カザンへ、カザンから(1)

タタールの都」といっても、カラコルムザナドゥのことではない。これから訪ねようとしているのは、ヴォルガのほとり、モスクワの東約900キロのところ、モスクワとウラル山脈のちょうど中程あたりにある人口百万ばかりの町、ロシア連邦タタールスタン共和国の首都カザンである。
カザンはその昔、金帳汗国(キプチャク汗国)から分かれてできたカザン汗国の首都であり、タタール人とはその臣民、テュルク語を話すイスラム教徒をヨーロッパ人やロシア人が呼んだ名である。
交易で栄えたこの町へは、いろいろな道が通じている。しかし、モンゴル西征軍の総大将バトゥのように南から、ステップから、反乱者プガチョフのように、漂民大黒屋光太夫のように東から、ウラルを越えてでなく、イワン雷帝のように西から、モスクワから来るのがよい。モスクワには「カザン」がたくさんあるからだ。モスクワとカザンは、深く絡み合った歴史を有する。赤の広場に聳えたつワシーリー聖堂は、クレムリンと並ぶこの町の代表的な建築で、九つのネギ坊主形の塔がめいめい勝手な様をなしてニョキニョキと聳え立つ、一見して忘れられない姿の教会である。この教会はイヴァン雷帝のカザン汗国攻略(1552)を記念して、1555−61年に建てられた。赤の広場にはまた、カザン聖母教会もある。ソ連時代に取り壊されたが、その崩壊後再建された。動乱時代の終わり、「カザンの聖母」イコンの写しがカザンからモスクワへ運び込まれ、1612年、聖画像を掲げるポジャルスキーの軍は、その加護あってかポーランドの占領軍を町から撃退することができた。この広場にはレーニン廟もある。彼はかつてカザン大学の学生だった。クレムリンの城壁西南隅のボロヴィツカヤ塔にも注意したい。カザンのクレムリンに聳えるスユンビケ塔と似たその形に。カザン方面への列車の出るその名もカザン駅は、サンクト・ペテルブルク方面へのレニングラード駅、シベリア鉄道の、日本から言えば終点にあたるヤロスラヴリ駅と、三つの駅が集まるコムソモール広場にあるが、三つともその名を負う町の特徴を表した造りになっている。カザン駅の場合は、スユンビケ塔を模した形の塔を載せている。カザンへの旅は、ここから始めよう。夜行列車で一晩の行程だ。


<カザン案内――伝説によって>
モスクワからやってくる列車はヴォルガに沿って走り、やがて川の中へさしかかる。カザンカ川である。今のヴォルガは、下流にクイビシェフ・ダムができたために河幅が大きく広がった。以前はカザンの旧市街から5キロ西を流れていて、したがって河港も離れていた。さらに昔は、このカザンカ川をさかのぼって舟を留めていたのである。そんな昔のもっと昔、モンゴル軍を率いる大将バトゥがこの川のほとりで狩りをしていたとき、今のクレムリンのある丘に休み、食事の支度をさせていた。大鍋(タタール語でカザン)に水を注いでいたら、誤ってひっくりかえし、大鍋はころがり落ちて川に沈み、その日バトゥと兵士たちは食事抜きで去らねばならなかった。そこから川の名はカザンカ、出来た町はカザンの名を得たというのが伝説の語るところである。
カザンカの川を渡るとき、左手に小さな島が見える。そこには上部を欠いたピラミッド形の建造物が立っている。一見してわかるとおり、これは廟だ。あるときカザンカ川の舟人が、堤防の水で崩れた場所から多数の人骨が現われているのを発見し、調査の結果カザン包囲戦で戦死した兵士の骨だということになって、1823年、ここに地下墓地を備えた墳墓形の礼拝堂が築かれた。のちカザンカの河道が変わったため、川中の島になった。帝政時代は毎年カザン攻略の日に、県知事はじめ町の有力者が参列して記念祭が営まれたという。
