なつかしい村

  一

 上村に「松尾のおじさん」という人がいて、ときどきうちを訪ねて来ていた。親戚だとは聞いていたが、どういう続柄か知らなかった。最近ようやく祖母のいとこ(祖母の父の甥)だと知った。名前が久朗であることも。

 記憶の中の顔立ちはもはやはっきりしないが、チョビ髭を生やしていたように覚えている。そのためか、ちょっと怖い感じがした。上村の人は「孤高の人」だったと言っている。早くに離婚してからずっと独身だった。子はない。同様に独身の妹のゆうと暮らしていた。岡山医科大学卒。明治三二年に生まれ、昭和五九年二月二九日に世を去った。八九歳。晩年の昭和五一年、島根医大に昔の医療器具を寄贈、その後江戸・明治期の医学書三五二点もゆだねた。ゆうは明治四一年八月五日生まれで、現在の京都女子大卒、平成一一年九月一八日九一歳で亡くなった。

 早くに医業は廃していたようで、特に診てもらいたい人だけ診療していたという。もっぱら田畑を耕す生活をしていた。畑仕事のかたわら、通りかかる人を呼び止めては話をした。話し好きだった。何事にも一家言のある人で、改変は改悪として嫌い、反骨精神旺盛だった。

 松尾家(屋号神向)の七代目に当たる。曽祖父は洞軒、祖父は謙秀。父親は廣運で、昭和二年四月一一日五三歳で死去。母ワサは上河戸渡利家より来た。弟の克(明治一六年八月一四日生まれ、昭和一七年二月二三日没、六〇歳)は油谷家へ婿養子に行き、九人も子があったが義父と折り合い悪く、松尾の家に帰りそこで亡くなった。妹のヒデ(明治二八年三月二三日生まれ)は林崎へ嫁した。

 一度だけ、今は取り壊された松尾の古い家に行ったことがある。石垣の上に長屋門のような門を構え、古びた立派なものだった。すぐ近くに願楽寺が高い石垣の上に立っている。そこで撞く鐘の音が山里に響けば、さながら一幅の絵である。

 週に一度温泉津の元湯へ浸かりに行ったそうだ。帰りの山道、中学生に荷物を持たせ、駄賃にと駅で買ったアンパンを与えて、歴史や医学の話をしながら歩いて帰ったとの思い出話がある。子供をお供に、物知りな話を放談しながら、湯あみ帰りに谷間の道をぽくりぽくり歩くチョビ髭の老村医のさまを思い浮かべると、懐かしい気持ちになる。実際には見たことなくとも、いつか見たような気がする。

 長逝に際し、父の漢詩と句がある。

 

 大恩の医師逝き給ふ閏日

 

  奉輓松尾久朗先生

 仁愛刀圭洽此鄕 仁愛の刀圭 此の鄕に洽ねく

 徳聲奕世潤汪汪 徳聲 奕世 汪汪と潤う

 憂時警世傳家業 時を憂い 世を警め 家業を伝う

 閏日悲哉赴北邙 閏日 悲しい哉 北邙へ赴く

 

  哭醫學博士松尾久朗先生

 戰中戰後變遷時 戰中戰後 變遷の時

 雲臥高才仰我師 雲臥の高才 我師と仰ぐ

 通學患胸西國里 通學 胸を患う 西國の里

 動員瀕死尾州涯 動員 死に瀕す 尾州の涯

 無窮恩惠終年謝 無窮の恩惠 終年謝す

 絶代刀圭三世醫 絶代の刀圭 三世の醫

 閏日卒然乘鶴去 閏日 卒然として 鶴に乗りて去る

 斷腸揮淚賦辭詩 斷腸 淚を揮って 辞詩を賦す

 

  二

 松尾家のあった上村は、山を越えれば海辺まで一里程度であるが、けっこうな山里の印象だ。さして険しい山ではないが、川をはさんでこちらの山から向こうの山までの広からぬ谷合いの村である。春には鶯の声がのどかにこだまする。

 上村は石見国邇摩郡の村で、江戸時代は天領で大森代官所の支配地であった。もと福光本領に属し、福光川の上流にある。福光下村に対して上村というのが村名の由来である。最上流の飯原と合わせて上村・飯原と併称されることが多い。慶応二年から明治二年まで長州藩預かり地であった。明治二二年に小浜村・飯原村と合併して大浜村になりその大字、昭和一六年にさらに合併して温泉津町となった。

 『角川日本地名大辞典三二 島根県』(角川書店、一九七九)によると、元禄の『石見国高郷村帳』では村高一八七石余、『天保郷帳』では一九一石余とあまり変わっていない。「石見雑記」には「産業は農間石工をなす」とある。

 明治一〇年代の記録である『皇国地誌』資料では、田二二町余・畑一〇町余・切替畑一九町余・宅地二町余・山林未調査。戸数は六三・人口三一三人、牛四二匹。男は「農業売薪業五九戸のうち次の業を兼ぬ。酒売商二戸・醞匠一戸・工匠三戸・鋸匠一一戸・塗匠一戸・医一戸」、女は「総て農事を業とし織職を兼ぬ」。「男一五人・女六人が誓徳寺の人民共立小学校に通学」。産物は農産物のほかに、薪八○○〇束・炭四〇駄・葛粉一〇貫・ロウソク四〇貫などがあり、温泉津・小浜・福光へ輸送している」。明治二二年には六九戸・三六九人と増える。

 飯原は、『石見国高郷村帳』で村高一四七石余、『天保郷帳』一四七石余。『皇国地誌』では田一九町余・畑一六町余・切替畑一九町余・宅地二町余・山林不詳、戸数七五・人口三一五人、牛五〇頭。物産は農産物のほか、牛と薪炭。男の生業は「農六六戸・大工四戸・木挽五戸・僧一戸」、女は「専業縫織にして又農耕を兼ぬ」。明治二二年には七二戸・三八四人と、戸数はやや減りながら人口は増えている。大森から西田・福光への街道筋にあり、交通も頻繁な村里であったという。

 なお、明治八年に上村の田の六一・二%、畑五五・四%は小作地だった。飯原では田の五五・七%、畑の四七・九%。

 

 およそ人の住むところ、伝説なきはない。ことに山里となれば、天狗もやまんばもいる(『温泉津町の伝説』、温泉津町教育委員会、一九七〇)。

 上村の北の高瀬には上瀧の天狗松という大きな松の木があり、天狗が住んでいた。目を開けて天狗松に近づくとけがをするから目かくしをして近よらねばならないそうだ。

 やまんばは、飯原の北にあるお大師山の岩屋に住んでいた。頬骨とびだし顎が長くとがって、真っ白な髪を蔓で結びぼろぼろの着物を着たばあさんが、棕櫚か藤蔓で作った緒を売りに歩いていたという。機を織りかけて出かけてもどってみると布に織りあげられていたり、蒔きもしない種が生えて大根や牛蒡ができたりしたが、留守に赤子を傷つけたりもしたので追い払われた。

 やまんばあが顔を洗っていた水たまりで洗うと、ししね(いぼ)がなくなる。目ぼいと(ものもらい)も小豆を二粒持って参ると治るという。

 また、飯原の奥には忠左衛門という大蛇がいて、悪さをすると目がくらんで道がわからなくなる。

 山里の常で、狐に化かされることもよくあった。酒をふるまわれみやげの重箱をさげての帰り、山道で転んで、家に着いて見ると重箱が空だった、というような。

 飯原の道端の畑の中に塚がある。朝鮮征伐に上村の矢研田氏も出て、切った耳や鼻を持ちかえって埋めた耳塚鼻塚といわれるものだ。

 神について語られる話では、「血を吸わない蛭」というのもある。厳島神社の祭神市杵島姫命が川向うから今の宮にお渡りになるとき、川の中の蛭が足についた。蛭の口を絞って、これからは人の血を吸わないようにと言ったと。

