龍の文明圏

 龍/ドラゴンは想像上の動物であって、巨大爬虫類、だいたいは大きな蛇で、脚があり、翼はあることもないこともあるが、空を駆けるというところが特徴である。水との関りが深い。キメラ(ライオンの頭、ヤギの胴、ヘビの尾から成る)のごとき合成怪物で、中国の龍は九似が言われる。『爾雅翼』によると、「龍の角は鹿に似たり、頭は駝に似たり、眼は鬼に似たり、項は蛇に似たり、腹は蜃に似たり、鱗は鯉に似たり、爪は鷹に似たり、掌は虎に似たり、耳は牛に似たり」という(諸橋徹次『十二支物語』、大修館書店、一九六八、九七頁)。また、「玉を愛し燕の肉を嗜んで食べるということで、嫌いなものは、鉄と蜈蚣と、楝の葉と五色の糸」だそうだ(同前、一〇一頁)。大蛇に最もよく似るが、『王書』で「お前はたかが鰐ではないか」と罵られるように鰐にも似ていて、インドネシアのコモド島のオオトカゲがコモドドラゴンと呼ばれるように蜥蜴にも似る。

 南方熊楠が「竜は今日も多少実在する鱷等の虚張談に、蛇崇拝の余波や竜巻、地陥り等、諸天象、地妖に対する恐怖や、過去世動物の化石の誤察等を堆み重ねて発達した想像動物なりと言うを正しと惟う」(『十二支考』一、平凡社、一九七二、一九八頁)と言っているのが当たっているだろうけれど、それはいわば経験則的(「自然科学的」)な推定で、「社会科学的」には、「龍とは政治化された蛇である」(荒川紘『龍の起源』、紀伊国屋書店、一九九六、一一一頁)と言える。「階級発生以前の民族のいずれにもドラゴンは存在しない。存在するのは巨大な蛇であり(たとえばオーストラリア)、幻想的な色合いをもつ大蛇にまつわる観念であって、ドラゴンのような雑種的な存在は見られない。(…)複数の動物が組み合わさってできた動物の萌芽はもっと早くにたとえばメキシコやエスキモーに見られるとはいえ、ドラゴンというこの空想上の動物は、人間が動物との親密で有機的な結びつきを失いはじめた後世の文化的産物であり、都市文化の産物とさえいえる。このような存在はエジプト、バビロニア、古代インド、ギリシア、中国といった古代国家において全盛期を迎え、そこでは大蛇が国家を象徴するものとして紋章にまで姿を見せている。反対に、ほんとうに原始的な民族にはそれは存在しない」(プロップ『魔法昔話の起源』、せりか書房、一九八八、二四九頁以下)。

 東の龍に対して、西にはドラゴンがいる。このふたつはよく似ていて、西洋語の「ドラゴン」を漢語に訳せば「龍」となり、漢語の「龍」を西洋語に訳せば「ドラゴン」になるという関係だ。角や髭があるのは東方の特徴で、西方では毒を吐いたり火を吐いたりする。ドラゴンは人に害をなす悪の存在で、聖ゲオルギウスの竜退治に代表されるように英雄に退治されるべきものであるのに対し、東方の龍は、荒れ狂うこともあるが、むしろ善で、神聖なものであり帝王の象徴であって、怖れられても決して否定されるべきものではない。インドのナーガは神的なコブラであり、これも仏典で龍王と訳される。龍にはこのような翻訳による混乱がかなりある。

 それぞれの文明国が他国他文化の大蛇怪蛇を「竜」と書くのは困りものだ。大蛇怪蛇と龍は違うのであって、日本人は八岐大蛇を龍としないのに、他文明の七岐コブラであるナーガは龍王となる。ヴェーダの神話中、「七河を解放して流れしめ」るため、インドラが金剛杵で退治したヴリトラは、「足なく手なき」「蛇族の初生児」であるから明らかに蛇形の怪物だが、しばしば「悪竜」とされる。そのように比喩的に拡大することなく、たとえば新大陸のケツァルコアトルなどを無造作に「竜」とすることなく、名称を単位に追っていくのがよい。「竜」は現実には存在しなくても、それを伝承する人々にとっては具体的な「実在」なのであるから。他国の水妖について、河童に似ているところがあるからといって「どこそこの河童」などと言うのは、比喩にすぎないとすぐわかる。しかし、竜については他種多種の同一視が許容されているのだ。「竜」と等置できるかどうかわからぬものは、怪物なり怪獣なり怪蛇なり、抽象的な名称で呼ぶのがよくて、せいぜい竜蛇ぐらいにとどめておくべきだ。ナーガのようにすでに「龍王」という訳語が確固としている場合はやむをえないが。