カザンの町からカザンカ川の対岸の丘の上に、ジラントフ修道院が望まれる。カザン攻略の際にはこの丘に陣地が置かれた。イヴァン雷帝は戦死者を埋葬した場所にウスペンスキー(聖母昇天)修道院を築かせたが、のちに修道院は山の上に移転し、ジラントフの通称で呼ばれている。この名はタタール語の「蛇(ジラン)の山(タウ)」から来ている。伝説によれば、今カザンの町のある一帯には大小さまざまな悪蛇がうようよしていた。中には蛇と牡牛の二つの頭をもった獰猛な蛇もいた。バトゥ汗(この伝説では彼がカザンの建設者になっている)はこの地に町を築こうと工事を始めたが、蛇どもはそれを妨げ、工事の人々を殺しては呑み込んでいた。困り切った汗のもとへ一人の呪術師の男が現われ、町となるべき土地を干し草や毒草で取り囲み、それに火をつけて蛇をすべて焼き殺した。ジラントフ山の洞窟にも翼のある巨大な竜が棲んでいて、毎日正午になるとカバン湖へ水を飲みに飛んで行った。そのとき人々は地にひれ伏していなければならなかった。さもないと竜に捉まえられ呑み込まれるのである。この竜も男に退治された。カザン市の紋章にはこのジラン竜が描かれる。この伝説は、竜退治で有名な聖ゲオルグとの連想で、ロシア人にとって東方征服の象徴となったらしい。モスクワのカザン駅のスユンビケ塔を模した塔の上や、ロシア人地区にあるケキン館と呼ばれる建物の風見もこの竜を形どっている。
クレムリンの白い城壁は、カザンカ川に面する小高い丘の上にある。クレムリンの丘はカザン汗国時代も汗の宮殿のあったところで、城砦カザンの起こりの地である。征服後、タタール人はここから追われ、ロシア人は自分たちの教会や宮殿を建てた。石作りの城壁もロシア人の建設である。1555年にはカザン大主教座が設置された。八つのミナレットがあったというクル・シャリフ・モスクの建っていたあたりに、金屋根の主塔のまわりを四つの青い丸屋根の囲む白いブラゴヴェシェンスキー(受胎告知)教会が建てられた。ことに冬の夜など幻想的で、いかにも美しい。しかし同じく美しかったであろうモスクの姿は、今は偲ぶすべもない。一説によれば、モスクワのワシーリー聖堂はこのモスクの印象から影響を受けているという。当否は知らぬが、赤の広場の聖堂の超絶的な独自性や、どこかアラビアン・ナイトを思わせるような東方的な印象から見ても、むげに斥けるべきではなかろうと思える。
カザンの町のシンボルになっているのが、隣に立つ高さ58メートルの通称「スユンビケ塔」である。カザンカの川面からは70メートル、単純に層を重ねた形ながら、天を指す赤茶色の鋭い尖塔は、たしかにこの町のランドマークだ。伝説によれば、スユンビケ女王の美貌はイヴァン4世を魅了し、雷帝は彼女に求婚した。にべもなく断られた彼はカザン征服の軍を起こす。包囲された町を救うために、スユンビケは求婚を受け入れるが、カザンの町のどのミナレットよりも高い塔を築いてくれたらと条件をつけた。七日後に完成したとき、女王はその上に登り、人々に別れを告げて塔から身を投げたという。実際のスユンビケ王妃は、汗国末期のジャン・アリ、サファ・ギレイ、シャー・アリの三人の汗の妃であり、1549−51年には幼い息子の摂政であった。1551年に退けられると、息子とともにモスクワへ行った。美しく有能な人であったらしく、さまざまな伝説が彼女をめぐって語られる。塔にもどれば、これはカザン汗国時代の建築だと一般に信じられていた。しかし実際には17世紀末/18世紀初頭に建てられたのではないかというのが専門家の説だ。これも汗国時代の建築でないとすると、その頃の建物は全く残っていないということになる。雷帝による征服がこの町の、そしてタタール人の歴史にとっていかに大きな出来事であったかが知れる。イスラムを奉じる汗国の首都はすっかり姿を消し、新たに正教のロシア人の都市が出現したのだ。けれども伝説は強い。カザン汗国時代の遺構を信じる人々は、塔の頂に新月の印を載せてしまった。むろんソ連崩壊後の話である。
この町を歩いていると、あちこちで魔法の数字「1552」に出くわす。町一番の繁華街、歩行者天国となっているバウマン通りの入り口には、水の妖精(スー・アナス)の像のある小さな泉がしつらえてある。伝説はこう語る。ムハメド・アミン汗にはとても美しく賢い妹がおり、呪術に長けていて、汗国の没落を予言した。その時が来ると、カバン湖に身を投げて、水の妖精になった。それからは夜になると湖を出て、町中をさまよい歩いた。クレムリンの丘に登り、汗の宮殿やモスクの廃墟にたたずんた。夏の夜には岩に腰かけ、黄金の櫛で髪をといていたという。