 これは小浜の厳島神社境内社の衣替神社について伝えれる須佐之男命の話の異聞であろう。朝鮮からお帰りになった命が温泉津の笹島に船を着けられ矢竹を採られたとき、衣を濡らされたので、小浜の浜田川のほとりで衣をすすぎ岩に衣を掛けて干しておられたら、蜷貝や蛭が衣を汚したので、命は蜷の尻を切り蛭の口を絞り、以来いまも浜田川の蛭は人に食いつかず蜷には尻尾がないという。

 西田では四本の棒を立てかけて稲架を組み、それがミミズクに似ているのでヨズクハデといっている(ヨズクはこのあたりの方言でミミズクのこと)。今この形のハデは西田にだけ残っているが、以前は上村や飯原にもあった。西田の水上神社に伝わる伝説によれば、神代の昔、綿津見命上筒男命などが日本海に船を乗り入れられたが、海は大荒れとなり、温泉津の殿島あたりに漂着され、それ以来この地を日祖と呼ぶようになった。しばらく日祖から小浜の浜辺などで海水から塩をつくったり、上村、飯原、西田で稲作を教えたりし、そのときヨズクハデの組み方を教えられた。そして西田の水上山に鎮座せられることになった、云々。

 

  三

 この上村に、幽蘭こと松尾よねという人がいた。

 幽蘭は神向松尾家の四代目松尾洞軒の妻である。洞軒は医者で、幼名文禮。安政六年(一八五九)一二月二五日、赤痢の大流行にあい三五歳で死去したから、生年は文政八年(一八二五)ごろであろう。大坂瓦屋橋藤岡洞斎のもとで修業した。洞斎が華岡青洲の弟子だから、その孫弟子に当たる。一〇―一一歳で入門、一五年間勤め、二五歳で帰郷開業という伝えがある。たいへんな勉強家であったようで、塾生時代、天保九年から同一五年までの写本が残る。「于時天保九歳戊戌十二月吉日調之者也 松尾文礼歳十四才之時 写之也(『痘疹治療万全』)」「天保十四癸卯初秋十有二日崎陽立山医学館 藤岡洞斎大老先生於塾下写之 石陽 松尾文禮 十九才之時(『加賀和流産術秘傳』)」というふうに。天保一四年には一一冊の写本を作った。師から「洞」の字をもらったというが、それもうなずける。嘉永七年三〇歳のとき、自宅に熊谿書屋を造り、熊谿堂と号す。松尾家墓所の墓碑には「洞軒院釋達明居士」「松尾四代主人洞軒号熊谿堂安政六巳未十二月廿五日卒行年三十五歳」「挌知釣玄術入神已看枯木亦回春恝然何事齎竒器三十五年辭世人男謙謹誌」とある。もうひとつは最も奥まったところにある横倒しの墓石で、それには「松尾洞軒号熊谿堂行年三十五卒謙助父當家第四代目也」。

 世界で初めて全身麻酔を用いて乳癌手術を行なった華岡青洲(一七六〇―一八三五)の手術図が松尾家に秘蔵されていた。青洲の死後、洞軒がその家を訪ねて原本を借り、『奇患図』(一〇四頁)『縛帯図』(六六頁)を画家の柏友に模写してもらったという。弘化二年(一八四五)の写本である(『毎日新聞』昭和四六年五月二八日)。島大医学部図書館に寄贈された旧松尾家蔵書に青洲の『春林軒燈下醫談』『天刑秘録』がある。

 洞軒の父松尾尚春は天保四年(一八三三)三月四日死去、五七歳。母ツネは天保九年(一八三八)八月一八日没、四四歳。なお尚春には先妻歌があったが、文政二年(一八一九)四月一三日に二四歳で亡くなった。父が高齢になっての子であり、若くして父、そして母も亡くしている。

 松尾幽蘭は明治二六年(一八九三)一〇月三〇日死去、享年七五歳。それから逆算すると文政二年(一八一九)ごろの生まれとなる。

 直接知る人はもちろん、聞き伝えで間接に知る人もいなくなった今では、もはや探るにもよしない。二七歳で二五歳の洞軒に嫁ぐというが、享年から数えて年齢差は五、六歳の年長であり、この伝えは正しくない。後掲の碑文にある通りよねが二七歳で嫁いだとすれば、洞軒は二一、二二であった。ちょっと釣り合いが悪い。まあ、都から片田舎へ嫁をもらうなら、普通とは少し違って当然かもしれないが。

 また、「天保年間(一八三〇―一八四四)、蘭学者松尾洞軒氏が、医業のかたわら、自宅にて私塾を開き、児童に読み書きを教えていた。/弘化年間(一八四四―一八四八)洞軒氏が幽蘭女史と結婚後は、女史が代って教えられ、嘉永年間(一八四八―一八五四)、洞軒氏没せられて後も十数年に亘り、この地方の子弟がその薫陶を受けている。この間二十五年位である」と村人からの聞き書きをまとめた『上村・飯原学校と村の歴史』(一九七七、上村・飯原みんなの会)にあるそうだが、年代がおかしい。洞軒が没したのは安政六年(一八五九)である。弘化に結婚というのはいいけれど、天保年間には洞軒はまだ二〇歳にもなっていない。一〇―一一歳で藤岡洞斎の塾に入門して一五年間勤め、二五歳で帰郷という言い伝えとも反するし、蔵書の一冊に弘化三年(一八四六)浪花にて求むの書き込みがあるので、そのときはまだ大坂にいたはずだから、天保に私塾云々も誤りである。結局同時代の碑文に頼るしかない。

 享保の飢饉時、甘藷栽培を導入奨励して人民を救った仁慈の人、芋殿さまこと天領大森代官井戸平左衛門正朋(一六七二―一七三三)を称える泰雲院碑はこの地方に数多いが、上村にもそれがあり、その右に幽蘭の顕彰碑が立っている。

「幽蘭女史松尾米子之碑

女史諱米安達氏京都華族六條氏家士安達彌右衛門之第二女也有故為石州那賀郡畑田村農山下吉左衛門之養女年廿七配邇摩郡上村醫松尾洞軒居十年洞軒病没男謙秀尚幼女史教養有方先是村童就松尾氏學書數而洞軒業務無暇因使女史代教授女史性温良和気接人嗜和歌能書號幽蘭又能弄琴絃毎好誦徒然草其胸襟可知也故受業者不絶寡居幾十年経營妟如也明治二十六年十月三十日罹胃患而逝享年七十五葬于大濱村松尾氏先塋側嗚呼哀哉門生追慕不已相謀建石云

明治二十七年八月 島根縣中學校教諭 片山尚絅撰」

 読み下すと、

「女史諱米安達氏、京都華族六条氏家士安達彌右衛門の第二女也。故有りて石州那賀郡畑田村農、山下吉左衛門の養女と為る。年廿七邇摩郡上村醫松尾洞軒に配し、居ること十年、洞軒病没。男謙秀尚幼かりし。女史教養有り、是より先、村童松尾氏に就き書数を学ぶ。而して洞軒業務暇無し、因て女史をして代りて教授せしむ。女史性温良、和気人に接し、和歌を嗜み書を能し、幽蘭と號す。幽蘭又能く琴絃を弄び、毎に好みて徒然草を誦す。其胸襟知る可き也。故に業を受くる者絶えず。寡居幾十年経営妟如也。明治二十六年十月三十日胃患に患りて逝く。享年七十五。大浜村松尾氏先塋の側に葬る。嗚呼哀しい哉。門生追慕已まず。相謀りて石を建つと云う」

