された君主として、死後民衆の間で語り継がれた。ハンガリー人にとどまらず、スロヴェニア人やウクライナ人、ルーマニア人など、かつての王国の臣民の間でも語られる。公正な統治者という彼のイメージは、「マーチャーシュ王は死に、王とともに正義も死んだ」という言葉に残っている。身をやつし、下々の者のなりをして世の中を見回り、不正をただす話がいくつもある。あるときクルージュへやってきて町を歩いていると、市長の雇い人に引っ張られ、薪割りを命じられた。契約分の仕事を片付け報酬を要求したら、市長は口汚く罵り、下男にこっぴどく殴らせ、もっと働けと言った。マーチャーシュ王はまた薪を割ったが、その際何本かに署名を彫りこんでおき、立ち去った。次の日、お付きの者どもと国王の装束で現われ、市長を訪問し、この町で物事は公正になされているか、貧者に気が配られているかと尋ねた。市長がすべて御意の通りでありますると答えると、マーチャーシュ王は市長の昨日のふるまいを指摘して、証拠に薪の署名を見せた。王は不正な市長を縛り首に、下男を串刺しに処したということだ、等々。


中央広場から南へ行くのは、大学書店とホテル・コンチネンタルの間の大学通りだけ。道はヤンク通りにぶつかる。左側にバロックのピアリスト教会(1718−24)、元のイエズス会教会。その先を左に折れるコガルニチャヌ通り(ハンガリー人はファルカシュ通りとしか呼ばない)は、1番地が1872年創立の大学、現在のバベシュ・ボヤイ大学本部(1893−1902)、向かいがハンガリー人の名門高校バートリ校で、この通り一帯はクルージュのカルチエ・ラタンである。大学の隣にフィルハーモニー、そのほか古文書館、アカデミー図書館、いくつかの高校が立ちならび、奥にはゴチック式のカルヴァン派教会、1486年から16世紀前半にかけて建てられた塔のない教会がそびえる。その前には、この町出身のマルティンとゲオルク兄弟作の聖ジョージ竜退治像のレプリカがある(本物はプラハにある)。この教会の裏手には15世紀の市の城壁が残っており、仕立屋の塔が隅にある。こういうものを博物館にすればいいのだが。
文教地区は日曜がいい。平日の若々しいにぎやかさが拭いさられて、閑静で優雅な気分になる。欠如は奥行きを深くする。文化は人が担うのだが、文化の厚みは人がいないときほど、より深く感じられる。


散策コースとして、今までにあげたところのほかに、ハンガリー人劇場の前の公園もいい。ミハイ広場前の通りを市電が走っているが、それに沿って行くと川べりに劇場がある。もとは夏の劇場だったもので、その前に公園が広がる。馬車道のような砂利の並木道が続く。池もある。
野外民俗博物館が、市西部の丘の上にある。ルーマニアでいちばん早く、1922年に作られた。木造教会や農家、水車などが広い敷地に配置され、ゆっくり見て歩くのにいい。ソメシュ川の北の岸に沿った道を行くと、ホテル・ナポカの前で三つに分かれるが、そのいちばん北のグリゴレスク通りをずっと行き、通りの名がドナートに変わるところで北へ分かれる道があり、それを登っていくと左手に入口がある。
モーツ通りを行くと、昔は郊外の村だったマナシュトゥルに至る。ここの小高い丘の上に、11世紀以来ベネディクト会修道院があった。その教会が残っている。マナシュトゥルは薄汚れた集合住宅が立ち並び、社会主義ルーマニアの憂欝を体現する一角であるが、そういう場末の安手の団地街としての趣きはある。それは別として、カルヴァーリアとも称されるこの教会は、一見の価値がある。


