ハーメルンの子供たち

阿部謹也氏の「ハーメルンの笛吹き男」(平凡社、1974)は名著だ。異国の古文書館で地方の古い史料を調べるという、学問的ながら単調な仕事をしているとき、ふと目にとびこんできた鼠捕り男の文字に想像力を刺激され、遠くへと思いを伸ばして史料室に立ち尽くす歴史学者の姿と、そこから始まったこの伝説をめぐる中世の社会史研究は、それを読む者にも不思議な感覚を伝染させずにはいなかった。


この伝説は熱心な研究者によって、それに言及した史料が集成されており(ドバーティン「ハーメルン鼠捕り男伝説史料」1970)、これによって伝説成長の跡をたどることができる。伝説研究にとって、初源の事件の解明は必要ではない。解明できればそれにこしたことはないが、単に仮説に仮説を重ねるだけのことなら、不問にしておいたほうがいい。世界は不思議と謎に満ちているのだから。この伝説の最も古い記録は14世紀のふたつで、それはただ1284年6月26日ハーメルンの子供130人が失踪したことを伝えるだけである。15世紀にはひとつ記録があるが、その中ではじめて笛吹き男に連れ去られたことが言われる。16世紀後半になって報酬をうけられなかった鼠捕り男の復讐のモチーフと結合し、現在我々がグリム兄弟の「ドイツ伝説集」(1816)で見るような形となった。
16世紀以降、特に17世紀にはライプニッツをはじめ多くの学者がこの伝説に興味を示し、論じている。これらはつまり解釈史であり、時代背景および思潮との関わりでひとつの精神史的テーマとなる。
伝説成長にもどれば、グリムのこの話は「(笛吹き男に連れ去られた)子供たちは穴を通り抜け、ジーベンビュルゲントランシルヴァニア、現在のルーマニアの中央部)で再び地上に現われたという」としめくくられている。直線距離でハーメルンから1500キロ以上あるトランシルヴァニアには、12世紀以来ザクセン人と呼ばれるドイツ人が本国から遠く離れて異民族のただ中にくらしているのだが、ハーメルンの失踪者たちがそのザクセン人の祖先になったとする話の結びは、1605年のリチャード・ヴァーステガンの本に初めて現われ、アタナシウス・キルヒャーやサムエル・エーリヒなどもそれを書きとめ論じている。それ以前1589年にヌレユスが、地中を通り地球の反対側に出て「サクソニア・ノヴァ」を作ったと書いており、このあたりから移住モチーフが現われてきたようだが、当のトランシルヴァニアヨハネス・トレスターは「新旧ドイツ・ダキア」(1666)でその説に反論して、トランシルヴァニアではその伝説について誰も知らないと言う。けれどドイツの伝説に呼応し、アルマーシュの洞窟から地上に出てきたと語られもしている(クローナー「ハーメルンの鼠捕り男とトランシルヴァニア・ザクセン人」、 「新同盟」誌、1985)。この洞窟はザクセン人でなくハンガリー人の支族セーケイ人の住む土地にある。そこで語られる洞窟をめぐる伝説には、タタール人の襲来時村人がここに隠れたときの白米城のような話や、隠された財宝の話、怒るとコレラを流行らせる山の霊ないし妖精に服を仕立てて供えるという話などがあるが、それらにまじってハーメルンの子供たちがここから出てきたという話も添えられているのだ(ミュラー/オレンド 「トランシルヴァニアの伝説」1972,p.239−242)。むろんこの洞窟をめぐるいくつもの伝説のうち、妖精や財宝の話が古く、ハーメルンの子供たち出現の話は明らかに新しく加わったものである。その時期はトレスターの書以後だろうというのが妥当な推定だ。
残った者たちは、消え去った子供たちの行く末を案じ、それが遥か彼方の同胞たちの土地への移住であればよいと信じたい気持ちがあったろう。伝説の起こり自体、実際にそんな東方植民の事実をふまえているのかも知れぬ。一方本国を遠く離れて暮らす人々は、祖先の地との絆を求めたく思っていたろう。アルマーシュ洞窟の伝説は、後者の側からの前者への応答だ。響き返す思念。ちょうど、神のいない月という伝承がまずあり、それは神々が出雲に集っているからだと考え、出雲のほうでも神々の集いをめぐる式や伝えを形づくるという「神在月」の伝承のような、美しい呼応がそこにある。ハーメルンからトランシルヴァニアへ、どのようにか道は続いている。
(1997/10)