クローンシュタット

クローンシュタット。澄んだ響き、輪郭のくっきりした感じ。きれいな名前だ。なぜ地図のこんなところにドイツ風の名前の都市があるのだろう? ロシア革命時に「クローンシュタットの反乱」なるものがあったが、あれは? ひどい地理的混乱に眩暈をおぼえそうになった人がいたとしても、それは間違った接近のしかたではない(ちなみに、兵士の反乱があったのはサンクト・ペテルブルク近くの同名の海軍基地)。東欧、ましてやトランシルヴァニアに思いを詰めれば、多少頭がくらくらするのは自然だ。
クローンシュタット(ルーマニア名ブラショヴ、ハンガリー名ブラッショー)は、丘の上のヘルマンシュタットと違い、山々に挟まれた場所にある。それはつまり、旧市街が駅から遠いということだ。トランシルヴァニアルーマニア人・ハンガリー人・ドイツ人の共生する地域だけれども、実はこの三民族が相当の割合で住む町や村は意外に少ない。ルーマニア人はセーケイ地方を除いてどこにでもいるが、ハンガリー人とザクセン人は地域的に偏った棲みわけをしているためである。コロジュヴァール/クルージュハンガリー人とルーマニア人の町、ヘルマンシュタット/シビウはザクセン人とルーマニア人の町。しかしここは三民族が均等に暮らす町であった。1935年に約6万人いた人口のうち、ザクセン人が約1万4千人、ハンガリー人が2万3千人だった。現在は30万都市だが、あの「革命」の前後に退去していったドイツ人は、もう2千人程度残るのみであろう。すっかりルーマニア人の町になってしまったけれど、建物を見れば、誰がつくった町なのか一目瞭然である。都市を紡ぐのは、来たり去る人々、旅する人々の物語である。古都であるにもかかわらず、1950−53年の間「オラシュル・スターリンスターリングラード)」の名をつけられていた。スターリン主義者たちも町を通り過ぎた。
町の起源は、13世紀初頭、ハンガリー国王に招かれてこのあたりブルサ地方にやってきたドイツ騎士修道会の開拓植民に求められる。布教とともに東方警固と植民に携わったこの修道会は、十数年後王にその活動を警戒され、追放をうけた。この地での「予行演習」のあと、東プロイセンに拠点を築く。そこでも、またここでも彼らの中心の城はマリエンブルク(マリアの城)という名であった。クローンシュタットの北20キロのところにあって(ルーマニア名フェルディオアラ)、騎士修道会の築いた城の廃墟が見られる。
市の紋章は、木の根株の上に載った王冠(ドイツ語でクローネ)である。今市庁舎のある広場には、昔たくさんの亜麻が植えられており、高く伸びた茎が結びあって冠の形をなしたという。その亜麻の冠のあったところに市庁舎が建てられ、冠は市章になった。または今町のあるところで、ある王が逃げる途中に切り株の上に置いていった黄金の冠が見つかったとも言う。市名と紋章の起こりを伝説はこのように語る。王冠は市庁舎に秘蔵されていて、皇帝や国王、たとえばマーチャーシュ王のような賓客の訪問の時にのみ示された。
鋭く聳える955mのツィンネ(トゥンパ)山のふもと、ヴァルテ山や城山に三方を囲まれたこの町のもっとも素晴らしい眺望を得ようと思ったら、トゥンパ山に登るケーブルカーに乗ることだ。窓から、また登りきった山頂からは、赤茶色の傾斜の険しい屋根が、旧市庁舎とそのまわりの大きな広場を中心に、中世的な適度な誤差をもって直線や破線の美しい列を描いているのが眺めおろせ、そこに傾いた陽がいっぱいに射していたら、きっと目を開いて息をのんでいる自分に気づくだろう。旧市街のまわりは、いくつもの塔や城壁の残りに囲まれる。
町のシンボルであるゴチックの大きな教会は、「黒の教会」と呼ばれる。1385年からほとんど1世紀をかけて建てられた。17世紀の大火のため外壁が黒ずんでいるため、この名を得た。塔は65mの高さである。ここからカルパチアを越えると、もうこのような中部ヨーロッパ式のゴチック聖堂は見られない。逆にイスタンブール方面から旅してくる人は、ここではじめてこの種の尖りが多く傾斜のきつい建築物に接することになる。分水嶺なのだ。ここからはウィーンとイスタンブールがほぼ等距離である。カルパチア山脈がウィーンとコンスタンチノープルイスタンブールの影響圏の境界をなす。境界線は膜のようなもので、さえぎる働きの一方で、その周囲に相互浸透の領域を作り出す。黒の教会の中にはいると、壁に絨毯が掛けめぐらされているのを見る。これらは17−18世紀にアナトリアで織られたもので、町の同業組合や商人たちが奉納した。このたくまざるコレクションは、トルコとの往来交易がこの町にとっていかに重要だったかを物語っている。バルカンの有力な商人たちもこの町に商館を構えていた。都市の主役は旅する商人だ。
