入蔵熱の周辺

19世紀の後半、「イギリス人国境官吏のあいだでは、目と鼻の先にあるこの謎めいた禁断の国に行きたくなるのが、一種の「職業病」にさえなっていた」(*1)。当時厳しく鎖国していたチベットは、鎖され謎めいていればいるだけ、先進諸国の冒険心に駆られた人々の征服欲をそそっていた。19世紀の前半までは、稀とはいえヨーロッパ人でラサに達した人も時折いたが、この世紀の後半になると、ラサは神秘のベールにつつまれた「禁断の都」になっていた。ホップカークの書は、そこへの一番乗りを目指す欧米の冒険家群像を活写している。
欧米のそれと呼応するかのように、当時の明治日本にも入蔵志願者が突如群れをなして現われた。ただし、帝国主義的勢力拡張の争いであるヨーロッパ人たちの「グレート・ゲーム」に対し、本邦人のは西方取経を念願とする「今西遊記」であるという違いがある。成田安輝を除き、あとの入蔵志願者はみな僧侶なのである。これら青年僧の異様な「入蔵熱」の元をたどれば、南条文雄・小栗栖香頂とその背後の石川舜台に行き着く。明治6(1873)年、東本願寺大谷光瑩上人の欧州視察に随行した舜台は、ヨーロッパにもたらされていたサンスクリット経典に接し、これの学習を上人に命ぜられ、多少勉強した。帰国に際しては「洋人ノ対訳スル西蔵字一本ヲ得来」った(「喇嘛教沿革」p.286)。帰朝後、すでに明治6年北京に渡っていた小栗栖香頂を再度大陸に送り、明治9(1876)年に本願寺上海別院を開設する。同年南条文雄・笠原研寿をイギリス留学に送り出す。小栗栖香頂(1831-1905)は『喇嘛教沿革』を著し、明治10年刊行するが、これの発行人は舜台である。南条文雄(1849-1927)はオックスフォードでマックス・ミュラーサンスクリットを学び、師にチベットへ行き経典を集めることを強く勧められていた。帰国時にインドを回って仏蹟を探訪し、チベットへも行きたいと思っていたようだが、帰国はアメリカ回りとなったためそれは果たせず、明治20年インドへ旅行した際もチベットへは行けなかったが、そのことを気にかけていて、その思いを若い人たちに伝えていたようだ。小栗栖・南条の二人の先達から明治日本の入蔵熱は起こり、その舞台裏には石川舜台がいた、という構図である。
入蔵志願者の群れの最右翼にいたのは、能海寛(1868-1901?)である。彼は小栗栖・南条の両師に学び、南条宅に住み込みの弟子でもあった。日本にいるときからチベット語を自習していて、明治31(1898)年、満を持して東本願寺の公費派遣で法主からダライラマあての親書を手にチベット入りに出発する。能海は出発前の明治30年5月9日、「予ト西蔵」という覚書を書いているが、その中で彼の知るかぎりの入蔵志願僧を列挙している。東温譲(真宗本願寺派、明治21年セイロン留学・同26年ボンベイで客死)。太田某。生田(織田)得能(真宗大谷派、明治21年シャム留学・同23年帰国)。善連法彦(真宗仏光寺派、明治21年シャム・セイロン留学・同24年帰国・同26年死去)。川上貞信(真宗本願寺派、明治22年セイロン・カルカッタ留学)。ただし、実際にダージリンにまで赴いた川上を除き、あとの者は意欲はあったが行動に移すまでに至らなかったようだ。川上についてはあとで触れる。
