石見神譚

 神話を考えるときには、かなりの注意が必要だ。伝承がおそろしく錯綜しているからである。見取り図を書けば、以下のようになろう。

 まず、「正史正伝」というものがある。中央政府が認めたもので、要するに記紀(『古事記』『日本書紀』)である。これはテキスト化により固定されたものである。

 次に、「副史副伝」。地方国庁がまとめたもので、諸風土記がそれに当たる。これもまたテキスト化され固定している。

 エリートの手になるきわめて限られたこの両者の伝承の外に、「野史野伝」の大海がある。神社の縁起由緒や民衆口碑である。それはおよそ無秩序に見える。

 それらすべてのおおもとに、「原史原伝」がある。ここから取り上げられ、選別・編集して正史正伝・副史副伝ができた。それに漏れたものは野史野伝となった。

 そのほかに、「異史異伝」というものがあると考えられる。いわゆる中世神話がそれである。仏教の伝来、その刺激により(一応の)体系化が行なわれ、神道が生成された(中国における道教がそうであるように、仏教は伝わる先々で土着信仰の体系化・宗教化を促す)。そして神仏混淆が起こり、神道を仏教で、仏教を神道で説く試みとして本地垂迹説が現われた。陰陽道も混じり、修験道のようなものもできて、民衆の間に浸透していった。このような混淆の中から形作られてきたのがいわゆる中世神話で、正史正伝・副史副伝とは異なり、こちらは体系化や正典化は行なわれず、固定されずに流動的であり続けた。

 「原史原伝」もしかりだが、「野史野伝」「異史異伝」に統一はなく、相互整合性はない。その土地氏族ごとに神名から何から大きくも小さくも異なる(神話は本来そういうものである)。

 そのような中、江戸時代に国学が起こり発展し、正史正伝の絶対化が進み、明治の国家神道によってそれが貫徹された。その結果、異史異伝は排斥され野史野伝に沈下していった。それより前からも、異史異伝は底辺エリート(村のエリート)に歓迎される性質のものであるから、異史異伝と野史野伝はアマルガムをなすのに何の支障もない。異史異伝は(野史野伝の典拠である)神社の社伝にも非常にしばしば見られるし、民俗芸能・神楽の詞章にも姿を留める。

 野史野伝はつねに変容を続ける。そこには原史原伝の残存もあるだろうが、正史正伝・副史副伝への自己適合化が行なわれ、太古のままではありえない。異史異伝も受け入れた。何層にも重層しているのが野史野伝である。

 神社の祭神はたびたび変わることにも留意しなければならない。オオクニヌシを祀るこの上なく明らかであるはずの出雲大社の祭神が、中世にはスサノオとされていたように。

 整合するものはすべて誤りである。それはさかしらごとであり、半端な物知り(筆者のような)が整合性を求めるのだ。合理は虚妄の友であり、罠である。資料が少ないから推論をするだけなのだが、推論が精緻になればなるほど虚構に近づく。大ざっぱなものには信頼性がある。もとよりそうでしかありえないのだから。

 

 石見の神話はもちろん野史野伝にしかないので、神社縁起に主に拠りながら見ていくことにする。その際、神話を扱うのだけれども、「古代」を求めてはいない。まして虚構に決まっている「真の古代」など。「心の古代」なら求めている(折口右派である)。

 

 異名同神は疑わしく、もちろん人にもあるように成長につれ名前が変わるということもあるけれども、名が異なれば別の人(神)だと考えるべきだというのはもっともである。「大国主神」は「大穴牟遲神」「葦原色許男神」「八千矛神」「宇都志国玉神」とも呼ばれると『古事記』が説いていても、名が違えば何らかの違いがあるものと疑っていい。一方、それと同じくらいの正当性をもって、固有名詞にこだわらず惑わされないのもまた正しい。名前ではなく役割性格に注目すべきで、固有名詞を普通名詞と置き換えて考えることが必要だ。

 たとえば『播磨国風土記』には「伊和大神」「大汝命」「葦原志許乎命」が出てきて、伊和の大神は「国作り堅め了へましし」とされることからオオクニヌシと、だから大汝命・葦原志許乎命とも同一だと考えられているけれども、これはやはり伊和の地の神ととるのがいいだろう。国造りをしたのはオオクニヌシに限らない。

 伊和大神や葦原志許乎命が天日槍(アメノヒボコ)と土地を争ったという話がいくつもある(大汝命はしばしば少比古尼命と連れ立って出る)。たとえば、揖保郡粒丘の条:「天日槍命、韓国より度り来て、宇頭の川底に至りて、宿処を葦原志挙乎命に乞はししく、「汝は国主たり。吾が宿らむ処を得まく欲ふ」とのりたまひき。志挙、即ち海中を許しましき。その時、客の神、剣を以ちて海水を攪きて宿りましき。主の神、即ち客の神の盛なる行を畏みて、先に国を占めむと欲して、巡り上りて、粒丘に至りて、いひをしたまひき。ここに、口より粒落ちき。故、粒丘と号く」、神前郡粳岡:「伊和の大神と天日鉾命と二はしらの神、各、軍を発して相戦ひましき。その時、大神の軍、集ひて稲舂きき。其の粳聚りて丘と為る」等々。しかしながら、このアメノヒボコは『日本書紀』で垂仁天皇の代に渡来した新羅の王子とされており、それと神代の葦原志許乎命の遭遇はアナクロニズムである。土地の神と外来の神の争いと「普通名詞化」しなければならない。

 同じように垂仁天皇代に半島から来訪したという都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)という者もいて、出雲国から笥飯浦に来着した(敦賀の名の起こり)という。こちらは石見の伝説に姿が見える。

 延喜式内社のひとつ大飯彦命神社について、今は失われ所在地不明になっているが、「唐の王荒人は、長門の国に来たが、そこの井筒彦に妨げられて都農郷に来た。荒人は牛をつれていて里人に牛耕を教えた。荒人は飯田に大飯彦神社として祀られた」(山本熊太郎『江津市の歴史』、江津市文化研究会、一九七〇)という話が伝わり、飯田八幡宮の旧社地は字「アラヒト」といわれ、明治初年の『皇国地誌』には「字荒人鎮座 式内大飯彦神祠 大背飯三能大人」とあり、今も荒人祠があるという。藤井宗雄『石見国神社記』には「大飯彦命神社 祭神、大脊飯三熊大人」があって、「荒人のつまみ石、高四尺五寸、囲九尺四寸」「稲村と云家の処の畑に在り、或ハ荒人の乗石ともいふ、何頃か子供の障りしに離ること能はす、故に今地に移と云ふ」と書かれている。

 

 風土記は地名起源を説く話で溢れている。「山川原野の名号の所由」を言上せよとの風土記編纂命令にあるのだから当然ではあるが。その地名縁起は神または天皇の言や行為による。今に残る五風土記(『常陸国風土記』『播磨国風土記』『出雲国風土記』『豊後国風土記』『肥前国風土記』)のうち、他の風土記と異なり、『出雲国風土記』はほとんど神によって名づけられている(この点は石見の地名縁起もしかり)。

 また、『出雲国風土記』には土蜘蛛が現われない点も、他の風土記と異なる。要するに、天皇のないところに土蜘蛛はない、ということだ(『播磨国風土記』の場合は天皇はあるが土蜘蛛はない)。言い換えれば、天皇の行くところに土蜘蛛が現われる、という関係性が認められる。示唆的である。

 

 正史正伝と副史副伝、そして野史野伝での扱いが異なる例として、『出雲国風土記』の巻頭を飾る雄渾な国引き神話の主人公八束水臣津野命(ヤツカミヅオミヅヌノミコト)がある。古代の名詩であるその詞章を引けば、

 

国引き坐しし 八束水臣津野命、詔(の)りたまひしく、「八雲立つ出雲国は、狭布(さぬの)の稚国なるかも。初国小く作らせり。故、作り縫はな」と詔りたまひて、栲衾(たくぶすま)志羅紀(しらき)の三埼(みさき)を、国の餘ありやと見れば、国の餘あり」と詔りたまひて、童女(をとめ)の胸鉏(むねすき)取らして、大魚(おふを)の支太(きだ/鰓)衝き別けて、波多須々支(はたすすき)穂振り別けて、三身(みつより)の網打ち挂(か)けて、霜黒葛(しもつづら)聞耶聞耶(繰るや繰るや)に、河船の毛曾呂毛曾呂(もそろもそろ)に、「國來、國來」(くにこ、くにこ)と引き來縫へる国は、去豆(こづ:小津)の折絶(をりたえ)よりして、八穂米(やほしね)支豆支(きづき:杵築)の御埼なり。かくて 堅め立てし加志(かし/杭)は、石見国出雲国との堺なる、名は佐比賣(さひめ)山、是なり。亦、持ち引ける綱は、薗の長濱、是なり。

