アララトはあるかあらぬか雲の涯

アルメニアに来たら、アララト山を見なければ。何も努力のいることではなく、首都イェレヴァンに来て、顔を南に向ければ見える。晴れていればだけど、雨の少ない土地だから、何日かいればきっとよく晴れた日にめぐりあう。
その標高は、実はいろいろな本で少しずつちがっている。平凡社の百科事典にある5165mというのをあげておく。数字だけ見ればもっと高い山はたくさんあるが、たいていはそれ自体高地であるところからごつごつ盛り上がった山脈の連なりの特に突き出た部分である。アララトの場合、標高800mのアラクス平野からいきなり聳え立つ。だから圧倒され、崇高の気を感じるのだ。浜辺から見上げる富士山のようなもので、高度差だけとればそれよりすごい。形の優美さでは富士に少し譲るかもしれないが、となりの小アララト山はまったく富士山型だ。
アルメニアの象徴であるが、実は今のアルメニア共和国の領内にはない。しかし国章にはつねに描かれてきた。第一次大戦後、山全体がトルコ領となったあと、それでも国章にアララトの双峰を使いつづけるソヴィエト・アルメニアに対し、自国の領内にないものを描いているとトルコが文句をつけたことがあった。そのときソ連の代表は、貴国の旗には月と星が描かれているが、あれはお国のものですかと切り返したそうだ(註1)。
こういう山を人は放っておかない。さまざまな話がそれをめぐって語られる。そのうちのもっとも有名なものが、ここにノアの箱舟が漂着したという伝説である。


1.「ノアの箱舟山」
「5月30日、土曜、城を発って、ノアの方舟が着いた山の麓を通る道を進んだ。この山はひじょうに高く、山頂には雪が積もり、樹木はなく、雲にすっぽり包まれていた。山腹にはあちこちに牧草地と小川があり、道は山の周囲をぐるりとまわっている。…
 山の裾野を行くと、その途中に、約4キロの長さにわたって人家が並んでいるが、かなり以前から人は住んでいない。この地方の言い伝えによると、ここは大洪水のあと、ノアとその息子たちがはじめて建設した町であるという。家並のまえには葦の茂る平野が広がり、あちこちに泉が湧き出ている。平野の周りは沼地である。
 この山はほっそりした姿で、剣先のようにとがった山頂はひじょうに高く、雪に覆われている。しかし、雲がかかっているせいで、はっきりとは見えない。
 その高さのため、この山には一年中、夏も冬も雪が残っているという。
 この日、我々は、石のアーチの下を流れる美しい泉のまえで、少し歩みを止め、体を休めた。この場所から見ていると、雲が晴れて、山頂が姿を現わしたが、それもほんの束の間のことだった。雲はめったに晴れないらしい。
 この山の横には、もう一つ山がある。頂上は同じようにとがっているが、アララト山ほど高くない。この二つの山のあいだの地面は、鞍のような形をしており、そこに方舟が着いたのだという。この山塊はひじょうに高く、山々の頂はすべて雪に覆われている」(クラヴィーホ:130f.)。
15世紀初めにスペインからティムール大帝のもとへ派遣されたクラヴィーホの旅行記の一節である。19世紀の旅行者も、いやわれわれだってこうも書くであろうような過不足ない記述だ。当時から今に至るまで、西欧の人々はこの山をこう見てきた。


麓を東西交通路が通っていたので、西洋から東洋へ、あるいはその逆の方向へと旅する人々はアララト山に目をとめてきた。今も読み継がれる旅行記を残した大旅行家たちも、この山の美しい姿を旅路に眺め、伝説を書き記した。「東方見聞録」のマルコ・ポーロもそうである。
「この国にはまたその中央部にコップ型の高山があって《ノアの箱舟山》と称されているが、その理由はこの頂上に箱舟が安着したという伝説に基づく。この山は山体がすばらしく広大で、周回するには二日以上もかかるし、深い万年雪に覆われているため、まだ山頂を窮めた者はだれもいない。この雪どけ水に潤されて、山麓の緩い傾斜面では草の生育が旺盛で、夏になると近隣の各地からこの牧草を目あてに多数の人々が家畜を連れてやってくる」(ポーロ:77)
モンゴルの大汗のもとへ使節として遣わされた「ルブルクのウィリアム修道士の旅行記」(13世紀半ば)第38章にはこうある。
「この都市(ナクスア[ナヒチェヴァン])のちかくに、ノアの箱舟のとどまったといわれる山々があります。二つの山があって、一方は他方より大きく、アラクセス河がこの二山の麓を流れています。ここにツェマニウムという町がありますが、これは「八」を意味します。人々のいうのによると、この名前は、箱舟から降りて高い方の山上にこの町をたてた八名の人に由来している、のだそうです。この山に登ろうとした沢山の人がいましたが、成功しませんでした。例の司教の話では、或る修道僧がどうしても登りたいと思っていたところ、一人の天使がかれの前にあらわれ、箱舟の木材を一片持って来て、もう登ろうとはするな、と言ったそうです。人々は、その木材はアルメニア人の教会に保存してある、と申しておりました。見たところこの山は、人間がたやすく登れぬというほど高くはありません。或る老人がわたしに、誰もしれに登ってはならない理由をはなしてくれましたが、それは全くもっともでした。アルメニア人はこの山をマッシスと呼びますが、これは、アルメニア語では女性名詞なのです。その老人は、
  マッシスは世界の母だから、誰もこの山に登ってはいけないのだ。
と申しました」(カルピニ/ルブルク:303f.)。


旧約聖書の「ノアの箱舟」の話は誰でも知っている。神は堕落した人間を滅ぼすために洪水を起こすが、そのことをあらかじめ告げられた義人ノアは箱舟を作り、それに妻と三人の息子とその妻たち、動物を雌雄一対ずつ乗せ、助かるという話。水が引くと舟は陸地に乗り上げるはず。その場所について、「創世記」(8: 4)は「箱舟は七月十七日にアララテの山にとどまった」としている。これを典拠に、「アララト山」に箱舟を求める人々が出てくるわけだ。「箱舟の遺物」を発見したと称する人々が陸続と現われている。特に戦後盛んになり、フランス人やアメリカ人や、そのいちいちは把握もしていないし(したくもないし)、挙げないけども、熱心なことではある。ただ、ルブルクのウィリアム修道士が触れているように、エチミアジンに「箱舟の板」が中世以来聖遺物として保管されていることだけ言っておこう。
だが、聖書の「アララテの山」は字義通りには「山々」で、「アララテ」も山の名ではなく、国の名である。「イザヤ書」(37: 38)、「列王紀」下(19: 37)に、ニネベでアッシリア王セナケリブを殺した二人の息子アデラン・メレクとシャレゼルは「アララテの地へ逃げていった」とある。神がバビロンを呪って、「アララテ、ミンニ、アシケナズの国々をまねいてそれを攻め」させると言ったくだり(「エレミア書」51: 27)もそうだ。後述するように、この「アララテ」は、新アッシリア王国の強盛時代、その北方の山地に栄えたウラルトゥ王国のヘブライ語形である。つまり、聖書が言っているのは「ウラルトゥ王国の中の山」ということであって、特定の山名ではないのだ。
旧約聖書ユダヤ教キリスト教聖典であり、イスラムにおいてもコーランにとりこまれたため、ノアの洪水は彼らすべてにとって重要な神の業であった。