 東と西、中華文明圏と西欧文明圏の龍/ドラゴンについてはよく知られているので、ここではその中間地帯の竜を見ていくことにする。それはいわゆるシルクロード地帯と重なる。

 

 中国の龍は新石器時代からある。少なくとも前五千年紀の仰韶文化ではその形跡が確認できる。「甲骨文字の「龍」が象るのは、頭上に茸形の角を戴き、口を開いた頭をもち、S字形にくねった身体をもつもの」(林巳奈夫『龍の話』、中公新書、一九九三、七五頁)であり、そのような特徴のあるものとして認識される。

 東方はすべて中国の龍の影響下にある。日本がそうだし、チベットブータンの龍もまったく中国式だ。ブータンの国旗には龍が描かれている。「住民たちは、自分らのことをチベット文語体でドルック・パと書く。発音はドッパまたはルッパである。ドルックは竜とかいなづま(電光)の意味なので、ブータンを竜国とも書く」(中尾佐助『秘境ブータン』、社会思想社、一九七一、二五九頁)。

 ベトナムには、「涇陽王は洞庭君の女神竜を娶って貉竜君を生む。此君が帝来の女嫗姫というものを娶り、百男を生む、これが百越の祖先となった(百男は俗に百卵と伝えている)。一日貉竜君が姫に対し、我はこれ竜種、お前はこれ僊種、水と火はたがいに相いれない道理であるといって別れることとなった。すなわち五十子を分ち母に従い、山に帰せしめ、他の五十子は父に従い、南に居らしめ、その長を封じて雄王となし君王をつがしめた」(「大越史記全書外記、巻一。松本信弘『ベトナム民族小史』、岩波新書、一九六九、一一頁)という開祖神話がある。

 宮崎市定はこれらを「龍祖伝説」として、内陸乾燥地帯の「鳥獣祖伝説」や「棄子伝説」「感生伝説」「降神伝説」と対置している(『アジア史概説』、中公文庫、一九八七、三十九頁以下)。それによれば、ビルマのメン・マオ国、タイ、チャムパ、ラオス、哀牢夷などにそれがあり、新羅でも、「東海中に龍城国があり、その王妃が大卵を生んだので、不祥としてこれを櫃に入れて海に流したところ、それが新羅海岸に漂着して老母に拾われ卵より生まれた子が成長し」脱解王となったという話がある。「龍祖伝説はインド付近を中心として発し、南洋海岸に沿い朝鮮半島にまで達していることがわかる」(同前、四一頁)。日本神話で、火折尊の子鸕鶿草葺不合尊を産むとき、海神の娘豊玉姫は八尋鰐の姿になったというが、別伝では龍の姿だったともいう。豊玉姫が龍ならば、日本もそこに含まれるだろう。

 富士山より高いボルネオのキナバル山にも竜の伝説がある。「竜の持っている玉を奪ろうと思い、中国人がいく人もいく人も山にのぼっては帰って来なかった。そのために中国人の寡婦がひじょうに増えたというのである。中国のことをこのあたりではチナといい、それが訛ってキナとなり、ナバルというのは新しいという意味で、転じて寡婦を意味するというのであった」(堺誠一郎『キナバルの民』、中公文庫、一九七七、六四頁)。誤伝があるようで、バルが寡婦という意味である。竜でなく山霊とすることもある。中国の王子が竜の玉を取りに登り、首尾よく奪って船で逃げる。竜が追ってきて尾を振って海が荒れるが、逃げおおせたという話もある。この竜の姿形はわからないが、中国と関りがあるのだし、長い尾があるところからも、中国風の竜であろう。この竜は玉をもてあそんでいたのだから、手もある。

 

