春暁という画家

 拡張現実ならぬ拡張記憶というものがある。父母、祖父母など、上の世代から聞いた話によってもたらされた記憶である。自分で見たり聞いたりしたわけではないので、不正確でもあれば脚色誇張もまじってはいるだろうが、オーラル・ヒストリーはそれによって作られているのだ。

 祖母は大きな音を恐れた。それは、日本海海戦のとき母のお腹にいたからだと。あの日、このあたりでは遠雷のような音が不気味に響いていたそうだ。海戦の砲音だったわけだが、それを胎内で聞いていたのでそうなった、と言っていた。これで私にも父母未生以前の記憶ができたことになる。遠く日露戦争までも。

 子供のとき、よくおばあさんに連れられて寺参りをしていた。御院家さんの説法を神妙に聴いているとき、ときどきかじま屋の爺さんが「ありがたーい」と叫んで跳びあがったという。あのじいさん、次はいつ跳びあがるかなと楽しみにしていたそうだ。その小造りな老人が妙好人として名高くなった浅原才市である。

 裕福な家が何かで不如意になると、家蔵の書画骨董を売るのだが、そのとき子供に小遣いを与え町中を「○○にセリもんがあるけえセリへ出ないと」と節をつけて触れて回らせていたそうだ。子供が歩く範囲なら近隣に限られる。港町だったため、財を築くのも早いが失うのも早い。昔栄えた家で今はここにない家は数多い。才覚ある男の一代で成り上がった家は、財をなせば骨董集めを始め、また一代で家を傾けた子孫がそれを売って金を作る。近隣での骨董のやりとりで、異種の互助とも言えよう。書画骨董はのしあがった家になくてはならぬものであり、需要があった。画工は世の中に必要な仕事だった。

 若死にしてしまったため知る人少なく、おそらく「かじま屋の爺さん」の角のある肖像を描いた人としてのみ名を残している若林春暁という画家がいた。彼について父が略伝を書いているので、それを転載する。

 

 日本画家若林春暁 その略歴

 温泉津の生んだ不遇の天才画家、若林春暁について、その略歴を述べます。彼の本名は若林好人といい、明治29年11月6日、大浜村大字小浜ロ108-4番地の魚屋(若林)に生れる。両親は岩太郎及びかヨであります。魚屋は平野屋(若林朋太郎)、魚野屋(若林恒夫)、石田屋(若林周五郎)、若葉屋(若林好夫)、若島屋(若林茂見)の本家筋にあたる旧家であります。然し彼が生まれた頃は、家庭は相当苦しくなっておりました。

 彼は幼いときから絵画を好み、小学校時代から次第に頭角を現わし、長ずるに従って愈々その才を発揮しました。明治44年広島県の呉尋常高等小学校を卒業し、海城中学校へ入学しましたが、家庭の都合で1学年だけで退学しています。明治45年5月より6年間(16才~22才)、当時関西随一といわれていました大阪市の南春濤先生に師事し、そのときから雅号を春曉と名乗り、この道の研鑽につとめたのであります。「大正2年第4回浪華絵画展へ「遊鯉図」を出品して授賞される。鯉と美人を得意とするも、その他花鳥山水いずれも可ならざるはない前途洋々として春秋に富み、その将来が嘱目されている」と当時の島根県人史に書いてあります。

 大正7年10月より大正9年3月(22才~24才)まで、広島・鳥取・島根・九州・奈良の各地を漫遊して研鑽を重ねました。温泉津の生んだ有名な妙好人、浅原才市翁の頭に角のある肖像画は彼の23才のとき描かれたものであります。現在才市翁と由かり深い梅木長七氏宅に所蔵されており、その他のものは、その写しであります。

 大正12年4月より2年間(27才~29才)、日本画の大家である京都市の西村五雲先生の塾へ入門し、本格的な研鑽を重ねました。この二曲一双の屏風の「孔雀図」はこの時代に完成されたものと思われます。

 昭和2年(31才)に上京し、東京府下沢村下馬677に居を構え、上野で個展を開き、大変盛大であったと聞いています。当時帝展審査委員であった荒木十敏先生にも師事し、帝展出品のため、日夜心血を注いで創作中、不幸にして病に倒れ、昭和6年2月1日、35才という若さで他界いたしました。次に示すこの未完成の「遊鯉の図」も現在筆者の所蔵しているものでありますが、その並々ならぬ才能が窺われ、もう十年長生きしておれば必ず大成したであろうと思われ、その早逝が惜しまれてなりません。

 彼の妻康子も昭和9年に病没しておりますが、その間に二女に恵まれ、長女美紀子は分家である若葉屋の長男若林好夫を夫に迎え、現在東京都千代田区九段南に居を移して平穏に暮しています。

(若林謙太郎)