亦、「北門(きたど)の佐伎(さき)の国を、国の餘ありやと見れば、国の餘あり」と詔りたまひて、童女の胸鉏取らして、大魚の支太衝き別けて、波多須々支穂振り別けて、三身の網打ち挂けて、霜黒葛聞耶聞耶に、河船の毛曾呂毛曾呂に、「國來、國來」と引き來縫へる国は、多久(たく)の折絶よりして狭田(さだ)の国、是なり。

亦、「北門の良波(えなみ)の国に、国の餘ありやと見れば、国の餘あり」と詔りたまひて、童女の胸鉏取らして、大魚の支太衝き別けて、波多須々支穂振り別けて、三身の網打ち挂けて、霜黒葛聞耶聞耶に、河船の毛曾呂毛曾呂に、「國來、國來」と引來縫へる国は、宇波(うなみ)の折絶よりして、闇見(くらみ)の国、是なり。

亦、「高志(こし)の都都(つつ)の三埼(能登半島珠洲岬)を、国の餘ありやと見れば、国の餘あり」と詔りたまひて、童女の胸鉏取らして、大魚の支太衝き別けて、波多須々支穂振り別けて、三身の網打ち挂けて、霜黒葛聞耶聞耶に、河船の毛曾呂毛曾呂に、「國來、國來」と引來縫い給いし国は、三穂(みほ)の埼なり。持ち引ける綱は、夜見島(よみのしま/弓ヶ浜半島)、是なり。 固堅め立てし加志は、伯耆国(ははきのくに)なる火神岳(ひのかみのたけ)、是なり。

「今は国引きを訖(を)へつ」と詔りたまひて、意宇社(おうのもり)に御杖を衝き立てて「意惠(おゑ)」と詔りたまひき。故、意宇(おう)と云ふ。

 

 風土記では国土形成という重大事の主人公として巻頭に現われ、またこの神が「八雲立つ」と詔りたまいしにより「出雲」の名が、また同じくこの神の言により「島根」郡の名が起こったとされているように、地域の主要神と見なされるにもかかわらず、『古事記』には、スサノオノミコトの曽孫「深淵之水夜礼花神が天之都度閇知泥神を娶して生める子」として「淤美豆奴(オミズヌ)神」があり、その孫に大国主神があることになっていて、そこに名が出るのみ。無視に等しい。だが風土記でも、実はほとんど出ない。上記三か所のほかには伊努郷に意美豆努命の御子、赤衾伊努意保須美比古佐委気命の社があると記されているところに名が見えるだけだ。祭神としても出雲に四社、石見に一社あるばかりで、配祀されているところも出雲・石見にそれぞれ二社だけだ。

 しかし、この神は石見の野史野伝ではかなり活躍している。邇摩郡大国に峨峨と聳える龍巌山の地にやってきたヤツカミオズミズヌノミコトが「角障(つのさは)ふ石見」と詔りたもうたことから「石見」の名が起こったとの話があるし、そこの小祠龍巌社はこの神を祀る。神が駒をつないだという駒繋岩も残る。同郡馬路にはヤツカミズオミズヌノミコトが馬に乗り鞭を持って「馬路はこの方なるか」と問うたことにより名がついたとの話、そして何よりも、八色石(邑智郡布施村・現邑南町)の龍岩神社に伝わる「八束水臣津野命御通過の節、龍岩山の麓に於て美姫に逢ひ給ふ。則ち美姫の願によりて龍神を退治し給ふ」(森脇太一編『邑智郡誌』、柏村印刷、一九三七)という話である。この神社の祭神は当然のようにヤツカミズオミズヌであるが、藤井宗雄の『石見国神社記』には「祭神素盞烏尊大己貴命少彦名命」としてある。『石見八重葎』には「抑八色石村と号以所ハ、昔神素盞男尊、八岐の大蛇を切給ふ。其頭飛来り八色の石となりたりと村老の説なり」と書かれ、『石見六郡社寺誌』は「境内に大岩石があり、往古は八色があり、八色石の地名の起源となるという。八束水臣津神が御通過のとき、龍岩山の麓において美姫に遇ひたもうた。則ち美姫の願により龍神を退治し、これを三つに切った。頭は飛んで山頂に止まって化して石となった。これが八色石である。また胴は那賀郡に、尾は美濃郡に飛び、同じく石となった」と書く。大島幾太郎『浜田町史』(石見史談会、一九三五)には「神代に八束水臣津野命天降たまひける。姫神あらはれて告て曰此国に八色石あり、山を枯山とし乾川となして常に来て蒼生を悩ますと。命国民の為に之を退治ばやとおもほして、姫神の教に随ひ其所に至りたまひ、其石を切て両段になしたまひければ、其首は飛て邑智郡の龍石と化り、其尾は裂て美濃郡の角石と化る。是より国に禍なければ姫神実に喜悦ありて、吾許にいさない種々の饗応ある。限なければ、命其所にやとりたまひ、夜明て見たまへば、其姫神忽然と化りて一つの石となりき。命是を見たまひ、此国は奇異しき石見かなとのりたまひけるより、石見と号けるよし」とあって、退治譚に続いて石見の名の起こりも説く。この神社は俗に石神とも称し、社の裏、籬の内にその石がある。

 浜田にはまた式内社天石門彦神社もあって、祭神は天石門別命・建御名方命・天照皇大神とされ、「社伝に天石門別命(田力男命)の発祥地なりと謂ふ。神域の一隅に烏帽子岩あり祭神の烏帽子を掛けられたるにより起れりと云ふ。石西、美濃、鹿足は当神社神事贄狩祭の際鹿の足を献り御狩の際猟用の蓑を奉りしより郡名となれりと伝ふ」と『島根県神社概説』(大日本神祇会島根県支部、一九四二)にある。

(ここでついでに石見の延喜式内社を挙げておく。

安濃郡物部神社石見国一宮)・苅田神社・刺鹿神社・朝倉彦命神社・新具蘇姫命神社・ 邇弊姫神社・佐比売山神社・野井神社・静間神社・神辺神社

邇摩郡:城上神社・山辺八代姫命神社・霹靂神社・水上神社・国分寺霹靂神社

那賀郡:多鳩神社(石見国二宮)・津門神社・伊甘神社・大麻山神社・石見天豊足柄姫命神社・大祭天石門彦神社(石見国三宮)・大飯彦命神社・櫛色天蘿箇彦命神社・大歳神社・山辺神社・夜須神社

邑智郡:天津神社・田立建埋根命神社・大原神社

美濃郡:菅野天財若子命神社・佐毘売山神社・染羽天石勝命神社・櫛代賀姫命神社・小野天大神之多初阿豆委居命神社)

 

 伝承には、巡り歩く神の一群がある。このヤツカミズオミズヌのほかに、オオクニヌシも石見の地にいろいろ跡を残しており、スサノオもそうだし、タケミナカタもそういう神として名を挙げられている。

 オオクニヌシスクナヒコナについては、温泉津龍御前神社の伝えに、国造りに諸国をめぐっていた大己貴命少彦名命が、八雲畑で足を痛めたウサギに湯につかるよう教えた、というのもある。ウサギは七日で治った。「八雲畑は温泉の上方の丘陵をさし、ここに昔、老杉がそびえていて、大己貴命少彦名命の二神が祭られていたという」(石村禎久『温泉津物語』、一九八六:一三)というものがあるほか、安濃郡多根の佐比売山神社の由緒として、「大國主命諸神ヲ率キテ諸國ヲ巡り出雲由來郷(飯石郡ニ在リ)ヨリ佐比賣山ニ來リタマフ。 山麓ニ沼澤アリ溝渠ヲ穿チテ乾田トナシテ稲種を播キ田人ヲシテ八郷ノ田ニ植エシム其稲八束穂稔穣ス故ニ多根ノ大田ト名ク。大神ノ功徳ヲ尊崇シ本村字中津森ニ神榊ヲ樹テ、之ヲ祭ル及チ此神社ノアル所ナリ」(『島根県安濃郡誌』、安濃郡役所、一九一五)と伝わる。

 『万葉集』に「大汝少彦名のいましけむ志都の岩室は幾代経ぬらむ」と詠まれている静の窟は静間の海岸にあるとされているが、一方で邑智郡出羽にも志津岩屋神社がある。「石州邑智郡の山中に岩屋山といふありて其の山を志津の岩屋といひ甚大なる窟あり。高さ三十五六間許内甚広し。里人の言伝に大汝少彦名の隠れ給へる所といゝ志津権現と申也」(『大日本地名辞書』)。「出羽とは志津の岩屋に有名なる巨岩五つあり依て「五石(イツツイワ)」といったのが転じて「イヅハ」となったといふ」(『邑智郡誌』)。