 アラブでは、一三世紀の学者カズヴィーニーの『想像の驚異』にこうある。

「ティンニーンはペルシア語でazhdarhā(アジュダルハー)と呼ばれ、恐ろしい外観をした海の動物である。長さは大きいものは三〇メートル、小さいものは五メートルほどで豹のように黒い斑点があり、魚のように二つの鰭があり、耳は長く、首からはヘビの頭の形をした六つの首がさらに出ている。目は大きく稲妻のように光り、その口は牛を呑み込んでしまうほど大きく、目にした動物はすべて吞み込んでしまい、呑み込んだ動物の骨を砕きつぶすために木に巻きついた。満腹すると海から陸に上がり、太陽で体を熱した。陸上でのティンニーンはその熱で行く先々のものを焼き払ってしまった。ティンニーンの悪業・悪事が極まった時、神は雲を送り、彼を持ち上げて遠ざけた。またイル汗国時代に出現したといわれる龍は大きな蛇体であり、目にした駄獣はなんでも食べてしまった。悪業が重なると神は天使を遣わし、彼を海に投げ込ませた。しかしティンニーンは海でも悪事を働いたので神は再び天使を遣わし、ティンニーンをマゴグとゴグのところに連れてゆかせ、彼等の餌食とさせた」(ヤマンラール「イスラーム美術における龍」、『アジアの龍蛇』、雄山閣、一九九二、二〇〇頁)。

 イラン圏では、竜は「エジュダハー」と言われる。トルコ(テュルク)族もそれに倣っている。この語はさかのぼればアヴェスタ神話に至る。

「ザッハークは『アヴェスタ』では「アジ・ダハーカ」(竜ダハーカ)の名で現われ、三頭、三口、六眼、千術の怪物で、悪神アハリマンが人類と地上を滅亡させるために創った最も強力で邪悪な魔物として登場する。この竜はバウリ(バビロン)の地にあるクリンタ城に住み、暴虐の限りをつくし、ジャムシード王の黄金時代とは反対に、恐怖の時代を築く。(…)神の光輪を得るために、アフラ・マズダの子・火神アータルとこの竜との闘いも名高い。魔王は悪逆非道の末、遂にファリードゥーンに捕えられデマヴァンド山に縛りつけられる」(『総説 世界の神話伝説』、自由国民社、一九九二、九二頁)。「彼はこの山に世界の週末まで幽閉されるが、そのとき、彼は再び世界を攻撃し、創造物の三分の一をむさぼり食い、火と水と植物に襲いかかる。しかし、最後には、復活したクルサースパに殺される」(ヒネルズ『ペルシア神話』、青土社、一九九三、一一二頁)。『シャー・ナーメ(王書)』では、ザッハークはアラブの王で、料理人に化けた悪魔(イブリース)に肩に口づけされ、両肩から黒い蛇が生えたと語られる。

 また、『アヴェスタ』の「ヤシュト第十九章、「ザミヤード・ヤシュト」には、「勇ましき心のケレシャースパは、馬を喰い、人を食し、黄色く毒ある蛇、黄色の毒が親指ほどの厚さに流れるスルワラの蛇を殺せり」とある。スルワラとは「有角」の意である」(前田耕作『巨像の風景』、中公新書、一九八六、一九三頁)。角ある怪蛇なら「竜」の萌芽と言える。

「竜は大蛇で、称号をザッハークという。編者曰く、ザッハークはエジュダハーと呼ばれてきた。次のようにも述べられている。バビロンで育ち、魔術を習っていた。顔つきが竜のようになったと思えたので、父親が魔術の勉強を禁じた。師匠である鬼が言った。「魔術を教えてほしいのなら、親父を殺せ。」彼は自分の父親を殺し、理不尽な血が夥しく流れた。そして、エジュダハーと呼ばれるようになった。後に、アラブ人がアズダハークと呼び、アラビア語化してザッハークとなった」(『社会辞典』。ヘダーヤト『不思議の国』より。『ペルシア民俗誌』、平凡社、一九九九、三〇九頁以下)。

