聖地ショムヨー

ブラショヴからセーケイ地方へわけいる列車に乗ると、チークセレダルーマニア語名ミエルクレア・チウク)を過ぎたあたりで、右手に形のよい山が見えてくる。これがセーケイ人たちの聖地、ショムヨーの山だ。セーケイ人というのは、カルパチア山脈ハンガリーの国境だった時代、防人として辺境防衛の任にあたっていた民族で、ハンガリー語を話す。カルパチアの山間に生きる山の民である。
ショムヨーには1352年以来フランシスコ会修道院があり、その教会の本尊であるマリア像(一六世紀初頭の作)を目ざして巡礼に来る者が絶えない。聖霊降臨祭の土曜日に、ここでトランシルヴァニア最大の巡礼祭が行なわれる。30万人もの善男善女が遠近の村々から、トランシルヴァニアの各地から、ハンガリーから、カルパチアを越えたモルドヴァ地方からやってくる。100キロくらいの道のりも、幡を立てて列を組んで、足弱や老人は時々荷馬車に腰かけて休みながら、それでも徒歩で来るのだ。
土曜の朝、修道院の前に集合した巡礼の人々は、村ごとに彼らの晴着、セーケイ人の民俗衣装を着て、山の上の礼拝堂へ、十字架の道行へ、隊伍を組んで出発する。先頭には村の教会の幡を立て、その下を数人の若者が鈴を上下左右に振り鳴らしながら行く。この振り動かし方も村によって違う。マリア像をかつぐ民俗衣装の娘たちをはさんで、人々は賛美歌を歌いながら登る。緑の野を延々と巡礼の列が続いていく。鈴の音と歌声に伴われて。− とてもこんな人数は教会にはいりきれないし、教会前の広場にも納まりきらないから、野原で野外ミサが行なわれる。山あいの野をびっしりと人が埋めつくす。ふう、よくもまあこんなに集まったものだ。――その夜はショムヨーの農家に泊めてもらう。どの村はどの家と割りふりが決まっている。女たちは母屋の床に雑魚寝、男たちは納屋の屋根裏、藁の上で眠る。教会で夜をあかす人たちもいる。通路までいっぱいだ。人いきれでむんむんする。お祈りをあげる声が一晩中とぎれない。
翌朝未明、モルドヴァ地方から峠を越えてやってきたチャーンゴーと呼ばれるハンガリー人たちは、山頂へ登って朝日を拝む。昇る朝陽の中に、小羊の姿が認められるという。
宗教を弾圧する共産党支配下、40年にわたってこの巡礼は実質的に禁止されていた。修道士たちは他の地へ移され、一人だけ残ることを許されて、教会の管理をしていた。この立派なバロックの教会と修道院の中にただ一人。巡礼祭は細々と教会堂の中でだけ行なわれていた。外を大っぴらに行列することはできなかった。それがあの革命後、昔のとおりの方式に、昔をしのぐ人数に、いっぺんに復活した。宗教のエネルギーというのはすごいものだ。また共産党独裁がいかに無理なものだったかもわかる。巡礼の作法を村の年寄りは憶えていて、禁圧されていた長い間も忘れることがなく、ひとたび暴力的抑圧が解かれるや、もう復活のその年に、40年間巡礼していなかったのが嘘のように、毎年ずっとやっていましたよという顔をして歩いていく。学者たちは目をこする。ではあの40年は何だったのだろう。本当に存在していたのだろうか。結局断絶はなかったのだ。ペストや飢饉が長く続けば、その間は祭りを祝うのもままならず、中絶するかもしれないが、ひとたび回復するや、ただちに祭りはとりおこなわれる。つまり共産党は新手のペストだったわけか。
人が集まると、それは強力な磁場を作る。人の大勢いるところに、招かれでもしたかのようにやってくる人々がいる。商人やジプシー、乞食がそれだ。森にはいって緑の若枝を巡礼の土産に折っていく風習があるが、ジプシーはそれを代行し、巡礼の道筋に立って若枝を売る。ジプシーの子供は物乞いだ。露天市も立つ。十字架や聖母像からチャチなおもちゃまで、土産物を並べる。見世物小屋もあった。いわく牛男。「親の因果が子に報い・・・」というやつだが、こういうものもかかせないと見える。
ショムヨーはこういうところだから、孤児院もある。昔は修道院の経営で、今は国立だ。革命後、ルーマニア社会福祉の惨めな状態を見て、諸外国から多くの救援物資がよせられ、この孤児院の設備もずいぶんよくなったのだけれど、妙な人物も流れ込んできた。イギリス人で、この地に会社だか財団だかを設立したのだが、その仕事が人買いというのだ。つまり孤児院の子供をアメリカあたりへ養子に出す斡旋をするブローカー。もちろんアメリカで養子になれればその子にも幸せであろうが、その仲介でけっこう金がはいるらしく、また、噂にすぎまいが、子供を人体実験用にも送り出しているなどともささやかれていた。土地の新聞に暴露記事が出て、その男は村を去った。
人里離れたショムヨーの山の上、巡礼の登る礼拝堂の脇に、小さな家がある。ここにヒゲをぼうぼうにのばし、茶色の僧衣をまとった堂守りの隠者が、ロバと一緒に暮らしている。眺めはよいが、冬はかなり寒かろう。ショムヨーには奇蹟がおこる。何人もの村人が、天上に音楽の奏でられるのを聞いたり、天から梯子の降りてくるのを見たりと、開創時の出来事を追体験した。ここは尋常の土地ではないらしい。
1944年の夏、ソ連軍の接近を聞き、修道士たちは掠奪から守るため、貴重な書物を隠すことにした。厨房の壁と聖母像の台座に塗り込めたのだが、その後会士たちが移送されたので、取り出す機会がないままになっていた。それから40年たって、ある偶然のきっかけから発見され掘り出されることになった。湿気で損傷がひどく、修復は大変な作業だったという。だが異教徒の襲来にあって、修道士たちが書物を壁に塗り込めるなんて、中世の歴史にありはしなかったろうか。この地では歴史は進行をためらっていたのか。まるで「薔薇の名前」じゃあないか。
巡礼、見世物小屋、人買い、隠者、奇蹟、戦争、書物への愛。聖地はなかなか大変だ。
(1994)