これらは能海が計画を把握していた面々だが、入蔵熱の流行はそれだけにとどまらない。実際ラサ入りに成功する河口慧海黄檗宗、1866-1945)と寺本婉雅(真宗大谷派、1872-1940)の名はそこにはない。慧海は明治30(1897)年6月26日にチベットを目指し日本を発つ。そのことを能海は日記に記しているが、ひと月前に「予ト西蔵」を書いた時点では把握していなかったのだ。寺本に至っては、同じ大谷派の僧なのに、中国に渡り、領事館から彼と同行するよう指示されて初めてそういう者のあることを知ったのである。同じ時期にチベット入りを目指しているからというので現地の領事館が二人まとめて護照を手配したのである。しかしその指示を受けた時点では、名前すら知らなかった。さらに、能海が四川からの入蔵に失敗し、青海に向かう途中の西安で、明治32年冬30歳と20歳ばかりの僧2人西安から打箭炉へ向けて出発したと聞いた(「遺稿」p.133; 184。寺本によれば大谷派の僧後藤葆真と樋口竜縁だという)。寺本も、明治31/32年の冬「真言宗の僧吉田弘範氏単独西蔵に入らむとして飄然当地(上海)を去」ったと聞かされる(「蔵蒙旅日記」p.34)。後述のように、のちの真言宗高野派管長土宜法竜も入蔵の希望をもっていた(*2)。
仏教青年の禁酒運動から始まった「反省会雑誌」(のちの「中央公論」)に関わり、井上円了の創立した哲学館に学び(河口はここの先輩に当たる)、「チベット探検の必要」という一節を含む『世界に於ける仏教徒』(序文を大内青巒が書いた)を著し、入蔵熱の中心にいた能海寛。その彼もノーマークのところから、志願者は湧くように現われていたのだ。
結局は入蔵に失敗した能海は、それでもその意志と、不本意な中絶に至るまでの業績を顕彰されている。ならば、能海以前の不成功者川上貞信(1864-1922)のような先駆者にも、それ相応の位置を与えなければならないだろう。成功者たちは川上の切り開いた道を進んだのだから。そのころ来日していたセイロン(スリランカ)の仏教復興運動家ダルマパーラの著述を翻訳(『愛理者之殷鑑』、明治22年)したのち(*3)、セイロンに留学し、あとでカルカッタに転ずる。志を果たせずボンベイに死んだ東温譲と同郷同宗であった。彼の入蔵の志を受け継ぐかっこうで、ダージリンのチャンドラ・ダス(英国のスパイとしてチベットに潜入、のち蔵英辞典を著す)の別荘に住み、チベット語を勉強しつつ準備をしていたが、この道からのチベット入りは不可能と思い、結局明治30年帰国した。それと入れ違いにダスの家に来たのが河口である。川上の入蔵計画を「反省雑誌」は社説に取り上げ(「仏門の福島中佐」、明治26年3月)、自身入蔵を意図していた土宜法竜も彼と連絡があった(*4)等々、彼の入蔵行は、当時のその方面に意欲ある者の関心を強くひいていたようだ。いったん帰国しても志を捨てたわけでなく、明治31年、出発直前の能海と会い、アドバイスを与えている。明治33年、今度は北京に留学するが、これもチベット行きのためである(「旅人」p.232)。しかしここで北清事変に遭遇、北京篭城の義勇隊で働き、結局またも入蔵の入口に立っただけで帰国することになった。この義和団事件の直後、軍の通訳を命じられて北京に渡ったのが寺本で、彼はそこで事変で荒らされたラマ寺院に蔵文大蔵経を発見、これを将来することになるのである。日本では、慧海が第1回の入蔵から帰国(明治36年)したころ、当時巣鴨にあった真宗大学(現・大谷大学)で1年ほど「西蔵語の極初歩の所」を教えた(*5)。川上はチベット仏教関係のすべての局面で露払い役であり、そういうものとして終わったが、このような先人の苦労のあとに後人の栄光はあるのだ。
この異様なブームの背景には、維新時の廃仏毀釈から立ち直ってきた仏教復興の動きがある。漢文経典にとどまらず梵語原典にあたる必要を感じ、そのために長足で発展しつつあるヨーロッパのサンスクリット学に学ぶ。そうすると彼地で常識化しつつある大乗非仏説の重い影に行き当たる。そこで同じ大乗であるチベット訳の経典の研究を志す、という青年大乗仏教徒のパトスが一方にあった。