動乱時代のモスクワを解放した霊験あらたかな「カザンの聖母」イコンを祀る教会は、モスクワだけでなく、もう一つの首都サンクト・ペテルブルクのネフスキー通りにもある。ピョートル大帝は「カザンの聖母」への信仰篤く、新しい首都を建設するにあたり寝起きした有名な丸太小屋の隣に、礼拝堂を作って安置していたという。今の大聖堂は1801−11年に建立されたが、翌年ナポレオンによるロシア進攻を撃退することになるクトゥーゾフ将軍は、この聖母に勝利を祈願し、大勝を得た。フランス軍から奪った戦利品が寄進されており、将軍の墓も堂内にある。モスクワにもたらされたイコンは動乱時代を終結させたが、それとともにロマノフ王朝が成立したわけで、まさに王家の守り神のような存在だと言える。そして王朝を倒したロシア革命のあと、この大聖堂は「無神論博物館」に作りかえられていた。ロシア史の証人のごとき聖母像である。「カザンの聖母」のイコンが奇蹟的な出現をしたのは、1579年、カザンの町が大火に焼かれた時である。火を出した銃兵オヌーチンの家の10歳の娘マトロナの夢に聖母が何度も現われ、そのお告げのとおりに掘ってみると、焼け跡から聖母のイコンが出てきた。今描いたばかりのような鮮やかさだった。のちにこのイコンを祀る修道院が建てられ、マトロナはその初代の院長になった。聖母画像の発見は、カザン攻略からまだそれほど経っておらず、タタール人の反乱が相次いでいた緊張の時代に当たる。イスラムとの衝突の最前線で正教の側に起きた奇蹟であったわけである。修道院ロシア革命後に廃されたが、イコン自体はそれ以前、1904年に盗難にあっていた。敗北により王朝が揺らぐことになる日露戦争勃発の年である。
バウマン通りからクレムリン通りへ上がる道に、様式で言えばバロックになるのだろうが、飾りつけたお菓子のような不思議な色と装飾のペトロパヴロフスキー教会(1723−26)が立っている。ピョートル大帝のカザン来訪を記念して建てられたものだ。海軍になみなみならぬ熱意をもっていたピョートルは、この町に海軍工廠の設立を命じ、親しくカザンを訪れて視察もしている。カザンに海軍工廠とは、カスピ海から何キロあるというのだろう。イルクーツクには航海学校があった。島国的思考の人間には、内陸国の心意は測りがたいところがある。海軍工廠自体は1827年にアストラハンに移されたが、ジラント修道院の下、カザンカ川のほとりの一画は今もアドミラルテイ区と呼ばれている。
イヴァン雷帝といい、ピョートル大帝といい、この町に関わり深いロシア皇帝はこぞって大物だ。もう一人、やはり大帝と呼ばれ、ロシア史上に一期を画すエカテリーナ2世もこの町を訪問し、カザンとタタールの歴史に大きな足跡を残した。イスラムに理解をもっていたこの啓蒙専制君主は、居住や商業活動、宗教などにおけるムスリムに対するさまざまな抑圧的施策を解除した。石造モスクの建立も許可された。町のロシア人有力者は女帝に、「モスクの建設をお許しになりましたが、奴らはひどく高いものを作っておりますぞ」と注進した。彼女は、「私は建てるべき土地を指定しました。彼らは望むだけ高く作ってかまいません。空は私の領地ではありませんから」と答えたという。この地方のムスリムに敬愛されたのも当然である。
エカテリーナ2世は1767年にカザンを訪問したとき、ヴォルテールに宛てて、「あなたにどこかアジアの町からお手紙しますと脅かしていましたわね。私は約束を守りました。今アジアにおります。この町には二十もの異なった人種がいて、お互いにまったく似ていません。・・・この場所を離れるのは不可能です、見なければならない異った眺めがこんなにたくさんあるのです!」と手紙を書いた。ヨーロッパとアジアの間、というのがロシア人をはじめヨーロッパ人たちの一致して置くカザンの位置である。「顔を隠したタタールの女たち、頬骨の突き出たその夫たち、正教の教会と並んで建っているムスリム寺院− これらすべてがアジアと東方を思わせる。ウラジーミルやニージニイ・ノヴゴロドでは、モスクワに近いという感じが強いが、ここではモスクワからの遠さが感じられる」とは流刑の旅路のゲルツェンの印象である。
