カザンへ、カザンから(2)

<学生ヴォロージャ>
ソ連建国の父ウラジーミル・イリイチレーニン(1870−1924)と、その父イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤーノフ(1831−86)は、ヴォルガの子であった。イリヤ・ニコラエヴィチはヴォルガ河口のアストラハンに、農奴出身の仕立屋の息子として生まれ、1854年にカザン大学を卒業、ロバチェフスキー教授の推薦でペンザ貴族学院の教師となり、そこで妻となるマリヤ・アレクサンドルヴナ・ブランクと知り合う。結婚ののち、ニジニ・ノヴゴロドギムナジウム教師などを勤め、のちシムビルスクの視学官となり、その勤務功績をもって貴族に列せられた。勤務した17年の間に450校が新設され、彼によって養成された小学校の教師たちは「ウリヤーノヴェツ」と呼ばれた。妻との間に3男3女の6人の子供(夭逝した2人を除く)をなすが、次男ウラジーミル(ヴォロージャ)16歳のときに脳溢血で急死する。
カザンからヴォルガを250キロほど下ったところにある町シムビルスクは、レーニンの生まれ育った土地としてレーニン崇拝の聖地のひとつとなり、名もウリヤノフスクと改名された。レニングラード(現サンクト・ペテルブルク)や社会主義諸国のその他の「レーニンの町」と違い、本名を使っているのが、市民の、ではなくとも市の共産党員の誇りであろう。ツァーリ暗殺計画を企てたとして処刑された兄のアレクサンドルは、その町について、「ああ! 人間がまったく退屈しきっている田舎、たとえばシンビルスクのような田舎で生活するなんて、なんと恐ろしいことだろう! そこには本もなければ、人間もいない!」と慨嘆しているのだが。シムビルスクのために人間のことを少し言っておけば、レーニンが優秀な成績で卒業した高校の校長は、二月革命後の臨時政府を率い、ボリシェビキによって打倒された首相ケレンスキーの父親であった。ゴンチャロフも住んでいた。しかし退屈な町であったことに疑問はあるまい。レーニンはのち、似たような田舎町サマラに住んでいたとき、チェーホフの小説に描かれた「六号室」に閉じこめられているような感覚をもった。
1887年の秋、ヴォロージャはカザン大学法学部に入学するが、12月、学生争議のために逮捕される。退学させられ、カザンから「所払い」をうけたあと、一年ほど母方の祖父の屋敷のあったコクシュキノ村で「亡命生活」を送る。この間、「朝早くから夜遅くまで、貪るように」読書した。1888年9月には、復学はできなかったものの、カザン居住が許される。1889年1月、彼はマルクス主義者になる。このころ「資本論」を読んだらしい。この年の5月、母が農場を買ったサマラ郊外アラカエフカ村、のちサマラ市内に移り、学外学生としてサンクト・ペテルブルク大学で試験を受け、大学修了と弁護士開業資格を取得した。1893年に首都へ出、マルクス主義活動家として名をなして以後、彼は「レーニン」となる(この有名な筆名は、1901年から使われるようなった)。シムビルスク・カザン・サマラ等、沿ヴォルガ地域の少年・青年時代は、「レーニン」以前の、「レーニン」を準備する時代であった。のちにゴーリキーと話しているとき、彼がロシアの田舎についてさまざまな話を語るのを聞き、うらやましげに溜め息をついて、「だがぼくはロシアを少ししか知らない。シムビルスク、カザン、ペテルブルク、流刑、それで――ほとんど全部ですよ!」(ゴーリキー「追憶」)。むろん、「人民の子」にして大放浪者、観察力と記憶力に秀でた作家のゴーリキーほどにロシアを知ろうというのは、いかなるロシア人にとっても困難だ。ここはレーニンの知っているロシアが、首都と流刑地を除けば、ヴォルガ流域に偏っていることに注目すれば足りる。
レーニンが直接知っている地理的な領域がいかに狭くとも、彼は一身においてロシアを体現していると言っていい存在だった。彼の父方の祖父はニジニ・ノヴゴロド県の農奴身分出身の職人(おそらくロシア人だろう)で、祖母はカルムィク人の商人の娘、父は教育者にして貴族となり、母方の祖父はウクライナ出身のユダヤ人の医師、祖母の父はペテルブルクのドイツ人、母はスウェーデン人であった。こんな人間が「ロシア人」でありうること、そこに何の不思議もないことが、不思議のいちばん奥深いところである。
ソ連という国は、ほとんど何の関係のないような町にもレーニン博物館を作るのに熱心だった。カザンはその点で何と恵まれていることだろう。非の打ち所のない「レーニンゆかりの町」で、彼の家族の暮らした家が正当な博物館になっている。ソ連時代は訪問客で賑わっていたのであろうが、今はひっそりとしている。町の中心部からは少し外れる。レーニンに興味のない人にも、現在は少なくなった19世紀の木造家屋と当時の中流市民の生活を示す博物館としての意義はある。郊外の、母方ブランク家の邸宅のあったコクシュキノ村(レニノ・コクシュキノ)にも博物館がある。ピオニール(アメリカのボーイスカウトガールスカウトに当たる)の少年少女たちの、必ず訪れ奉仕しなければならない場所だった。しかし現在、カザンにはまだ立っているものの、旧ソ連各地でレーニン銅像は撤去された。カザンでこんなアネクドートを聞いた。幼稚園児たちが森へ遠足に行ったそうな。そこでハリネズミを見つけて、先生に聞いたそうな。「先生、これなあに?」「まあ、あなたたち、知らないの? これについて、たくさんお話やお歌があるじゃないの。」「じゃあ先生、これがレーニン?」