 後述スサノオの半島往還を写したごとき部分も混じっているのが邇摩郡大国の八千矛山大国神社(氏宮さん)の社伝で、「八千矛山に御鎮座大国主神とて、出雲の国より高麗に渡り給い、帰途当村のつづき邇摩の海、唐島に着き給い、此里に来り給い、大樹の松に雨露を凌ぎの由にて、其地を今に笠松と申伝え、蒼生尊崇奉りて、仮りに殿を奉遷し候処となす。それより八千矛山に宮居を定め給うによって大国と申す由、大国主神御鎮座の所を氏宮と申して、往古より此の神を氏神と尊仰奉り候、其後足利家より八幡宮氏神に祭る可しと御布令これ有候云々」。そして「本殿の真上の岩山の中腹にある「みこもりいわ」と呼ぶ神跡がある」。「この神跡に感動した幕末の国学者野々口隆正が七十二歳にして姓を大国と改めた」(『仁摩町誌』、昭和四七年)。

 隣村馬路の乙見神社でも、「古老の伝えにいう。大物主神、御船に乗りて国巡りします時に、御船の艫をつなぎたまいし島を艫ケ岩という。御子神等をひきいて海路に遊びたまう所を神子路と呼び、宮ノ名を城上社といい、その里を可美村と名づく。後に馬路村と改める」(『石見六郡社寺誌』)。鬼村の大年神社(祭神:大年幸魂大神・大年奇魂大神・天照大神・田岐津姫命)では、「古老は言う。太古中国いまだ平定せざりし時、大国主大神、隣村なる大国村に降りまして、国土を経営せられしも、なおまだ禍神は荒びてありける。ここにおいて、大国主神深く考えられて、大年幸魂大神を招き荒振神等の荒ぶる心を鎮めさせ給い、農業の道をもってせしめられた。オニムラは鬼群にして荒ぶる禍神の巣窟なりとして、これを鎮め給わんとして各諸神たちをおぎたてまつりしなりと言う」(同)。

 また、邑智郡矢上の諏訪神社の祭神は建御名方神八坂刀売神で、「太古此の地に邑智須々美神と申し上ぐる神がましましたと古老曰伝へられ、又石見風土記にこの神は大国主神の御子御母は沼河姫命にしてその御名に依っ邑智の郡名も茲に起りしものと誌され、そしてこれを物語るものに当村の地名郡山に郡石と称へる霊石があって、邑智須々美神と崇め奉り之を御祀りした邑智郡石神社が在り合祀の後もその遺れる霊石は大神の遺跡として村人は畏敬し大切に取り扱っている。そしてこの神は当社の御祭神建御名方神の又の御名であるとある」(『邑智郡誌』)。「合祭神邑智須々美神は邑智郡石神社とも称し矢上村郡山に鎮座。古老伝曰、大古此地に女神あり、邑智姫といふ。建御名方尊国巡りましゝ時彼女神を娶りて此郷に住み給ふ。今郡石あり之を祭りて神とす。其の形亀の如し、色紫黒、高さ二尺三寸余、長さ六尺余、横四尺」(同)。

 ただし『石見六郡社寺誌』では、「古老の伝にいう。太古この地に女神があった。邑智姫といった。素盞嗚尊が国巡りをなさったとき。かの女神を娶って此の郷に住みたまうたという。今郡石があって、これを祀る。この郡石は、其形は亀の如くで、色は紫黒、高さ二尺三寸余、長さ六尺余、横四尺、地中にある所は量ることができない。この郡石を祭って神としている。この祭神は美穂須々美神ともいう。地方開拓の祖神としてあがめている」と、巡り歩いていたのはスサノオだとする。どちらでもいいのだ。普通名詞の部分に固有名詞は入れ替え可能なのである。

 

 神話には飛び来る神もいろいろある。わけてもおもしろいのはサヒメ伝説だ。

 美濃郡乙子の佐比𧶠山神社所伝によると、

高天原にて乱暴を働いた須佐之男命は、天照大神の怒りに触れられ、髪を切り、髯を抜かれ、 手足の爪も抜かれて高天原を追放の身になった。放浪の途中、ソシモリ(朝鮮)に立ち寄られた須佐之男命は、大宜都姫命(オオツゲヒメノミコト)に出会い 食べ物を求められたが、姫は道中の事とて恐れながら口中の飴ならばと差し出すと、須佐之男命は「無礼である」と大いに怒り、その場で姫を斬ってしまわれた。

 大宜都姫命は、息も絶え絶えの時に我が娘狭姫を呼び、全身の力を振り絞り、顔・胸・腹・手・足など五体を撫でさすりながら、 稲・麦・豆・粟・ヒエなど五穀の種を生み出された。そして、佐姫に向かい五穀の種を授ける。

 「母無き後は豊葦原に降り、五穀を広めて瑞穂の安国とせよ」と言い残して、母神の息は途絶えた。佐姫は母の亡骸にすがって泣き悲しんでいたが、 その時、どこからとも知れず飛んできた一羽の赤い雁に促され、涙をぬぐって五穀の種をたずさえ、雁の背中に乗って東方へ飛び立ったのである。

 やがて雲間より、ひとつの島(見島)が見えた。佐姫はその島に降りて種を広めんとしたが、荒くれ男達がいて、「島では魚や鳥、けものを獲って食うので、種はいらぬ」と 言った。

 佐姫は、次の島へ行った。高島である。ところがそこでも、「魚を獲って食うから、種はいらぬ」と言われた。

 そこで、次は本土に渡り、天道山(テンドウヤマ)を経てひと際高い比礼振山(ヒレフリヤマ)(権現山)へ降りたのである。佐姫は、この山を中心として五穀の耕作を 広めながら種村、弥栄、瑞穂。佐比売村など東へ東へと進み、遂に小三瓶まで行くのである。

 最初に耕作を始めた村が、大宜都姫命末娘(=乙子)ということにちなんで今の『乙子町』となり、種を伝えられた事から『種』の名前がつき、『赤雁』の地名も赤い雁が降りた事から付けられたという」。

 この神話が大島幾太郎(『那賀郡史』)・石村禎久(『石見銀山三瓶山秘抄』)の書くところではさらに広がっていて、サヒメはチビ姫とも言われ、一つめの島では姫は鷹に追い払われて、それが高島、二つめでは大鷲に追い払われ、そこは大島だとするほか、乙子、赤雁、種からさらに行くと、巨人の足跡を見て驚く。その巨人のひった糞が大糞山(那賀郡井野の野山嶽)となった。また岩穴でオカミという頭が人で体が蛇というものにも遭った。岡見の名がそれから出た。足長土という足の長い大男、手長土という手の長い大女にも遭い、夫婦にしてやった。足長土・手長土は三瓶山で暮らし、彼らのために多根で穀物の種を播き、小豆原で小豆、大水原で水を用意してやった、というふうになっている。たしかに三瓶周辺には多根村があり、赤雁山がある。多根には佐比賣山神社も鎮座する。

 巨人の糞が山となった話に関しては、安濃郡吉永の式内社の名がおもしろい。「新具蘇姫命神社」である。糞はよい肥料であるから、地味を豊かにするものとして昔の人はそれを称えもしたのであろう。糞は埴土となる。『石見国神社記』には、「社伝に新山は新具蘇姫命の御廟地なり赤土青土多シ元和年中まて新具須山と唱ふ元禄年中代官後藤覚右衛門御林となす麓に埴安田と云ふ地二所あり今は訛て上の安田(アンダ)下の安田と云ふ埴内田波迩夜田と云あり埴屋と号ふ家あり」とある。姫神の名として不適切とは思われない。

 

 国引き神話で名高い「佐比売(さひめ)山」の名が今の「三瓶(さんべ)山」になったのには、自然な発音の変化もあろうし、次の話によるところもあろう。

 物部神社の社伝に、祭神がこの地方を平定された時に三つの瓶を三ヶ所に据えた。一番目の瓶は物部神社の一瓶社(いっぺいしゃ)に納め、二番目の瓶は浮布池の邇幣姫神社に、三番目の瓶は三瓶山の麓の三瓶大明神に祀られている。一瓶社には室町時代古備前の二石入り大甕が現存し、それを使って神饌用の御神酒を造っている。このことから三瓶山の名が起こったと。

 このうち、二つめの邇幣姫神社は式内社であって、二か所に同名の社がある。ひとつは三瓶川・静間川下流の土江に、もうひとつはここに言われているように上流三瓶山麓浮布池に鎮座する。「ニ」は「埴」と解することもでき、そうすると土の女神ということになって土江がその社ということになるが、瓶のほうの話を採るならば浮布池のほうになる。こちらのほうは、「棟札に厳島神とあり此外元禄の頃まて厳嶋神とあるを宝永四丁亥年に至て初て迩幣姫命と申出たり」(『石見国神社記』)ということで、中世は厳島の神、つまりは弁財天社であったらしく、池畔の島というロケーションを考えればそれは自然であるけれど、古代―中世―近代の祭神変遷の一例でもあろう。