日本人として一言しておくならば、欧米人たちは自分本位に「ヨーロッパ大陸」なるものをでっちあげているが、ヨーロッパは文化概念であって、地理的概念ではない。彼らが勝手にそう決めたウラル山脈に、欧亜の境を示すオベリスクが立ってはいるけれど。だからどこまでがヨーロッパかという境界は判然とせず、むしろ流動している。たとえば「近東」には、バルカン半島も含まれる。19世紀末・20世紀初頭のバルカンのオスマン帝国領は、「近東」なのだ。ブルガリアのルセで生まれたカネッティの回想録には、そこではウィーンへ出かける人を「ヨーロッパへ行く」と言っていたとある。ではロシアはヨーロッパか、という問題も出てくる。エカテリーナ2世にとってはヨーロッパである。彼女のアジアは、ウラルよりずいぶん西のここカザンあたりから始まっていた。
今日ではカザンはヨーロッパの町としか見えない。なるほどモスク(メチェット)はいくつもあるが、ことごとく小さく、たいてい細長い矩形で、ミナレットもただ一つが聳えるのみ、中欧あたりのキリスト教会と見まがう造りである。メルジャーニー・モスクなどが典型だ。ミナレットは丸いし、よく見ると教会らしくないところがいろいろ目にとまり、最後に光塔の上に新月を認めて、ようやく気がつく。カザンらしさを深く感じるのはこのときだ。
しかしながら、クレムリンにはトルコ風のモスクが建設中である。最高の場所に、最大のモスクが作られる。モスクワによる征服ののち、クレムリンのモスクは打ち壊され、その後の長いロシアの支配下で、ここはモスクワ権力とロシア正教会の牙城であった。タタールスタン共和国の成立(1990)後、タタール人たちがここにモスクの再建を望むのは自然だが、トルコの援助によりトルコ様式のものが建てられる。汗国時代のモスクがどんな建物だったか資料がなくてわからない以上、いたしかたないとも言えるけれど、露骨にトルコ式では、いささか違和感のある眺めになることだろう。なお、カザンは2005年に千年祭を祝うことになっている。


<訪問者たち>
カザンは交通の要衝であり、政治的にも商業上も重要な都市であったから、さまざまな人々が往来した。上は皇帝の訪問から、下は無数のシベリア流刑囚まで。わが大黒屋光太夫も、18世紀後半、漂流の末たどり着いたロシアからなかなか帰国できないので、女帝に拝謁しその許しを願うため、首都へはるばる旅していったとき、この町も通過して、簡潔な情報を報告している。
「カザニ 人家二千四、五百、市街の光景頗ペートルボルクに似たり。街道の両傍に二十間隔に灯篭をたつ。此地より織出す白布、軽細にしてもつとも上品也。汗袗に造るに皆此地のものを用ゆるなり。又メーラ[石鹸]を出す。極めて精品なりとぞ」(「北槎聞略」)。 同じく極東からは、ピョートル大帝の治世、清朝からロシア領内のトルグート(カルムィク)族アユキ汗のもとへ派遣された使節が通った。
「カザン付近は平坦で、林はずっと遠くにあり、耕地の拓かれている所が多い。
カザン城は、木の柵で固められている。門が八つ。一面は二里余りで、周囲は八里余りある。城の門外にも人家があり、その外側にも、城を二重にとりまくようにして、逆茂木が立て並べてある。城中には市場があり、商店も開いている。煉瓦作りの天主堂が五座、木造のものも三座ある。ここに五千戸余り(の住民が)、みな大丸太を使った二階家を作って住んでいる。住民はロシア人、タタール人、チェレミス人、トゥルグート人である。
カザン県を支配する大臣グベルナトール(知事)にピョートル・サモイローヴィッチ (・サルトィコーフ)が任命されて支配している。小役人が十名近くおり、兵士は二千人近く駐屯させている。・・・
粳米、黍、大麦、小麦、蕎麦、燕麦、豌豆を産する。
小林檎、大林檎、檳子(ビンロウジ)、松の実、榛、胡桃、エビヅル、野苺、野葡萄、桜桃、山査子、唐梨、枸杞があり、蜂蜜もとれる。
蝶鮫、白魚、タナゴ、鯉、鮒、鮎、カモグチ、スチェルリャチという魚がいる。
チェレミスと呼ばれる人々は、容貌はタタールに似ていて頭も剃っているが、言葉は違う。また別の一部族である」(「異域録」)。
