ヘルマンシュタット

この国を訪れたら、街角で耳をすませてみよう。トランシルヴァニアの町には、それぞれ異なる音色がある。三つの異なる言葉を話す三つの異なる民族が、一緒に暮らしているからだ。地域によって町によって、その三つの民族の割合が異なる。三つとは、ルーマニア人、ハンガリー人、そしてトランシルヴァニア・ザクセン人と呼ばれるドイツ人。このザクセン人たちは、チャウシェスク独裁体制の時代から、とりわけあの「革命」のあと、大挙して国を去りドイツへ移住していってしまい、もうほんのわずかしか残っていない。戦前には25万人を数えたが、現在はせいぜい2万人かそれ以下だ。独特の「町の音色」は壊れてしまった。けれど耳に聞こえにくくなったとしても、目に見える音色として、それは建物や人々の仕草にも現われる。
三つの言葉。トランシルヴァニアのたいていの町には、だから三つの名前がある。この町のルーマニア名はシビウ、ハンガリー名はセベン(ナジセベンとも)、そしてヘルマンシュタットがドイツ名である。ルーマニア名、ハンガリー名は町を流れるツィビン川から来ている。ドイツ語名は、ヘルマンの町。これは中世にニュルンベルクから来た移民の統率者で、町を築いた人物だとされている。
ヘルマンシュタットの起こりについては、こんな伝説がある。
ザクセン人たちがトランシルヴァニアに来たとき、一人の牧人が頭領たちの前に進み出て、一頭の野牛の皮で囲めるだけの土地がほしいと願い出た。それだけならばよかろうと許した。牧人は下がり、皮を細い紐に裂いて、それでもって今日のヘルマンシュタットの町の広がるだけの土地を囲みこんだ。そして頭領たちが土地を見分にきたところ、男の知恵に感心し、その土地が町を築くのに好適だったので、その測り取りを認めた。その後間もなくヘルマンが丘の上の町の部分を壁で取り囲み、それまでタルメシュ(タルマチュウ)に住んでいた人々がやってきて、新しい居住地の建設を手伝った。
この出来事を記念して、ヘルマンシュタットの泉のひとつは今でも豚飼いの泉と呼ばれている」(ミュラートランシルヴァニアの伝説」377)。
ヘルマンシュタットはザクセン人たちの「首都」であった。ザクセン人が「町」と言えば、それはヘルマンシュタットのことである。現在の人口17万人のうち、わずかに2千人ほどしかドイツ人がいないとしても(1925年には45000人中23000人で過半数、それ以前なら圧倒的大多数がザクセン人だった)、町を築き、守り、暮らしつづけてきた人々に、ついこのあいだまでの歴史に敬意を表して、消え失せつつある主たちの気配を感じながら旅することにしよう。