ゴーリキータタール人>
カザンからさほど遠からぬ、といってもロシアの基準でであり、東京から名古屋以上にも離れているのだけれど、ヴォルガをやや(400キロばかり)遡った河畔の市場町ニジニ・ノヴゴロド出身のマクシム・ゴーリキー(本名アレクセイ・マクシモヴィチ・ペシコフ、1868−1936)の自伝三部作「幼年時代」「世の中へ出て」「私の大学」は、その時代のこれらの町の生活を活写するすぐれた記録にもなっている。ゴーリキーニジニ・ノヴゴロドで育ったが、生まれたのはアストラハンであった。ごく幼いころ、父がコレラで死に、その後母の実家のある町に移り住み、祖父母の家に暮らしていた。レクセイ少年には、くず拾いの仕事をする五人の仲間がいた。そのうちの一人、ヴャーヒリはモルドヴァ人の女乞食の息子、一人は「十二歳の力持ちで、純朴で、心のやさしいタタール人の子」ハビだった。彼は、カマ川のほとりにあってヴォルガにも近いということを覚えているだけで、名前を忘れてしまった生まれ故郷の町へ行きたいと思い、貯金していた。そこから叔父に連れられてニジニへ来たが、叔父はまもなく死んでしまったのであった。大きな体で豊かな黒い髪の、やさしい牝熊のようなレクセイの祖母は、祖父から「いまいましいチュヴァシュ人め!」と罵られていた。家には捨て子だったイヴァンカが一緒に暮らしており、彼は「ツィガーノク(ジプシー)」と呼ばれていた。祖母が本当にチュヴァシ人か、イヴァンカがジプシーか、それとも単なる仇名なのかは知らないが、何という多民族の混淆ぶりであろう。これがヴォルガ中流域の生活であった。
タタール人はレクセイたちの遊び相手であった。土曜日の夕方、タタール人の荷揚げ人足が波止場から帰っていくのを待ち伏せて、拾い集めておいた履きふるしのわらじをぶつけるのである。タタール人たちは初めは怒っていたが、そのうち自分たちもこれに夢中になって、同じようにわらじを集めてきて、ぶつけ合いの合戦をやるようになる。時には子供たちの集めておいたわらじを盗む。子供らは、「そんなの遊びじゃないや!」と苦情を言う。そしたらタタール人はわらじを半分わけてくれ、また戦いになるのだった。
タタール人たちもわれわれにまけないくらい熱中した。戦闘がおわると、よくわれわれは彼らといっしょに組合へ行き、馬の胸肉や一風かわった野菜汁などをおごられ、夕食のあとでは生のねり粉を焼いて作ったくるみ菓子をそえて濃い磚茶を飲んだ。われわれはこの巨人たちが気に入っていた。彼らはそろって力持ちで、なんとなく子供っぽい、理解しやすいところがあった。――ことにわたしが心をうたれたのは、彼らが柔和で、けっしてやさしい心を失わず、しかも互いに思いやりのあるまじめなつき合いをしていることであった。
彼らはみなすばらしく豪快に笑った。のどがつまって目に涙がにじむくらい笑った。なかの一人などは、――これはカシーモフ出身の、鼻のひしゃげた、信じがたいほどの力持ちだったが、――彼はあるとき荷船から、遠くの河岸まで、四百四十キロもある鐘をはこんだことがある、――この男は、吠えるような笑い声を立てながらこんなことを叫ぶのだった。
「ぶ・ぶう、ぶ・ぶう! ことばは草葉、言葉は小銭、じゃが金貨じゃよ、ことばはな!」
あるときはまた、ヴャーヒリをてのひらにのせ、高く持ち上げて、こう言った。
「そら、天人よ、そこで暮らせ!」」(「幼年時代」)