ヨーロッパ人以外の旅行者の記録に目を転ずれば、マルコ・ポーロと並ぶ中世の大旅行家イブン・バットゥータ(14世紀)はこう書く。
「われわれは、その町(ジャズィーラ・イブン・ウマル)に滞在の日に、いと高き偉大なる神の書[コーラン]の中に記されたあのジューディー山(ジャバル・アルジューディー)を望むことが出来た。つまりノア――彼に、平安あれ!――の方舟が最後に止まったのは、他ならずこの山であって、高く聳え立つ山である」(バットゥータ:51)。
その山頂にはノアのモスクがあったという(バットゥータ:99、注170)この山は、ヴァン湖の南、モスルの北、昔のウラルトゥの地であり、現在の言い方では「クルディスタン」に属する地域にある標高2089mの山である。12世紀の旅行者イブン・ジュバイルもこの山の近くを通り、同様の記述をしている(ジュバイル:231)。なるほど、キリスト教徒であるヨーロッパ人はキリスト教地域を、ムスリムムスリム地域を旅するのだなとおもしろく思う。
ここに別の有力な「ノアの箱舟山」が現われた。このムスリムの「ジューディー山」伝承は「コーラン」に由来する。
「やがて、声あって曰く、「大地よ、汝の水を呑みほせ。大空よ、鎮まれ」と。すると洪水は引き、事件は完全に了って、舟はジューディー山の上に止った」(「コーラン」11: 46、井筒俊彦訳)。
マスーディー(10世紀)は、ノアはクーファで舟に乗り、舟はメッカへと進んでカーバ神殿の上を回り、そのあとジューディー山に着いた。その場所は今でも見ることができると書いているそうだ(Noah/JE)。なお、この山にはアッシリアセンナケリブの碑文がある(EI 2: 574)。


コーラン」は7世紀。「旧約聖書」はずっと古いが、しかしそれとて相対的な古さでしかない。
「聖書学」というのは欧米でずいぶん発達した学問で、聖書は文献学的に精査されている。聖書成立史は情熱をもって考究される。だが、そんなことを何も知らず、ただ常識をもつのみの素人が読んでも、ノアのくだりで言えば、洪水の続いた期間や箱舟に入れた動物についてたがいに齟齬する記述が目につく。一方で40日40夜続き、潔い動物を雌雄7対、潔くない動物を雌雄2対乗せたと言うかと思えば、他方では150日、すべての動物1対ずつとも言っている。前者は「ヤーウェ資料」と呼ばれる前9世紀のものに基づき、後者は「祭司資料」という前6世紀のものによるという。漂着地については「祭司資料」に出てくる。
だから聖書はかなり古いのだけども、それよりさらに古く、「ギルガメシュ叙事詩」の中で洪水伝説が語られている。不死を求めるギルガメシュが神々によって永遠の生命を与えられたただ一人の者、ウトナピシュティム(「生命を見た者」の意)を訪ねていく。彼はギルガメシュに洪水の話をする。
シュルッパクの町の神々が大いなる神々に洪水を起こさせた。エア神は葦屋の壁に向って、「ウバラ・トゥトゥの息子ウトナピシュティムよ、舟を作りすべての生き物の種子を中に運びこめ」と言った。ウトナピシュティムは、7層の箱舟をつくり、瀝青で防水し、家族や動物を積み込んで、船頭プズル・アムルに舟をゆだねた。シャマシュ神が雨を降らすと告げ、大洪水が起こった。人間はすべて泥土に帰した。6日6晩洪水が続き、そのあと箱舟はニシル(またはニムシュ)の山にとどまった。ウトナピシュティムは鳩、燕、烏を放つ。鳩と燕は休む場所がないのでもどってきたが、烏は帰ってこなかった。彼は山の頂で犠牲をささげた。神々はよい香りをかぎ、集まってきた。エアは洪水を起こしたエンリル神に、「人間を減らすためなら、ライオン・狼・飢饉・疫病を送るべきだ、罪ある者も罪なき者も根絶やしにする洪水ではなく」となじった。エンリルはウトナピシュティムに永遠の命を与え、川々の河口に住まわせた。
ギルガメシュ叙事詩」は前20−16世紀の古バビロニア時代にすでに成立しており、後期バビロニア版はヘレニズム時代まで行なわれていた。ヒッタイト語やフルリ語の版もあったし、エラム語「ギルガメシュ叙事詩」断片(前8世紀)がウラルトゥの遺跡(現在のアルメニア共和国アルマヴィル)から出土している。
シュメール語の「洪水伝説」もあった(今残る粘土板は前1600年ごろだが、伝説自体はもっと古い)。大洪水前に五つの都市があった。神々が洪水を起こし、人類を滅ぼすことにした理由は原文欠損のためわからない。神は壁に向って話すことでシュルッパクの王ジウスドラにそのことを告げる。彼はそのお告げに従い巨大な箱舟を作った、というくだりがあったはずだが欠損している。まもなく大嵐が七日七晩吹き荒れ、洪水の中を箱舟は漂った。やがて太陽が昇ると、ジウスドラは舟に窓をうがって伏しおがみ、犠牲をささげた。その後ジウスドラは永遠の生命を与えられ、太陽の昇る国ディルムンに住まわせられた。
アッカド語では「アトラ・ハシース物語」にも大洪水の話が出てくる。アトラ・ハシース(最高の賢者)の名は「ギルガメシュ」にも現われ、ウトナピシュティムがそう呼ばれている。
「シュメール王名表」や「ラガシュの君主たち」にも洪水の言及があって、洪水以前と以後に王をわけており、洪水はシュルッパクの王ジウスドラの時代であるとしているそうだ(月本ギルガメシュ注:22)。ウバル・トゥトゥ(「ギルガメシュ叙事詩」のウトナピシュティムの父)の名もシュルッパクの王として出てくるし、ジウスドラはウバル・トゥトゥの子、ス・クル・ラムの子とされている(パロ:138)。人名をめぐっても確固たる伝承があり、それは歴史的伝統なのである(ギルガメシュも、洪水後のウルク第一王朝の5番目の王として王名表に名前がある)。考古学はメソポタミアの諸都市を発掘し、そこに洪水によってできた層の存在を確認した。それはもちろん全世界を呑み込むようなものではなく、地方的な洪水であろうが、そういうティグリス・ユーフラテス川の氾濫が西アジア洪水伝説の背景にあるのだろう。
聖書創世記と古代メソポタミア伝説は、神が人間を滅ぼすため大洪水を起こす、ある男が神のお告げで箱舟を作る、それに動物を雌雄ひとつがいずつ乗せる、鳥を飛ばして水が引いたかどうかを知る、洪水のあと犠牲をささげるというモチーフが共通している。明らかに聖書の洪水伝説はメソポタミアの同種の伝説に由来し、シュメール−アッカドヘブライと系譜が続いているのだ。