西欧からの旅人は、概してタタール人について好感をもって記している。一つにはおそらく、「タタール」という空恐ろしげな、野蛮人とほとんど同義の名称と、現実の彼ら、日本人などから見ればまさにかくあってしかるべき東洋人の美質を備えている彼らとの間の落差に驚いたため、必要以上に美点が感じられているということもあるかもしれない。そもそも「タタール」呼ばわりはヨーロッパ人の側から一方的にやっていることで、その名前とともに勝手な偏見まで断りもなく押しつけておいて、実際接したら大いに違うのに勝手に驚くというのなら、それは少々困った話だが。
18世紀半ば、天体観測のためシベリアを旅したフランスの天文学者によれば、「彼らは背が高く、頑健で、実にスタイルがいい。その表情は穏やかではあるが、それは彼らが独立不羈の、戦士たる民族であることを告げている」。「彼らはこの上なく大きな友情のしるしを身振りで示していた。その表情に漂っている無邪気さと穏やかさは、それが誠実なものであることを告げていた。・・・シベリアの人たちの家は不潔だが、それに比べれば彼らの家はずっと清潔だ。しかしほぼ同じような暮らし方をしている。マホメット教徒であるという点は別であるが」(シャップ「シベリア旅行記」)。
グリム兄弟の友人ハクストハウゼンは、19世紀のロシアを旅し、農村共同体ミールに注目し称揚したことで知られる。彼はその旅行記に、「タタール人の性格は愛すべきで、彼らは協調性があり、名誉を重んじ、親切で、信頼に満ち、規律があり、清潔である。ロシア人に対しては古くからの反感と大きな不信感をまだ持っているが、しかし行政府には忠実で従順である。異国人、とりわけドイツ人に対しては、打ち解けて、真心があり、よくもてなしてくれる。家庭生活は愛情に満ち、子供たちをとてもよくしつける。身の持ち方はだいたい道徳的である。モッラー(イスラム聖職者)はこれに関して厳しく目を光らせており、悪評高い犯罪の場合、正式な葬儀を拒否されてしまうにまで至る。それはタタール人が最も怖じ気をふるう罰である」と書いている。
時代が下るが、ウラルを越えたタタールスタンにも、カマ川沿いのエラブーガという小さな町に日本人抑留者の収容所があった。そこに収容されていたのは将校たちで、そのうちの一人、のちに大蔵事務次官を経て政治家になった相沢英之は、帰国後抑留生活を題材にいくつか小説を書いている。俘虜たちは糧秣受領のため、明らかにカザンと思われるヴォルガ川の河港で作業することがあった。「オストロフスキィ号の事務長」という短篇は、波止場で知り合った男に誘われ、通りがかりのトラックに便乗して、河港から少し離れたカザンの町へ出かける話である。
「トラックは坦々とした自動車道を走っていた。左手にはボルガ河に注ぐ小さな河が道に沿って流れ、黄昏の光にほの白く浮かんでいた。道の両側にはアカシアの並木が暮れ残った淡い星空を黒々と区切り、後ろへ後ろへと飛んでいた。
その並木道の先、右手の方に街が明るい灯を連ねて、横に長く伸び、左手の小高い丘には古い城壁が白々と高く聳えていた。
街に入ると右手に木立に包まれた公園があって、どこからともなくアコオディオンの音がゆるやかに流れていた。
トラックはショウウインドウの明るい電車通りを疾走して、百貨店のある十字路で停車した。ウニヴェル・マグと記したネオン・サインが血のにじむような赤い色で明滅していたが、五階建の窓々の灯は消えていた。
ポブレンコはトラックから元気良く飛び降りると、運転手に幾らかのルウブル紙幣を渡し百貨店に沿って歩き始めた。歩道は思ったより雑踏していた。由木と山口は人中に出るとどことなく気遅れがする捕虜の心理でポブレンコから二、三歩後ろを黙って歩いていた。
すると突然ポブレンコは振り返って立ち止まると、二人の間に割って入り、
「さあ、一緒に腕を組んで歩こう。」
と言う。二人がためらってまごまごしていると、由木の左腕、山口の右腕をぐっと抱えるようにして勢い良く歩き始めた。
「何も遠慮することなんかないじゃないか。君達は捕虜かもしれないが、みんな同じ人間なんだ。戦争はもう終った。君達も堂々と胸を張って歩いたら良いんだ。」
と自分で手本を示すようにぐっと痩せた胸を張って見せた。由木はふっと眼頭が熱くなるのを覚えたが、答えるように左腕に力を入れると大股で歩き出した」(相沢英之「タタァルの森から」)。