あなたが鉄道で到着したとしよう。駅の前にはめぼしい建物がなく、妙な形の広場が広がっているばかり。町の中心へと導くはずのマゲル通りも十七万都市らしからぬ狭さで、いささか心細くなるかもしれない。たが大丈夫、上り道の前方にやがて福音派教会のすっくとした塔が姿を見せる。道は間違っていなかった。安心して登っていくあなたは、しかし目にはっきり見えるあの美しい塔になかなか近づけない。しばらく行くと、無造作にただっぴろい石畳の広場に出る。右手に市参事会の塔(時計塔)とバロック式のカトリック教会の塔が見える。あの塔はその裏手にあるようだ。市参事会塔の下(カトリック教会の塔の下でもいいが)を潜っていくと、そこにはまた広場がある。教会はその家並みの後ろにあるらしいのだが、通じる道はどこにあるのだろう。広場からは下町へ下りるかなりの勾配の道がついており、その上を歩行者用の橋がまたいでいる。広場の右端にあるちょっと面白い建物の展示館をちらと眺めてから、その橋(嘘の橋という名前らしい)を渡ると、やれやれ、やっと目指す教会にたどりつく。三重の壁に取り囲まれたその奥に、町一番の威容の教会がひっそりと鎮座している。他意はないらしい。そもそもこの丘と川の間に広がる下町と、丘の上のこの部分に、一等初めに町が築かれた。教会を囲む家並みが最初の城壁だったわけだ。それがしだいに拡張して、市参事会塔やカトリック教会のあるところに第二の城壁が築かれ、さらに丘の上の全体が囲いこまれる城壁が築かれるに至った。そんな町を発展を示す遺構であるに過ぎないらしいが、訪問者は、薔薇の花弁のように幾重にもめぐらされた防壁の内奥に静かに佇む教会に、この町の人々のメンタリティのあり方を思わないわけにはいかない。それは閉鎖的、と一言で片付けることもできるが、一言ですますこともあるまい。
教会のまわりはフエト広場、それを取り囲む最初の広場はドイツ語で小リング(ルーマニア語で小広場)、その外の、はじめにマゲル通りから出てきた広場を大リング(同大広場)と呼ぶ。市壁の跡がリングと呼ばれるのはウィーンと同じで、町の成り立ちを表している。では町をぶらぶら歩いてみようか。なに、人間的な大きさの町のことだ。地図なしでさまよい歩くのがいい。狭いものだ、迷ったって大事ない。
ルター派教会(1322−1520年建築のゴチック式)のまわりは、もはや絶対的少数派になってしまったザクセン人たちの最後の砦のようなものだ。福音派司教座やドイツ語で授業を行なうドイツ人高校(生徒の大半はルーマニア人だが)がある。教会の周辺からは、家の下を潜り抜ける階段や、石垣に沿った歩道が下町へ下りていく。立体的な造りの町である。大リングの広場中央には出来の悪い像があるが、そこには1989年「革命」の犠牲者たちの名前が刻まれている。シビウは独裁者チャウシェスクの息子の支配下にあったため、激しい銃撃戦が行なわれ、多くの死者が出た。大リングから商店の並ぶバルチェスク通りが出ていて、その中程あたりに町一番の宿ローマ皇帝ホテルがある。この通りはホテル・ブールヴァールの前の統一広場へ続くのだが、通りの尽きるところを左に折れてまわりこむように行くと、市の城壁の残りと弩師の塔、焼物師の塔、指物師の塔が並んでいる裏へ出る。時代とともに教会のまわりを幾重にも取り囲むように広がった市壁の、これが最後の線である。中世都市の例のとおり、町の防衛は市民の義務で、手工業組合ごとに塔に拠って戦うきまりであって、だから塔には組合の職種の名前がついている。市民生活は組合単位だった。昔この町には剣の踊りというものがあったが、これも毛皮加工師の組合の特権とされていた。彼らはその昔トルコとの戦いで武功を立て、血路を開いてザクセン伯(ザクセン人の長)を救出した、よって祝いごと、わけても新しいザクセン伯の選出に際して、剣の踊りを披露する名誉の権利を得たと伝える。
大リングにはブルケンタール美術館がある。十八世紀、マリア・テレジア時代のトランシルヴァニア総督だったサムエル・フォン・ブルケンタールの収集品を基に作られたもので、ルーマニアのみならず南東欧でも最古の博物館のひとつである。フランドルやドイツの絵に佳品がある。しかし戦後、ヤン・ファン・アイクの作品を初めとする収蔵物のうちの最も価値のあるものを、ブカレストに収奪された。美術館の前から下町へ行く道の左には昔の市庁舎の建物があって、今は歴史博物館になっている。その手前を曲がる道を左に行くと、1906年に建てられたルーマニア正教の府主教座教会がある。