バビロンの神官ベロッソスは、前257年ギリシア語で「バビロニア史」を書いた。
「アルダテースが死んだので、その子のクシストロスが18サロイのあいだ統治した。かれの知性に大洪水が起った。歴史はつぎのように記している。クロノスが夢にかれに現われて、ダイオシスの月の第15日に人間は大洪水によって亡ぼされるであろう、と告げた。したがってかれはシッパルの太陽の町に、初め、中ごろ、終りについてのあらゆる書物を埋めてそれを残すように命じた。ついで舟を造り、親類親友とともにその中に入り、食物と飲料を積み、動物、鳥、四足獣も入れ、すべて用意の整ったのち、舟を出すように命じた。もしだれかがどこへ航海するのかとたずねたならば、人間によきものが与えられるように祈るため、神々の方へ、と答えればよい。かれは命令に背かないで舟を造った。その長さは5スタディオン、幅は2スタディオンであった。それから命令されたことをことごとく整えて、妻、子、親友を乗せた。
 大洪水が起って、やがて終った。クシストロスは数羽の鳥を放った。しかし食物もとどまるべき場所も見あたらないので、舟に帰って来た。三度目に放ったが鳥はもはや舟に帰って来なかった。クシストロスはそのとき、地面が現われたのを知った。そこで舟の部屋の窓を開き、舟が山の上に漂着しているのを見て、かれは妻と娘と水先案内とともに上陸し、地に接吻し、祭壇を築き、神々に犠牲を捧げると、かれは下船したひとびとと共に見えなくなった。
 舟に残ったひとびとは、クシストロスとともにいたひとびとが、帰って来ないので、上陸し名を呼びながら探した。クシストロスはもはやかれらには見えなかったが、声だけが空から聞こえてきた。その声はかれらに信仰深くなければならないこと、なぜならば、自分が神とともに住むためにこうして出発し、妻や娘や水先案内人が同じ名誉にあずかったのも信心のゆえであることを告げた。またかれはかれらにバビロンに帰ること、かつてかれらにいったように、ひとびとに知らせるべき書物をシッパルから取りだすこと、またかれらがいるところはアルメニアの地方であることを告げた。
 かれらはこれらのことを聞いて、神々に犠牲をささげ、バビロンに向って歩き出した。アルメニアに漂着した舟は、アルメニアクルド山脈にその一部をなお残している。あるひとは舟のアスファルトをはがし、持ち帰って毒消し(お守り)に用いている。かれらはバビロンに着いて、シッパルから文書を掘り出し、ついで多くの町を建て、神殿を建て、バビロンを再興した」(パロ:136f.)。
クルド」と訳した個所はゴルデュアエGordyaeanである(矢島ギルガメシュ:201)。クロノスとギリシアの神名になっているのはエアのことであろう。
「クシストロス」の名はシュメールの「ジウスドラ」であるし、父の名「アルダテース、オーティアルテース」は「ギルガメシュ叙事詩」の「ウバラ・トゥトゥ」から来ている。シュメール・アッカドの洪水伝説がこの時代まで伝えられていたのである。この書は散逸したけれども、アレクサンドロス・ポリュイストール(前1世紀)の抜粋があり、それをさらにカイサレアのエウセビオス(3−4世紀)が「年代記」に引き、これも原書は伝わらないが、シュンケロス(9世紀)のアルメニア語訳で残っている。
アルメニアでも、モヴセス・ホレナツィの「アルメニア史」(1:4;6)にクシストルの名が出る(Moses von Chorene: 6; 13; 15)。ノアの名も出るけれど、洪水の主人公としてはこちらの名前で言及される。シュメール・アッカドの伝承はかくも根強い(註2)。


ベロッソスの話は、洪水伝説としてはシュメール以来の古伝説の再話であるが、箱舟の着いた場所についてはそれらとは少し違っているかもしれない。「アルメニアのコルドゥエネ山地」だと言っているのだから。
「ニシルの山」は、ティグリスの支流小ザブ川の南、キルクークの北東にあるピル・マグルン(ピル・オマル・グドルン「祖父オマルの山」)だとされている。アッシリアのアッスルナシルパル2世(前9世紀)はその山を知っていたという(コーン:141)。「『バビロニア・タルムード』サンヘドリン96aは、アッスュリアの王センナケリブノアの箱舟の厚板を発見したという伝承を保存している」(ヨセフス?−?:315、注34)そうだ。タルムードだから「ノアの箱舟」としているが、センナケリブとしては「ウトナピシュティムないしジウスドラの箱舟」であろう。するとその舟の板があったのは「ニシル山」である。古代アッシリア人には「ニシル山」とされる山はよく知られていたらしい。
ヨセフス(1世紀)は「ユダヤ古代誌」でベロッソスの記述に言及しているが、彼はそのほかにも、アディアベネ(上メソポタミア、大小ザブ川の間にあった)の王モノバゾスはその子イザテースに「カローン」の土地を贈った。「その土地はアモーモン(香料の木)の大量栽培の適地であり、またそれによってノーコス(ノア)が洪水から救われたという言い伝えのある箱舟の残骸が残っている所でもあった―この残骸は現在でも、好奇心のある人ならだれでも見ることができる」という伝えを書き記している(ヨセフス??:14)。
要するに、古代に箱舟の漂着地として知られていた山があるのは、コルドゥエネ(ヴァン湖の南の山岳地帯、今のシュルナク地方)か(註3)、アディアベネ(今の大小ザブ川の間、エルビルを都とする地方)である。そしてジューディー山はコルドゥエネに、ピル・マグルンはアディアベネにある。
コルドゥエネとアルメニアの関係をみると、前400年ごろこの地域を通ったクセノポンは「アナバシス」でケントリテス川(今のボフタン・スー)をアルメニア人とカルドゥコイ人(クルド人の祖先であるというのがほぼ定説)の居住地域の境としているし、第一次大戦後の(実現しなかった)セーヴル条約によるアルメニアの領域にもこの地域ははいっていないが、アルメニア王国の版図に含まれていたことはある。後述する古代王国ウラルトゥの領域でもあった。古典古代がそれをアルメニアと同一視したのなら、「アルメニア」と言ってよかろう。


ダマスカスのニコラオス(前1世紀)によると「アルメニアのミニュアスの北にバリスと呼ばれる大きな山がある。言い伝えによれば、あの洪水のとき、おおぜいの者がそこに難を逃れて助かったが、箱舟で運ばれてきた一人〔の男〕は、山頂に漂着し〔て助かったと言われ、箱舟の〕木材の残片が長い間保存されていた。思うにこの人物は、ユダヤの律法制定者モーセースが書き記している者と同一人物であろう」(ヨセフス?−?:64f.)ともヨセフスは記している。
「新パウリ古代事典」はこの「バリス」を現在のアララト山であるとしているが、これはそのままには受け取れない。根拠として示されるのがまさにこの一節なのだから。「箱舟が着いたのは今のアララト山である、だからバリス山がアララト山の古代の名である」というわけだが、その前提が確かでないのだから、後件の成立は怪しい。「ミニュアス」というのが聖書の「ミンニ」なら、それはウラルトゥ時代の「マンネア(マンナ)」のことと思われ、その国はウルミア湖の南にあった。それでは位置的にずれる。また、ストラボンの地理書には「バリス」という神殿が出てくる(Strabo 5: 335)。アブス山とエクバタナの間のどこかにあったらしく、アブス山はユーフラテス川とアラクス川が流れ出るところ(Strabo 5: 321)というから、エルズルムあたりなのだろう。たしかにエルズルムとエクバタナを結ぶ道はアララト山の南麓も行くが、マンネア地方も通る。だから、確証がない限り、この「バリス」山が今のどこに当たるかは不明としておくしかあるまい。


ヨセフスはまた、「箱舟は、アルメニアのある山の頂きに漂着した」。「アルメニア人は、箱舟が無事に上陸したという意味で、その地点を「上陸地点」と呼んでいる。彼らは現在でもその残骸を見せてくれる」(ヨセフス?−?:64)とも伝えている。一方で、アララト山の南東、ナヒチェヴァンの町の名は、「最初に降りた(休んだ)場所」の意味であるという語源説がある。これは一見ヨセフスの証言と符合するように思える。しかしよく考えると疑わしい。
アルメニア人はそのころキリスト教徒ではなく、ゾロアスター教徒だった。だから「ノアの箱舟」を知っていたはずはない。舟が漂着したというならば、それはシュメール・アッカドのほうの話であろう。それはどこにもせよメソポタミア平原から見える山であったはずだ。また、ナヒチェヴァンのほうは、アララト山の近くとはいえ、アラクス川をへだてた平地の町だ。この地名の語源が上陸であるなら、それは川からと解すのが自然で、山の上の箱舟からではありえない。


旧約聖書偽典「ヨベル書」(前2世紀後半)では、箱舟の着いた山は「ルバルLubar山」とされている。「箱舟はさらに進んでアララテ山脈の中の山のひとつルバル(山)の頂上に止まった」(5: 28)。そして「ノアは先祖たちとともに永眠し、アララテの地はルバル山に葬られた」(10: 15)(ヨベル書:40; 54)。ミドラシュ「ノアの書」にもアララトの国の山のひとつとして言及されているそうだから(同:302)、何か拠るところはあるのだろう。はっきりと挙げられている数少ない山名だが、今のどこに当たるのかわからない。これを「エルブルズElbruz」とする説があるそうだが(Noah/JE)、それでは「アララテ」から遠くはずれてしまう。しかしエルブルズ山脈のダマーヴァンド山に箱舟が漂着したという話がその地にはあるようだ(EI 2: 106)。