 台石には門生三七人の名前も刻まれていて、その中には松尾謙造という名もある。謙秀のことであろうか。

 幽蘭は安達彌右衛門の娘であり、自分の生まれた家への思い強かったのか、松尾家墓所には「京都安達井上両家先祖代々追善」の碑がある。

 六条家は村上源氏羽林家(参議から中納言、最高は大納言まで進むことができる家柄)で、家業は有職故実、維新後は子爵となる。しかし江戸時代の家禄は二六五石である。藩ならば中士の扶持だ。その家の経済はどのくらいのものであったか。天保十三年(一八四二)刊の『雲上明覧大全』(松尾家旧蔵)によると、寺町石薬師下ルに屋敷があった。たとえば二八六〇石の裕福な近衛家の項には諸太夫一〇人、侍八人の名が挙げられているのに、六条家では諸太夫も侍も書かれていない。下橋敬長『幕末の宮廷生活』によると、摂家親王・門跡以下の堂上家では雑掌・近習を置き、士分だが、一年の給金は三石だったというから、小身である。あるいは山城国乙訓郡にあったという所領の管理に当たっていたかとも思う。しかし娘に和歌琴絃などの教養を仕込んでいたし、嫁入りのときなぎなたや細工の細かい櫃入りの重箱を持たせている(今は瀧光寺蔵)。

 「故あって那賀郡畑田村農山下吉左衛門の養女となる」とあるが、それはどんな故だったのか。山下吉左衛門は洞軒の伯父だということだ。明治三年に六五歳で亡くなっている。山下家(屋号井戸小屋)は豪農で、山林田畑を経営していた。その屋敷は登録有形文化財となっている。畑田村は『皇国地誌』に「大概山にして其中間を東北隅より西南隅へ僅の耕地貫き、其他東西に田畠処々散在」とあるような山村だが、石高は『石見国高郷村帳』『天保郷帳』とも二二一石、明治初年戸数八五、人口四一六人だから上村より大きい。しかし、現在の住宅地図を見ると隣の上津井地区との境に八軒ほどがあるに過ぎず、「限界集落」を一歩越えて、ほとんど消え去りかけている。だが、高度成長期の後でこそそうなってしまっているとはいえ、その後の眼でその前を見てはいけない。村の富は耕地だけで計れない。山も富の源泉だった。その頃の燃料は一手に薪であり炭であり、建築材料は木であったのだから。とりわけ、この地域はタタラ製鉄が盛んであった。「現在江津地方にある旧家の祖先にして、鈩製鉄に手を染めなかったというものは殆どない」(森脇太一「石見江津地方における小鉄事業」、『たたら研究』一三)。それに必要なのは砂鉄と炭だから、木炭の需要は高かった。木は前代の「石油」であり、牛は前代の「トラック」「トラクター」だったのだ。林業衰退以前、山林地主はまぎれもなく資産家だった。

 結婚時洞軒の両親はすでに他界していたので、自身の意思で相手を決められたと思われるが、しかし身分も違えば住所も遠い二人(年齢からも女の方は婚期を外れている)がどのようにして結ばれるに至ったものか。その事情はまったくわからない。(1)京か大坂で知り合い、都合上一旦山下家の養女となり、形を整えて嫁入りしたか。それならどのように知り合ったかが不明である。電車が走る今と違い、京大坂もそう簡単に行き来はできまいし、その当時それなりの家の娘はみだりに外を出歩かなかったはずだ。(2)あるいは何かの事情で畑田村に養女になって行っていて、そこで洞軒と縁談でもあったか。これでもなぜ山下家の養女になったか理由が知れぬ。要するに伝記のまったき空白部分で、小説家なら勝手な想像で埋めるところだが、小説を嫌う者としては、わからぬことはわからぬとしておくにとどめる。

 なお、墓碑には「幽蘭院釈尼利貞」「松尾洞軒君内正通称ヨ子賢明能書常好徒然草晩年信佛教明治廿六年十月三十日(以下六字欠けて読めず)」とある。

 息子の謙秀(謙助)は嘉永六年(一八五三)一〇月九日に生まれ、大正二年(一九一三)一一月七日に六一歳で亡くなっている。明治を自分の時代とした人で、松尾家中興の祖とされる。『東京医事新誌』にも寄稿をしていた。木島から妻キチを娶る。才能ある息子を立派に育て上げたものだが、しかし洞軒が死んだとき謙助はまだ一〇歳。そのとき舅姑もすでに亡くなっていた。幽蘭は謙秀が一人前になるまで家を支えなければならなかった。

 はじめは自宅で教えていたという。明治初年ごろ誓徳寺で塾が開かれ、そこで住職円心が教えたというが、村人伊瀬寛造の履歴書に「文久二年十二月生れ、明治三年五月ヨリ、五年十二月、上村松尾米女ニ従ヒ普通学ヲ修ム」(『温泉津町誌』下、温泉津町、一九九五:七)とあるそうだから、よねの教授は続いていたのだろう。

 寺子屋では、「師匠に対する謝礼としては、雛節句端午節句、盆、正月の年四回、三分乃至一匁の浜田札を包んで進呈したものという」(同:八)。

 明治五年の学制発布に伴い、明治六年五月一日「上村飯原学黌所」として誓徳寺庫裡を借りて開校した。鷲峰寺住職鷲丘等阿が教師となったが、「鷲丘氏は僅かに三か月で職を辞され、後は曽て私塾を開き、学校創立の先覚者である松尾米子女史が無給で教師の任に当たられ、創立後の惨憺たる苦心の中に基礎を築かれたのであります。/のち、藤谷不染氏が教職に就かれ、学校世話係木島清之助、吉田橘太郎、松尾謙秀氏と協力して学校の設備、内容に大革新を断行されたのであります」と温泉津小学校上村分校廃校式(一九六五)の式辞で述べられている(同:一四)。藤谷不染は願楽寺自牽の弟である。

 なお、この誓徳寺の本尊は真言宗には珍しく阿弥陀如来なのだが、もと辻山の阿弥陀岳山頂にあったという。この如来さまは沖を通う船をたびたび止めたものだから、迷惑して慶長年間に今の地に移したものだそうだ(『大浜村誌』)。

 

 歴史には「大きな歴史」と「小さな歴史」がある。幽蘭の生きた時代、大きな歴史のエポックはもちろん明治維新であり、それに先立つ長州征伐であっただろう。

 西田から飯原、上村への道は山陰街道だったから、征伐軍は陣羽織に槍のいでたちで威風堂々と進軍したが、大敗し軍規を乱して敗走、それを追って長州軍が来た。頭には笠、腰には袴ももだちの軽装で、剣付鉄砲を担いでいた。上村で休憩したが、そのときは鉄砲を三組に立てていた。幕府軍の敗退後こんな歌がはやった(『大浜村誌』)。

 長州攻めるて わが攻められて

 猫のかんぶくろで あとすだり

 幽蘭にとってのエポックは、洞軒との結婚と遠い石見の山里への移住と、一〇年後のその死であっただろう。御一新の変革も影響を及ぼしたには違いなく、「大きな歴史」は「小さな歴史」にしきりに介入するが、その前とその後も基本的には連続しているわけで、「大きな歴史」を「小さな歴史」に振りかざしすぎないほうがいい。

 

  四

 「幽蘭」は奥深い谷に生えた蘭の意味で、山の谷間の村に嫁いだよねにふさわしい雅号である。芭蕉連句全集である『幽蘭集』という句集があるから、そこから採ったのかもしれない。和歌や俳句の素養があり、その墓碑には歌が刻まれている(『温泉津町誌』下:四二六)。