 今に残る佐比売山神社は、安濃郡多根・鳥井・邇摩郡大森・美濃郡乙子と四つある。しかし昔は三瓶山麓の八か所にもあった。安永四年(一七七五)の記録に「八面大明神三瓶山又形見山トモ云フ 麓八ヶ所祭所如左/池田村三瓶谷一座、久部村氏社一座、志学村氏社一座、多根村氏社一座、山口村氏社一座、角井村湯比社一座、同村土木社一座、上山村氏社一座/右何レモ佐比売山神社也」(白石昭臣『畑作の民俗』、雄山閣、一九八八:一五二)。ヤツモトという山麓の湧水のある八か所がこの八面大明神を祀る地である。池田村字亀岳の佐比売山神社は高田八幡宮に合祀されたが、その祭神は大物主命・須勢利姫命・八束水臣津野命・佐比売山神とある(『石見六郡社寺誌』)。小屋原の三瓶山神社(『石見国神社記』には若一王子社とある)の摂社に杵那都岐神社(祭神:八束水臣津野命大己貴命)があると書かれている。出雲大社境内の杵那築森との関係があるだろうか。

 延喜式には安濃郡と美濃郡に佐比売山神社の名があり、美濃郡のほうは乙子のもの、安濃郡のは当然三瓶山麓の神社であるはずだ。現存四つの佐比売(佐毘売)山神社のうち、大森の神社は永享六年(一四三四)に大内氏が乙子の神社から勧請したものだから、新しい。それは乙子の神社が金山彦命・金山姫命を祀っていたからで(ほかに埴山姫・木花咲耶姫大山祇命)、大森銀山採掘に当たって鉱山の神を招来したのはいかにもである(乙子は都茂鉱山に、近いと言うほどではないが、遠くはない)。鳥井の佐比売神社は同じく金山彦・金山姫を祭神とし、ここには百済という地があり、そこにタタラがあった。多根の佐比売山神社の祭神は大己貴命少彦名命須勢理毘売命である。三つの神社において考えさせられる鉱山との関係はともかく、いずれもサヒメを祀ってはいない。前に挙げたように、多根の神社の由緒として、オオクニヌシが諸国を巡って佐比賣山に来り稲種を播いたと言われているのは、サヒメの如く穀物を広めたという語りとして同一であるが、主人公が違う。乙子の神社はもと比礼振山の山頂にあり、五社大権現といった。それよりこの山を権現山という。どちらにしてもサヒメ山ではない。

 サヒメをめぐる筋道は非常に錯綜していて、三瓶山がサヒメ山だったことは風土記により間違いなく、サヒメ山神社もあったわけだが、美濃郡にサヒメ山神社があったことも延喜式で明らかだ。サヒメ神話は主に美濃郡について語られ、三瓶に関して言われるところは弱い(後人の付会の匂いがする)。しかしながら三瓶山周辺にも多根村があり、そこの佐比売山神社に農作伝播の伝承があり、赤雁山の名もある。偶然では片づけられまい。

 

 石見一宮物部神社の祭神は、鶴に乗って飛来した。この神社の祭神は宇摩志麻遅(ウマシマジ)命で、物部氏の祖饒速日ニギハヤヒ)命の子である。

「中国平定の後命は天の物部を率ゐて王化に浴せざる匪徒討伐の為め濃尾、播但を経由し石見に入り給い都留夫、忍原、於爾、曽保母里の各所に屯聚せる兇族を平げ国中を鎮めさせられた。

 都留夫は川合村の南端の高阜で、忍原は其西五丁にある。其附近には鬼の城戸、鬼の茶臼など称する岩窟がある。物部明神が鬼を退治せられた所を伝へて居る。又命が大和国から降臨し給ふ時に鶴に乗りて降らせられたとて此山を鶴降山と云って居る。そして其の時に厳甕を据えて天神を祭り給うたと伝へ其瓶今に境内に斎き祀って一瓶社と云って居る。上古交戦の時甕を据えて軍神を祭ったのはこれが起源である。

 命は鶴降山に降られて四方の景色を眺め、「不思議にも此山は天の香具山に似て居る降り居らん」と仰せになった。依って此処を折居と名づけた。(御腰岩と称する巨岩がある)そして大和朝廷へ一度復命され、「石見の国は常世の浪の寄せ来る国なれば彼国の八百山に在って国家を守備せん」と希望を述べられ、勅許を得て再び降り来て宮を造営されたのである。そして命は活目邑五丁呉桃の女、師長姫を娶って二子を生み、第一の御子味饒田命は此地に留まられ、父の遺業を継き鎮衛に任じ、民業を興し、弟彦湯支命は内物部を率ゐて天皇に仕へたまうたのである。命十六世の孫物部尾琴連の長子を物部竹子連と云ふが金子家の祖である。景行天皇の時国造となり、部族を率ゐて石見の鎮衛に任じ、初め国府に居たが、後川合に移り一国の祭政を掌った」(『島根県口碑伝説集』)。

 この神の墓とされるものが神社の裏手にある。

 

 石見でも盛んであったタタラ製鉄の神である金屋子神も、白鷺に乗って出雲の西比田に飛来した。『鉄山必用記事』によれば、播磨国宍粟郡の岩鍋という所に高天原からひとりの神が天降りなされた。人民が驚いて如何なる神やと問うと、「われは作金者(かなだくみ)金屋子の神なり」と言って、盤石を砕き鍋を作りたもうた。それゆえこの地を岩鍋という。しかしこの四方には住めるような山がなかったので、神は「われは西方を司る神なれば、西によき住所あらん」とて白鷺に乗って西国に赴き、出雲国能義郡なる黒田の奥非田(西比田)の山林に着いて、桂の木の枝に羽を休めていた。そのとき安部正重なる者が狩りのため犬を引き連れ山に来ると、犬たちが木に光を見つけて吠えかかった。正重が「いかなる神ぞ」と問うと、「われは金屋子神なり。この地に住み、タタラを建立し、鉄を吹く術を始めるべし」と宣った。正重慎んで承って、所の長田兵部朝日長者にわけを話して社を建てさせ、神主となって神楽御供を捧げた。すると神は「まずここに火の高殿を建てよ」と宣った。神の教えに従い高殿を造ると、七十五柱の童子神が天降った。神は自ら村下(むらげ)となって、七十五品の道具を作り、木を手折って杉磨の鞴を作りたもうた。長田兵部が長床を整え、炭と粉鉄を集めると、神は天を仰いで吹きたまえば、神通力の印、鉄の涌くこと限りなし。

 

 また、海の彼方から寄り来る神もある。

 スサノオ朝鮮半島のソシモリから出雲に来たことは記紀も言うが、石見でもその渡来についての伝説が多くある。

「五十猛(いそたけ)神社は大字湊に在る。五十猛命と爪津姫命、大屋津姫を祭る、五十猛命は此村には頗る由緒の多い神様である。命は須佐鳴命の御子と御父神と共に韓国を征せられ、帰航御上陸になり、韓国より八十種の樹の種子を持ち帰り給ひ、此地を初め日本国内に播殖せしめ玉ふたのである。そこで此村には命に関する伝説が多い、序にこゝに記すと、五十猛駅より西方五丁切割の一端に神別阪と云ふのがある、命が大屋津姫命、爪津姫命と御上陸後分袂せられた所で、命は此地にとゞまり、両姫命は大屋村へ遷られたのであると。又同駅より北方海岸の巌山は薬師山で素命が韓国より帰航の際薬艸を採集せられた所と伝へ、五十猛沖合の神島は命等御父子御帰航の途第一に御上陸の地と称せらる。それから五十猛駅の東方逢浜と云ふ処は前記両姫命と五十猛命との行逢はせられた所であると」。

「邇摩郡五十猛村字大浦泊り山に新羅神社がある須佐鳴命を祭神としている。(…)近傍には高麗、百済と云ふ旧跡があり湾中よりは海艸を産し、産婦の守りとされて居る」。

 また、宅野の韓島について、「神代の昔須佐男尊が諸樹種を播植の為め数次韓国へ渡航され往反の節屡此の島に船を繋かせられた遺跡で、島内には韓島神社を祭ってある」。

 温泉津町小浜の厳島神社境内社の衣替神社の伝えは、「素尊韓国より石見に帰られ、更に韓国へ向はんとせられんとする途次、小浜の海岸笹島に生ひ茂った篠竹を箭にせんとて採取せられし時、磯越す波は御衣の裾を濡らした。尊は浜田川で衣を濯がせ給ひ側なる石に衣を掛けて乾かせられた。川中の辛螺蛭などが寄り集まって御裾に纏った。尊は之を御覧じて「目穢きものよ」とて辛螺の尻を穿って放ち、蛭の口を撚りて棄て、甚だしく懲らさせられた。これによって今に至るまで、此地方の辛螺は尻切れとなり、蛭は血を吸はぬやうになった。里人等は御稜威を尊んで衣替神社を建てたと」(以上『島根県口碑伝説集』)。