「箱舟山」はしかしこれらに止まらない。
それはアラビアにあったとも考えられており、テオフィルス(2世紀)はアラビアの山々の上に箱舟の残骸が見られると書いている(EI 2: 574)。イェメンのサヌア近郊の山にもそんな伝説があるらしい。
ユリウス・アフリカヌスは、「ノエは洪水が来たとき600歳であった。そして水が引いたとき箱舟はアララトの山に着いた。それはわれわれの知るところではパルティアにあるが、ある人々はフリギアのケライナイ(カレーネー)だと言っている。私は両方の場所とも見た」と言っているそうだ(Franz所引)。ケライナイは、アポロンと音楽の腕くらべをしたサテュロスのマルシャスが敗れて皮を剥がれた洞窟のあるところである。
イランのザグロス山中にも、ビストゥーンの南のサル・クシュティという山に箱舟漂着の伝えがあるとローリンソンの踏査記録にある。さらに、バルチスタンのタフティ・スリマンにも箱舟漂着の話があるというが、ここまで離れれば「史実」性とは完全に無縁だ。もとより「史実」などではないのだから、それが本来あるべき場所、つまり説話学として考察されるのがふさわしい。


説話といえば、14世紀のマンデヴィルの「旅行記」にはこんな記述がある。
「この大アルメニアを通りすぎると、ペルシャの海に出る。そして、その近くに、アララトと呼ばれる山があるが、ユダヤ人はこれをタノと呼んでいる。ノアの箱舟が洪水後に横たわったのはこの山頂である。だが、今でも、舟はそこにあって、晴天の日には、遠方からこれを眺めることができる。その山は7マイルの高さである。ある人々の話によると、彼らはそこに登って、ノアが万物の頌を唱えたとき、悪魔が逃げ出した穴に指をつっこんでみた、という。だが、それは嘘である。というのは、一年じゅう、冬も夏も、雪に掩われているため、だれもこの山には登れないからである。
 ノアのあと、ただひとりの僧をのぞいて、だれひとり一度もそこへ登ったものはいない。その僧侶は神のお恵みによって、山に登り、そこから、一枚の舟板をもち帰った。その舟板は今でも山麓修道院に保存されている。ところで、この僧侶はなんとかして山に登りたいと思った。そこで、ある日のこと、山登りを強行してどんどん登っていった。だが、三分の一くらい登ると、ひどく疲れて、もはやそれ以上登れなかった。そこで、休息して、そのまま眠りこんでしまった。そして、目がさめてみると、いつのまにか、ふたたび山麓にまいもどっていた。彼は神にむかって、どうか山頂にあげてほしいと祈った。すると、ひとりの天使が現われて、山に登るように命じた。彼はその通りにして、前述の舟板をもち帰ったのである。それ以後、だれひとり山頂に達したものはない。だから、そこに登ったなどという人々は嘘をついているわけである」(マンデヴィル:113f.)。
これは架空旅行記で、著者は東洋に旅などせず、他人の旅行記の記述を継ぎ合わせて再話する形で書かれた。この中に「悪魔が逃げ出した穴」というのが出てくるが、それはいわゆる「ノアの箱舟に乗った悪魔」(AaTh 825)の話に基づいているのだろう。
悪魔が箱舟に乗せてもらえないので、ノアの妻をつかまえて舟に入らせない。ノアがしかたなく「悪魔も入れ」と言うと、悪魔は入ってきて鼠に姿を変え、船底をかじって穴をあける。ノアはライオンに助けをもとめる。ライオンがくしゃみをすると鼻から猫が出てきて鼠を食う。その結果この二つの動物は仲が悪い、云々。
後半の僧の話もおもしろい。これはのちのニシビスの司教ヤコブHakob Mtzbnetsiのことで、5世紀頃書かれたビザンチウムファウストゥスの「アルメニア史」に出てくる。彼が登ろうとした山はコルドゥクKorduk地方(コルドゥエネ)の「サララトSararat山」だとされているというが、これは今のアララト山ではない。初期中世アルメニアの歴史家は、箱舟はコルドゥエネにあるものと考えていた。12世紀ごろから現在のアララト山の話と考えられるようになったのである(Petrosyan: 36; Lynch: 197)。山腹にある聖ハコブの泉もそのころこの名を得(ヤコブアルメニア語でハコブ)、近くに聖ハコブ修道院もできたという(Petrosyan: 36)。


つまり、徐福の伝説と同じである。徐福が童男童女をつれて出発したのは海中の三神山蓬莱・方丈・瀛洲に向かってであって日本ではないのに、日本のほうでは徐福が来たとの伝説ができてしまうというような。
だから、ノアの箱舟の残骸なるものがかりに今に残っているにせよ、それがアララト山にないことだけは確かである。だが、情熱に駆られた人はそれを探しつづける。そして探す人は、不思議なことに必ず見つけるのだ。求めれば与えられるというのが教義なら、たしかに聖書に即してはいるようだ。


2.「アララト」の地、「アララト」の山
聖書の「アララテ」は、歴史上では「ウラルトゥ」と呼ばれる前9−6世紀にアルメニア高地地方に栄えた王国のことを指す。「ウラルトゥ」はアッシリア人がそう呼んでいた名で、自分たちは「ビアイニリ」と称していた。都はヴァン湖のほとりにあり、アラクス川の平原も拠点のひとつであった。最盛期にはアッシリアと張り合い、何度か侵入を受けても盛り返し、アッシリアが滅んだのちまで続いたが、最後にはメディアに滅ぼされた。その言語はセム語でも印欧語でもなく、前2千年紀中葉に小アジアの山地から上メソポタミアにかけてミタンニ王国を建てていたフルリ人の言語と親縁である。
ウラルトゥ人は、そののち彼らの故地に居を占めたアルメニア人やクルド人の中に解消された。印欧語であるクルド語の北部方言に能格構文があるのは、おそらくウラルトゥ語から継承したものと思われる。
前6世紀初頭にウラルトゥ王国は滅び、同じ世紀の半ばに「アルメニア」が初めてペルシアの碑文に現われる。これ以後、それまでの地名「ウラルトゥ」は「アルメニア」に置き換えられていった。ラテン語訳聖書ヴルガタ(3世紀末/4世紀初)には、箱舟は「アルメニアの山々」に着いたとあるそうで、のちに新ヴルガタで「アララトの山々」と訂正されたという(Ararat/Wikipedia)。「ウラルトゥ=アルメニア」の変換式が機械的に働いた例である。今の北京の町は、元代には「大都」であった。「北京」は後代の名である。この「大都」を英訳するとき、つい”Peking”としてしまうような類の事柄だ。正確を期すためには”Tatu (Peking)”と書けばいいのだが、そんな小うるさいことをするのは小心な学者だけで、常識ある人はもちろんしない。
「ウラルトゥ」の名は楔形文字の碑文や粘土板文書に書かれていた。しかしウラルトゥの没落からほどなくして楔形文字はすたれ、以後19世紀に解読されるまで楔形文字による史料は歴史から消えてしまう。それよりあとは、セム語式であれギリシア語式であれ、アルファベットで書かれた記録の時代となる(アルファベットと聞くとラテン文字ばかりを思い浮かべてしまうが、ヘブライ文字アラビア文字も「アルファベット」である)。歴史はアルファベットの史書によってのみ書かれてきたのである。アルファベットの時代にこの地域を指す名称は、旧約聖書の「アララテ」ぐらいを例外として、「アルメニア」となっていたのである。民族の交代自体よりもむしろ、文字の交代が地名の交代につながった。楔形文字が死文字になって以降、国としての存在が消え失せてしまっていた「アララテ」が単なる山の名前と解されるのは自然だったわけだ。
それでも「ウラルトゥ」の名は、国が滅びたあともなおいくらかは残った。ヘロドトスがアケメネス朝ペルシアの第十八徴税区の民族としてマティエノイ人、サスペイレス人とともに名を挙げるアラロデオイ人というのも、おそらく彼らの末裔か何かであろう。メディアとコチキスの中間にいたらしい(「歴史」3: 94)。
地名としても残った。アラクス川の流域を指すアルメニアの古い地域名、州名は「アイララト」Ayraratであった。位置としてはアララト山の北に当たるが、そこから名を得たのではなく、むしろ逆だろう。ヒエロニムス・イェサイオスは「アララトはアルメニアの信じられないほど肥沃で平らな一地方で、アラクセス川が流れている」と書いている(Parrot [Nachwort] 所引: 217)。ダマスクスのニコラオスもアララトを地域名としている(同)。
アルメニア人の名祖ハイク(アルメニア人の自称は「ハイ」である)の伝説は、彼の一族のバビロンから「アララド」Araradの地へ移住を語る。アルメニア人自身の起源伝承にこの地名が現われている(Moses von Chorene: 19)。