彼は、1884年の夏から1887年6月、近郊のクラスノヴィドヴォ村に一時移り住むまで、カザンに暮らした。その時代の記録が「私の大学」である。この「大学」は複数形だ。彼はカザン大学に学ぶつもりでやってきた。大学での勉学はもちろん果たせなかったけれど、生きるためにさまざまな仕事をしながら、「人生の大学」で学んだのである。彼が働いていたパン屋の建物が、今はゴーリキー博物館となっている。けれどカザンを描いた最もすぐれた文学作品であるこの本には、不思議なことにタタール人が出てこない。ニジニ・ノヴゴロドで過ごした「幼年時代」には、あれだけ印象的なタタール人の姿が現われるというのに。カザンの人口は1858年に約66000人だった。そのうちタタール人の数は、少し前の数字だが、1844年に6500人だったというから、一割程度に過ぎなかった、という事実の反映でもあろうし、この地ではロシア人とタタール人がそれぞれ独立して生活を営んでいたことも、それは示唆しているだろう。
姿は現わさないが、影はさす。村のロシア人農夫は、「おれたちがタタール人を征服したのは無駄だったよ、――タタール人はおれたちよりゃかしこいんだ!」などと漏らしたり、カザンの県知事の、すべてのタタール人をコーカサス地方トルキスタンへ移住させる計画についての疑わしい噂を語りながら、「しかしおれは――タタール人たちがかわいそうだ。カフカーズは慣れないと住めない」と言ったりする言葉のうちに、また作家自身の、「秋だ、十月、物うそうに雨が降っていた。風が吹いて、まるではずかしめられたタタール人のように長々と歌を歌っていた、――歌は果てしなくオオー、ウウーってつづいていた・・・」という描写にも。
ゴーリキータタール人に好意を持っていたに違いない。若いペシコフは、出入りしていた「人民主義者」のサークルで(そこには「宗教学校の学生でパンテレイモン・サトーという日本人」も顔を出していた)、ホホール(ウクライナ人を指す俗称・蔑称)と呼ばれる「豊富な髯とタタールふうに剃った頭をもった大きな、胸幅の広い男」、流刑帰りのロマーシに出会った。彼は「踵まである長いタタール風のシャツを着て、全身これ白ずくめである」。そして「人生の大学」の教師の一人であるタタールめいた風貌のこの男に誘われ、彼が近郊の村でやっている、「人民の中で」活動する店を手伝いに行くことになる。また、「どん底」に登場する「だったん人」は単純で直情的な男で、「正直、生きるもんだ!」が口癖の印象的な脇役だった。
この「だったん人」は、同宿人に「殿下」と呼びかけられている。木賃宿暮らしの人足が「殿下」というのはどうしたわけか? これはロシア人がタタール人につけた仇名である。ロシア通のジャーナリストで、革命下のロシアを訪れ行方不明になった大庭柯公によると、その名の由来はこうである。
「「ハラート」「ハラート」と、とぎれとぎれに露都の朝の街を呼び歩く一種の種族がある。その呼び声の何とはなしに冴えないのが、ドンヨリした露都の空合と調和している。ハラートとは絹の寝衣というのであるが、彼らは古寝衣のようなものはないか、古着古道具はないかと呼び歩くので、つまりわが国で言う「お払いものはございませんか」というのに通ずる。しかし彼らの呼び声は我々外国人の耳には、とてもハラートとは聞こえないので、どこかに梟が午啼きでもしているのではないかしらと聞こえる。・・・この商売は韃靼人の専業で、他に真似をやる者はない」。「風貌は大部分、亜細亜型を帯びておる。必ず五分刈り頭で、多くは詰襟服を着ており、まず百人が九十九人まで商業に従事しておる。古着屋もその一であるが、この古着屋商売の韃靼人に限って、羊羹色のフロックコートを着て澄まし切っておる。フロックコートの古服は、西洋でも古着中の一番融通の利かぬものと相場が定まっておる。露都のお神さんや細君連の間に、韃靼人の古着屋のことを通常「公爵」(アクニャージ)と戯れに呼んでおるのも、彼らが汚い行商人でありながら、不似合いな古礼服を着ている姿を嘲り笑ったものである」(「露国及び露人研究」)。古着屋はタタール人の伝統的な職業であったようで、ドストエフスキーも、カザン征服後あれほど危険で勇猛だったタタール人は「われわれに部屋着を売りはじめるようになり、それからまたしばらくして− 今度は石鹸も売るようになった。(間違いなくこの順序、つまり最初に部屋着、それから今度は石鹸という順であったと、わたしは考えている。)」(「作家の日記」)と大真面目な顔をして書いている。ロシア革命後、満州や日本へ逃れてきたタタール人も、主にラシャ売りを生業としていた。別説によれば、「タタール人の国ではこの爵位を請求する資格を持つには、三○頭の羊を持てば十分だと言われていたからである」(トロワイヤ [帝政末期のロシア])ともいう。