 半島とのつながり繁きが感じ取れる。

 

 スサノオの子とされる五十猛命については、なかなかむずかしい。『日本書紀』神代上に「一書に曰はく」として、「素戔嗚尊、其子五十猛神を帥ゐて、新羅国に降到りまして、曽尸茂梨(ソシモリ)の処に居します。乃ち興言して曰はく、「此の地は吾居らまく欲せじ」とのたまひて、遂に埴土を以て舟に作りて」、出雲の鳥上の峯に到りオロチ退治をするのだが、その続きに、「初め五十猛神、天降ります時に、多に樹種を将ちて下る。然れども韓地に殖ゑずして、尽に筑紫より始めて、凡て大八洲国の内に、播殖して青山に成さずといふこと莫し。所以に、五十猛神を称けて、有功の神とす。即ち紀伊国に所坐す大神是なり」。また、素戔嗚尊が鬚を抜いたら杉、胸毛を抜いたら桧、尻毛を抜いたら柀、眉毛を抜いたら樟になった。「時に、素戔嗚尊の子を、号けて五十猛命と曰す。妹大屋津姫命。次に抓津姫命。凡て此の三の神、亦能く木種を分布す。即ち紀伊国に渡し奉る」と書かれている神で、『古事記』では、八十神から逃れた大穴牟遅神が赴く「木国(紀伊国)の大屋毘古神」が五十猛神であるとされる。たしかに、妹に大屋津姫命がいるならその名がふさわしくはある。

 そもそもその名の読みが「イソタケル」「イタケル」「イソタケ」「イタケ」と一定しない。紀伊国には一宮として伊太祁曽神社和歌山市)があり、その祭神であるのだが、そこでは「イタキソ」と読む。射盾兵主神社姫路市総社)の祭神は射盾大神と兵主大神で、射盾大神は五十猛神、兵主大神は大己貴神とされる。射盾神は神功皇后三韓へ船出するときに祀られたという。ここでは「イタテ」。それは出雲の式内社にある韓国伊太氐神社と同音である。延喜式には意宇郡玉作湯神社・揖夜神社・佐久多神社、出雲郡阿須伎神社・出雲神社・曽枳能夜神社にそれぞれ「同社坐(同社神・同社)韓国伊太氐(奉)神社」があるという(岡谷公二『神社の起源と古代朝鮮』、平凡社新書、二〇一三:一一六以下)。

 さらに、奥出雲仁多郡横田に伊賀多気神社があり、その祭神が五十猛命である。ここでは「イガタケ」だ。加えて、「竹崎と中帳の間に五十猛命を葬り、鬼神大明神と曰ひしを、此の処より去って西北四十町許りの角村に徙して、いま伊我多気大明神と曰ふ是なり」と岸崎時照の『出雲風土記鈔』に記されているという(岡谷公二『伊勢と出雲』、平凡社新書、二〇一六:一六二)。その鬼神神社の前には巨石があり、スサノオノ命と五十猛命新羅から乗ってきた埴土の船が化したものだといい、裏山には「五十猛命御陵地」なるものがある。

 大島幾太郎の『那賀郡史』(旧那賀郡教育会、一九四〇)は須佐之男命親子ソシモリからの渡来の話を語って、スサノオとその子イタコソ命、抓之(ツマツ)姫、大屋姫が「先づ長門の幸山を目当に、こちらに御着きになり、それから東、石見の海なる高島、津摩の浦など経て、出雲へ行かれる途中、石見の海路をよぎり、海ばたのあそこ、ここに立寄りなされた。その時頃、神主神村の海は神主の口屋宮倉より東南、今いうイタコソ清水が尻辺まで、入海であった。そこへ丸い丸い椀の様な舟に乗って来られた」と、まるで見てきたような書きぶりながら、五十猛命を「イタコソ」とする。それを姫とする話もあって、「素戔嗚命は韓国から現在の須佐の神山(高山)目当てに渡り出雲への途次、円い船に三人の娘と共にタマト(多鳩)の入海によられた。うちイタコソ姫をここへ上陸させられた。姫は春の神で木の種子をタマトの地にまかれた。他の爪津姫は宅野へ、大屋姫は磯竹(五十猛)へ寄られた。イタコソ姫の上陸当時は今の口屋一帯が入り江で、「清水が尻」の地名も残っている」(山本熊太郎『江津市の歴史』)。何にもせよ、「イタコソ」ならば紀伊国一宮の「イタキソ」に通う。

 邇摩郡大屋村の大屋姫神社は祭神が大屋津姫命で、「古老の伝にいう。神代須佐男命、御子五十猛神、大屋姫神の二柱を率いて唐国より帰り、宅野村の韓島に御船をつなぎ大浦に御鎮座、五十猛神は磯竹の地に、大屋姫はここより別れ、南北一里半余を進み此処に鎮座ましました。これ本社の創建なりと」(『石見六郡社寺誌』)。

 それぞれわが土地に話を引っ張ってきたと思われるのはさておき、ともかく石見・出雲と新羅の関係が深かったことはわかる。

 

 タゴリヒメ(田心姫)は本来アマテラスとスサノオの誓約(うけひ)の際に生まれた三女神の一人で、イチキシマヒメタギツヒメとともに宗像神社に祀られる。しかし中世にはそれが、法華経を守護する鬼神であるところの十羅刹女、十人の羅刹女藍婆毘藍婆曲歯華歯黒歯多髪・無厭足・持瓔珞皐諦奪一切衆生精気)であったはずが一人とされたこの十羅刹女と習合された。

 『石見八重葎』波志村の条に見える「須佐能男命御子田心比賣御心荒々敷により、父神御心にかなハせす櫓櫂なき舟乗奉り海中へ御流し有しに、今の此浦の神江と申す所に流寄玉ふ(…)其後出雲国へ十羅より異賊此国を討取らんため来るに付夢中の御告に田心比賣を召返し此度大将となさは必す勝利有へしと詔り(…)此御神御帰りの上十羅の賊を討亡シ玉ふ故、十羅殺女と御神号奉申此古跡故此所に右御神御鎮座。隠石村にも御神奉祭り」云々という話はおもしろい(ただしここでは、十羅が異賊住む異国の名と見て、それを殺したから「十羅殺女」の名となったと説明している)。

 山本熊太郎『江津市の歴史』は、「須佐能男命の末といわれる六-七才の田心姫は「はこぶね」に乗って神江(みごう、今の波子美郷浦)に漂着された。老夫婦は篠の心を箸として毎食毎に取り替え大切に養育した。十二・三才の頃姫は東の出雲の狼火を見て抜け出された。爺と媼は驚いて後を追うたが椎の木の森隠石で見失い、大川(江川)を渡って浅利まで追跡したが遂に倒れ、追いついた媼もすがりついてなくなった。姫は出雲の急を長浜で防がれたという。後年早速神として津門神社に合祀されるに至った」と記す。「嘉久志村は昔波子の老父母から逃れて出雲の急に走る田心姫(羅刹女)が、ここの鳥居前の岩(長さ三尺横四尺)に隠れたので隠れ石といわれ、この因縁から聖武天皇神亀五年(七二八)に嘉久志村となった」(同)。波子のほうでは、津門神社について、「波子海城山に鎮座。祭神は天足彦国押入命の裔米餅搗大使主命で、寛平三年(八九一)宇多天皇の御代筑紫宗像郡から勧請した。その上陸地点「神様島」は神聖視され神幸式はこの浜で行われ、青灯篭と海蛇一匹を上る旧慣がある。ここに十羅刹女田心比売命が合祀されている」(同)。

 タゴリヒメ/十羅刹女が駆けつけた先の日御碕神社の社伝には、「孝霊天皇六十一年十一月十五日、月支国王玻瓊(はに)が、兵船数百艘を率いて、我が出雲の日御碕に攻めてきた。それはその昔、日の本の神、八束水臣津野命が、出雲が細長く狭いというので、新羅の御崎から、国の余れるところを見付けて国引きをした。彦玻瓊(ひこはに)はそれを取りかえすために押し寄せて来たのである。

 これはただ事ならじと、時の日御碕の小野検校の祖先、天葺根命十一世の孫の明速祗命が勇敢に防戦に当たった。それを見ていた遠祖の須佐之男命も、天上から大風を起こしてこれを助けられた。さすがの玻瓊の軍勢もこれにはかなわず、大軍はことごとく藻屑となった。この時、玻瓊の軍船が、その艫綱を結び付けていたのが、今も日御碕の沖合に浮かぶ艫島であると伝える」(『大社町史』下、一九九五)という話がある。