他方、「探検熱」もかきたてられていた。明治26(1893)年は「明治日本の探検元年」であったと言える。福島安正中佐のシベリア単騎横断と郡司成忠大尉の千島遠征の年である。陸軍と海軍の軍人によってなされたこの二つの事業が当時の人々に与えた印象は非常に深かった。前述の「反省雑誌」社説の表題「仏門の福島中佐」にもそれがうかがわれる。けれど、海軍的探検のほうは白瀬中尉の南極探検ぐらいしか続かず(白瀬自身は陸軍軍人)、これよりのち「探検」はもっぱら陸軍の専管事項の如くになってゆく。
白瀬の南極探検は、日本の「探検」の特徴をよく示している。まず、国家的事業でない。この国において探検というものは、初めから「民営化」されている。突出した個人の行動であり、それを支持する民間の資金で賄われる。欧米の同種事業の刺激を受け、それを真似て、出遅れながら割ってはいる。国民は、凱旋した当初こそ熱狂的に歓迎するが、総じて帰国後の探検家を遇すること能わない。それとも冒険をしない者(その最右翼が官僚)が重んじられる国にあって、もともと遇されようのない者が探検に出るのかもしれない。アムンゼンとスコットが極点到達を競う場に、とうてい競争相手にはなれぬ日本隊が意気だけは高く首をつっこむ。戯画と紙一重の英雄画である。しかしながらチベットでは、プルジェワルスキーやヘディン、ヤングハズバンドなどの錚々たる探検名士たちがラサ一番乗りを競う中、河口と成田がちゃっかり先んじているのは愉快だ。


この「入蔵熱」をめぐって興味のつきないのは、その周辺に明治日本の最良の知性が蝟集していることである。
日本における近代仏教学の祖である南条文雄は、笠原研寿とともに東本願寺から英国へ派遣され、オックスフォードのマックス・ミュラーのもとでサンスクリットを学んだ(*6)。そして、梵語経典の書写や校訂の作業のほかに、岩倉具視がイギリスに寄贈した黄檗大蔵経について、梵語原典名や漢訳年代などを付した英文のカタログを作る。チベット訳があればその旨も付記してある。これは、それでなくともヨーロッパ人にとっても接近の難しい漢文の一切経について、近代書誌学によって施されたすぐれた目録で、学界に対する大きな貢献であった。マックス・ミュラーと南条・笠原の理想的に近い師弟関係については、前嶋信次の「美しき師弟」(『インド学の曙』所収、世界聖典刊行会、1985)に美しく叙述されている。ミュラーにはチベットに入り経典を収集することを強く勧められていた(*7)が、自分では果たせなかった。のちに内弟子となった能海について、「明治十七年私が英国留学からの帰途印度へ立ち寄つて仏蹟を巡拝し西蔵も探検して見たく思つてゐましたが或る都合で米国を経由して帰つたので残念であるといふことを聞いて、能海君は西蔵探検は私が引きうけますと言つた」(「遺稿」p.239f.)と述べているが、能海一人に限らず、他の青年僧の入蔵熱もかきたてたことであろう。
チベットには行けなかったが、インドへは行った。明治20(1887)年1月のことである。このときの紀行文「印度紀行」(*8)と自叙伝『懐旧録』(*9)は、実におもしろい。いきなり出発するのである。9日にセイロン経由で欧米に行く人を紹介され、10日その人に会い、同行を勧められ金も貸そうと言われて、12日にはもう船に乗っている。荷造りだけでもよく1日でできたものだと思うが、本山と帝国大学に休暇を乞う手紙を書いただけで出発できるのには感じ入ってしまう。人と人が近く、制度の壁が低い時代だったわけだ。「突進主義」みたいなものはたしかに存在していて、南条も笠原も留学に出発した時点では英語がまったくできなかった(人を選ぶときは人物を見るだけで足る、ということである。