<シャリャーピンのカザン>
ロシアの大地の生んだ偉大なるバス歌手、フョードル・イヴァノヴィチ・シャリャーピン(1873−1938)は、カザンの場末の工場町に生まれた。父親は酒飲みの小役人で、一家は市内を転々とし、1990年に離れるまでここで育った。彼の音楽はほとんど独学だが、その経歴はこの町の教会の聖歌隊に始まった。
1885年秋、シャリャーピンとゴーリキーは同じ日に、合唱団の入団試験を受けるためにカザンのオペラ劇場のドアを叩く。ゴーリキーは合格したが、シャリャーピンは不合格だった。だがこのときはただのすれ違いで、知り合うのはずっと後年、1901年のことであった。その後二人は親交を結ぶ。同様に、のちの親しい友人ゴーリキーレーニンも、至近距離まで接近しながら、出会わずにいる。二人はともに、フェドセーエフマルクス主義サークルに加わっていた。しかしそれは、レーニンの場合、1987年秋に大学に入り12月に放校になるまでと、翌年9月から1889年5月までの二期にわたる短いカザン生活の後期に当たり、1888年6月にカザンを去ったゴーリキーとはすれ違いであった。カザンに暮らした人々の中で、一般に最もよく知られた三人、それぞれの分野で不滅の業績をあげることになる三人の若者が、同じ時期に同じ空気を吸いながら、限りなく接近遭遇しながら、ついに出会うことがなかったというのは面白い。カザンの街路を背景に、互いに気づかずさまよい歩いている彼らの姿を思い描いてみれば、ほとんど小説である。
成人は幼児のころに準備される。自伝を読む楽しさは、のちに発揮される才能や人格がどのように現われ始めるのかを見ることにある。後年の大オペラ歌手シャリャーピンも、ここカザンでその憧れを形作った。歌の目覚め、舞台の目覚めが、少年時代の思い出の一等興味をひく部分だ。
「私たちはタタール村の、鍛冶屋の二階の小さな部屋に住むようになった。床の下からは、鉄を打つ音と、鉄床の気持ちのいい規則正しい音が響いてくる。家の中には、車製造人、四輪馬車製造人、毛皮製作人などが住んでいた。皆私の大好きな人たちだった。
夏、私は作りかけの立派な馬車の中や、できたての新しい客車の中に寝たりした。モロッコ革やニスやテレビン油などの、妙に食欲をそそるような匂いがした。・・・
 若い快活な男だった鍛冶屋の姿を、今でも私は思い出す。私に鞴を押させて、その代わりに小骨遊び用の円板をこしらえてくれた。ウオトカは飲まなかったが、歌は上手だった。名前は忘れてしまった。けれども彼が私を愛し、私が彼を好きだったことは、今でも忘れられない。
この鍛冶屋が歌いはじめると、窓の側に座って仕事をしている母は、それに合わせて歌いはじめる。ぴったり呼吸のあった二人の歌を聞くと、私は心が何となく生々してくるのを覚えた。私もそれについて歌ってみた。が何だか私が大声で歌うと、せっかく合った二人の歌を打ちこわすような気がして、ごくごく声を低くした。鍛冶屋はそんな時にいった。
「フェージャ、歌いな、歌いな。歌えばもっと気軽になるぜ。歌って鳥みたいなもんで、放してやりゃ、うれしそうに飛んでいくのさ」
歌なんか歌わなくっても、私は愉快だった。が私は釣の時や野原の中なんかで、よく歌ったもんだった。そして歌い終わっても、私の歌った歌が、翼を拡げて生きて飛び回っているような気がしたりした」(シャリアピン「私の生い立ち」)。