 のちの竜(エジュダハー)の伝説では、次のようなことが言われる。

「カールーンの財宝はホスローの七宝物で、地下に沈んだ。そして、それを見張るために竜がその上で眠っている」。「竜は大きな図体の動物で、恐ろしい形をしており、大きく開いた口に多くの歯、目は光り、身の丈が長い。最初はヘビだったが、時の経過によって竜になった。形が変わったのである。これについては次のように言われている。「ヘビは時代を経て竜となる。」『万物の驚異』によると、ヘビが身の丈三十ガズ、齢百歳に達すると、竜と呼ばれ、徐々に大きくなり、陸上の動物が恐がる事態となった。全能の神は竜を海へ投げ落とした。竜の体格は海でますます大きくなり、身の丈二千ガズに達した。そして、魚のように二枚の羽が生えた。竜が動けば、海に波が起きた。竜の害が海でも広がったので、全能の神はヤージュージュとマージュージュの国へ送って、彼らの食べ物にしようとした。このことから彼らが性格の良い民族であると類推できる。すなわち、彼らの身体の各部がそのような健全な動物の肉から成っているのであるから、当然、同じように良い性格であるはずである。竜の心臓を食べたら勇気が増大する。そして、魅入られた動物はその餌食となる。その皮を恋人に結べば、その愛は消える。その頭をどこに埋めても、その場所が吉となる」(『魂の散策』。同前、三〇八頁以下)。

 こんなとぼけたような遭遇譚もある。「昔、砂漠を歩いていると、何か赤いものがやってきた。我々の方にやって来た。そして、よく見ると、それが龍であることがわかった。体は赤く、口からは火を吐き出していた。怖くて逃げたけれども、龍がどんなで、どこへ行くかを見ていると、ターレバーバードのカナートの方へ行った。その後、どこへ行ったかはわからない」(竹原新『イランの口承文芸』、溪水社、二〇〇一、六九四頁)。現地調査で伝承を聞き集めたこの本には、龍が「公正の鎖」を揺らして悩みを訴えに来たというもっととぼけた話もある。雌の龍が山羊の角が喉にひっかかって飲み込めずに難儀していたのである。それを切り取ってやると、お礼にメロンの種をもらったという(同前、五五八頁以下)。

 英雄叙事詩における竜の形姿について、ハーレギー・モトラクはこう記しているそうだ。

 「通常一つの頭と口を持ち、その恐ろしい口からは煙や炎が吐き出され、一頭の馬とその騎士、あるいは水に住むワニや、空を飛ぶ鷲を吸い込むほどの力を持っていた。その身体は巨大で山のようであった。髪の繁みが頭を被い、剛毛は下に垂れ下がっていた。木の枝のような二本の角があり、その目は車輪のように大きく、星やダイヤモンドのように輝いていた。二本の牙は英雄達の腕、あるいは雄鹿の角ほどもあった。外皮は鱗があって魚のようであり、一つの鱗は盾ほどの大きさであった。八本の脚をもち、それが動くと地面が振動した。龍の色はさまざまで、濃い黄色、灰色、黒、青などであった。水や火、あるいはいかなる武器にも耐えることができた。時には人の言葉を解することもできた。その巣は山の上、通常は龍の誕生の場である海の近くにあった」(ヤマンラール「イスラーム美術における龍」、二〇一頁)。

 また、「太陽や月が食になるのは、竜がそれを歯で噛むからである。竜を恐がらせてそれを吐かせるためには、花火をするか、楽器を奏でるか、矢を射るか、金盥を叩かなければならない。そうすれば、竜は恐がってそれを放す」(『ペルシア民俗誌』、二九八頁)。

 日蝕月蝕を怪物が日月を呑むからとする説明は各地にあり、インドでは、「神々が甘露(アムリタ)を飲んでいる間に、ラーフという悪魔が神に変装して甘露を飲み始めたのであった。しかし、その甘露がラーフの喉まで達した時、太陽と月がそれと気づいて神々に告げた。ヴィシュヌ神はこの悪魔の巨大な頭を円盤で切り落とした。このことがあって以来、不死となったラーフの頭は太陽と月を恨み、今日にいたるまで、日蝕と月蝕をひき起こすのである」(上村勝彦『インド神話』、ちくま学芸文庫、二〇〇三、八四頁)。ただし、ラーフは頭だけしかないので、太陽も月も吞み込まれてもしばらくすれば切り口から出てくる。