人類最古の文明が誕生したのはメソポタミアである。ここには肥沃な土地と川がある。川から水を引いて農地に灌漑すると、驚くほどの収穫があった(播種量の30倍とか、より古くは75倍だという)。この収穫量は多くの人口を支えることができ、余剰人口が生まれた。それが文明を生んだ。
しかしここには、木なく、石なく、金属もない。道具を作る材料がないのである。人類史を区分して、石器時代青銅器時代鉄器時代という。その肝心なものがここにはないのだ。建材はあった。粘土で日干し煉瓦が作れたから。しかし木材はなくてはかなわないし、燃料にもさしさわる。木・石・金属は供給されなければならない。どこから? むろん山地から。その供給があればこそ文明が発生しえたわけで、交易は文明に先行する。交易なくして文明なし、山なくして文明なしである。「ギルガメシュ」の物語も、簡単に要約すれば、山に木を切りに行く話ではないか。
ペルシア帝国による統一が成るころには、西アジアは言語的にセム語族インド・ヨーロッパ語族の地域になっていた。しかし古くは、メソポタミア平原の東と北の山地にはセム語族でも印欧語族でもない民族が住んでいた。スーサを都とするエラム(彼らのことばはアケメネス朝ペルシアの公用語であった)、ミタンニ王国を建てたフルリ、アッシリアと争ったウラルトゥなどである。カッシートはバビロンを攻略し、その地に王朝を建てた。同じく非セム・非印欧語族であるシュメール人は、メソポタミアの文明を築いたさきがけの民族である。彼らはその土地のもとの住民ではなく、どこからかやってきた。どこかからというなら、それは山地からにちがいない。これらの諸言語のうち同一語族であるのはフルリ語とウラルトゥ語だけで、近縁言語とは立証できないが、似た点があるのもたしかである。
「数年前ならわれわれは古代史について何でも知っていた」(キエラ:83)と高名な考古学者が言っている(註4)。「というのは古代についてはなんでも旧約聖書だった」からだ。西アジア古代史の発掘は、西欧人の聖書を確かめたいという強い動機に支えられて進んでいった。「バビロン(バベル)と聖書(バイブル、ドイツ語でビーベル)」の標語の示すとおりである。だが、地下に埋まっているのは聖書に言及された民族の遺跡ばかりではもちろんない。聖書と(つまりユダヤ人と)関係が薄かったりなかったりする人々の生活の跡も掘り出されるし、楔形文字の解読によって彼らの歴史が正当に復活した。
それでもなお、古代ユダヤ人との関係の厚さ薄さは古代史を書く場合にも微妙な影響を与えている。ウラルトゥは「アララテ」として聖書に4度現われるだけだし、ホリ人(フルリ人)やヘテ人(ヒッタイト人)もただちらりと姿を見せるだけである。ヒッタイト人は印欧語族なので、発掘解読によって歴史の舞台に再登場するや、一定の敬意が払われているが、ウラルトゥやフルリは聖書における影の薄さを今に引きずっている。しかし、聖書に出ないシュメール人が今では占めるべき地位を正しく占めているのだから、理由はもちろんそれだけではないけれど。


3.マシス
アララトArarat山について調べてみた人なら誰でも、この山がまわりに住む人々によって決して「アララト」と呼ばれていないことにすぐ気づく(Haxthausen: 289; Ararat/ Wikipedia)。
アルメニア人は「マシスMasis」(「秀でた、大きい、最高の」の意とされる)と呼び、トルコ人は「アール・ダウAğrı Dağı」(「重い山」、または「痛みの山」)、Parmak-Dagh(「指の山」)と、ペルシア人は「クーヒ・ヌーフKūh-i Nūh」(「ノアの山」)と、クルド人はÇiyayê Agirî(「火の山」)、イェズディはGri Dag(「大きい山」の意という)と呼ぶ(註5)。
つまり、アルメニア人がこの山を呼ぶ名は「マシス」であり、「アララト」ではないのだ。けれども、ここのほかにも「マシス」という名の山がいくつかある。
ヴァン湖の北にある二番目に高い山シパンSipanもマシスと呼ばれていた(Petrosyan: 35)。ストラボンの地理書ではマシオスMasius山が5回言及されるが、どうもひとつの山のことではないようだ。確かなのはタウルス山脈の峰で、ニシビス(ヌサイビン)の北に聳える山である(Strabo 5: 299; 319; 321; 7: 231)。そうすると、ジューディー山と同じ山系で、もっと西にあるわけだ。もうひとつの「アルメニアのMasius山」は、コーカサスの話の中で出てくるし、そこでは雪上運搬のため皮の上に荷物を載せ滑らせて下ろすというから、南方で標高も低いニシビスあたりの山(トゥール・アブディン/ジェベル・トゥール)ではなく、それより北の高山らしく思える(Strabo 5: 241)。
ギルガメシュ叙事詩」に出てくる「マーシュMash山」というのは「双子」の意味だから、たぶん二つの峰のある山だったのだろう。すると大小の峰が並ぶアララト=マシス山に当てはまりそうな感じはする。しかしこの山は遠い。バビロニア人・アッシリア人命名にもとづくなら、問題となるのは彼らの国に近いほかの「マシス」、それもヴァン湖北のシパン山ではなく、ニシビス北方の山であろう。これがどんな形状なのか知らないが、もしそういう形であったなら、アッカド語由来の山名と解してよさそうに思える。そうでなかったら別の語源ということになるが。
ギルガメシュはマーシュ山に来ると、太陽の道であるトンネルを通って楽園へ出る。さらに進んで海辺へ出、そこからウトナピシュティムの暮らす川々の河口の島へ行ける。その島がジウスドラの住まわされたディムルンならばペルシア湾のはずで、だとすると方向がまるで合わないが、神話地理なのだから現実の地図と突き合わせてみてもしかたがない。
エデンの園を見るといい。「また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。その第一の名はピソンといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、その地の金はよく、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。第二の川の名はギホンといい、クシの全地をめぐるもの。第三の川の名はヒデケルといい、アッスリヤの東を流れるもの。第四の川はユフラテである」(「創世記」2: 10-14)。このうち、ヒデケルはティグリス川、ユフラテは言うまでもなくユーフラテス川である。ピソンとギホンは不明。クシはエチオピアだとされるから、するとピソンはナイル川かと思われる。ハビラはアラビアらしい。ギホンというのはエルサレムの下にある泉の名でもある。クシはカシ(カッシート)の誤記だという説もあり、すると彼らのいた山地の彼方を流れるアラクス川とも考えられる。もしそうであるならば、これらの川の源流にあたるアルメニア高地が園の所在地という説も成り立ちそうだ。「エゼキエル書」(28: 13-14)にはエデンの園と神の聖なる山が並んで出てくる。後者は北方の神秘な山を指すらしいから、「楽園北方説」の傍証になるかもしれない。しかし、これらもまた神話地理を現実の地理にあてはめる「逆行」のひとつである。アルメニア人たち自身、箱舟の所在についてとは異なり、別に自分たちの国がエデンだなどとは主張しない。零下20度の「楽園」などあるものか(註6)。