 この神話については史料がいくつもある。『石見国神社記』は津門神社の祭神を胸鉏比賣命とし、「当社と嘉久志村の十羅刹社と共に日御﨑社に由緒ある社なり」と記している。波子は大永三年(一五二三)、尼子氏によって日御碕神社の社領に寄進されているのだ(『大社町史』上、大社町、一九九一:七二七)。日御碕神社の祭神は、今は上の宮(神の宮)がスサノオ、下の宮(日沉宮)がアマテラスであるけれども、中世から近世にかけては十羅刹女とされていて、かつ彼女はスサノオの娘とされていた。タゴリヒメがスサノオの娘であるから、タゴリヒメ=十羅刹女ならそうもなろうが。謡曲「大社」後ツレとして出る天女は「われはこれ、出雲の御崎に跡を垂れ、仏法王法を護りの神、本地十羅刹女の化現なり」と謡う。この曲は観世彌次郎(一四八八―一五四一)の作である。

 耕雲明魏の「日御崎社造営勧進記」(応永二七年/一四二〇)に、「昔「月支国」の悪神が巨船に乗って来寇し、「荒地山の旧土」を征服しようとしたとき、日御崎社の霊神が霊剣を飛ばして賊兵をことごとく漂没させ、以来、異国防禦の神効は今に至るも絶えることがない」と書かれているという(『大社町史』上:七〇九)。

 今は演じられぬ謡曲「御崎」がこの神話を完結した形で示している(『謡曲全集』下、国民文庫刊行会、一九一一)。まず「そさのをの尊」が出て、「天竺月支国、うしとらのすみかけ落、海上にうかみ風波にしたがひ、豊葦原出雲の国に流れしより、不老山となる」と語る。それを取り返し、この国を攻め取りに「朦胡」「北天竺月支国、ひこはねの天皇」が八万艘の船をもって押し寄せるのを迎え撃たんとするところへ、十一歳の姫がやってくる。「岩見潟はしの浦波立出て、江津(えづ)の渡りうち過て、宅(たみ)のゝ島やたるみがた、鳥井の山に鳥をはや、出雲路は是とかは、田儀の港の浦つたひ、〱、久村(くむら)清松いたづらに、行くも帰るもあら磯の、吹上の浜風や浪にうき身のなり渡り、小舟も法に神上(かみあげ)の、松も千年のよはいぞと、月をぞになふたわむ身と、あふこの浦による波の、そがの里にぞ着にける」との道行きあって、尊の前に「我はこれそさのをのみこと第三の姫にて候」と名乗る。怪しむ尊に、「抑母君と申奉るは、はらげつら龍王の姫宮」、尊により懐妊し、十三月ののちに生まれたが、「思はぬ中の子なりけりとて、柏の葉につゝみ、是は汝が父、守護の為におかれし、とづかの劔を取そへ海底にしづめ給へば、あたりなる小島の磯により給ふ、見るもかなしやとて、また海に入給ふ。それより彼島を柏島と申也。六十一日と申には、石見なるはしの浦波よるとかや。然ればあけつかた、磯ものゝ為にとて、漁人夫婦出けるが、もくづの中をあやしめば、柏の葉につゝめるもののありけるが、あたりのかゞやくばかりなる、玉姫にておはします。我等今まで、子のなき事をなげきしに、是は天のあたへぞと、よろこびの袖にいだきとり、我家に帰りいつき、かしづきける程に、九の秋半夜なるに語申なり」。駆けつけた姫は「ひこはね」と戦い、白鳥と変じて大石を敵船に投げ込み、「朦胡」の首を切り落とした。そして「則女体は、十羅刹女と現じ給ひ、国土豊にうごかぬ御代と成にける」と納める。

 これが作られた年代はわからないけれども、石見出雲の地名を詠みこんだ道行きがあること、またその地名が必ずしも正確でないことから見て、先行する詞章があり、それをふまえたように思える。そう考えると、波子に流れ寄り老夫婦に育てられ、急を聞いて日御碕に駆けつけるという「波子姫神話」の部分、波子の日御碕との関係について、尼子氏による波子の日御碕社領への寄進(一五二三)によってできたのか、または因果逆にそのような話があるから波子が日御碕神社に寄進されたのかという問題は、おそらく後者だということになろう。

 北山は異国から流れ着いたものであるとの語りは、「鰐淵寺勧進帳案」(建長六年/一二五四)に「右、当山者異国霊地・他洲神山也、蓋摩竭国中央霊鷲山巽角、久浮風波、遂就日域、故時寺号、日浮浪山云云」に見える(中上明「神楽能「十羅」・「日御碕」について」、『山陰民俗研究』九、二〇〇四:五三)。ただこの場合は、天竺マガダ国の霊鷲山の一角が流れ着いたことになっている。『懐橘談』(一六六三)は「当山より美保の関までを北山といふ。天竺霊鷲山の乾の角自然に崩缺けて、蒼海万里を流れ豊葦原に漂ひしを素盞雄尊杵にて築き留め給ふ故に杵築といひ、此山を浮浪山とも流浪山ともいひ伝へたり」と記す(池上洵一『修験の道』、以文社、一九九九:一四〇)。これは霊山が天竺や唐土から飛来したという中世神話(『渓嵐拾葉集』に「霊鷲山の艮の角闕けて飛び来たりて唐土天台山と成り、天台山の艮の角闕けて我が国の比叡山と成れり」のように。池上前掲書:一二一)の一ヴァージョンで、飛来峰説話の国引き神話に寄った変奏となっている(寄せ固めたのはヤツカミズオミツヌでなくスサノオとなっているが、オオクニヌシを加えたこの三神が入れ替え可能であることは前に見たとおりである)。

 出雲神楽・石見神楽には「日御碕」(出雲)・「十羅」(石見)という曲がある(中上前掲論文)。迎え撃つ神は出雲神楽で日御崎大明神、石見で十羅刹女となっており、攻め寄せる鬼は彦春(ほかに彦晴・彦張などとも)、石見では彦羽根である。石見神楽の場合、なぜか高津や柳など美濃郡・鹿足郡にばかり伝わっているが、しかし宝暦十一年(一七六一)の「和木十二ヶ村神楽役指帳」にある(『邑智郡大元神楽』、桜江教育委員会、一九八二。和木は嘉久志の隣村)ことから、石見中央部にもかつてはあったようだ。十羅刹女であっても、「雲州日の御碕鰐淵山に住居する十羅刹女と申すなり」と名乗るように(高津神楽。矢富巌夫『石見神楽』、石見神楽高津社中、二〇〇〇)、波子からやってくるわけではなく、出雲・石見両神楽とも「波子姫神話」「流れ寄る島(浮浪山)神話」は言及されない。謡曲「御崎」と出雲神楽の「日御碕」や石見神楽の「十羅」の関係はどうかと考えるに、このように「御崎」との異同が少なからぬところを見れば直接それに由来したかどうかは疑われるが、大いに関係があるとは思われる(石見神楽が鬼の名を「彦羽根」とするのは「御崎」と同じで、出雲神楽は少々異なる)。

 ここでおもしろいのは備後比婆郡東城町の「ノウノ本」(寛文四年/一六六四)にある「十ラセツキナツキ」である(岩田勝『神楽源流考』、名著出版、一九八三:五一四以下)。「須弥山ヨリ北ニ当ツテフロウ山トテ金ノ山有、彼山ノ戌亥ノスミカケテヲチ海中ニ入、日本出雲国大社ノ北ノ方ニナガレヨリ、フロウ山トナリアラワレタリ」。「天竺ワレカツノ尊、此山ヲヲシミ給テ、取カヱサントテ、千ゾウノ船ヲウケ、十万八千人ノ鬼ヲ指向ケ給」と続け、神は「雲州神戸ノ郡スツサイノ里枕ベノウラニ住舞仕ミサキ大明神トハ自事ニテ候」と名乗り、鬼は「鬼界高来ケイタン国キツサ白サ、ヲウエゾガシマ、一万五千人ノ鬼ノ王ニムクリコクリトハ我ガ事」と名乗る。ミサキ大明神は十人の十羅刹女三十番神を引き具して、「鬼マン国ヨリムクリコクリトユイシ鬼、此山ヲウバイトラントタクム」のを撃退する。その際、天から大鳥現われて大石を投げ落とすこともあった。「浮浪山神話」あり、神はミサキ大明神、鬼はムクリコクリ、経典通り十羅刹女は十人の羅刹女、「波子姫神話」なし、というふうに、謡曲「御崎」と現行出雲・石見神楽曲とさまざまに異同がありながら、両者をつなぐ位置にあると認められる。「十ラセツキナツキ」の題も興味深い。「キナツキ」(杵那築であろう)と付されている点もそうだし、曲中単に引き具されているだけの「十羅刹」が表題になるのは妙だ。それを表題とすべき由縁がほかにあったはずだ。

