クルージュ近郊とトゥルグ・ムレシュ

<カロタ地方の村々>
クルージュから西、フエディンとの間の地域をカロタ地方といい、彩り豊かなフォークロアで名高い。民謡、舞踊、民俗衣装、刺繍やビーズ細工などの手芸・工芸品等々、すべてこみいった技の巧みさが特徴だ。踊り、特に若者がソロで踊るレゲーニェシュの脚さばきは速度と奔放自在な動きで驚嘆もの。ビーズ細工をふんだんにつけた女の子の晴着は過剰なほどの装飾で圧倒する。男の晴着もよほど手がこんでいる。どの家にも「飾り部屋」というのがあり、テーブルや家具は花飾りが描き込まれ、壁には鮮やかな陶器の皿を掛けめぐらせ、ベッドには美しい刺繍をほどこされた枕がうず高く積まれている。覗かせてもらう機会がったら幸い。またこの地のカルヴァン派の教会には鋭く塔のそびえ立つたいへん美しいものがある。カルヴァン派だから中に祭壇はないが、パネルの天井画の素朴な様式的装飾も必見。以上はハンガリー人村の話。ルーマニア人の村には木造教会があり、空を指す尖塔とこじんまりした教会本体のなすフォルムはルーマニア民衆のゴシック様式、古い木の質感がなつかしい。中には香煙に黒ずんだ壁画がある。国道沿いカプシュ・マーレから未舗装道を入ったアグルビチウという村の教会がいいが、車でないとアクセス困難。カルヴァン派教会では国道沿いイズヴォル・クリシュルイ(ハンガリー名ケレシュフェー、1690年建立)、その南マナシュティレニ(ジェレーモノシュトル、13世紀)、ヴァレニ(マジャルヴァルコー、13世紀・1452ゴシックに改築)村のものが素晴らしい。鉄道沿いヴィシュテア(マジャルヴィシュタ、13世紀)村の教会は塔がなく、脇に木造の鐘楼が立つタイプ。内部の天井画がよし。この村はビーズ細工が盛ん。
交通は、クルージュとフエディン(クルージュから48キロ・鉄道で50キロ)を鉄道と国道が結んでいるが、それぞれ別の川筋を走る。教会の美しいものはフエディン手前の国道から南に点在、民俗衣装や装飾の手の込んだものは鉄道沿線のヴィシュテア(ナダシェル下車、クルージュから14キロ)、メーラ(12キロ)のあたりということになる。国道沿いには質朴な手芸工芸品を売る露店が並ぶ。特にイズヴォル・クリシュルイ(クルージュから40キロ)の村は道の両側に軒をつらねる店のほとんどが土産物を商っている。手ぶらで帰れない旅行者には願ってもない待ち伏せか。


<トゥルダ、トロツコー>
トゥルダ(ハンガリー名トルダ、ドイツ名トーレンブルク)もまたダキア、ローマ時代からあった古い町、塩坑で栄えた。中世から近世初期が最盛期で、トランシルバニアの地方議会がここで何度も開かれた。その後は度重なる戦乱でそのつど大きな被害をうけた。現在人口6万人ほど。鉄道路線からはずれるが、幹線国道沿いクルージュの南31キロ。クルージュからバスが何本もある。
町は新トゥルダと古トゥルダから成り、それぞれにカルヴァン派の教会がある。新トゥルダ(北部)のものは1528年建立、木立の中に壁に囲まれて立っている。古トゥルダ(中央部)のは14世紀。カトリック教会は塔のない建物で、1498−1504年建立のゴシック式、内部はバロックに改装されている。1568年ここで開かれた議会で、宗教改革後新教と旧教にわかれ対立抗争するヨーロッパで初めて信教の自由が宣言された。町の中心部は道幅がふくらんで一種の広場となっているが、その西側の裏手に「侯の館」がある。15世紀ゴシック建築、現在は歴史博物館。この町には石灰工場があり、その煙で町全体が白っぽくほこりっぽい。
トゥルダの西の郊外10キロほどのところにトゥルダ峡谷がある。ハシュダテ川が石灰岩の岩山をうがったもので、3−400メートルの岩壁がそそり立つ間を2キロほど続く。クマン族に追われた聖ラースロー王が岩壁に行きあたり、神に祈ったところ、二つに割れて谷が開いたという伝説がある。ハイキングに最適。
 トロツコー(ルーマニア名リメテア)はトゥルダから西に20キロ、アリエシュ川沿いに行き、ブルで南に折れ6キロはいったところにある山の村。標高530メートル。目の前に「セーケイの岩」(セーケイケー)山が岩肌を見せて聳える。高さは1128メートルほどだが、眼前に全容をひろげて立つので圧倒的な眺望だ。ハンガリー人の村。かつて鉄山があり、鉄工芸で栄えた。そのほかにも靴屋など職人が多く、ふつうの農村ではない。民俗衣装にも特徴がある。それらは村の博物館で見られる。家々は白く塗られたファサードで道に沿って並び、湧き水豊かで空気は澄み、別天地の感がある。トランシルバニアで最も美しい村のひとつに数えていいだろう。隣村コルツェシュティ(トロツコーセントジェルジ)のはずれには丘の上に城の廃墟がシルエットを見せる。この村へのアクセスはしかし車でないとむずかしい。