「『メディア』と『ロシアの結婚』は私の見た最初の芝居でもなければ、私の野心を燃え上がらせた最初の火花でもなかった。私がはじめて脚光の炎に翼を焦がしたのは、八つになった年のある十二月の寒い日だった。私はクリスマスの市に連れて行かれ、生まれてはじめてヤコブ・イワノヴィッチ・マノモフを見た。彼はヴォルガ近傍ではイヤチカの名前で通っており、身振り狂言の道化師だった。
イヤチカは途轍もない顔に恵まれていて、それが道化ぶりと完全に調和していた。まだそう老けてはいなかったが、肥える一方で、どことなく威厳のある様子だった。のみならず鼻下にはひねり上げた真っ黒な口髭があり、目は異様に鋭く、これらの感じが観客の中の子供には迷信的な恐怖を起こさせずにはいられなかった。彼のまわりにあるものは何でも魅力があった。しわがれたうめき声、たくまない動作、ポカンと口をあけている観客に投げつける軽妙なおどけた言葉や挙動――みんな魅力があった」。
「彼のおどけた洒落や軽口はどれも人々の好むものであった。一言何かおかしなことをいえばどっと笑いだす。即興で何か演ずるのだが、それが群衆にはとてもたいしたことのように思われた。下回りの一座――彼の女房や伜に他の役者が二、三人――を舞台に出すときには、イヤチカは知事の顔に似せてつくった滑稽な人形をもって叫ぶのであった。
「こら、馬鹿野郎ども、働け、
さあ知事さん、蹴っ飛ばしておくれ」
・・・私は一日中彼の一座の中に寒さでふるえながら暮らし、日が落ちて見世物がすんでしまうと、わびしい気持ちになった。家に帰ってから心に思った。「ああなんて奴だろう! ぼくもあの人のようになれたらなあ!」」(「蚤の歌」)。
興行が終わったあとの、夢から醒めたような放心を、彼は美しく書きしるす。
「ついに大斎期がやってきて、復活祭が過ぎ、一座は皆いってしまったので、私は取り残されたようにぼんやりしてしまった。広場には何もなくなってしまった。天幕は外されただ木の棒が残っているだけだ。踏みにじられた雪の上には人影もない。向日葵の種の皮や南京豆の殻や、破れた紙が目につくだけだ。
祭は夢のように消えてしまったのだ。今まで賑やかでざわざわ人出の多かった広場は、墓場のように静かになってしまった。
その後、私はしばらくの間不思議な夢を見た。長い廊下の丸窓から、お伽噺にあるような美しい町を見、カザンにないような立派な寺院を眺めている夢だった」(「私の生い立ち」)。
タタール人に関して言えば、彼は「氷上の戦い」のことを伝えてくれる。町の南のカバンという細長い湖とそこから流れてカザンカに注ぐブラク川が、ロシア人地区とタタール人地区を分けていた。冬の祭りのとき、氷結した湖で人々はスケートに興じる。そこで喧嘩が始まる。まずタタール人とロシア人の子供同士が殴り合いを始め、つづいて大人たちがそれに加わる。しかしそれには規則があった。倒れた者を殴ってはならず、足や道具を使ってはならない。だからたとえば手に鉄塊や銅貨などを握っていることがわかると、制裁を受ける。先頭に立って戦う者は勇者だった。「私はこういった連中に――たとえ韃靼人だとしても―― 一種の宗教的尊敬の念を抱いていた。いつもはおとなしい善良なこうした人たちが、いざ喧嘩となると、ひどい腕力を出すのを見ているとボーヴァとかイェルスラン・ラザレヴィッチの話などを思い出す。見ているうちに、お伽噺の中にいるような気がしてくる。その話というのがたいていこういう闘士のことが書いてあるので、私たちはいっそう感嘆させられるのだ」(「私の生い立ち」)。
印地打ちや、町内が二組に分かれて争うイギリスの謝肉祭フットボールのようなもの、制度化・儀礼化された争闘習俗というわけだ。