「おこたりに身を過まるゝ

  けさはまた御法の庭

  鶯のこゑ」

 俳句では、飯原の金剛寺に奉納された俳句額がある。

「有仙居士追悼発句集

 三竹園青池評

 魁

 何事もなくて夜明けぬくさの花  小ハマ素月

 雨はるゝかたより春のつき夜哉  ハツミ竹山

 雲かけの添へば戦くやおミなへし  米女

 うくひすの来る樹をもちぬ江の小家  川本静月

 人あけしふねの掃除や朝かすみ  松園

 売に来たむしにあき立つ都かな  如水

 いそがしい間にも沙汰して春を待  ハツミ竹翠

 かすまねは常の朝なり江の小いへ  米女

 祇園会やくもりを払ふ朝あらし  如水

 やはらかに風のはしるやをみなへし  フクミツ又佐

 ゆく雲をみるやつくもの中の水  矢上僕々

 からうすををりて菊見の案内かな  松園

 しら雲をはやはつ花のかまえかな  ハツミ芳谷

 こころ澄むかきりや月ににほう菊  如水

 植た夜をはやなれ〱し竹の月  同

 田一枚ふさくやうめのあさ日かけ  米女

 うめにしろく柳に青し春の水  大家石鼎

 着そむれは行さき多きあはせかな  同 一奥

 ひとすちのなかれにふける火垂哉  ハツミ呉江

 うつなみも静になして初日の出  竹翠

 ふり遂し景色なりけり竹の雪  米女

 秋にはや瀬ありて柳のみとりかな  素月

 朝かほのさきむかひけり朝のつき  同

 雁なくやさす潮寒く夜のあける  米女

 やまふきやその川上は八瀬の里  ユノツ桑孤

 ゆふくれに間ちかき萩の戦き哉  ハツミ雨竹

 名月に見そへくれけりはしり雲  松園

 さゝなきや障子のまゝの庵の留守  如水

 蓮さくや朝と暮には橋の上  松園

 馬乗て今日も行たし春の磯  竹翠

 剪のこす小まつの傍の桔梗哉  松園

 川上や瀬にそふて来て月と梅 大モリ叢波

 提出した人もすわるやすゝみ台  志玉

 あきのあはれ我より人にうつりけり  ハツミ里竹

 はれ切たそらの青ミやあきの色  素月

 また人の寝ぬ物をはやあまの川  川本素卜

 むかしから人の機嫌や花のやま  素月

 山こして来る人こゑや今日の月  日貫一竹

 青うめを小くさに置て川手水  大モリ里恭

 うくひすの不断になりし二月哉  ユノツ景波

 わか竹や三日月よりもたかく伸  松園

 定りた日に雲もなし散したに  フクミツ詞耕

 野に枯て音より細きなかれかな  如水

 夕くれてまつかせ戻るすすき哉  竹山

 かれくさや根にわなかれを持なから  川本梅朗

 見えぬ日に壁にとゝきぬ暮の秋  同 竹危

 尾

  下略

 かはりなき名も十八のささけ哉  評者青池

 世に居らは杖に剪へき藜かな  願主松園

 罌粟かた手はふつく手桶山手哉  同 米女

 厚朴の樹の花に香もなし蜀魂  補助詞耕

 蚊くすへの外のなミたやけふの暮  執筆如水」

 「嘉永七年歳次甲寅(一八五四)晩秋納」とある。この米女は幽蘭のことであろう(同:四三七以下)。評者島田青池は浅利の人で、タタラを業とした。

 青池や松園とは親交あったらしく、松尾家に所蔵の書物中、句集『ひの川集』(安政五年・一八五八)にはこの二人に並んでよね女の句が載っている(金剛寺奉納額の句と同じ:田一枚ふさくや梅乃朝日うけ)。松園は『石見人名録』に「森山圓作号松園温泉津之人」、「雪華集」にも「ユノツ」とあるけれど、『ひの川集』では上村の人となっているし、『石見人名録』のこの人の肖像には鍬がかたわらに置いてあることからも、町場の温泉津ではなく上村の農家ではなかっただろうか。

 その他、医学書漢籍以外の松尾家旧蔵書には、手稿本では、よね女の句を載せる二冊:『有仙居士五十回忌』句帳と表題のない諸家句帳(表紙が洋紙だから明治のものであろう)のほか、名歌の書抜き帳『衆歌拾穂集』があり、刊本では、『ひの川集』(橡實菴一枝編、蕉門御摺物所 京四条寺町東入御旅町 湖雲堂近江屋利助)、『雪華集』、ほかに『除元集』(安永八年・一七七九、江橋の編、上村・福光連中の句あり、その中に有仙・烏江も見える)『三十番歌合』『新百人一首』(文化十一年・東都書林)『今人名家類題夏之部』『同秋之部』。蜀山人の『千紅萬紫』『萬紫千紅』。『華岡草書千字文』上、頼山陽の遺墨集『新居帖』四冊(弘化四年)は習字の手本として使ったのだろう。波積の人の写した『智永四體千字文』。『新刻蒙求』上中下は謙助の教育のためであったろうか、子供の落書きがある。寺子屋でも用いたのかもしれない。公家に仕える家の出であるためか、公家の人名録『雲上明覧大全』上下(天保十三年刊)もあった(これらも今は瀧光寺蔵)。

 

  五

 右に幽蘭碑のある芋殿さまの碑の左には、林崎政子の顕彰碑が立つ(『温泉津町誌』下:八六以下)。

「故林﨑政子先生追慕之碑

島根県師範学校従五位勲六等本田嘉種書

嗚呼此是林﨑政子女史追慕之碑也。女史元岡山藩士富田氏。十七歳帰于林﨑朴也氏。池田侯之旧臣食禄百五十石。琴瑟相和挙一女名小郷明治十一年朴也氏長逝女史時年廿五生来以繊弱之身事老姑教育幼女、困苦惟耐欠乏惟忍以明治廿二年時石州上村之人木島氏請女史為私立石見女学校教師今之上村裁縫教場之前身也。女史常以身率生徒幽嫺貞淑動静有法澖濯縫紉養蚕紡糸二十五年如一日大正二年八月六日病没享年六十歳及門之児女如喪母追慕不已胥謀建碑請文於予、予感女史徳行入人心之深記其梗概係以銘銘曰

石州上村 風厚俗敦 貞名鎮魂

豊碑豊恩 子子孫孫 芳名永存

大正三年五月

島根県師範学校従五位勲六等本田嘉種撰併書」

 詠み下すと、

「嗚呼此は是、林﨑政子女史追慕之碑也。女史元岡山藩士富田氏。十七歳林﨑朴也氏に帰す。池田侯之旧臣食禄百五十石。琴瑟相和し一女を挙げ小郷と名づく。

 明治十一年朴也氏長逝す。女史時に年廿五 生来以繊弱之身をもって老姑に事え、幼女を教育し、困苦これ耐え、欠乏これ忍び、明治廿二年の時を以て石州上村之人木島氏、女史を請い、私立石見女学校教師と為す。今之上村裁縫教場之前身也。

 女史常に身を以て生徒を率い、幽嫺貞淑動静法有り。澖濯縫紉養蚕紡糸、二十五年一日の如し。

 大正二年八月六日病没。享年六十歳。及門之児女、母を喪う如く追慕して已まず。ともに謀りて碑を建つ。文を予に請う。予女史の徳行人心之深きに入るを感じ、其梗概を記し、以て銘に係す。銘に曰く、

 石州上村 風厚俗敦 貞名鎮魂

 豊碑豊恩 子子孫孫 芳名永存」

 この私立石見女学校は明治二二年(一八八九)に木島清之助、伊瀬寛造ら土地の有志によって設立された。裁縫教授を主とするが、習字・作文・算術なども教えていた。石見で最初の私立女学校の試みであった。明治二八年上村裁縫所と改称し、昭和一二年(一九三七)まで続いた。はじめは木島家二階を教室にしていたが、大正初期に新築移転した。生徒は、村内はもちろん、隣村、隣の隣村、さらに邑智郡の日和や粕淵、安濃郡川合村などからも来ていて、遠方からの生徒は、裁縫学校の二階に泊まったり、縁故を頼って下宿したりして通学していたという。