旧市街の奥に、スケイと呼ばれる街区がある。ザクセン人の言うベルゲライ、バルジェロイ、ハンガリー人の言うボルガールセグの名からわかるように、「ブルガリア人地区」であった。1392年にオスマン・トルコの侵攻から逃れてきたブルガリア人の居住地として始まり、のちにマケドニアのアロムン人(ヴラフ)、ルーマニア人も住むようになった。時とともに全くルーマニア化され、ザクセン人の居住する市壁に囲まれた旧市街に対し、ルーマニア人地区を成していた。復活祭の頃、この地区ではジュニイの祭りがある。輪舞や技芸の遊びに彩られた春祭りだが、最大の行事は、スケイ地区のいちばん奥、ソロモン岩の下からはじまる着飾った若者の騎馬行列である。彼らは飾り付けた樅の枝を持つ。市の城壁に近づくと、銃を空に撃ち、市門は閉ざされる。一種の簡単な模擬戦である。ザクセン人の側の言い伝えによると、もしこのとき騎手が門内に入り、中央広場の市庁舎を三度駆けまわることができると、クローンシュタットはルーマニア人のものになるという。昔スケイのルーマニア人が市内地区を襲撃しようとしたが、計画が漏れて失敗した。罰として毎年城壁まで騎乗してきて引き返すことになったとも語っている。そしてトランシルヴァニアルーマニア領になった1918年以来、ジュニイの騎手たちは市内へ行進する。
われらが親愛なるヴラド・ツェペシュ串刺公もまた、ワラキア君主の家の息子として、トランシルヴァニアのシェスブルク(シギショアラ)に生まれ、カルパチアを彼方此方へ越えつつ生きた境界線上の人物である。死後4世紀を経て、イギリスくんだりの大衆作家によって吸血鬼に仕立てられ、生と死の境界をも越えてしまうことになった。仇名にもなった串刺しはじめ、残虐行為のエピソードに彩られた彼の悪名を西欧へ伝えたのは、トランシルヴァニア・ザクセン人ないしその周囲にいた人である。15世紀のドイツで発行された扇情的な読み物には、トランシルヴァニアに侵攻して行なった蛮行と、彼の所領のワラキアでの残虐な君主ぶりとが並べられている。彼と同様この山脈を越えて行き来したザクセン商人の見聞がもとになっていることは疑いない。「ある早朝、彼は村や城や町を襲った。すべてを征服し破壊し、穀物や小麦を焼き払った。そして捕虜をすべて、聖ヤコブという名の教会の近くのクローンシュタットの町の郊外へ連行した。そのときドラキュラはこの地に留まり、郊外全体を焼き払った。一夜が明けた朝はやく、捕虜にしたものすべてを、男女を問わず、幼児も年嵩の子供も、教会の傍の丘上と丘のまわりに串刺しにし、その下で食事をしながらこの光景を娯しげに見物した」。「また彼は、タルメッツ攻撃のためにジーベンビュルゲンに遠征した。そこで彼は人びとをキャベツのごとく切り刻み、捕虜としてワラキアへ連れ帰ったものたちを、さまざまなやりかたで無残にも串刺しにした」。「かつてヘルマンシュタットからの使者たちは、ドラキュラが焼き殺し、茹で殺し、生皮を剥いだ人たちのほかに、ワラキアで串刺しにされた死者の列が、まるで大きな森のように林立しているさまを目撃した」等々。だが表面的な悪業の扇情性はしばらく置こう。被害者加害者の立場は違え、彼らの軌跡はからみあう。ヴラド暴虐譚に読むべきは、越境と仲介と権力の物語である。
クローンシュタットから南西に27キロほどカルパチア山中へ入っていくと、ブラン城(テルツブルク)に至る。1377年にザクセン人によって築かれたもので、街道の上に塔を並べて聳え立つ様は、いかにも中欧中世の国境の城である。道は同名の峠を越え、ワラキアへと続く。近くに野外博物館もある。この城は、観光パンフレットなどでドラキュラ城とされていることがときどきあるが、それは、ヴラドの祖父ワラキア公ミルチャが領有していたことがあったという程度の縁から強引に関係づけたものである。
北東12キロのホーニヒベルク(ハルマン)、そこから7キロのタルトラウ(プレジュメル)には、12メートルの高さの壁をめぐらした15世紀の城砦教会がある。二つの世界を区切るカルパチア境界線のすぐ内側のこの地域は、敵襲の危険にさらされやすい。都市のように市壁に守られていない村々は、教会を砦として有時の避難場所とした。特にいちばん迫り出した地点であるブルサ地方の城砦教会は、大規模に頑丈にできている。敵の軍勢が押し寄せてきたら、家畜や家財を持って教会に逃げる。壁の内側には避難村民のための部屋や食料貯蔵所がしつらえられてある。トルコやタタールなどの外敵、戦乱時の入り乱れる軍勢の数ある来襲に、これらの「城」は立派に抗した。教会の城、農民の城。カルパチア往還の敵の姿とともに眺めよう。
(2002.8.)