名前を手がかりに追えば追うほど、それは人々の思いの交錯のうちにかげろうのように逃げ去っていく。だが、名前はどうあろうとも、あの美しい孤高の峰はしかとそこに聳えている。次に、名称を離れ、アルメニア人に「マシス」と呼ばれるこの山をめぐる伝説を見てみよう。
マシスにはきまって「自由な、気高い」という意味のことばazatが冠される。キリスト教に改宗したトルダトTrdat王は、7日の間この山を測り、8つの岩を切り出して新しい教会の礎にした(Petrosyan: 35)。
前に引いた僧ヤコブの話やルブルクの記述にあるように、アルメニア人はマシスに登ることはできないし、してはならないと考えていた。バヤジットのパシャが登頂を企てて失敗したこともその信念を強めた(Parrot: 109)。だから1829年にパロットが初めてマシス山の頂上をきわめたとき、アルメニア教会はそれを信じようとしなかったし、ある高位聖職者は「登頂は人類すべての母の子宮の疲弊を望むようなことだ」と言ったという(Petrosyan: 37)。
「山争い」の話もある。マシス山とアラガツ山の姉妹は、どちらが高くどちらが美しいか争って、互いに呪いをかけあった。アラガツはマシスに、「この世の誰もあんたのとさかの上には登らないでしょう」と言ったそうだ(Petrosyan: 37)。
マシスについては蛇や竜の話が多い。メディアの悪王アジダハークはアルメニア王ティグランに殺され、その妻と子どもたちは山の東に住まわせられたという。その子孫は「竜の後裔」と呼ばれた。それがマシスに竜が棲んでいる理由である(Moses von Chorene: 51)。なお、アジダハーカはペルシアでは三つの頭のある竜であり、スラエータオナに打ち破られ、エルブルズ山中の高峰ダマーヴァンドに閉じ込められた。世界の終末にアジダハーカは再び自由になり、暴れまわる。また肩から二匹の蛇が生えていたアラブの王であるとも言われる。
父王アルタシェスに呪われたアルタヴァズドは、即位から数日後、橋を渡って狩りに出るとき、落馬して跡形もなく沈んでしまった。彼は野山や谷川の精霊カジによってマシスの洞窟に連れ去られ、そこで鎖につながれている。二匹の犬が鎖を齧って弱めているが、鍛冶屋の槌音がまた鎖を強くする。グルジアのアミランなど、コーカサス地方にはこういう山中に鎖で縛られた巨人の伝説が多い。プロメテウス伝説のモチーフである。これもそのひとつだ。アルタヴァズドについては、赤ん坊のとき本物はアジダハークの子孫(竜の後裔)の女たちにさらわれて、魔物の子と置きかえられたのだとも語られる(Moses von Chorene: 119f.)。
博覧強記の南方熊楠の眼はアララトにもとどいている。彼が「十二支考」に記すのも、「アルメニア人の説に、アララット山の蛇に王種あり、そのうち一牝蛇を選立して女王とす、外国より蛇群来たり攻むれど、諸蛇背にかの女王を負うあいだは敵常に負け却く、女王に睨まるれば敵蛇みな力なし、この女王口にフルという光明石を含み、夜中これを空に吐き飛ばすと日のごとく輝くという(ハクストハウセン『トランスカウカシア』英訳三五五頁)」(「田原藤太竜宮入りの譚」、南方:211)という話である。ハクストハウゼンの書にはこんな話もある。アララト山の北側の蛇には毒があり、南側の蛇には毒がない。昔はすべてに毒があった。あるパシャがバヤジットの町を建てたとき、術に長けたギリシアの僧を招き、地を清めてもらった。それ以来ここの蛇には毒がなくなった。僧は、自分の歯が朽ちるまでは毒蛇は出ないであろうと言った。パシャは帰途についた僧を捕らえて首をはね、腐らないよう歯ごと金でつつんだという(Haxthausen: 319f.)。
熊楠はまた、「アルメニアのアララット山の氷雪中に、衆紅中の最紅花、茎のみありて葉なきが咲く。トルコ人これを七兄弟の血と号く(マルチネンゴ・ツェザレスコ『民謡研究論』五七頁)」(「虎に関する史話と伝説、民俗」、南方:45)との記載もある。これが中世の医学書に書かれている「血の花」と同じものかどうかはわからない。この花は金を生むが、折ると血が飛び散り、手の皮がむけてしまう(Petrosyan: 36)。


その美しさに反し、この山をめぐって語られる話は、ノアが上陸して初めてここに葡萄を植えた等々の「ノアもの」を除けば、どうも蛇っぽい。人間が力弱く自然が強大であった時代、いや、不遜になった人間どもが胸を反り返らせていて見えないだけで、それは今もそうなのだが、それが人々の身を切られるような感覚としてあった時代に、圧倒的なものに対して感じていた畏怖の念の反映なのだろう。
ノアに始まり、竜に終わる。仮構の箱舟から俗信の蛇へ。これらのことを知った上でアララト=マシス=アール山を眺めれば、より美しくは見えなくとも、より深くはなるだろうと思う(註7)。


(註1)現在のアルメニア共和国は、グルジアアゼルバイジャンに隣接し、小さい両者よりさらに小さい国でしかないが、歴史地理的にいう「アルメニア」は、ヴァン湖・セヴァン湖・ウルミア湖を含み、西はエルジンジャンあたりまでの高地を指す。19世紀に当時ペルシア領だった歴史的アルメニアの東の一部分がロシア領となり、それが独立したものが現在のアルメニア共和国で、トルコ領としてそれよりずっと広い「西アルメニア」があったのだが、第一次大戦中の大虐殺で、アルメニア人の居住地としての「西アルメニア」は消滅した。現在のことを言う場合は、だから「東部アナトリア」としなければならないだろう。しかし歴史的に言うときは、そこは「アルメニア」である。
(註2)モヴセス・ホレナツィは5世紀の人だが、この書は9世紀に成立したと考えられている。キリスト教の僧が書いたものなのに、ノアの名も他所では挙げながら、「クシストルがアルメニアに行った」ことを言う。3人の息子の名もズルアン、ティタン、ヤペトステであり、聖書のセム、ハム、ヤペテと異なるのみならず(3人目を除いて)、ティタンはギリシアの、ズルアンはペルシアのゾロアスター教の神名である。さらに、娘にアストギク(アルメニアの女神)がいて、ズルアンが専横になったとき、ティタンとヤペトステが戦いを起こしたが、彼女が仲介して争いを終わらせた。両人はズルアンの息子の二人を殺し、残りは西の方、テュツェンケツの山へ移らせた。この山は今のオリンポスである、などという話が語られる。奇怪な混淆ぶりである。
また15世紀の伝説に、洪水後ノアに子どもが生まれた。マニトンという息子とアストギクという娘であった。だが、ほかに子がいるかと神に尋ねられたとき、老人は恥じていないと答えた。それで二人は精霊に変じたという(Ishkol-Kerovpian: 99)。
(註3)ミドラシュに箱舟はシワンSiwanの「カルトゥニャKrtunja山」に着いたとあるそうだが(Flood/JE)、これもコルドゥエネであろう。
(註4)キエラの本は少し古いがたいへんおもしろく、メソポタミア考古学についての最良の入門書であることを今も失っていない。考古学というのはおもしろい学問で、古いことを探るくせに、新しくなければならないのである。新しく発掘されたものがこれまでの説を覆したり大きく展開したりする。だから最新であることが求められるというはかない学問だ。しかし、いいものはいいのである。掘るだけなら、金とツルハシがあれば誰でもできる。「最新」の輝きに惑わされない人には、この本の価値はなお高い。
(註5)13世紀前半にこの地域を旅した「ポルデノーネのオドリコ修道士の報告文」(第2章 誰も登ることを禁ぜられているそして頂上にノエの箱舟がある聖なる山について)には、「私はサルビサカロSarbisacaloと呼ばれる、ある山に来た。この山は、頂上にノエの箱舟があって、この地方の山の一つである。もし私の同志が私を待っていてくれたら、喜んでその山に登っただろう。私は登山してみたかったが、この地の住民は誰もその山に登れた者はいないと云った。云うところによれば、それは至高神の勘気にふれるように思われるからと」(オドリコ:46)とある。エルズルムとタブリースの間だから「アララト山」のことだが、こういう呼称もあったらしい。
(註6)しかし、アララトのまわりの土地はヨブ記のウヅだという伝えはアルメニア人の間にあったらしい(Haxthausen: 289)。だがもちろんヨブの住んだウヅはそこではない。
(註7)アララト山アルメニア人だけのものではなく、クルド人(彼らは1927年に「アララト共和国」を建てたことがある)やトルコ人のものでもある。マシスの話ばかりで、シヤイェー・アギリーの話、アール・ダウの話がないのは、筆者が北からしかこの山を見ていないからだ。南側へ行けなかったのは、アルメニア・トルコ国境が開いていないからである。