しょせん道具に過ぎぬ語学などあとからついてくる)。しかし長所はすべて欠点も込みであって、南条の帰国後の履歴を見ると、真宗のいろいろな学校や華族女学校など一所不定の勤務歴で、オックスフォードで学位を取ってきた碩学にふさわしいとは思えない待遇である。彼より一世代あとに同じくマックス・ミュラーに師事した高楠順次郎になると、東京帝国大学教授をもって迎えられるのである。制度が大きな障害でないのは、制度がまだ整備されていない「普請中」だったからである。『懐旧録』は維新の当時「僧兵」であったという驚くべき履歴から始まっている。硬直していないとも、無定形とも言える時代を生きた人である。
それは、学者文人が当たり前に四書五経を諳んじ漢詩を交換していた時代、江戸の学識の残影がまだあざやかだった時代でもある。『懐旧録』中の英国留学の部分など、留学中折あらば詠んでいた漢詩集とその注釈のように見える。中国と日本は「同種同文」だということがよく言われたが、それは中国支配のイデオロギーに過ぎず、同種でも同文でもないというのが今では一般的な考え方だ。しかし「東亜同文会」などを作った人々、漢学で人格形成され漢詩で情操気概を養われた人々の世代にとっては、同じ文明に属しているというのは自明の常識であったので、イデオロギー云々よりも「常識」の遷移を見るべきなのである。
インドには1年半ほど留学するつもりでいたらしいが、現地の状況を見てその計画は捨て、仏蹟の探訪をもっぱらとする中でも、カルカッタのアジア協会図書館に行き梵文無量寿経を校読して、不明箇所はチベット語無量寿経を得て比較すればあるいは理解できるのではないかと書いている(「印度紀行」p.425)(*10)。ダージリンにも行った。この旅行中いろいろな欧人学者と会っているが、すべて知人である。マックス・ミュラーのもとで学び、学界に寄与する業績をあげている南条は、「学問市民」であり、学者のネットワークの中にあるのだということがわかる。梵語はひとまずおいても、漢学を修めた上で英語を習得するというのは、いわゆる「和漢洋」の世界性である。しかし、英語がインドの公用語である点からみれば、それは一方で「天竺・震旦・本朝」三国の世界性でもある。『東洋の理想』を説いた岡倉天心にも重なってくる。そういうことも教えてくれる。


天保は寅年の生まれ」の小栗栖香頂は、歳は離れていたが南条の親友で、「福沢(諭吉)氏は小栗栖香頂師について仏教を学ばれたように聞いている」(『懐旧録』p.301)。上述のとおり、明治の初めに中国に渡り、『喇嘛教沿革』(*11)を著して、チベットおよびラマ教と通称されるチベット仏教の概略を示した。チベットについてまったく無知である邦人のために、「大清会典」・「西蔵記」中の「蒙古源流」などを参照しつつ、主に魏源「聖武記」中の「撫綏西蔵記」「後記」により、その抄録に注釈を加える形、つまりこれまでの漢人チベット知識や情報を整理する形で示す。そのため、漢人の理解の足りない部分についてはそれを踏襲することになるけれど、典拠が明らかで信頼できる。わからないことはわからないと書き、後人の解明を待つ姿勢であるのも好ましい(「後ノ君子之ヲ訂正セヨ」「他日西遊ノ君子ヲ俟ツ」)。よし、それならば乃公がと、知識の欠落部分を埋めんとする若者をうながすことにもなったであろう。何も知らない者が乏しい知識でわかったつもりになるという類の誤りからは免れていて、今でも参照するに足るドキュメントになっている。
この『喇嘛教沿革』中に、「支那教派大意」「道教大意」「回教沿革」を見よという指示が散見する。こういうものも書いていたらしい。未完なのか稿本のままかと思われるが、当時の中国宗教事情の全体を把握しようとしていたことがわかる。