 イランの周辺を見てみると、バーミヤンの竜の谷(ダレ・イ・アジダハ)の話がある。「この竜は火を噴きながら谷から谷へとはいまわり、いたるところを焦土と化せしめた。竜の去ったあとには胸のむかつく悪臭が残り、収穫はことごとくだめになった」(前田耕作『巨像の風景』、一八四頁以下)。その害を逃れるためには、日ごとに一人の若い娘、二頭の駱駝、五三〇キロの肉を供さなければならなかった。この悪竜はアリーに退治された。

 『宋雲行紀』に、

「漢盤陀国の境界に入り、西行すること六日で葱嶺山に登り、また西行三日で鉢孟城に至った。(さらに)三日進むと不可依山に至った。そこは非常に寒く、冬も夏も雪が積もっている。(この)山中に池があり、そこに毒竜が住んでいる。

 むかし三百人の商人がやってきて、池のほとりに泊ったが、たまたま竜の忿怒にあい、全ての商人が殺されてしまった。漢盤陀国王はこれを聞き、王位を捨てて子に与え、(自らは)ウジャーナ(烏場)国に行き、バラモンの呪術を学び、四年間でことごとくその術を学ぶことができた。(そこで王は)帰国して王位に復し、池に行って竜に呪をかけた。竜は変化して人となり、王に過ちを悔いた。そこで王はさっそく竜を葱嶺山に徙した。この池から二千余里の地であった」(『法顕伝・宋雲行紀』、平凡社、一九七一、一六九頁)。

 漢盤陀国はタシュクルガンのあたりだという。葱嶺はパミールである。『法顕伝』には、「葱嶺山は冬夏積雪あり。また毒竜あり。もしその意を失えば、則ち毒風を吐き、雨雪沙を飛ばし、この難に遇えば、万位に一も全きものなし」(同前、一七八頁)とあるが、この竜はインド的(ナーガ)なものか、イラン的か、それとも中国式か、はたまた独自か。三者の中間だけにどうともわからない。

 トルコでは竜はejderhaとかevrenという。東アナトリアのニシャタシュ村には「まるで蛇のようにとぐろを巻きながら村の上手までのびる積石がある。蛇の骸骨とも言えるその形は驚くほど蛇によく似ている。村の内部までのびている先端部はまるで蛇の頭を想い起させる。全長は一〇〇メートルほどもある」。「土地の人が竜と言っている大きな蛇が村にやって来るのを見た者たちは家を捨てて逃げだした。年老いていたためにあまり遠くまで逃げられなかった一人の女は、途方に暮れてとある場所にしゃがみ込んだ。老婆はその場に竜がやって来て食べられるのを待つことにした。その一方で神に祈りを捧げ、こんな風に懇願した。「神よ。このわしを石にし給え。さもなくば竜のやつを」。老婆の祈りはかなえられた。竜がやって来てあわやという瞬間、竜は石化してしまった」(勝田茂訳「トルコの伝説」、『世界口承文芸』五、一九八三、一八九頁)。

 同様の話で、願いがかなえられれば七頭の犠牲獣を捧げると誓って神に祈り、襲いかかってきた竜を石に化してもらった牧童は、助かったあと七匹のシラミを殺して犠牲獣の代わりにしようとして、家畜とともに石に化せられたというものがある。石になった竜と牧童と家畜の姿を今も見ることができる(同前、一九〇頁以下)。

 トルコ美術における竜にはセルジューク系とモンゴル系があり、セルジューク系の竜の形態は、「口は長く、開いているが、頭部そのものはオオカミや馬に似ており、大きなアーモンド型の切れ長の目や、馬のようにピンと立った耳を持っている。そしてライオンや虎のような剛健な前足が付けられ、その前足の付け根から頑丈そうな、古代のグリフィンの翼を思わせる翼が上方にのびている。しばしばその尾は再び龍の頭となっている」そうだ(ヤマンラール「イスラーム美術における龍」、二〇四頁)。モンゴル系はは中国式の龍であり、それがユーラシアのここまで勢力を広げている。