フェージャの家庭はますます貧窮していった。ついにカザンを離れ、アストラハンへ移ることを決意する。
「家では皆私に頼っていたのだった。生きなくてはならない。そのために働かなくてはならない。母は饅頭を作っては切り売りしていた。これで足りるはずがない。私はソプラノの声をつぶしてから、だれもコーラスに傭ってはくれない。私はひもじい腹を抱えて、職を求めに町中を歩き回った。ヴォルガの河畔に座り、ぼんやり人々の働くのを見ていた。船は白鳥のごとく着いたり出たりする。舟荷人足は絶えず歌っている。

  オーラー、母なるヴォルガ
  オーラー、広い河は私の貧しい生業をやさしくやさしく慰める。

河岸の砂の上に韃靼人は小屋を建てて、トルコのスリッパだとかカザンの石鹸だとか、ブハラの布を売っている。ロシア人はパン、ソーセージなどの食糧品を売っている。ああ、食いたい。いかにも賑やかでお祭り気分だ。それにひきかえて私は母が気の毒なばっかりに、何か職にありつこうと囚人のようにさまよって歩いている。どうしてもこの町は私には不幸の種なのだ。どこかなるべく遠いところにいってしまおう。この漠然とした望みが、だんだん形を整えてきた時に、私はその決心を父母に打ちあけた。ついに両親もアストラハンに引き移ることに決めた。もち物は全部売り払いゼベックという舟の四等に乗り込み、私たちはヴォルガを下った」(「私の生い立ち」)。
ゴーリキーも南へ行く。
「春の呼びかけによってなおさら目をさまされた不安なもの足りなさのこの気分のなかで、私はふたたび汽船に就職し、アストラハンに下って、ペルシャへ逃げよう、と決心した。
なぜほかならぬ――ペルシャなのか、覚えていないが、もしかしたらただ、ニジェゴロド定期市のペルシャ商人たちがたいへん私の気に入っていたからだけかもしれない。色染めした頬ひげを陽向に出して、落ちつきはらって水煙管を燻らしながら、だが眼は大きく、暗く、何もかも知っている眼で、まず石の偶像といったあんばいで坐っているのだ」(「世の中へ出て」)。このときの少年アレクセイはただ夢想しただけだったが、若きペシコフは、1888年、働いていたロマーシの店が焼き打ちにあったあと、カスピ海の岸へ旅立つ。
ヴォルガは諸民族の川、ヴォルガは南へ開かれた川である。可能性を求めて、人々はこの川を上下する。反逆者ステンカ・ラージンのように? 勤勉な教育者イリヤ・ニコラエヴィチのように? ゴーリキーの祖父は若い頃、ヴォルガの舟曳きとして「母なるヴォルガの長さを足で歩いて測った」。のちにシャリャーピンは「ヴォルガの舟歌」を持ち歌にするだろう。


タタール人地区>
ターネレリが「カザン、タルタル汗の古き都」に描いているとおり、この不思議な町の独特な魅力は、カバン湖畔の「タタール橋」からの眺めの中に集約される。
「湖に背を向けると、あなたは目の前に繰り広げられる広大な素晴らしいパノラマのうちに、最も注目すべき建築物、――市場、ペトロパヴロフスキー教会、教会の聳え立つ尖塔や金色の丸屋根ののぞく城の一部、貴族会館、大学とその天文台、その他多くの奇妙で面白い建物のある町の北西地域のすべてを眺める。モダンな形と造りの優美な馬車、制服を着た士官やはやりのペルシア風装束の淑女たち、ゆったりしたカフタンをまとったロシアの商人、同族の農夫たちなどの姿の見える歩行者の群れが、この面白いパノラマに生命を与えている。観察者はヨーロッパにいて、カザンの町のロシアの部分のごくふつうの眺めを目にしているわけだ。