 「神楽能の十羅刹女の説話は、おそらく浮老山鰐淵寺に拠る修験者たちが、御崎大明神を文字通り鰐淵寺のミサキと観想するなかで成立していったものと思われる」という岩田勝の指摘(『神楽源流考』:五一六)はおそらく正しいが、そこまでは踏み込まない。史料多ければ整合への意欲がそそられるけれども、結局「波子姫神話」の部分は、うつぼ舟で小さな御子神が寄り来りたまうと考える神話の想像・創造力がここにも働いていると確認するだけで終わる。

 

 そのほかにも拾い上げれば、

「邇摩郡湯里村大字西田の水上神社は上津綿津美命上筒男命の二神を祀る。神代の昔伊弉諾命日向の橘の小門に身滌し給ひし時産ませられた神々と共に温泉津殿島に上陸され、命は此地に鎮座せんと宣ひしより此の地を日祖と称することになった。外の神には別れを告げ、小浜に行かせられた。其告別の地を神別阪と云ふ。その夜小浜に仮宿して(仮屋谷)飯原に至り鎮座しては如何とありしも否と(イヤの名あり)宣ひ、それより湯里に出で、遂に西田の水上山に鎮座せられることになったのである」(『島根県口碑伝説集』)。

 式内社櫛代賀姫神社については、くしろひこ、くしろひめが美濃郡鎌手の大浜に上陸したとの伝えがある。「此の地でくしろひことくしろひめと云う、男女の神が会合した時、めをじ(虹の方言)が現れたと云う、男島彦島女島(姫島)の神話が、今日行われて居る」(矢冨熊一郎『益田町史』上、一九五二)。

 地名に久城(美濃郡)や久代(那賀郡)があり、式内社にも櫛代賀姫命神社(美濃郡)・櫛色天蘿箇彦命神社(那賀郡)があることから、クシロの女神男神を奉ずる人々がいたことはたしかであろう。

 

 十一月、陰暦十月の日本海が暗くなり荒れ始める頃に、「龍蛇」とされるセグロウミヘビが海岸に上がる。村人はこれを神の使いとして、採って出雲大社佐太神社に奉納することが知られているが、石見でもその慣習がある。

 大浦では、「古来十月中に、形蛇の如き一尺から二尺余の竜蛇一、二匹が大明神の境内唐浦へ上がり、浦人たちは新羅国からの使いとして、生不生にかかわらず、そのまま新羅大明神の御前に奉納している」と文政年間の代官所への報告にある(上田常一『竜蛇さんのすべて』、園山書店、一九七九:四〇)。新羅神社の末社龍蛇社について、「社伝に毎年十月の頃磯辺に来るを採て折敷に載て奉る蛇の如きものなり亦此海に長二寸はかりの頭は馬に似体は蛇に似たる虫あり是を俗に海馬と云ふ新羅明神此海馬に乗り来り給ふとも云ふ」(『石見国神社記』)。馬路の乙見神社でも、「出雲大社佐太神社のように、南方から季節風に乗って来る龍蛇が琴ケ浜に上り、これを奉納する信仰があって、今も本殿内に数多く保存されている」(『仁摩町誌』)。

 大元神楽「佐陀」は佐陀神社の由緒を説くものだが、その曲は「其時龍神五色の龍蛇をさゝげ上れば太神是を受け取り玉ひ宝の御蔵へ納め玉へば忽ち龍神立ち来る波を蹴立て蹴立て海中にこそ入り玉ふ」と舞い納める。

 これもまた渡り来る神(の使い)である。

 

 石見の神話なら、石見神楽のことも言わなければならない。今も眼前に神話を見せているのだから。この地方においてその人気たるやすさまじく、人口減少の止まらぬこの地方で神楽社中は130以上あり、今も増えている。

 「神楽」の名のごとく、もとは神職が行なうものであった。例祭の神楽は直面の七座舞、「太鼓口」「潮祓」「御座」「手草」「四方堅」「剣舞」「鈴合せ」などの儀式舞で、式年の神楽は五年とか七年・十三年ごとに行なわれ、大掛かりにさまざまな娯楽色の強い能舞が行われた。神憑りして神の託宣を聴くことも式年神楽の重要な行事であった(山路興造「石見神楽の誕生」、『民俗芸能研究』五六、二〇一四)。

 能舞の演目は記紀神話の「岩戸」や「大蛇」など、中世説話「天神」「黒塚」などである。現在神楽台本としてあまねく普及している『校訂石見神楽台本』(篠原實編、日下義明商店、一九七二)には、八調子神楽として「塩祓」「真榊」「帯舞」「神迎え」「八幡」「神祇太鼓」「かつ鼓」「切目」「道がへし」「四神」「四剣」「鹿島」「天蓋」「塵輪」「八十神」「天神」「黒塚」「鍾馗」「貴船」「日本武尊」「岩戸」「恵比寿」「大蛇」「五穀種元」「頼政」「八衢」「熊襲」「武の内」「五神」を収める。また古風な六調子神楽(大元神楽はこちらに属する)として「潮祓い」「磐戸」「八衢」「刹面」「鍾馗」「御座」「皇后」「貴船」「恵美寿」「八岐」「天神」「風宮」「佐陀」「関山」「弓八幡」「五龍王」「山の大王」を載せる。

 その人気曲は鬼退治もので、異国から襲来する悪鬼から国を守る「最前線」心情がみなぎっているようだ。鬼どもの名乗っていわく、「おお我はこれ、四海万国を押領なす、大悪鬼とはわが事なり。唐天竺は申すに及ばず、アフリカ(!)、韃靼、ヨーロツパ(!)、スマンダラ、三分才の塔の棟までも、わが足の當らざる處なし。我に敵たふものならば、足の爪先に引つかけて中天に蹴上げ、落ちる處を三十二枚の牙にかけ、けつしめつしとかみ砕かいでおくものか」(道がへし)、「おお我はこれ、今度日本征伐の大将軍、じんりんとは我が事なり」(塵輪)、「オゝ我は是蒙古の国の大王也然るに此度汝等が住む大日本の神国を一戦に攻崩し我国の奴とせん為甲冑兵船を催し只今是まで来たり」(風宮)、「おお我はこれ、中天竺他化自在天の主、第六天の悪魔王とは我が事なり」(八幡)、「おお我はこれ、春の疫癘夏瘧癘、秋の血腹に冬咳病、一切病の司、疫神とは我が事なり」(鍾馗)、等々。

 しかし一方、鬼面であっても大元神楽の「山の大王」は悪鬼でなく、奥三河の花祭に出る鬼のような、恐ろしげなれども恵みをもたらす山の主である。供応を受ける大王は山言葉を話し、それがわからぬノットジと滑稽なやりとりをする。

 

祝詞司(のっとじ)「山の大王さん、大変ご苦労さまでございました。わしゃ言葉が解りませんから、どうぞ大和言葉でおっしゃって下さい。」

大王「あいあい。祝詞司、さんげ、さんげ。」

祝詞司「大王さん、さんげさんげとおっしゃっても、今子供を産めというても産むものはいませんが、後家くらいではどうでしょうか。」

大王「いやいや、さんげとはお前のいう子供を産むことではない。神明から申して、かのみそぎのことじゃ。」

祝詞司「みそぎと言うのは。」

大王「神明から申して、かの祓いのことじゃ。」

祝詞司「高天の原に神づまります、神漏岐漏美(かむろぎかむろみ)の命以ちて、皇御祖(すめみおや)いざなぎ命、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原(あはぎ)、禊ぎ祓いし時に成りませる祓戸の大神たち、もろもろの禍事、罪汚れあらむをば、祓い清め給へと申す事の由を天津神国津神八百万の神たち、共に聞こしめせとかしこみかしこみ申す。」

(中略)

大王「今度は、またあり、またあり。」

祝詞司「又あんなことを言われるが、またありまたあり言うて、人の股を借りてくる訳には行きませんが、私の股ではどうでしょうか。」

大王「人の股の事ではない。神明から申して肴の事じゃ。」

 祝詞司が肴を捧げるとき、長短二本の箸を用いる。

大王「これこれ、祝詞司、上箸が長く、下箸が短いのは一体どうした訳じゃ。」

祝詞司「上箸の長いのは悪魔災難をずっと押しのけるためです。下箸の短いのは、福徳円満をずらずらずらずらと引っ込むためです。」

大王「ふん、なるほど、もう一回やり直せ。」

 やり直し。次いで神饌を下げる。

大王「うん、なかなかよく出来た。大王は一足先に帰るから、祝詞司も早く帰って来い。」

 大王入り、祝詞司、舞い収めて入る。

 