博物館で言うならば、ここにはそのほか自然史博物館や世界民族博物館、薬局博物館など、また郊外に野外博物館(農村技術博物館)と、たいていの種類がそろっている。トランシルヴァニアの中心都市のひとつとは言えるけれど、パリをヨーロッパの首都と考えれば、ハンガリーにもせよルーマニアにせよ遠い遠い僻陬の国、その国の中でも首都から見れば遠く離れた僻遠の地、中近世には栄えたといっても、十九・二十世紀にはただの地方の中小都市に成り下がってしまっている、何重にもローカルな場所ではないか。けれど美術や自然史や世界の民族等々、見つめているのはユニヴァーサルだ。決して土地出身の誰も知らぬ作家や、ごくごく狭い郷土の誇り的なトリヴァアルな分野などではない。こんな点に、まぎれもない「ヨーロッパ」の都市を感じる。そもそも西欧の有名な大博物館というのは、王国や帝国が権力と財力にものをいわせて掻き集めたコレクションである。中小都市の貴族や市民が自分の手の届く範囲で収集し、そののち市に寄贈したものなど、それらよりずっとずっと劣るはずだ。そう思って眺めれば、収集者の間の落差と収集品のそれとの割合の小ささに、これらの品々を集めた人々の普遍への希求の度合いを感じ取ることができる。エジプトのミイラだってあるのだもの。これら世界大の中小博物館は、ヘルマンシュタット市民の面目だ。
南郊にある野外博物館は、一九六七年の開館だからごく新しいが、農村に伝わる技術を主題に、村の建物を広い敷地に移築してできている。風車や水車ばかり集めた一画や、葡萄絞りの作業場、鍛冶屋、陶工など村の職人の家等々が集められ、疲れたら居酒屋もあるし、散策にまことに好適、社会主義ルーマニアの残した最良の遺産のひとつと言える。
世界民族博物館は、正式にはその上に「フランツ・ビンダー(1820−75)」の名が冠せられている。彼はこの町の近く、セベシュ(ミュールバッハ)生まれの商人で、エジプトからナイルを遡って奥地と交易し、富を築いた。彼の集めたアフリカの民族学資料はのち博物館に寄贈され、その収集品の重要な部分をなした。また植物学的な採集も行ない、彼の名がつけられている植物が三つあるという。1862年に帰国したが、連れてきたお供の黒人の姿は、眠ったような田舎町に暮らしている人々の目を驚かせた。トゥルダ峡谷の洞窟にはダリウス王の財宝が埋められているという伝説がある。彼はその伝説を信じ、発掘を試みた。トロイアの発掘(1870年に始まる)で有名なシュリーマン(1822−90)の同時代人だったことを思い出させる。なりそこねたシュリーマンである。
町の南西12キロのところに、ラシナリという美しい村がある。ここは特異な思想家エミール・シオランルーマニア語読みでチョラーン)の生地だ。極めてエキセントリックだが、その鋭い言説は物事の核心を抉っている。彼の「歴史とユートピア」は、トランシルヴァニアおよび東欧を理解したいと願う者は必ず読まねばならぬ、と思う。しかしそれは苦行かもしれない。毒の強い文体と、それによってイロニイのうちに暴かれる受け入れがたい「真実」は、万人向きではない。孤絶と呪咀の亡命思想家、パリに住むバルカンのドストエフスキーである。彼の「核心」ではない部分のレトリック、ルーマニア語ハンガリー語の特徴を的確に示してみせた文章を引いてみよう。トランシルヴァニアが血肉となっている人であることがわかるだろう。「ルーマニア語のあの涼やかな香り、またその腐臭、太陽と牛の糞のみごとに溶けあった、郷愁をそそるあの不体裁、あの壮麗なだらしなさ・・・」「極端に兇暴な彼らの国語――ある種のみじんも人間臭のない美にあふれ、別世界の響きと強大な腐蝕性を持ち、祈りや咆哮や哀訴にこそ適した国語・・・ハンガリア語といえば呪咀のことばしか知りませんが、私は極端にこの国語が好きなのです。・・・それは私を呪縛し、私を凍らせます」等々(「歴史とユートピア出口裕弘訳、紀伊国屋書店)。愛憎ただならぬ。