今度は反対の方向へ向きなおってみよう。彼はどこへ運ばれてゆくのだろうか? この突然の変身ははいったいどこから? どうしてこんな途方もない変化がかくも瞬時に生じえたのだろう? 丸屋根と金色の十字架のキリスト教会のかわりに、三日月を戴いたマホメット教のモスクが注意をひく。幻想的に彩色された、形と色の際限のない取り合せの木造の家々が、最前眺めた石や煉瓦造りのヨーロッパの建築にとってかわる。厚いヴェールにおおわれ、金銀の縁飾りやさまざまなかさばる装身具をふんだんにつけた上着をまとうタタールの婦人たちが、先ほど見つめていたヨーロッパ女性の簡素で洗練された身ごしらえと際立った対照をなす。ロシアの商人のかわりに、白いモスリンの巨大なターバンを頭に巻き、ブハラかペルシア産の織物で仕立てられたまだらの上着の多量の襞のうちにその姿を見失ってしまうようなタタールのモッラーたちを認め、ロシアの農奴のかわりにタタール人の農夫と目が会う。まるで魔法の杖を振ったかのように、観察者は一瞬のうちにヨーロッパからアジアへと運ばれてしまう。彼は「タタール人地区」という名のカザンのアジアの部分の眺めを目にしているのだ」。
19世紀の半ばはこうであった。カザン征服後、タタール人は市壁の外へ追い出され、そこに旧タタール町を作って住まわされた。新タタール町は18世紀に形作られた。長くブラク川とカバン湖がロシア人地区とタタール人地区の境をなしていた。モスクはほとんどがこの線の左岸にある。キリスト教会はその右岸に多い。カザンには結局大きなモスクはないのだけれど、1849年に建てられたセンナヤ(干し草市場)・モスクとメルジャーニー・モスク(1760年代末の建立)が中心的なモスクと言える。センナヤ・モスクの前には市場があり、その賑わいはすぐ近くに住んでいたトゥカイが詩に描いている。細長く装飾の多い空色のミナレットの姿が映えるアジモフ・モスク(1890年)が、おそらくカザンでいちばん美しいモスクである。やや町外れだが、そのあたりはかつてのタタール人街区の姿をしのばせる一画である。
トゥカイ通りはタタール人地区の中心通りだ。通りの名の主であるガブドゥラ・トゥカイ(1886−1913)を記念する博物館もここにある。博物館の建物自体は裕福はタタール商人の家で、薄命の詩人には関係ない。カザン東北の村に生まれ、幼くして父母を亡くし、養家や親戚の家を転々として成長した。詩人として認められ、1907年、21歳のときからカザンに住み、新聞や雑誌に執筆したが、健康はすぐれず、生活は苦しかった。そしてわずか27歳で結核で病没する。トゥカイの名は、スユンビケ王妃と並んで、タタール人の歴史と文化を象徴するシンボリックな存在となっている。戦前の東京でも、亡命タタール人の団体が彼の全集をアラビア文字タタール語で出版しているほどだ。彼が民謡に詞をつけた次の歌は、タタール人の愛唱歌である。