チベットにアクセスするには3つのルートがあった。インドから、シナから、モンゴルからの3つである。政治地理的にはインドはイギリスが押さえているので、イギリス官辺と関わらねばならず、知識の面からは欧米経由となるのが第1のルート、第2は漢人漢学のルートであり、第3も清朝治下ではあるが、ロシア人の影響力や知識も無視できない。脱亜入欧を推し進める明治日本は、チベット知識についても「欧米化」を深めていった。日本のチベット研究はまず小栗栖香頂の漢学シナ学から始まっているのだが、自身は漢学の素養深かったとはいえ、留学の結果として「欧米派」である南条文雄の方向に道は切りかわってゆく。


シナ学の泰斗内藤湖南(1866-1934)のチベット知識は、むろん漢学である。彼の前半生には、仏教やチベットが伴侶としてよりそっていた。仏教との縁は、上京し大内青巒の知遇を得て「明教新誌」の編集に携わったことによるので、生計のためであったのかもしれない。だが、「偉大なシナ学者」として大成した到達点からでなく、出発点から行路にそって眺めれば、仏教や国史国文は漢学と並んで彼の学問の柱であった。
若きジャーナリスト湖南は、探検を鼓吹し(「亜細亜大陸の探検」、明治23年12月「日本人」掲載)(*12)、改革すなわち謀反であると喝破して(「青年の仏教徒」、明治23年5月「大同新報」掲載)、「謀反」を奨励する。「謀反人なる哉、謀反人なる哉、我が仏教界にして一個両個の謀反人なくんば、其腐敗沈滞、畢に以て済ふべからざる也」などというところは宛然アジテーションだが、その「謀反」の武器として仏教の新しい価値を明らかにする新研究新知識を勧奨するあたりは、やはり湖南である。この文など、原題は「新仏教徒論」であった能海の著書『世界に於ける仏教徒』とも通うし、「日本仏教の形勢、村上博士の演説、政教問題、宗教法案否決、兎に角日本仏教徒の一運動として喜申候、益々々々騒ぎ立て、宗教の大変乱を引起し、宗教革命の所まで進撃相成度切望致候」(明治34年1月1日付重慶からの寺本宛書簡、「遺稿」p.147)などという部分とも響きあう。能海らがいたあたり、おそらくはその先頭あたりに、湖南もいたのである。
まとまった著述こそないけれど、湖南はチベットに対して一通りでない関心を抱いていて、勉強も怠らなかった。そして日蔵関係において何か出来事があるたびに、それに応じて発言している。明治34年7月、寺本婉雅の努力によって阿嘉呼図克図が来日したときには、英露間のグレート・ゲームの場としてチベットをとらえた「西蔵問題」の論説を書き(「大阪朝日新聞」明治34年7月18日)、また「西蔵の研究」では、「喇嘛僧の渡来と西蔵使節の入露報とは、世人をして西蔵研究の必要を感ぜしめた」として、自分のもっているチベット関係漢籍資料を列挙し、「西蔵問題は今後に於て極めて必要に極めて趣味ある者たるべし。其の躬親ら入蔵の企画ある人は姑く舎く、書籍の上より之を研究せんとする人には、今より其の資料の蒐集に勉めざるべからず。有志の人と相研鑽して其の已発の秘密なりとも完全に知了せんことは余の至願なり」(「読書記三則」明治34年8月、「日本人」掲載)と言明する。
明治33年12月に寺本によって北清事変後の北京ラマ寺院から蔵文大蔵経が取得された事件に応ずるかのように、湖南自身も明治35年奉天で蒙文満文大蔵経を見出し、38(1905)年、日露戦争の大勢が決したあととはいえ、まだポーツマス条約は結ばれていない時期に満洲へ渡り、8月蒙文満文大蔵経を調査、これらの経典は日本へ将来されることになる。重訳だから蔵文より価値は下がるが、研究史上の一事件であることは間違いない。