(補註)洪水神話は、フレーザーが「旧約聖書フォークロア」で示したように、世界中にある。ただし世界中といっても、ヨーロッパや日本にはほとんどなく、アフリカにも少ない(明らかにノアの洪水伝説の派生であるものを除くと)。西アジア以外の古籍にある話をひととおり見わたしてみよう。ちなみに、エジプトには洪水神話はない。沃土を運んでくるナイルの氾濫は、災いどころか天の恵みであったのだから。
ギリシアの洪水神話は、アポロドーロスの「ギリシア神話」(1: 7)やオウィディウスの「メタモルフォーセス」(1: 253-415)に書かれている。デウカリオンと妻ピュラーだけが舟に乗って助かる。その舟が漂着するのはパルナッソス山である。
「プロメーテウスに一子デウカリオーンが生まれた。彼はプティーアー附近の地に君臨して、エピメーテウスとパンドーラーの娘ピュラーを娶った。パンドーラーは神々が象った最初の女である。ゼウスが青銅時代の人間を滅ぼそうとした時に、プロメーテウスの言によってデウカリオーンは一つの箱船を建造し、必要品を積み込んで、ピュラーと共に乗り込んだ。ゼウスが空から大雨を降らしてヘラスの大部分の地を洪水で以て覆ったので、近くの高山に遁れた少数の者を除いては、すべての人間は滅んでしまった。その折にテッサリアーの山々は裂け、またコリントス地峡とペロポネーソスの外にある全土は水に覆われたのであった。デウカリオーンは九日九夜箱船に乗って海上を漂い、パルナーッソスに流れついた。そこで雨がやんだので、箱から下りて避難の神ゼウスに犠牲を捧げた。ゼウスは彼にヘルメースを遣わして、何事でも望みのものを選ぶようにと言った。彼は人間が生じることを選んだ。そこでゼウスの言葉によって石を拾って頭ごしに投げたところが、デウカリオーンの投げた石は男、ピュラーのは女になった。このことから「人々」は転意的にlaas(=「石」)からlaos(=「人々」)と呼ばれるに至ったのである」(アポロドーロス『ギリシア神話』、高津春繁訳、岩波文庫、1953、41f.)。
インドでは、「シャタパタ・ブラーフマナ」(前800−600年頃)にマヌと大洪水の話がある(1: 8)。
「早朝マヌに濯ぎの水がもたらされた。ちょうど今でも手を洗うために水を持ってくるように。彼が水を使っていると、一匹の魚が彼の手の中にはいった。
その魚は彼に言葉をかけた、「私をお飼いください。あなたを助けることがありましょう」と。「何事からお前はわたしを救うのか」「洪水がこのあらゆる生物を掃蕩するでしょう。これからあなたをお救いいたすでしょう」「どのようにお前を飼育するのか」
魚はいった、「われわれが小さいあいだは、われわれにたくさんの危害があります。魚は魚を呑みます。始めは瓶の中で私をお飼いください。私がそれより大きくなりましたら、そのときは穴を掘って、その中で私をお飼いください。私がそれより大きくなりましたら、そのときは私を海にお放しください。そのときもはや私をおびやかす危害はないでしょう」
たちまちそれは大魚となった、それは素晴らしく成長したから。そのとき魚はいった、「かくかくの年に洪水が起こりましょう。船を設えて、私に注意してお待ちなさい。そして洪水が起ったとき、船にお乗りなさい。そうすれば私があなたをお救いいたすでしょう」
マヌはこのように魚を飼育して、海に放した。魚があらかじめ注意したその年に、マヌは船を設えて、注意して待っていた。そして洪水が起ったとき、船に乗った。その魚は彼に泳ぎ近づいた。その角にマヌは船の索を結びつけた。それによって魚は、この北方の山へ急いだ。
魚はいった、「私はあなたを救いました。船を木にお繋ぎなさい。しかし山にいるあなたを、水が隔離することのありませんように。水が退くに従って、それだけずつ下にお降りなさい。マヌはそれだけずつ下に降りた。それゆえ北方の山のこの場所は、「マヌの降り場」と呼ばれている。洪水は実にこの世のあらゆる生物を掃蕩した。そしてこの世界にマヌただ独りが残った」(辻直四郎『インド文明の曙』、岩波新書、1967、150f.)。
マヌは子孫がほしかったので、供犠を行った。バター、サワー・ミルク、乳漿,凝乳を水の中に供えた。一年たつと供えた品々は女に変わり、マヌは彼女を妻とし、子孫を儲けた。「マハーバーラタ」によると、マヌの舟がついた山はカシミールのナウバンダナ(舟つなぎ)山だそうである(世界神話事典:97; 93)。
これに似た話が、洪水伝説に乏しいヨーロッパで、トランシルヴァニアのジプシーの間で記録されている。明らかに聖書の影響も受けているが、魚が出てくるところなど、ジプシーのインド起源説を考えると興味深い。
「人間が永遠に生きていた時代があった。悩みにもわずらいにも、寒さにも病いにも人は苦しまなかった。大地はうるわしい実りをもたらし、木には肉が育ち、川には酒と乳が流れていた。人と獣はともに幸せに暮らし、死への恐れもなかった。あるとき、一人の年取った男が国へやってきて、ある男のもとに宿を頼んだ。その小屋に眠り、女房に十分にもてなされた。次の日年取った男が道をつづけに行くとき、主に器の中に小さな魚を与え、こう言った。「この魚を大事にして、食べてしまうなよ! 九日ののち、わしがもどってきたとき、お前さんが魚を返してくれたら、お礼をするからな」。そうして男は立ち去った。家の女房は小さな魚をつくづく眺め、夫にむかってこう言った。「あんた、これを焼き魚にしたらどうだろうねえ」。夫は言った。「俺はあの爺さんに、魚を返すと約束したんだ。お前も魚に手を出さず、あの爺さんが帰ってくるまで大事にすると誓うんだぞ」。女房は誓って言った。「あたしは魚を殺さず、見張っておくよ、神様の加護があるようにね!」
 二日がたち、女房は思った。この魚はどんな味なんだろう。きっとすばらしい味にちがいない、だってあの爺さんがあんなに大事にして、焼かせもせず、世の中を旅する間もいっしょに持ちまわっているんだもの! 女房はとつおいつ考えて、ついに魚を器から取り出して炭の上に投げたが、そうしたかせぬかのうちに最初の雷が地に落ち、女房は打たれて死んだ。それがこの世の最初の死人だった。それから雨が降りだし、川は川床からもりあがって国中にあふれた。九日目にあの年寄りが主のもとに現われて、こう言った。「お前は誓いを守って魚を殺さなかった。妻をめとり、親戚を集めて、自分たちの助かるように舟を作れ。すべての人間、すべてのものが今や水の中に沈んで終わる。お前たちだけが生き残るのだ。獣や、木や草の種も持っていけ、こののちふたたび大地に増えゆくように!」そうして年寄りは消えた。男は命じられた通りにした。
 一年の間雨は降りつづき、水と空のほかは何も見えなくなった。一年ののち水はひき、男は二人目の妻と親戚と獣たちとともに地面にあがった。彼らは生きるために働き、耕し種まかねばならなかった。この時から骨折り、苦しみが人の暮らしにつきものとなった。その上に病いと死も。人はただゆっくりとしか増えていかず、以来何千年もの歳月が流れてやっと、かつてそうであり今もそうであるほどの数になったのだとさ」(ヴリスロツキ『トランシルヴァニア・ジプシーの昔話と伝説』)。
デウカリオンの洪水伝説にはおそらく西アジア洪水神話が伝わっており、かなりその影響を受けていよう。マヌの洪水については、影響関係は微妙だ。これはちょうど、ギリシア文化がオリエント文明の強い影響下に成立しているのに対し、インドは影響は多少受けつつも独自であるというのと似ている。