 湯里出身の作家難波利三氏の母堂チヱノ(旧姓光井)もこの裁縫場へ通っていた。その思い出によると、

「大正十四年一月、上村の林﨑裁縫場へ入れてもらいました。

先生は林﨑おこう様といいました。

 通学には、西田から坂根坂をのぼって飯原へ出るのです。山の中の淋しい道でした。入学当初は、ひとりでかよっておりました。(…)

 この裁縫場での勉強は、はじめは単衣物が、一、二、三月でした。四、五、六月が袷ぬい、八月が夏休みでお茶のけいこ、九、十、十一、十二月が綿いれ。次の年の一、二、三月に羽織を縫い、四、五、六、七月袴、九、十、十一、十二月が絹一期で絹物、三年目の一、二、三月が絹二期でした。絹二期は絹綿入れでした。

 私は、絹二期までやってもらいました。

 大部分の人は、羽織まででやめておりました。

 月謝は月々一円でしたが、コテを使うので、炭代が冬は二十銭、夏は十銭位。

ですから、月々総額、一円二十銭から一円三十銭です。(…)

 夏休みに習ったお茶は、「千家裏流でした。「ふくさの縫い方」、「お手前」、「おはこび」などで、十日位けいこしたと思います」(『温泉津町誌』下:八八以下)。

 村にはこの学校を設立した木島清之助の頌徳碑もある(同:九一以下)。

「勲七等木島清之助君頌徳碑

 木島清之助氏ハ当村木島家第十三世ノ当主ナリ。夙ニ心ヲ公務ニ致シ福光村外三ヶ村戸長、大浜、五十猛、静間ノ各村長、県議会議員等ニ歴任シ、教育、産業ニ衛生ニ公益ヲ増進スルコト洵ニ大ナルモノアリ

 教育ニ於テハ明治維新ニ際シ百般ノ制度更新セラレタリシモ、青少年ノ教育機関ナキヲ憂ヘ有志ト謀リ他村ニ率先シテ大ニ普通教育ノ普及ニ力ム。殊ニ女子教育ニ於テハ明治十七年頃福光村ニ於テ各集落ニ裁縫場ヲ設ケテ好結果ヲ得、時運ハ漸ク女子実業教育ノ急務ナルヲ痛感シ来リシモ、当時県下ニ其機関ナカリシタメ岡山市ヨリ林﨑政子及其長女小郷両女史ヲ聘シ私費ヲ投シテ明治二十二年私立石見女学校ヲ自宅内ニ創立セリ之レ実ニ地方ニ於ケル女子実業教育機関濫觴ナリ。

 現在ニ於ケル林﨑裁縫場ハ其後身ニシテ卒業生ノ数既ニ五百余名ニ達スト云フ。(後略)」

 大正十四年の建立で、発起者は「上村裁縫場主 林﨑小郷 外生徒五十六名」とある。

 村の教育貢献者であるこの二人の女性の顕彰碑を見て思うのは、文化の浸透にあずかって力があったのは交通と旅であるが、女性の流入も小さからぬ役割を果たしているだろうということだ。他地域(都市部など)・他階層(上の身分)から嫁入りなどの形で降りてくる女性は、しっとりと確実に土地の文化を潤していったに違いない。

 

  六

 「村里の文明開化」というものを考えてみたい。(民族学で言う「文化」でなく)「高文化」の意味での「文化」が庶民農民層まで行き届いたのが江戸時代である。村々に僧侶や医師といった知識階級があった。まず民衆のうちの知識層・中流層、寺家・医家・裕福な商人・庄屋・富農のような人たち、さらにそれから末端まで、「高文化」はしっかり浸透していった。教育の普及で見れば、寺子屋はこの地では文化文政ごろからあったのではないかとされている。

 生活にもゆとりがあった。邑智郡田所村の田中梅治(一八六八―一九四〇)はその著『粒々辛苦』の末尾に餘談として、「百姓程餘裕多イ仕事ガ外ニ何ガアルカ、一旦苗代ニ種ヲ播イタラ植付迄ノ約二ヶ月ハ温泉行、御本山参リサテハ親戚訪問出来得ルノハ百姓デハナイカ植付ヲ終ツテ朝草ヲ刈リ牛ヲ飼ツタラ昼寝ヲユツクリ出来得ルノハ百姓デハナイカ、秋収ヲ終ヘ籾ヲ櫃ニ納メ置キ炉辺ニ榾ヲ燃ヤシツゝ藁細工ニ草履ノ二三足モ作ツテ其日ヲ送リ、又仏寺ニ参詣シテ自慢ヲ戦ハシツゝ殆ド三ヶ月ノ呑気暮シノ出来ルノハ百姓デナケレバ真似ノ出来ナイコトデハナイカ」(『日本常民生活資料叢書』二〇、三一書房、一九七八:一〇二)と書く。これは昭和の初めの述懐で、そのころ村を離れ給料取りになりたがる青年がでてきたのを危惧して書いたものという強語の面はある。この人は村の信用組合産業組合に働き、助役も務め、自村を本人感じるところの「理想郷」に作り上げたとの自負をもっていたのだから、これをもってただちに江戸時代の百姓の生活と並べてはいけないのはもちろんだが、割引きしつつもやはり共感してよいものはあるだろう。25歳のころから俳句を作り、「ホトトギス」の会員となって正岡子規内藤鳴雪の指導を受け、村に「柚味噌句会」を作った人だとも付記しておこう。

 たとえば後述する有福の善太郎は、もとはあばら家に住んでいた。のちに中農程度になった人だが、金釘流ながら字が書けた。京都の本山へ九度も参っているし、浜田や西田などけっこう離れた町や村の寺の法座に出向いたり、芸州にほど近い出羽村に同行磯七を訪ねたりもしていた。ゆとりのある暮らしぶりである。なるほど飢饉には餓死者を出すけれども、今の高みから見下されるほど苛酷な暮らしではなかっただろう。

 山伏の大先達で、九州から東北までつぶさに旅した野田泉光院(一七五六―一八三五)の『日本九峰修行日記』を見れば、当時の田舎の知的水準、好奇心の高さがわかる。文化一一年(一八一四)四月二十日「益田と云ふ町へ着」き、龍照院という山伏宅に泊まると、「夜に入り隣家の者多く旅中日記聞きに集る」(「日本庶民生活史料集成」二、三一書房、一九六九:七四)。知りたがりが多いのだ。文政元年(一八一八)八月一一日に美作川原村で百姓家に泊まったときは、『孝経』『大学』の講釈を乞われ、翌日から始めている。一八日、「先日より誦みかけの大学講釈始める。近所の者共は勿論、医師、出家等迄数十人恰も大阪阿弥陀ヶ池の説法の席の如く集れり。講釈中場にても多葉粉を吸ふやら、足を延ばして坐り居るもあり、後には庭迄も男女老若押しまぜ集つたり〱さてさて面白かりき、乍然田舎もの物知らず不作法なることなり」。二一日は桑村というところに泊まり、「孟子」の講釈をしている(同:二四六)。中には暇つぶしの物見高い連中も交じってはいようが、田舎の村人の知的好奇心の旺盛なさまが現われている。村々まで文明程度が高いと言っていいのではないか。

 明治の「文明開化」はすでに用意されていたものの連続である、ということだ。様式と手本、規模と速度に違いがあるだけで。「革命」は「暗黒時代」を作る。「革命」の成功は前代を「暗黒」にすることが必須である。「革命」成功の受益者たちによって貶められた前代の「暗黒」を真に受けすぎないほうがいいだろう。民主主義だって村の寄合や一揆などにすでに見られたものだ。技術や経済に革命はあるが、政治の「革命」には真剣に疑いの眼を向けなければならない。すべては連続しているのだから。