    父母のことば


  ゆかしき やさしき 父母のことば
  汝によりて 世のすがた ならいおぼえぬ


  そのかみ ゆりかごに 母は歌いて
  ばあさまは 長の夜を ものがたりしぬ


  ことばもて 幼な子は 心にとどめぬ
  よろこびも 悲しみも いついつのときも


  ことばもて 昔より 祈りきたりし
  嘉されよ わがことも 父母のことも


ミールサイド・スルタンガリエフ(1892−1940)が学んだタタール師範学校もこの通りにある(今は男子高校になっている)。壁に碑板が掲げられている。スルタンガリエフは、本を読む人たちの間だけにもせよ、おそらく日本で最も名の知られたタタール人であろう。それは山内昌之氏の名著「スルタンガリエフの夢」によっている。彼らにとって重要なほかの誰より、現地では決して有名でない人物の名を心得ていることは、逆に、いかにわれわれがカザン・タタール人を知らないかを証してもいるのだが。彼は今のバシコルトスタンの寒村に、ミシャル人の教師の息子として生まれた。ロシア革命時に活躍し、被抑圧民族、彼の場合はまず第一にムスリム諸民族の連帯と解放を構想した。ソ連にあまりにも数多いスターリンの粛清の犠牲者の一人である。ソ連崩壊後、カザンカ川を見下ろす高台に建つカザン国民文化センター前の広場が彼の名で命名された。
バキ・ウルマンシェ(1897−1990)という非常に敬愛されている彫刻家にして画家がいた。彼の住んでいた家が博物館になっている。そこは山の手で、タタール人地区ではないけれど。タタール文化人の彫像や、タタール人の歴史や生活に題材をとった色彩豊かで軽やかな絵など、彼の作品がいくつも展示されていて、タタールに興味のある人はぜひ訪れてみたらいい場所だが、そこに、カザンを中心に、右にスヴィヤシュスク(イヴァン雷帝がカザン攻略の基地として、そのやや上流に短期間で出現させた町)、左にボルガールの町を描いた三幅対の絵が掛けてある。カザンという町は、ロシアとブルガール・タタールの間に、その交わりの上に立つ。それは理念であるとともに現実でもある。つまり、共生。この町の魅力のかなりの部分は、そこにある。

(2002)