小説だから、実際にそんな体験があったのかどうかは知らない。ロシアという広い国は、ここタタールスタンもその好例だが、異民族がたくさんいる土地だから、民衆は面相の違いにとまどわない。かつ専制の長い歴史を有しているため、流刑囚を「不幸な人々」と見なし、彼らに同情を示す傾きを持っている。狭い島国の人間はときに面食らってしまう無頓着さ、こだわりのなさは、まま人間性の直截な発露として現われる。長谷川四郎の名作「シベリヤ物語」にそんな例をいくつも見たのを思い出してもよい。「大国」の民をめぐるひとつのエピソードである。


<カザン銅像地図>
銅像地理学、などというものを立ててみると面白い。それは通りすがりの者にも、その時代、その土地で、誰が敬愛されているか、誰が尊敬すべきとされているかを目に見える形で教えてくれる。
自由広場に聳えるのはレーニンの像だ。いろいろな町で彼の銅像は取り壊されたが、ゆかりの深いこの町では健在である。だがクレムリンからカザン大学の前へ続く「レーニン通り」の名は、「クレムリン通り」に変えられてしまった。この町には二つのレーニン像がある。大学の前に立つそれは、髪のふさふさした若いレーニン、学生時代のウリヤーノフである。この大学地区には、非ユークリッド幾何学の発見者でカザン大学学長でもあったロバチェフスキーの胸像もある。
髪のないほう、われわれに馴染みのあるほうのウラジーミル・イリイチが立っている広場は、昔は劇場広場と呼ばれた。帝政時代、そこには古典主義の詩人デルジャーヴィン(1743−1816)の座像があった。彼はカザン近郊の生まれである。レーニン像が向き合っているオペラ・バレエ劇場の右脇壁の窪みにはプーシキン、左脇壁にはタタールの詩人ガブドゥラ・トゥカイの像がある。プーシキンは言うまでもなくロシアで最も尊敬されている詩人で、像の前の通りの名もプーシキン通りである。彼は「プガチョフ叛乱史」の資料を集めるために旅行したとき、三日ほどカザンにも滞在したことがある。自由広場からカザンカ川の岸の高台に出ると、小さな公園があり、そこにカール・フックス(1776−1846)の、シルクハットと杖を手に持った、ビーダーマイヤー風の服装の親しみのある銅像が立っている。フックスはドイツ生まれの医師で、カザン大学教授であった。ロバチェフスキーとも親交があった。彼はタタール人を愛し、タタール人からも敬愛を受けており、家もタタール人地区に構えていた。イスラム教徒の女性が診察を許した初めてのキリスト教徒の男性医師である。彼の旧居には、「この家で1833年9月7日A.S.プーシキンはカザン大学教授K.F.フックスと会見した」という碑板が掲げてある。一見すると、三日しか居なかったプーシキンの、それも滞在したわけではなく訪問した程度の場所まで顕彰するのかと、その崇拝ぶりに驚くが、実はそれはプーシキン崇拝ではなく(むろんそれもあるが)、カザンの外では全く知られていないフックスという人が、プーシキンが会いにくるほどの人物であったことを示したいのである。微笑ましいローカリズムだ。彼はタタール女性の結婚式を覗いたおそらく初めての異教徒の男でもある。イスラム教徒の間では、男と女は別々の部屋でお祝いをする。男のほうは名士のフックス氏もちろん参加できる。だが女性の部屋はそうはいかぬ。けれど、ある名家のタタール婦人を治療し、たいへん感謝されて、何をお礼にいたしましょうと聞かれたとき、先生、「実は」と希望を述べた。さすがにしきたりに反することで、正面からはならぬが、こっそりカーテンの陰に隠してくれ、そこから覗くことができたそうだ。