<食事・喫茶>
クルージュに限らずルーマニア一般に言えることだが、大原則は「食は家庭の厨房にあり」。立派なレストランでも、味のほうの期待は控え目にしよう。献立の半分は文字飾りと思っていたほうがいい。独裁政権時代の、ただ一種の料理しかなく、席につけば有無を言わさずそれが出てくる、というのから見たら大幅な改善ではあるのだが。何事にせよ、この国の店で不満を覚えたら、チャウシェスクチャウシェスクと呪文を唱えよう。あの頃を思えば!
庶民食堂として「キャベツ屋」と「豆屋」を紹介しておこう。英雄通りの中央広場から見て左側に並んでいる小さな店だ。それぞれキャベツと豆を使った安い料理を出す。クルージュ風キャベツ(ロールキャベツのブツ切り)というのがこの町の名物料理だが、ただしここのものはやや脂っこい。キャベツ屋の目印はウィンドーに見えるウサギのぬいぐるみ(キャベツ食い)。
茶店も町中にある。ただし背もたれのある椅子に高いテーブルという店は少ない。低いテーブルに背のない腰掛けのバルカン・スタイルがほとんど。コーヒーカップは小さい。これがシビウへ行くと大きなカップになり、ブカレストではまた小さくなる。クルージュの小さいカップはきっとハンガリーエスプレッソのスタイルで、シビウはドイツ風になみなみと、ブカレストはトルココーヒーの影響だろうと睨んでいる。中身は同じインスタントコーヒー(ルーマニアでは「ネス」という)なのだけど。
また、コーヒーには有無を言わさず(「有無を言わさず」はこの国のキーワードだ)砂糖が入っている。カウンターで自分で注文する場合は、そこに砂糖壷が置いてあるから、自分で入れたり入れなかったりできるが、ウェイトレスが持ってくる場合は、砂糖たっぷりと覚悟しておかねばならぬ。彼らがコーヒーに砂糖を入れるのは、我々が緑茶に砂糖を入れぬがごとく、自明のことであるらしい。テーブルごとに砂糖壷を置いておけば、すぐ盗まれてしまうという悲しい事情もあるだろう。ルーマニア人いわく、「コーヒーは悪魔のように黒く、天国のように甘くなければならぬ」。カロリー計算で砂糖を控えている女性方も、ここではルーマニアの悪魔と天国に身をまかせよう。
革命以後クルージュも変わった。こぎれいな新しい店が次々にできた。しかしそういう店は、ヤミ屋だか何だか、正業ではないブローカー仕事の兄ちゃんたちに占められている。過渡期の風景だ。また喫茶店に10分も座っていると、必ず物乞いの子供がやってくるので、心得ておこう。
ルーマニアで飲むべきものはワイン。うまい。ビールは、日本のをうまいと思う人には抵抗があるかもしれない。この町の熊印ビールは、個人的にかなり気に入っているが。店で売ったり飲ませたりするツイカ(果実蒸留酒)、ヴォトカは、アルコールを水で割ってアロマを添えたまがいものがほとんどだ。ツイカは自家製に限る。いや、ひとりツイカにとどまらず、ほんんど万事。


<土産>
土産物なんて、気に入ったものを買えばいいだけである。しかし個人的に何かを勧めるなら、陶器とガラス絵のイコンであろうか。ともに持ち運びに困る壊れ物というのも、この地方らしくていい。機能性や効率は忘れよう。光沢のあるコロンドの陶器もそうだし、ガラスに描かれたイコン画も、目に楽しい素朴な美しさだ。丸みのある強い線とあざやかな色どりの組み合わせ。現在のガラスイコンは古いもののコピーを描いているが、昔さまざまな土地で作られていたもののうち、ニクラ近辺で描かれたものが、とくにその明るい色彩とたくまざる優雅なナイーヴさで一頭抜いていると思う。陶器の皿には裏に紐がついていて、装飾として壁に掛けることができる。昨日や今日出来の土産物でないし、手作りの品だから、よく見れば上手い下手があるのも、買い手の眼力が試されるようでいい。
(1996)