 

 「文明開化」の例証は、俳句俳諧の普及隆盛である。

 俳諧はすぐれて平和の文芸である。平和のないところに俳諧はない。極短詩型で取りつきやすいこともあるが、座の文学であり、仲間が集まって前の句に後の句の付け合いをする。朋友集まれば、飲み食いもすれば談笑もする。それらすべてをひっくるめて俳諧であるから、平和でなければできないし、それ自身平和を体現してもいるわけだ。徳川の泰平は、俳諧を育んだことにその功績の第一があると言っても過言ではない。

 この地方の俳諧の歴史からいくつか拾ってみると、まず元禄一四年(一七〇一)大森で編纂された俳諧集『石見銀』には温泉津の俳人二名が採られている。この集の編者望雲軒巨海は石見銀山に勤める役人だった。

 上村の路傍には岸本江橋の句碑がある。

「澄む月の影に塵なき世界かな 不勝翁 江橋」

 福光の得月舎烏江が文化七年(一八一〇)に建てたものである(「温泉津町誌」下:四二四)。江橋は大国の人で、安永六年(一七七七)から八年(一七七九)にかけて『除元集』を編纂した(その安永八年の集が松尾家に所蔵されていた)。そのころの大国は邇摩郡でいちばんの石高で、『石見国高郷村帳』で一二八七石、『天保郷帳』で一五〇九石。戸数は文久三年に四〇九戸、人口二〇四八人。明治の初めは戸数四二六戸、人口二〇二五人であった。享保五年に細物売一・紺屋一・酒屋三・大工二・木挽九・油屋二があり、牛は延享二年に二七七頭だというから(『角川日本地名大辞典三二 島根県』)、かなり豊かな村であったようだ。石見俳諧のひとつの中心であったのもうなずける。なお烏江は『石見人名録』に句が載っていて(また笠も穢れぬ梅の旅路かな)、「石田氏藤原縄春俗称安野ヱ門住福光村林」とある。

 広島の俳人玄蛙(一七六二―一八三五)は文政六年(一八二三)に石見を旅し、それを『萍日記』三編にしるしている(『江津市誌』下、江津市、一九八二:一〇七四。下垣内和人「翻刻『萍日記三編』」、『文教国文学』三八・三十、一九九八も参照)。

「太田の郷に行て、犂田を訪ふ。家に矍鑠たる翁あり。好て、国書を読、嘗て石見志を著し、又地理に委しく江の河の図書を撰ふ。また農家必用の書を作り、皆古書に依り、先輩の説をかうかへ、多年かき綴り、頗巻帙をなす。素り世の名を釣り、利を衒ふのたくひにはあらす。たゝ自好むところに遊ひて、性を養ふの業なりけり。かくて、天性もの覚よき人にて、常に客をとゝめて、其記憶するところを談話して日を経る事を忘る。又稀なる一畸人なり。こゝにとゝまる事、三日四日。一日雨いたく降て江河の水かさまされハ、いてやとて、犂田自網を入て、二尺余りの鯉三尾、尺に近き鮒、数口を獲て帰る。いといさきよし。かくて俎を出せハ、

 水そゝく鯉を五尺のあやめ草  玄蛙

 窓前の朝けしきは、と問はれて  玄蛙

 さと薫る軒の青葉やほとゝきす

 袷の肩にかゝる山雲  犂田

 海つらのはさりともせす夏の来て   仝

 ほこりもたゝぬ砂の夕栄  帰る

 月前の用意に小菜もまひきたし  仝

 露の草履をふるふたひ〱  田

 網代打汀を鳶の除もせす  仝

 高根おろしに白髪いらたつ  蛙

 茯苓と松の契りをものかたり  田

 しくれせしよりおこるうたかひ  蛙

 水鳥の声もこたへる腹の病  田

 入江の小浪ひとしきりつゝ  蛙

 転はしたやうに出て居宵の月  田

 刈捨てある草のやゝ寒  蛙

 宗因か笠を案山子にかふらせて  田

 桑摘こほすたしまかい道  蛙

 杣か子の雉に小弓を引張て  仝

 こゝろすハらぬ雲のむら立  田

 見破し夢の大事をわすれ兼  蛙

 浮名吹切今朝のやま風  田

 因縁を聞ハ真壁の平四郎  蛙

 いたゝく袖に霰たはしる  田

 梅椿としも三十日になりにけり  蛙

 水もよとまぬ淀の川筋  田

 旅硯筆の命毛きれもせす  蛙

 連歌の友を月に尋し  田

 粟稗の窓は鶉に明はなれ  蛙

 在所祭りの笛か聞える  田

 岩滝の流れの末に年を経て  蛙

 無理に我名を隠す竹藪  田

 村雨のかすれ〱に通るなり  仝

 孕鹿やら人もおそれす  蛙

 白かねの花咲国に迷ひこミ  仝

 脊中ほやつく草の陽炎  田」

 この「矍鑠たる翁」とは石田春葎(一七五七―一八二六)のことで、太田村の庄屋にしてタタラも経営していた。石見の地誌『角鄣経石見八重葎』や『石見名所図会』、農書『百姓稼穡元』などを著した。澗水として俳句も作った。田龍(犂田とも号す)は息子である。

 玄蛙はこのあと温泉津で入湯、西田の奇寉を訪ね、そこでも歌仙を巻いた。西田の名物は葛で、「葛の葛より出て葛より白きは、藍の藍より青きにひとしく、其製の精しきと、其水の清潔とによるなるべし」(『温泉津町誌』下:四九〇)と書いている。

 石田田龍が編んだ天保二年(一八三一)刊の『石見人名録』は石見の文化人名鑑のようなものであるが、そこには飯原人で松青と号す吉田方久の俳句(春の気の 匂ひ芳し おぼろ月)と上村の敬豊字五兵衛の和歌(来鳴くやと まくらに誇りのつもるらむ 幾夜まつちの 山ほとゝきす)が載せられている(同:五〇八以下)。

こ れに漢詩と俳句(さびしさを おのれも鳴か 閑古鳥 志明)を採られた多田道仙(多田功成 字子勤 号北州道仙 男温泉津人)は、おそらく温泉津の商家であろう(同:五一一、五一〇)。

 開花雨亦復摧花 開花の雨 亦また花を摧く

 近日無人来駐車 近日 人の来りて車を駐むること無し

 何事東皇帰駕急 何事ぞ 東皇 帰駕すること急なる

 春光狼藉委泥沙 春光 狼藉 泥沙に委す

 漢詩は主に儒者・医師・僧侶の詠むものであるが、時代を経るにつれ、それにとどまることはなかった。

 

 村の真宗寺院金蓮山願楽寺は文明三年の開基である。紫白庭が有名だが、これはもと墓地だった。天明五年(一七八五)の飢饉の際に、籾倉を開いて村人に米を施した。村人はお礼として労力奉仕して裏山を削りとり、墓地を移してこの庭ができた。

 昭和八年、この庭を詠んだ梅田謙敬(一八六九―一九三八)の「金蓮山庭園八勝小詩」がある(『大浜村誌』)。謙敬は妙好人浅原才市が法座に連なった小浜の安楽寺の住職であった。

 

  印月池

 池深幽趣有 魚樂幾浮沈 殊覚月明夜 金輪印水心

 

  白瀧泉

 一水懸巖落 靑楓蔽兩崖 中流石摧處 宛似白龍躍

 

  滿月燈

 石燈池上聳 終夜独煌々 晴雨毫無隔 看來滿月光

 

  龍背橋

 斜陽照來處 宛似黑龍璈 自在池蓮發 方知橋背高

 

  躑躅

 紅緋兼紫白 躑躅幾団花 積翠林丘色 暎來園景著

 