プーシキン通りをバウマン通りのほうへ歩いていくと、左手の丘の上に大きな銅像が見える。これはヴァヒトフ、その大きさと右手をやや開いて前に進みでる姿から見てとれるとおり、革命時の指導者で、その最中に斃れた「革命英雄」である。その通りをもう少しカバン湖岸のほうへ進むと、左に小さな公園があり、その真ん中に早逝の詩人トゥカイ像がある。レーニンのように、彼にも二つの銅像が捧げられている。バウマン通りの教会の高く聳える鐘楼の横には、輝くシャリャーピンの像がオペラ俳優らしいポーズをとっている。これとフックス像は新しい建立である。若い頃カザンに暮らした文豪トルストイの胸像は、彼の住んでいた家の横の公園にひっそりと立っている。クレムリンの入り口スパスキー塔広場(5月1日広場)という一等地には、「ファシスト」の犠牲者、ベルリンのモアビット監獄で処刑されたタタール詩人ムサ・ジャリル(1906−44)を記念する囚われの勇士の像がある。獄中の詩作「モアービト・ノート」で知られる。ここには革命前、アレクサンドル2世皇帝の銅像が立っていた。


<カザン大学>
若きレーニン銅像が向かい立つカザン大学は、堂々たる柱廊を構えた白亜の建物である。1804年に創立された、ロシアでは古い名門大学だ。
ゲルツェンは「僻地の手紙」(1836)の中で、この大学の意義をこう書いている。
ピョートル大帝が予見したように、もしロシヤが西欧をアジアにもたらし、東洋をヨーロッパに紹介する使命をになっているとすれば、カザンはヨーロッパ思想をアジアに、アジア的性格をヨーロッパにもたらす道路の要衝である。カザン大学はこの意義を理解している。もしカザン大学が自己の使命をただヨーロッパ的学問の普及のみにかぎるならば、その意義は二流のものとしてとどまるだろう。カザン大学はドイツの大学のみならず、モスクワ、ペテルブルグ両大学にすら追いつくことができないだろう。だが現在カザン大学はその発生地に由来する独自の位置をしめることで、彼らと並び立っている。大学の講壇ではひろく東方文学の授業がおこなわれ、しばしばアジア学が講義されている。大学の博物館には、ヨーロッパのものよりは支那満州チベットの衣裳、文献、遺物、貨幣のほうが多く陳列されている」。
1837年から44年の間ここに暮らしたイギリス人の画家エドワード・ターネレリも、東洋語の研究について、「教育のこの分野に関しては、実際この町の大学ほどに、こんなに大きな利点を学生に提供できる施設は世界にない。・・・他のヨーロッパの諸大学に欠けているもの− これらの言葉や方言の実際的な勉強のための比類のない機会がここにはある。カザンの町は、世界でただひとつ、ペルシア人トルコ人、モンゴル人、タルタル人、アルメニア人等々をふつうに見かけるところに大学をもっている。この環境のおかげで、アジアの諸言語を学ぶコースを取った学生には、自分の習っている言葉を話す国で勉強するのと同じ利点がある。実際的な練習や会話の機会が不断にあり、生れながらの東方人と日々直に接することになる。通りで、公共の場所で、散歩の途中で、いつでも彼らに出会えるのだ」と、その有利な点を強調している。ラシード・ウッディーンの「集史」写本が、タタール人の家のトランクから発見されたりする土地なのである。東洋学部はこの大学の看板のひとつであったが、1855年サンクト・ペテルブルク大学に移転してしまい、ロシアの東洋学の中心はペテルブルクに移った。
ここに学んだ最も有名な人物は、トルストイレーニンである。そして両者とも学業を全うできず、退学している。そこは若いゴーリキーが勉学の望みをもってやってきた大学でもあった。「こうして――私はカザン大学に学びにゆく、それ以下のことをしにゆくのではない」(「私の大学」)。しかしそれは果たせなかった。こんなすぐれた人たちを卒業生に持てなかった不幸な大学と言っていいだろうか。
レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(1828−1910)は、2歳のとき母を、9歳で父を亡くし、その後1841年、16歳のときにカザンに住む叔母ユシコヴァ夫人のもとにやって来た。1844年、カザン大学東洋語学部に入学する。しかし翌年試験に落第し、法学部に転じたが、1846年にヤースナヤ・ポリャーナの領地を相続すると、その翌年にはそこもやめてしまう。真面目に勉強しなかったからだけれど、才能がなかったはずはない。大学という「国家に役立つ人材」養成機関に収まる才能でなかったということだろう。自伝的小説「青年時代」の主人公ニコーレンカはモスクワ大学に学んでいるということになっているが、そこにはカザンの学生時代の経験が映されているに違いない。