 中国の龍、ヨーロッパのドラゴンに対して、ペルシャおよびそこと深く関わってきたテュルク諸族の地域は、アジュダハー竜の圏域である(オスマン・トルコを通じてブルガリアにもアジュデルの語がある)。害意のある悪竜である点、ドラゴンと同じく西アジア古代文明から出た同根の存在で、形姿の点で中国の龍の影響を受けている、ということだ。それにはシルクロードを通じて運ばれた文物、龍の描かれた陶器や絵の影響があるだろうことは容易に推測できる。

 

 バルカンの「竜」はおもしろい。昔話で語られるものと伝説とでは「竜」の様態が異なり、ふたつは峻別されなければならない。ハンガリーの昔話に登場する「竜」はいくつもの頭(七つとか十二とか、ひどいのになると三百六十六の頭とか)を持っている。「竜」であることもあれば、馬に乗ったりして人間の形であることもある。ルーマニアの昔話に出る敵役「ズメウ zmeu」も、怪物であって、まま人の形をしている。「えたいの知れない姿をした、文字どおりの化け物のこともあるが、背格好が普通の人と変わらないような場合も多い」。「龍人の国は地下にあった。彼らはどこまで巨大なのか見当もつかないようでいて、普通人のようでもあり、語り手はそのあたりをいささかも気にかけない」(住谷春也「ルーマニア民話の世界」、『ルーマニアの民話』、恒文社、一九八〇、三六七頁)。ズメウという名前はスラヴ語の「蛇」(例えばロシア語 zmiya)に由来し(ラテン語 draco 起源の語 drac は、ルーマニア語では「悪魔」の意味になった。なお「竜」を意味するルーマニア語は一般に balaur)、明らかに「竜」の外観特性を有している場合もある。だがそうでないことのほうが多く、伝説にも両様に登場する。蛇と竜とズメウの関係は、蛇が七年の間人に見つからずにいると、尾がなくなり足が生え、牛を呑む。さらに七年人に見られないでいるとバラウル竜になり、さらに七年たつとズメウになる、というふうに説明される。他のバルカン地方の昔話にもこの龍人(ズメウ)が出る。「ドラコスdrakosは民話に現われる正体不明の怪物で、古典ギリシア語のdrakōnは「龍」または「蛇」の意味であるから、語源的に「龍人」と訳してもいいが、実際には人喰い鬼と考えられる」(森安達也「解説 ギリシアの民話」、『バルカンの民話』、恒文社、一九八〇、一一三頁)。セルビアブルガリアも同じだ。ロシアの昔話に出るズメイも、複数の頭を持っているが、馬に乗るところを見ると人の形であるらしい。一方で、明らかに「竜」であることもある。

 ハンガリーの伝説で語られる「竜」は、たしかに竜だ。ハンガリー語で「竜」を意味するsárkányは、ブルガール・テュルク語で「シューシューいうもの、毒のある唾をはくもの」という意味の語から出たものであり、だから蛇のようなものであったと思われる。「シャールカーニュ」でなく「ゾモク」という名前の竜は、その名はスラブ語の「ズメウ」に由来し、短くて太い体の蛇のようなもので、沼に棲み、放牧の豚や羊を食べる。

 おもしろいのは、嵐を起こす放浪の男(天候師とでも呼ぼうか)が乗る竜である。天候師は放浪の道で立ち寄った家で施しを得られないと、すさまじい荒天を引き起こし、その家を破壊する。施しをした家は被害をまぬがれる。彼は竜の背に乗り、黒雲の上を飛ぶ。七年あるいは百年人に見られることのなかった蛇が竜になる。脚があり翼がある。天候師は銜をかませることでそれを飼い馴らす。天候師は別の天候師と雄牛の姿になって闘うともいう。シャーマンを思わせる行動だ。同様の天候師やその戦いはブルガリアを始めバルカンの各地で知られている。ルーマニア人は、山々の奥深くにショロマンツェという悪魔の学校があると語る。十人の学生がそこで魔術を学ぶが、十番目の弟子は悪魔の片腕として留めおかれ、イスメユ竜Ismejuに乗って荒天を呼ぶ手伝いをする。