  翠壁岩

 絶巌經兩碧 十丈壓池高 老松蟠厥上 攀得但猿猱

 

  紅楓丘

 苔逕斜通處 楓外簇上丘 秋霜又秋兩 錦繍織來幽

 

  天柱石

 林樹摩天聳 中看巨石靑 千年苔色老 突兀壓園庭

 

 俳人中島魚坊(一七二五―九三)は大田南村に生まれた人で、元は商家だが、大火で家が焼かれ、また子を亡くしたことで剃髪し、俳句の宗匠として立つことにした。出東、米子、今市に庵を結び、俳匠として名を残すほかに、漢詩を民謡調に訳している(『唐詩五絶臼挽歌』。それは井伏鱒二漢詩口語訳集『厄除け詩集』の粉本となっている)。

 たとえば韋應物「聞雁」(故園眇眇何處/歸思方悠哉/淮南秋雨夜/高齋聞雁來)を、

 

 我故郷は遥に遠ひ

 帰りたひのは限りハなひそ

 秋の夜すからこのふる雨に

 役所て雁の声を聞く

 

と訳す(寺横武夫「井伏鱒二と『臼挽歌』」、『国文学解釈と鑑賞』五九―六、一九九四:八五。ちなみに「厄除け詩集」では、この詩は「ワシガ故郷ハハルカニ遠イ/帰リタイノハカギリモナイゾ/アキノ夜スガラサビシイアメニ/ヤクシヨデ雁ノ声ヲキク」)。

 魚坊は仮名詩もものした(松井立浪『俳人魚坊』、魚坊翁顕彰会、一九五〇:一〇五)。

 

  黄鳥

 日もうら〱と

 けふや初音の

 谷の古巣は

 いつか出しぞ

 長刀もなき

 我が宿なれば

 花踏みちらせ

 心やすくも

 

 ついでに『大浜村誌』からこのあたりの臼挽歌をいくつか挙げておこう。

 

 歌へ〱と攻めかけられて

 歌はでもせぬ 汗がでる

 

 しんぼしなされ しんぼは金だ

 しんぼする木に金がなる

 

 親は子と云ふて 尋ねもしようが

 親を尋ねる子はまれな

 

 田植歌では、

 

 この世のはじまりは いづ神か

 いざなぎ公は召し給ふ

 いざなぎと云ふ神は有難い神やれ

 人間に生まれ来るありがたい神やれ

 てうせう山に参りて 神の縁

 きかば何十五の菩薩が

 五穀の種となされた

 五穀の種をもとめ来て

 諸人の人の命つぎ

 

  七

 石見は「石見門徒」と言われるように真宗の土地である。上村の場合、文久三年(一八六三)に九二%が浄土真宗だった(「山陰真宗史」、浄土真宗本願寺派山陰教区、一九九八:一三七)。

 この宗派からは「妙好人」と呼ばれる篤信者がよく出る。「浄土宗信者の中に「妙好人」の名で知られている一類の人達がある。ことに真宗信者の中にそれがある。妙好というは、もと蓮華の美わしさを歎称しての言葉であるが、それを人間に移して、その信仰の美わしさに喩えたのである」。「婦人及び市井寒村の人々の中に最高級の妙好人を見出し得る」(鈴木大拙妙好人』、法蔵館、一九七六:一一、一二)。

 たとえば、『妙好人伝』(四編巻下)の「石州善太郎」(「此伝は同国上村願楽寺殿より親く承りて記ぬ」とある)で知られた有福の善太郎(一七八二―一八五六)である。

 善太郎は、若いころは「毛虫の悪太郎」ときらわれていた。幼い四人の子供を次々に先立たせ、四〇歳にして弥陀の教えに深く帰依するようになった。「有福の念仏ガニ」と言われていた。いつも口に念仏を唱え、いかつい容貌であったかららしい。

 寺は教化の場だが、社交の場でもあり、「耕す」という文化の原義の通り、互いに心を耕し耕される場であった。

「ある年、瑞泉寺報恩講に参ったものである。法座が終ったのち、本堂にのこった同行らは、善太郎さんをかこんで法談をはじめた。そして話がはずみ、それが最高潮に達したとき善太郎さんは便を催して、ふっと座を立った。ところが待てども待てども座に帰ってこない。

 ちょうどそのときその寺の坊守さんが庫裡の戸口に出たところ、便所の前で踊っている男がいた。それはなんと善太郎さんである。

「善太郎さん、早う帰んさい。本堂でみんなが待っとりますよ」と坊守さんが呼んだ。すると善太郎さんはわれにかえった。

「おう、そがあだったのう」といいながら、しずかに本堂の法談の座に帰ったとのことである」(菅真義『妙好人有福の善太郎』、光現寺内栄安講、一九八三:五七以下)。

 同じく妙好人とされる磯七という人がいた。「善太郎は予てより出羽村の磯七同行と昵懇であった、或年の春、態々磯七を訪ね徹宵法味を味ひながら互に踊つて喜んだ、然し自分の踊つた事は一向覚えずして、「磯七殿が踊つて喜ばれたが何と有難かつたよ」と云ふ、磯七も又自分の踊りし事は打忘れ「善太郎の踊りが面白くて有難かつた」と互に己れを忘れて喜んだと云ふ」(『大正新撰妙好人伝増補第一』、『瑞泉寺縁起史』所収:一六〇)。

 喜びに踊り出すその人柄が何ともうれしい。この磯七と善太郎が語り合っているのを戸のすき間から聞くと、「ありがたいよのう、ありがたいよのう」「親さまじゃのう、親さまじゃのう」ばかりだったそうだ。

 善太さんはなかなかすごい金釘流であるが字が書けて、書き物をたくさん残している。

「善太郎は父を殺し、母を殺し

 その上には盗人をいたし、人の肉をきり

 その上には人の家に火をさし

 その上には親に不孝のしづめ

 人の女房を盗み

 この罪で、どうでもこうでも

 このたびとゆう、このたびは

 はりつけか、火あぶりか、打首か

 三つに一つは、どうでもこうでものがれられん」(『妙好人有福の善太郎』:二〇)。

 「地獄は一定すみかぞかし」と観じていた親鸞の言う「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆへに 虚仮の行とぞなづけたる」と同じ自己認識である。肖像画に角を描かせた才市とも共通な、自分の本性に悪を見て、それでも救ってくださる阿弥陀の親様への感謝の念へとつながるものだ。

 仕事をしながらよくひとりごとを言った。

「善太や、わりゃ地獄行きだぞ」

「やれやれどがあしましょう」

「心配すんな、せわあなあ、あみだ如来がきっと引き受けて参らせてやるけえの」

「やれやれもったいのうござります」

 

 同じく妙好人と言われ、鈴木大拙に「日本的霊性」の代表と讃嘆された小浜の下駄職人浅原才市(一八五〇―一九三二)は、おそらくもっとも有名な妙好人であろう。仕事のかたわら1万もの口アイ宗教詩をカンナ屑に書きつけた。

「わしの後生わ、をやにまかせて、

 をやにまかせて、わたしわ稼業。

 稼業する身を、をやにとられて、

 ごをんうれしや、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」

 善太郎さんと違い、才市つぁんはごく近年生きていた人なので、経歴もわかれば接していた人々の思い出も書き残されている。まだ「生」である。たとえば、飯原から薪を売りに行った人が才市に値切り倒されたなどという話がある。「才市さんはあれでなかなか欲でしたけーなー」と述懐したそうだが、つましい下駄作りが言い値どおりにぽんぽん払えるわけがない。これは飯原から小浜へ薪をかついで売りに出ていたことを示す例と聞こう。

 