6年にわたるカザン時代は、文豪の思春期から青年前期に当たるのだが、ここで暮らした日々の狭いサークルでの交際や内的生活は彼の人格形成に大きな影響を与えたにせよ、外的環境はそうではなかった。ロシア地方都市の貴族の生活は、等質的で完結したものだったということだ。彼の伝記中、カザンの名は義務的にそこに記されているだけで、別の町の名と問題なく入れ換え可能である。同じような年頃をここで過ごしたもう一人の文豪、貧しい青年として外的環境と格闘したゴーリキーとはそこが違う。カザンの人たちもそれを知っているのであろう、前者は形式的に記念しているだけで、後者には博物館を捧げている。トルストイの「舞踏会の後」という短篇小説は、舞踏会で若く美しい令嬢を見初めた主人公が、その心の高ぶりを抑えられないまま、眠りにつけずさまよい出た早朝の町はずれで、タタール人の脱走兵が残酷に笞打たれるのに遭遇し、それを命じている令嬢の父親の大佐を見て、恋を失うという話である。ここには19世紀ロシアの風景とともに、カザンの風景がわずかに見られる。
ユークリッド幾何学創始者として名高いニコライ・イヴァノヴィチ・ロバチェフスキー(1793−1856)は、終生カザン大学とともにあった。ここの教授であり、長く学長も勤めた。生まれはニジニ・ノヴゴロドだが、早くに父をなくし、優秀だったため給費生となり、9歳のときからカザンの寄宿舎で暮らした。創立間もないカザン大学で、大数学者ガウスの師でもあったバルテルスに数学を学び、その才能を開花させた。非ユークリッド幾何学は、ほぼ同時期に、トランシルヴァニアのボヤイ・ヤーノシュとここヴォルガ河畔のロバチェフスキーによって、ヨーロッパ辺境の二人によって証明されている。そこに数学の美しさを感じる。完備した施設や大きな資力を必要とせず、紙と鉛筆と優秀な頭脳がありさえすれば、すぐれた観察力と没頭できる天才は素晴らしい発見をなしとげる。ロバチェフスキーは「何か数学の問題に心を奪われると、彼は周囲のことに一切気がつかなかった。このようなとき部屋の中を歩いていて壁にぶつかると、その前に立ち止まって、いつまでも額で壁に寄りかかったまま身動きもしなかった」。今日のわれわれは彼を非ユークリッド幾何学と結びつけてのみ記憶するが、当時の人々にとっては、まずすぐれた教育者・教授であり、ほとんど創立者に等しい功労ある学長であったので、その「奇行」、1826年に誰にも理解されることなく学術講演会で披露して以来、たゆみなく続けられた「仮想幾何学」の研究については、慎みをもって見ぬふりをしてあげていた。孤独のうちに死んだもう一人の発見者ボヤイと比べれば、それもたいへんな幸福ではあった。
言語学に「カザン学派」というものがある。構造主義の先駆者ボードアン・ド・クルトネ(1845−1929)は、1875−83年の間カザン大学で教鞭を取っていた。彼はポーランドの生まれで、はるかな先祖にはその昔の十字軍戦士、エルサレムに十字軍の建てた王国のボードワン王がいた。カザンの警察にうるさく出自や縁故を聞かれ、うんざりした教授は、「I.A.ボードアン・ド・クルトネエルサレムの王」と記した名刺を注文したそうだ。「カザン学派」というのは、ボードアン・ド・クルトネとクルシェフスキら彼の弟子たちを指す。のちにソシュールによって明瞭な形で提示されるラングとパロール、言語の共時態と通時態、音素などの言語学概念の多くは、ボードアンが先駆的に考察していたのである。彼の弟子の一人ブリチは、「その学問にそそぐ激しい情熱、みずから一心不乱となり他人をも自己の範にならわせて夢中にさせてしまう能力。この特徴もやはりまた、天分の豊かさを証すものであり、それによって、はるかなるカザン大学の、聴講生にも数を欠く文学部において、比較的短期間のあいだに、ボードアンをかこんで・・・若き学者たちの自立した完全な一学派が誕生しえた理由も、説明がつくのである。・・・それはなんとまばゆく、若々しく、活動と科学的夢想に沸きたった時代であったことであろうか! そこにはなんと多くの生と、私心なき情熱と、ひたむきな理想主義があったことであろうか!」と回想している。