 この「山の大王」のほか、「五穀種元(伎禰)」「切目」(熊野の切目王子伝承より)「五龍王(五神)」などはほかの能舞と趣を異にし、より深く民衆の思念にからまったものを感じさせる。

 「五穀種元」は次のようである。

 

天熊「自らは天照大御神に仕へ奉る天熊の大人といへる神なり。ここに天照大御神の御言以ちて、この豊葦原の瑞穂の国に保食の神といふ神ありと聞こし召したまひ、御弟須佐之男の命を遣はして見しめたまふ。故須佐之男の命、その御御言を畏こみまして、保食の神の御許に至りたまひ、食しものを乞ひたまへば、保食の神、種々のためつものを、百取りの机につくり供へて奉りたまふ。時に須佐之男の命、その御仕業を覗ひ、怒り面火照りして、汚きものをもて我に養ふぞと宣りたまひ、即ち保食の神を打ち殺して返り言申したまふ。時に天照大御神、重ねて自らに詔らして、保食の神の御許に至り、その御有様を伺はしめたまふに、保食の神まことに既に御まかりたまひ、その御体に生れる種々の種つもの、又蠶、桑の木、牛馬に至るまで、悉く取り持ちて、天照大御神に捧げまつりしかば、大御神いたく喜びまして、この物どもは顯しき靑人草の、朝夕に食いて生くべきものぞと宣り給ひ、即ち粟、稗、麥、豆を畑つ物と定め、稲を御田つものと定めたまひて、天の村君をして天の狭田長田に植え廣めさせとよとの詔を受け、只今村君が許にと罷りて、大御言を伝へばやと存じ候。」

天熊「急ぎ候ほどに天の村君が許に着きて候。いかに天の村君、御出で候へ。」

村君「自らを召され候は、いかなる詔にて候や。」

天熊「自らは天照大御神に仕へ奉る天熊の大人といへる神なり。ここに大御神の御言もちて、汝天の村君に、この種々の種つ物、又斎鋤斎鍬を授けて、田畑を開かしめ、この種つ物を植へ廣めさせとよの大御言なり。汝この斎鋤斎鍬を持ち候へ。」

村君「畏まつて候。」

天熊「其の斎鋤斎鍬を持ちて狭田長田を開き、この種々の種つ物を植へ廣め候へ。」

村君「こは有難き詔にて候。然らば人民を率いて牛馬を以て力を助けしめ、斎鋤斎鍬をもて、水ある處を田となして稲を植え、水なき處を畑となして麥、粟、稗、豆を播き植え、又天の香具山に桑を植えて蠶を飼はしめ、事終へて後、重ねて注進仕るべく候。」

天熊「然らばこの由奏聞に及ぶべく候。」

 (後略)

 

 この曲は「伎禰(杵)」ともいい、杵と臼は男根と女陰のシンボルだから、エロチックな類感呪術的意味も当然あるだろう。

 「五龍王」は五行説の劇化である。「凡天地万物ハ皆陰陽五行自然のなす所にして、四季の巡還万木万草の生枯、春夏秋冬四土用の功用迄皆是造化の義なれば、人として目下其形を見事能はす。然共形をさして見ざる物ハ其功の大ひ成りといへ共、其徳に感伝する事おのづから薄し。是によつて暫く造化に形を設け、人体に移して是を顕ハす所の舞也」と「御神楽之巻起源鈔」は説いている(『邑智郡大元神楽』)。

 父王の所領相続の争いの形で、春夏秋冬・東西南北・木火金水を司ることとなった四人の王子に対し、末子(父王の死後生まれたともいう)五郎の王子が自分の取り分を要求して戦いに至るも、老翁が裁定し五郎(ここでは埴安大王)は四人から春夏秋冬それぞれの土用を分けて取らせ、中央にあり土徳を表わすこととなる、という筋だ。陰陽道修験道の徒の手になり伝え広めたものである。大曲で、夜通し行われる神楽のしまいごろに演じられる。

 

第一王子春青大王「そもそも自らは国常立王第一の皇子、春青大王とは自らが事なり。さて我が父国常立王と申し奉るは、天地とともに神明現はれたまふが故に、造化神、偶生神と稱し奉る。これを神代七代とは申すなり。然るに開闢の初め、国土成就すと雖も、万民皆山野に住居し、君臣父子の道も疎かにして、士農工商の別けもなく、森羅万象生ひ茂り、草木時を定めず、国土穏かならざらば、国常立王には詔を下したまふ。さて第一の王子、春靑大王には、東方甲乙の群を所在として、春分正中を司どり、造化をなして生育を専らとし、時候寒暖なく、万物を生成し国家を利益せよとなり。即ち詠み歌に曰く、『久方の天の香久山神代より霞みこめつつ春は来にけり』さて夏赤大王の御所存はいかに。」

 続いて第二王子夏赤大王・第三王子秋白大王・第四王子冬黒大王が名乗り、次いで末子埴安大王が現われ自らの所領を要求するが、拒否され戦いとなる。そこへ所務分けのおじい(塩土の翁とも)が出て来て仲裁し、裁定をする。

所務分けのおぢい「各五神の大御神たち、何を争ひたまふぞや。静まりたまへ。」

五神「我々領地を争ふ合戦の場に、静まれなんどとは、天が下に覚えなし。」

おぢい「各五神たち、勝負あっては叶ふまじ。今一天四海万民の憂ひ、いかゞせん。各々五神たち、抜いたる太刀は鞘に納め、はいだる弓は袋に納め、暫く合戦をやめて、某が奏聞の趣を聞し召され候へ。」

おぢい「さて上天高天の原、日光殿月光殿に於て某を召され汝かしこ根の命、各々五神たちに命令を下したまへと宣りたまふ。それ未生已生の一太極を立て、太占を以て広大無辺の理を諭したまふなり。一徳の水、二義の火、三性の金、四節の木、五季の土と五方に分け、東西南北中央を立て、これを後天と名づく。これまでの水火木金は先天にして争扞不利の所在なり。今より所在を分鎮し、所領を分けて参らするなり。」

五神「畏まって候。」

おぢい「さて第一の王子春青大王には、東方甲乙の郡を所在として、海八万八千町、川八万八千丁、海山川三口合して二十六万四千町、春三月九十日を知行なされたく思し召され候処、この中を十八日残しおき、七十二日を所領となされ、青き御幣をば寅卯を境に立ておき、これを知行となさるべく候。」

春青「畏まって候。」

おぢい「残しおく十八日をば、三月大土用と除き、これを埴安大王に参らるなり。」

以下、「第二王子夏赤大王には、南方丙丁の郡を所在として、海山川三口合して二十六万四千町、夏三月九十日を知行なされたく思し召され候処、この中を十八日残しおき、七十二日を所領となされ、赤き御幣をば巳午を境に立ておき、これを知行」、「第三王子秋白大王には、西方庚辛の郡を所在として、海山川三口合して二十六万四千町、秋三月九十日を知行なされたく思し召され候処、この中を十八日残しおき、七十二日を所領となされ、白き御幣をば申酉を境に立ておき、これを知行」、「第四の王子冬黒大王には、北方壬癸の郡を所在として、海山川三口合して二十六万四千町、冬三月九十日を知行なされたく思し召され候処、この中を十八日残しおき、七十二日を所領となされ、黒き御幣をば、亥子を境に立ておき、これを知行」とし、それぞれから取り分けた十八日を土用として五郎の王子に与える。

おじい「さて中央五郎の王子埴安大王には、中央戊己の郡を所在として、海八万八千町。川八万八千丁、海山川三口合して二十六万四千町、春の土用十八日、夏の土用十八日、秋の土用十八日、冬の土用十八日、四土用集むれば、これも七十二日にて候へば、黄色なる御幣を丑辰未戌を境に立ておき、これを知行となさるべく候。」

五神「畏まって候。」

と納めて、舞となる。

 

 石見の神話に思想があるなら、それは「福は内、鬼は外」。争闘も決して辞さない一方、五穀豊かに鎮まり栄える世の希求が一貫していると言える。

 

 

 主な文献としては、

石田春律『角鄣経石見八重葎』(一八一七)、石見地方未刊行資料刊行会、一九九九

藤井宗雄『石見国神社記』(一八八七)、山崎亮翻刻、『山陰研究』二・三、二〇〇九・二〇一〇、および山崎亮・錦織稔之翻刻、『古代文化研究』二四、二〇一六より

島根県口碑伝説集』、歴史図書社、一九七九(原著:島根県教育会、一九二七)

『石見六郡社寺誌』、小林俊二修訂編纂、石見地方未刊行資料刊行会、二〇〇〇(原著:一九三三)