 時に洗われた善太さんは昇華されていると言っていい。その極まりが土地の盆踊りの善太郎口説きである(『妙好人有福の善太郎』:一六六以下)。

「広い世界をたずねてみても

 真の同行はまれなるものよ

 国は石州浜田の領地

 村は有福、善太郎同行

 若い時より法義のきざし

 これが信者と名高くなりて

 智者も学者もおろかなものよ

 真似がしたいとかかってみても

 胸に尊き信なきゆえに

 だれも及ばぬことばかり

 御身、要心、怪我でもなすな

 あわてまいぞえ、若衆どもよ

 わしもお前も前世を知らぬ

 わしは定めてお前の物を

 前の生にて盗んでおいた

 返しにゆくべきこの柿なれど

 取りにでて来て下さるそうな

 何も前世の約束なりと

 三世因果の道理を説いて

 法義話でよろこぶばかり

 口は無口でものかずいわず

 時におりおり念仏となえ

 これも仏のもよおしなりと

 自力我慢の風情もみえぬ

 いつも変わらず、こと柔らかに

 心しずかにおさまりて

 身柄かたちはつくろいもせず

 自力雑行の垢ないように

 寺へ参りて御法の水の

 ことにすぐれし大谷川の

 清き流れに心をあらう

 知らぬ他国の評判たかく

 善太、善太とそのふうみれば

 着物みじかく心は長く

 帯は解けても、あわてはせぬよ

 キンカ頭に破れた帽子

 百姓仕事の合い間の時に

 寺やお宮や市町出でて

 少々ばかりの商いめさる

 ミカン、クネンボならべておいて

 御法聴聞その尊うとさよ

 銭をとるより法義の金と

 永い未来の出立ちの用意

 ご恩、お慈悲と天にも躍り

 地にも伏しつつ喜ぶばかり

 法座おわって店棚みれば

 カキもミカンも行方が知れず

 帰る時にはあきカゴさげた

 あわれ、しほしほお念仏

 時に天保申年のことよ

 五穀実らず大飢饉

 米が一升で三百、四百

 人々乞食、飢えかつえける

 ここも盗賊、あそこも盗人

 少々もちたる善太の米を

 ある夜盗人忍んできたり

 盗みとらんとあたりをみれば

 善太そ知らぬ横顔ふりて

 人の悪さは、みな我悪き

 昔、負いたる借銭なりと

 思いまわせば南無阿弥陀仏

 善太くどきもまずこれまでよ」

 石見の地生えの文学である。

 なお、この地方の盆踊りの口説きでは「石童丸」「鈴木主水」「巡礼おつる」などが人気がある。櫓を組んでそのまわりを回る輪踊りで、有福の盆踊りは、時計方向に前進、右横一歩・二歩前進・一歩後退、一歩前一歩後、一足毎に足をそろえる。手拍子はトトトンの時に一回一つで、囃言葉は「ヨイトコセードッコイセー」「サラヨヤサノサーヨーイヤナー」、楽器は大太鼓のみ(平田正典『石見の盆踊り』、一九七七)。

 善太郎口説きは戦前利尻島でも歌われていたらしい。利尻の住民のほとんどは北陸や出羽の出身で、真宗門徒である(『妙好人有福の善太郎』:一六四)。北前船以来の日本海航路のあった時代、山陰や北陸から北海道は決して遠くなかった。一九〇二年生まれのうちの祖父が小樽商科大学に進んでいるのも、現代人はよくぞまあとこそ思え、そのころは東京などよりよほど近かったのかもしれない。

 

  八

 小浜厳島神社のお日待はもと旧暦一月一四日夜に行なわれ、太鼓を叩きながら町中を「ネータラオコセ、オーコセオコセ」と呼ばわって回り、拝殿では子供たちが「オージヤオージ、ゴロサンノオージ」と叫んで床板を踏み鳴らす。これは、昔小浜の神様に五人の子があったが、末弟五郎の王子は気が荒く、神様は四人の兄には領地を与えたが五郎には何も与えなかった。五郎の王子は怒って家々の戸を叩き大声を張り上げて夜も寝ずに飛び回った。それから五郎を荒神として祀り、火難除けとしたという伝説に基づく(『温泉津町の伝説』)。これは石見神楽で最も重要な演目とされる「五龍王」が伝説として入り込んだものであり、その筋立ては、大王が四人の息子に東西南北、春夏秋冬、木火金水を分け与えるが、大王の死後に生まれた五郎は何も与えられなかったので、四人の兄と争いになり、博士の仲裁により兄たちから土用の分を得て収まるという話である。もとは土公祭文で陰陽師の説くところだったようだが、神楽を経て習俗にまで浸透していたわけである。これを「農民の哲理」と評す人もいる。

 石見といえば石見神楽だ。神楽はもと神職が勤めていて、近隣の神職と神楽組を作って奉納していた。たとえば明和八年(一七七一)上津井での大元神楽では、注連主に波積の神職郷原氏がなり、井田長尾氏・湯里原田氏・福光森山氏などの神職一〇人が参加している(山路興造大元神楽の性格とその変遷」、『邑智郡大元神楽』、桜江教育委員会、一九八二)。大元神楽では神憑りし託宣をすることも神楽の重要な一部であった。それは七年や十三年に一度行われる式年神楽であった。

 今日の石見神楽の隆盛を招いたきっかけは、明治三、四年ごろに出されたという神職演舞禁止令と神憑り禁止令である。神楽舞を禁止された神職は、農民町民に神楽を教えた。浅井の田中清見が細谷社中に、市山の牛尾菅麿が井沢社中に教えたように。しかし、そのように伝習を受ける前から、民衆は舞いたがっていた。江戸時代末期、天保の初年に浜田藩は村の若者が舞うのを禁止したというが、禁じられたというのはつまりそれがしばしば行われていたということだ。神職に対する禁令によって、言うならば虎が野に放たれた。伝承に何の苦労もいらず、舞い手囃子方希望者が女性を含む若者に絶えず、俗化ショー化のそしりもものかは、石見の人々を引きつけてやまない現代の石見神楽の隆盛をもたらしたのは、愚かしい明治の神道政策とその禁令であった。神職演舞禁止令のほうは守られることによっていわば神楽を水を得た魚にしたわけだが、神懸り禁止令は山中の村で守られずに、こっそり続けられた(八戸、山内など)。上の政策に対し下の対策の両様が見られると言っていい。明治は神楽がそれを愛する者の手にゆだねられた再生の時であったと言える。一番の人気演目「大蛇」の蛇胴はそのころ考案されたし、面も重い木面から軽くて舞いやすい和紙面となるというふうに、創意工夫が重ねられた。調子も速くなった。「アマチュア」の原義にそむかず、舞い手は愛する人でありつづけ、愛する人のもとで神楽は人気をいや増す。石見人は石見神楽を誇るが、石見神楽も石見人を誇るべきであろう。

 

  九

 日本の国土の四分の三は山である。海辺から少し入れば山ばかり。その山にはよほどの奥でない限りどこでも人が住んでいて、「文化生活」を営んでいた。かつての日本を下からしっかり支えていたなつかしい村里は、今や「限界集落」なるものになってゆきつつある。猿や鹿、猪に領分を譲り渡しつつある。本当に失われ切ってしまいそうな今この時代に、それをしるしておくことは無駄ではなかろう。

 滅び去るものには必ず理由がある。真理である。だが、その真理の彼岸に、父母を、そのまた父母を、そのまた父母、父母、父母たちを慕う心がある。事績を尋ねる所以である。

 さてさて、幽蘭女史にいざなわれた村里文化たどりも、まずこれまでよ。

 

 

(資料として特に『大浜村誌』、『温泉津町誌』下巻、『江津市誌』下巻、ブログ「私の生まれ育った温泉津町・飯原」(https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/elblanco_43:半田武晴氏)を参考にした。父と瀧光寺新治弘念師の調べの引継ぎである。)