明治36年5月、河口慧海チベット潜入を終えて帰朝し、新聞に旅行談を発表するや、間髪入れず「河口慧海師の入蔵談に就て」を著し(「大阪朝日新聞」明治36年6月22日)、そのうちの地理上の疑問点を指摘している。
大正4年に河口が第2回のチベット旅行から帰国する。大正6年には能海の追悼会や「能海寛遺稿」の刊行もあったが、青木文教の帰国した年でもあり、青木と河口の間で、慧海の持ち帰った大蔵経の受取人は誰かをめぐるいわゆる「大正の玉手箱」事件が起きた。その翌年の史学会で、河口も寺本も見ていないと言っているが、たしかにラサ大招寺にあるはずの「拉薩の唐蕃会盟碑」について講演している。
湖南の魅力は、視野の広さと深さである。清朝は異民族王朝であり、満洲・蒙古・新彊回部・西蔵という漢民族王朝には組み入れられなかった地域と民族を統合した多民族にして多言語の帝国であるという本質の部分を理解していた。清朝の文書は漢満併記なのだ。満洲西蔵に対する深い理解は、伝統的な漢学者には考えもつかないことである。たとえば『清朝史通論』(大正4年京都大学夏季講演)において、西洋人は初め満州語によってシナ語を学んでいたという指摘をする。たしかに、クラップロートやレミュザは満洲語に精通していた。シナ学者として知られるレミュザがコレージュ・ド・フランスの教授になったとき、その講座は中国及び韃靼満洲言語文学講座だった、「清文鑑」をたよりに研究を進めていた、等々(『東洋学の系譜・欧米篇』、大修館書店、1996)。ラマ教チベットも、それを信仰するモンゴル人満洲人との関連で大きな構図の中でとらえ、チベット文字がインド由来の音標文字であるところから漢語音韻研究に資した点などにも目を配っている。湖南の面目はこういうところに躍如する。
このように、内藤湖南は該博な知識をもって事件に伴走する。それは、誰かがあるテーマについて発表すると、それに関する膨大な資料をもって補強してやる南方熊楠の態度に通じる。学問の進め方のひとつだ。


周辺ではなく、ラサ潜入を果たしたまさに当事者であるが、成田安輝(1864-1915)は正しく評価されていないと思う。明治34(1901)年12月、河口慧海に遅れること9ヶ月弱で、成田はラサに足を踏み入れた。彼の「進蔵日誌」(*13)は、インド・チベット国境からラサに入ったところまでしか残っていない不完全なものではあるが、非常にすぐれた探検紀行である。日本人のいわゆる「探険家」たちの報告の貧しさにうんざりしているのは筆者だけだろうか。橘瑞超の『中亜探検』や白瀬矗の『南極探検』など、お粗末な限りである。人の行かないところへ行きさえすれば探検だと思っているのではないかと疑われる。こういう「タンケン」の「ケン」の字は、検証の「検」でなく危険の「険」であろう。探検とは、学問も同じだが、まず先人たちの記録を調べ、今までに何がわかっているかを踏まえて、その上に自分の得た新しい知識や認識を積み上げ、先行の調査研究に誤りがあれば正すという作業である。そういう「探検記の文法」、学問の作法にのっとっているので、文語体にもかかわらずきわめて読みやすい。探検はまず第一に地理学的営為(自然地理・人文地理・政治地理・兵要地理等々)である。「地理学無識の坊主ども」とはそこが違う。機器を持ち込むことができなかったため測定作業はできなかったけれど、成田のこの記録は19世紀の正しい「探検」であることを示している。日本版「王立地理学協会」である東京地学協会の機関誌「地学雑誌」が、慧海の旅行談に冷ややかな一方で、「成田安輝氏拉致薩摩旅行」を取り上げたのは、理由なしとしない。