 ドイツでドラックDrackというのもドラゴンから出た名前だが、竜ではなく、炎の尾を長く引いて火のように空を飛び、煙突から入ってくる。それを飼う人に奉仕し、財物や物を主人のもとに運んでくる精霊である。主人はそれに食事を供さなければならない。それを怠ったり、熱いミルクを与えたりすると、怒って家を焼いてしまうという(Peuckert: "Deutscher Volksglaube im Spätmittelalter". Hildesheim/New York, 1978, p.151ff.)。飼われている家に財宝を運んでくるクダ狐やゲドウを思わせる。トランシルバニアにもこの同類がいて、火を吐きながら空を飛ぶ「竜」が、あるルーマニア人の女中に「取り憑いた」。その母は娘を棺台に死人のように載せ、葬式を執り行うことで治したという。ミナルケン(モナリウ)のザクセン人はスモーというものについて、人の頭に蛇の体をした長い火のような竜ないし夜の悪霊だと語る。それが音を立て火花を撒き散らしながら夜空を飛んで、すぐそばに降り立つのに出くわしたら、馬車の部品を小さな釘に至るまでひとつ残らず数え上げれば、何もできずに退散する。それを呼び寄せることのできる者もいる。スモーは村に恋人の女をもっていたりもする。この名は明らかにルーマニア人のズメウに由来する。トランシルバニアルーマニア人が言うイスメンないしヒスモーは、空を飛ぶ炎であり、悪魔である。好きな女のところへ通い、煙突から入ってくる。通われる女は、痩せて顔色悪く、頭が変になるらしい。

ハンガリー:Erdész: 'Drachentypen in der ungarischen Volksüberlieferung', "Acta Ethnographica ASH" 20, 1971、ブルガリア:Dukova: 'Das Bild des Drachen im bulgarischen Märchen', "Fabula" 11, 1970、トランシルバニア:Müller/Orend: "Siebenbürgische Sagen", Göttingen, 1972 参照)。

 竜でもある一方、「竜人」という奇妙なありかたをする点で、バルカン・スラブのズメイ圏というのは西欧のドラゴン圏とは別に考えていいだろう。

 多くの頭を持つ妖怪ということでは、モンゴルのマングスが思い出される。「マングスは、多頭の妖怪である。早く「(元朝)秘史」にもこの語は現われる。(…)「靫背負うものを丸ごと呑みこんでも、のどにもつかえず、大の男を一呑みにしても、気にもとめない」という「並みの男とはさも異なる、グレルグゥの山にいる蟒蛇(マングス)に生まれついた、ジョト・ハサル」という文である。(…)「秘史」の傍訳には、「マングス」の箇所に「蟒」という漢語があてられていることから、またこの行文自体からも想像できるが、どうやら龍蛇イメージの怪物のようだ。(…)モンゴルの英雄物語においては、マングスは、英雄の財産を略奪し、妃や家来、支配下の牧民たちの拉致をもくろんで襲撃してくる。物語のなかで、なるべく変化をこらした闘いが用意され、最後にはマングスは負けてしまうという筋書き自体は同じである。ともあれ、この怪物は多頭で、その頭の数も、十、十二、十五、十七、二十五、二十七、五十三、七十七、はなはだしきに至っては九十五あるいは百九など、まさに変幻自在という感じで次々に変わるのである」(原山煌『モンゴルの神話・伝説』、東方書店、一九九五、一五〇頁以下)。

 前に触れた龍祖神話でも、竜女は人の姿で男と結ばれている。ビルマのシャン族の話では、竜たちは年に一度、水祭りのときだけはどうしても本来の姿にならなければならず、見るなの戒めを破って男はそれを見た、ということになっている(『世界神話事典』、二八五頁)。

 

 「竜」と訳されはするものの竜とは言いがたいインドのナーガ圏を別にして、竜には東方の龍圏、西欧のドラゴン圏のほかに、西アジアのアジュダハー圏があり、さらにバルカン・スラブにズメイ圏もあるらしい、というわけだ。

 こう見渡してみると、竜が文明圏ごとに異なる名を持ち、異なるあり方をしているのがわかる。文明圏それぞれが重なりつつもいささか異なる独自の竜を発生させているわけだ。その中で、図像学的にはイラン文明圏(テュルク諸族も)の竜は東方の影響を受けている。