さて一応の散策を終えたら、大リング広場にもどり、鈍く古びたあたりの眺めをいっぱいに吸い込んで、心を放ち、目に見えぬものを見る練習をしてみよう。
 この町を作ったのは巨人どもだったという。彼らはそのうちに死に絶えたが、最後の一人の姿をフッターの家の壁に見ることができるのだと。彼らはあの福音派教会も建てたのだそうな。教会はそんな昔からあり、巨人どもは福音派信徒だったわけか。
あのファウスト博士が昔この町に来たことがあるそうだ。あるとき騎士の姿で石の球を持って現われ、大リングで九柱戯(ボウリングのような遊び)をした。見れば転がる球は人の首だったが、止まればもとの石の球だった。またあるときは牧師の姿で教会の屋根の上を散歩して、集まった人々の驚きをよそに、塔の天辺で逆立ちまでした。当の牧師が出てきて見上げると、博士はその上から飛び降り、驚いた群衆が逃げまどうと、地に降り立ったのは燃える眼をした黒猫で、さっと姿をくらました。またまたあるときは家畜市の立つ日に、突然太鼓の音に続いて堂々たる軍楽隊の音楽が響き渡り、一個連隊の兵士たちが行進してきた。驚きあきれる人々の目の前で、軍楽隊の指揮官がさっと合図をすると、メー、モー、ヒヒーン、鳴き声のとおりの羊や牛や馬どもがいるばかり。また建築師というふれこみで、教会を取り壊して七週間のうちにもっと大きく美しいものを建ててみせると言ったり、ムレシュ川を町の近くまで引いてきてやろうと言ったり。ファウストは無数の悪魔を供に連れて、つむじ風のように旅をしていた。彼の前も後ろも漆黒の闇で、彼の馬車の行く道は、進んでゆく先に悪魔どもが敷石を敷いていったという。
戦乱の時代、この町は裏切りによってトランシルヴァニア侯バートリ・ガーボルの手に落ちた。侯は愛人の勧めを容れ、ある期日をもって兵士はそれぞれ自分の宿所としている家の主人を殺すよう、隊長に命令を下した。しかし真夜中にこの隊長は、東の夜空に燃える二個の軍団が合戦するさま、南に炎の竜が顎を開いているさまを見、恐ろしくなって侯に罪なき者の殺戮をやめるよう進言し、町は救われたと伝える。
この町のある薬局には扉があり、そこには四本の髪の毛に四個の石臼がぶらさがっている。その下を敢えて進んでいく勇気のある者は、スピリトゥス(これを持つ者は金持ちになれるが、死ぬまでに手放すことができないと地獄堕ちになるという「生き物」)という霊物を得ることができるそうだ。この店の主人は、伝説を聞き知って、譲ってくれと申し込む人々にずっと煩わされていたらしい。薬局は一種神秘の場所である。
ルーマニア人は、「ショロモナール」という風術師の学校がどこか山奥にあり、そこでは悪魔が自然の秘密や動物の言葉、さまざまな呪文などを十人の生徒に教える。そのうち九人は家に帰され、残された一人がイスメユ竜にうち乗って、悪魔に左袒し悪天候や雷を引き起こす、と伝えている。ヘルマンシュタットの南の山中に、小さくて底なしの深い湖があり、そこは雷の起こる場所とされている。よい天気の時は、竜がその底で眠っているのだ。だから石を投げてはならない。さもないと竜が目をさまして嵐を巻きおこすだろう。岸辺に見える多くの積み石は、事実雷に打たれて死んだ者の数多かったことを物語っている。正午に敢えてここへやってくるルーマニア人はいない。真昼の静謐が支配するのみだ(ジェラード「トランシルヴァニアの迷信」)。
シビウには「ジプシーの王」もいた。どうして作った金か知らぬが、いたく富豪の男で、その地位を自称し戴冠式も行なっていたけれど、彼の死後その称号も相続されたのかどうかは寡聞にして知らない。そのようなことは別にしても、ジプシーはトランシルヴァニアの不可欠の構成員である。日常そこここで見かけるが、彼らがもっとも精彩を放つのは、人々の雑踏する市場や定期市(この町では、たとえば毎年大リングで陶器市が開かれる)の場である。人目に立つ黒いツバ広の帽子、色鮮やかなスカーフや長スカートの裾をひるがえして、傍若無人の声で木工細工や金物を売り付ける。彼らは腕のよい木彫りの職人や鍛冶屋でもあるのだ。この町のものではないが、ある伝説は、ジプシーの鍛冶屋の弟子になった救世主のことを語る。炭を焼くのに自分のマントの上で焼き、同じマントを引き抜いて火を消した、馬に蹄鉄を打つのに、まず斧で脚を切り落とし、蹄鉄を打ちおえてからまた取り付けたなどという話の主人公は、姿を変じた救世主、つまりキリストとされているが、不思議の念の対象はむしろジプシーであったろうと思える。
現代のジプシーの鍛冶屋の仕事ぶりはこうだ。「彼はよくこういっていた。おれは鉄を扱うときはダンスをする――チャールダーシュかドイツ風マーチだ。銅をやるときは、もっとフランス風のやつだなって。それからもっと大きなものを扱うとき− たとえば大鍋とか、二人必要なときはワルツだ。彼はリズムに合わせて金属をトントンと打ったもんだよ。仕事をするにはビートがなくちゃといって。それはただの金属ではなくて、オブジェでもあったんだ。蹄鉄のときはいつもチャールダーシュだった」(フォンセーカ「立ったまま埋めてくれ」、青土社)。仕上がりが多少荒くとも、そのように作られたものには魂がこもっているにちがいない。


驚異と不思議はあちらこちらに転がっているものだ。路傍の石につまづくたびに、謎と神秘がその眼をちろりとのぞかせる。ヘルマンシュタットはそんな町ではないと思う人は、そんなではない町を眺めるだけのこと。胸騒ぎを覚える人は、覚えるままのことさ。

(2000.6.)


   ザクセン人の童謡 


  チューカ、マルカ!
  白樺の木へ飛んでゆけ
  来ないかよおく見張るんだ
  槍をかついだトルコ人
  カッコウ鳥は首を吊る
  森は火事 森は火事
  狐が尻尾を焦がしたぞ