<トゥルグ・ムレシュ>
トランシルバニア地方で最初に滞在したのは、ツルグ・ムレシュの町だった。到着したのは朝で、日の光のなかで周辺の丘にかかった霧が晴れかけていた。急斜面の屋根、尖塔、鉛色の丸屋根、彫像がバラの広場と呼ばれる広々とした緑地のまわりにあり、バロック様式ゴシック様式の建物が緑地に面して並んでいた。・・・広場を見渡して、私は何か懐かしさを感じることができた。垂直の線を強調するルーマニアの建物に象徴されるような、一貫して威圧的な文化政策がツルグ・ムレシュにはなかった。ツルグ・ムレシュにあるのは、コーヒーハウスの文化であった(もっとも、コーヒーは何年もの間店頭から姿を消したままであったが)」(カプラン「バルカンの亡霊」)。
トゥルグ・ムレシュ Targu Mures(ハンガリー名マロシュヴァーシャールヘイ、ドイツ名ノイマルクト・アム・ミーレシュ)は人口約17万人、ムレシュ県の県都で、その名の通り「ムレシュ河畔の市場町」として栄えた。ルーマニア人のほかにハンガリー人およびセーケイ人と呼ばれるハンガリー人の一派が多く住む。1956年には4分の3がハンガリー人(セーケイ人)であった。もともとセーケイ人の町として発展し、今もその性格を強く残しているが、近年ルーマニア人が増えほぼ半々というところまできた。こういう微妙な民族バランスであったため、1989年12月の革命後、翌3月には民族衝突事件が起こった。医科大学、演劇大学をもち、トランシルバニアの文化に特異な地歩を占める町である。
町の中心は細長い「薔薇広場」で、圧巻はハンガリーアール・ヌーボー(セツェッシオ「分離派」)様式の傑作、文化宮殿(1911−13)。隣の同じくアールヌーボーの、塔のそびえる県庁(旧市庁舎、1907−08)とともにこの町を代表する建築である。内装もフレスコ画や鏡の多用で、かなり絢爛たるもの。中にはコンサートホール、アートギャラリーなどがあり、国立交響楽団の本拠地でもある。辺境の一地方都市にすぎない町にこんなものがあり、市民が定期演奏会や美術展を楽しんでいるこの厚みは、うらやましく思う。最盛期の遺産というわけだが、栄えた国は遺産を残さなくては。
薔薇広場にはまたルーマニア現代建築の代表作のひとつである国立劇場(1973)がある。広場の東北端にはギリシャ正教カテドラル(1930年代)、1848年革命時のルーマニア人の英雄アヴラム・ヤンクの騎馬像(彼はこの町の裁判所で働いていた)、バロック様式カトリック教会(1728−50)。バロック以降のさまざな様式の建物で飾られた広場だが、中世はない。広場後方にそびえる15世紀のゴシックのカルヴァン派城砦教会があるくらいだ。
薔薇広場からボヤイ通りを登ると、名門校ボヤイ高校(昔のカルヴァン派高校)の横に出る。その前のボヤイ広場の左手にテレキ図書館(テレキテーカと呼ばれる)がある。18世紀初頭にシャームエル・テレキ伯爵の創設したもの。約4万冊の蔵書を誇り、初期刊本や稀覯書を多数蔵す。非ユークリッド幾何学の発見者の一人ヤーノシュ・ボヤイと父の文人ファルカシュの記念室もここにある。ボヤイずくめの由来はこれである。銅像が高校の前にある。広場をはさんだ向かいの建物は旧裁判所。
(1997.5./1998.2.)