洪水が起き、限られた(選ばれた)人々が助かって新たな始祖になる、というのが多くの洪水伝説の眼目で、朝鮮半島に伝わる話や台湾アミ族の話、中国南部の苗族など少数民族も伝わる話も含め、世界各地の口承の洪水伝説もだいたいこのタイプである。
「エッダ」や「ポポル・ヴフ」に出てくる洪水は少しタイプがちがって、助からない。「エッダ」は800−1100年頃アイスランドで、「ポポル・ヴフ」はおそらく16世紀後半にグァテマラでマヤの後裔キチェー族によって書かれたもので、時代的には新しいが、しかし彼らは当時まだ彼らの古代を生きていた。聖書以後であるために聖書の影響は見て取れるが、それは部分的である。
ゲルマン神話のいわゆる「神々の黄昏」において、魔物どもと神々のすさまじい闘いのあと、大地は水没する。「太陽は暗く、大地は海に沈み、きらめく星は天から落ちる。煙と火は猛威をふるい、火炎は天をなめる」(「巫女の予言」57)。だがそのあとで、「海中から、常緑の大地がふたたび浮き上がるのが、わたしには見える。…種も播かぬのに、穀物は育つであろう。すべての禍は福に転ずるであろう」(同59;62、『エッダ』、谷口幸男訳、新潮社、1973、p.14f.)。
「ポポル・ヴフ」では、人間の創造が三度行なわれる。最初の人間は泥土で作られたが、それはやわらかくて、まっすぐ立つこともできず、水にいれるとすぐに溶けてしまった。次に神々は木から人間を作った。だが彼らにも魂がなく、創造主のことなど考えもしなかった。そこで「天の心によって洪水がよび起こされた。大洪水が起きて、大水が木の棒の人形の頭上に降りかかってきた。…これこそ、彼らがその母、その父、すなわちフラカンと呼ぶ天の心のことを思わなかったために受けた罰であった。そしてそのために、地の面は暗くかげり、黒い雨が昼となく夜となく降りはじめたのである」(『ポポル・ヴフ』、レシーノス原訳/校注、林屋永吉訳、中公文庫、1977、p.18f.)。生き残った木の人間は猿になった。最後に神々はトウモロコシから人間を創造する。
これらでは、滅びては再び始まる世、周期的に交代する世の、ひとつの滅びをもたらすのが大洪水なのである。つまり終わりを画すわけだが、終わりを画すということは、始まりを画すことでもある。


中国にも洪水伝説はあるものの、これもかなり趣きが異なる。現実的で政治的で何でも歴史にせねば気の済まぬ中国人は、神話的であるためには足枷のある人々で、中国神話は史書の中に断片として伝わっている。それが記録されるときに編集が施されているわけだから、読み解くときにもまた編集が必要となる。こうでもあったろうと再構成されることになるわけだ。「書経」や「史記」の伝える洪水神話も、したがって、「帝堯の時に洪水が天にはびこり、浩々として山を包み陵に上り、民が困窮した。堯が洪水を治めることができる人物を探すと、群臣や四嶽は、みな、「鯀が適任でしょう」と言ったが、堯は、「鯀は人となり命令を聴かず、一族と仲が悪いのでいけない」としりぞけた。それでも四嶽が、「ほかの者と比べれば鯀にまさる者がありません。おためしになってみたら」と言うので、四嶽のことばに従い鯀を用いて洪水を治めさせたが、九年たっても水が引かず、成功しなかった。そこで帝堯は、別の人を探して舜を見つけ、舜は登用されて天子の政を摂行し、巡狩して鯀の治水状況を見たところ、まったく失敗なので鯀を羽山に流し、鯀はそこで死んだ。天下の人は、みな舜が鯀を流したのを当然だとした。そこで舜は鯀の子の禹を挙げて鯀の事業を継続させた。堯が崩ずると、舜は四嶽に、「誰か堯の帝業を飾る者があれば、任用して政治をたすけさせたい」と言ったところ、みな、「伯禹を司空とされたら、帝功を飾ることができましょう」と答えたので、舜は禹に向かい、「ああ、そうだった。おまえは洪水を治めて大功があったのだった。司空となって、いっそう励んでくれ」と言った。禹は謹んで稽首し、辞退して契と后稷と皋陶を推薦した。しかし舜は、「おまえがいってやれ」と言った。禹は敏捷で、勤勉で、徳があり、親しみ深く、信用のおける人となりで、音声は律呂にかない、進退は尺度に合い、いつも適宜に行動し、仕事に倦むことがなく、身を保つこと謹厳で、まったく人の模範であった」(司馬遷史記』?、小竹文夫・小竹武夫訳、ちくま学芸文庫、1995、29f.)というふうに書かれる。このように、中国の洪水伝説はまったく人事の話である。「父の鯀が失敗したため放逐されたのをいたんで、みずから身を労し、思いを焦がし、外におること十三年、自分の家の前を通っても入らず」云々のくだりなど、後世の功臣列伝を読むようだ。
しかし「山海経」には、「洪水は天にみなぎり、鯀は帝の息壌をぬすんで、洪水をふさいだ。ただし帝の命令を待たなかったので、帝は祝融に命じて、鯀を羽山の郊野において殺させた。鯀はよみがえり、禹を生んだ。帝はそこで禹に命じ、ついに国土を分ち、九州を定めさせたという」(『山海経』、高馬三良訳、平凡社、1994、177)とあって、神話の語りに近い。「息壌」というのは「無限に増殖する土」だという。これもいかにも神話らしい。
天を補修する話でも洪水が出る。「太古のこと、東西南北の四つの極がこわれ、大地は割れて裂けた。そのため、天地は綻びて大地をまんべんなく覆うことができず、大地も地上にあるすべてのものを載せることができなくなった。他方、火は燃えさかって留まることを知らず、洪水も溢れに溢れていっこう引く気配がなかった。猛獣が跳梁跋扈して良民を襲って喰い、猛禽は老人や幼児を襲ってさらった。そこで女媧はいろいろな石を練って天空の綻びを補修し、大きな亀の足を切り取ってこれで四つの極を立てなおし、水害の元凶である黒竜を斬り殺し、蘆を燃やした灰を撒いて洪水を止め、人々を救った」(「淮南子」覧冥訓、伊藤清司『中国の神話・伝説』、東方書店、1996、p.34)。
天の柱を折ったのは別話では共工で、悪行多い共工はいろいろな神人に伐たれているが、禹も討伐した一人である。禹の妻塗山氏は女媧だとする伝えがある。女媧は人面蛇身、父の鯀は死して黄熊になったとも黄竜になったともいう。断片として諸文献中に散在しているものを継ぎ合わせると、なかなかおもしろい神話の姿が現われてくる。
一神教の経典中のノアの洪水の話も、ウトナピシュティムの洪水などのメソポタミアの洪水伝説をドグマ的に書き直し編集したものという点では、中国と同じである。だが、中国の洪水伝説はいずれにせよ治水神話で、ほかのものとはかなり異なる。とはいえ、歴史の始まりを画すできごとではある。禹は夏王朝の開祖となるのだから。


洪水神話の分布には前に見たように偏りがあり、人類に普遍的とは必ずしも言えない。だが一方で、エジプトを除く世界の古文明がみな歴史の始まりに洪水をおいていることには何か意味があろう。それをかつてあった歴史的事実と見るか、神話的思考と見るかで、道はふたつに分かれる。


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