成田はなるほど外務省(参謀本部もかんでいたらしい)から潜入の密命をおびた紛れもないスパイであるけれど、その頃の探検は大なり小なり敵情視察、帝国主義的植民候補地事情偵察という趣きはあったのだ。西洋の探検英雄プルジェワルスキーやヘディンを批判する者が成田を批判するならいいが、ヘディンは賞賛、成田は批判ではダブルスタンダードである(*14)。


人類学者鳥居竜蔵(1870-1953)は、明治35・36(1902/03)年、西南中国の貴州・雲南・四川を調査に歩いている。チベット人地域もかすめて通っていて、チベット人の一派である西蕃やクソン、チベット系のロロなどの諸族を調査している。彼の行路のうち、貴陽から雲南府まで、雅州から成都までの旅程は能海の歩いた道と重なる。
この旅行記(*15)を一読すると、こんなものが調査なのかと驚く。通訳連れなのは当然としても、護衛の兵士も引き連れて、シナ服につけ弁髪を着し、まったく新赴任のシナのお役人の行列そのままである。座船の船首には「東京帝国大学堂教習」と大書した旗を立てるほどだ。だが、これが旧中国の公的旅行のスタイルで、能海や寺本も巴塘までは兵士に随行される旅だった。雲南奥地での能海の消息不明は知らなかったろうが、英国宣教師が殺された町や旅人がよく襲われて落命する道を通る以上、護衛なしでは行かれない。
しかし、そんな行列なしての道中で行なった調査には、大きな限界があることは明らかだ。少数民族の老女がこんな隊列が自分に向かってくるのを見れば逃げ出すのが当然で、それを馬に乗ったまま追いかけたりするのである(p.138)。こんな調査では得られるのは表層的データのみ、外貌や衣食住など物質文化観察されるだけで、社会や精神文化についてはほとんど得るところがない。けれどもその限界の範囲内で目いっぱいの仕事が行なわれているのもまた事実である。
鳥居は少数民族に対する偏見から自由ではない。「蛮族の巣窟」「夷人が跳梁跋扈、狂暴の勢いを逞しうす」などの字句が頻出する。そうでありながら、ぜひうちの村に来てくれと歓迎されたり(p.129)、民族衣装を求めようとしてつけられた交換条件、けんかで投獄された村人を放免させるよう働きかけてほしいという願いを快諾したりしている(p.144)。微罪であるから、公的人物である自分が口添えすれば簡単だろうという見通しがあるのだ。ある町で「洋鬼」(*16)と罵られると、ためらうことなくそれを土地の役人に告げ、対処を求める。官吏はその男を鞭打ち刑に処すことを約す(p.96)。外見の変装にとどまらず、行動様式もまたシナの役人式にならっている。一方で、「ジンルイガク」と称する風変わりな職務で歩いていて、奇妙だが無害らしいと周囲に感じさせながら。このようにふるまうことで、住民や行く先々の官吏、同行の通訳や兵士に対し、彼らが従っているのと同じ文化、同じ行動規範で行動することを示している。少数民族を含む住民から見れば、この妙なことを調べる「お役人」も、自分たちを取り囲む社会の構成要素であると受けとめられるわけで、安んじて対応できる。フィールドワークをする者は、自分の存在を被調査社会のどこに置くか、どう自分が調査する社会と折り合いをつけるかに腐心するが、いかに努力しようと結局は「異物」であることをまぬがれない。それならば、一見プリミティブな鳥居の調査方法も、現代の人類学者の持ちえない利点を持っているとするべきだ。
もうひとつこの旅行記で感心するのは、ななめに読み流せば、大した苦労もなくすいすい旅行しているように見える。そんなはずはなく、南京虫にもさんざん食われたに違いないのに、そういう無用に属することはほとんど書いていない。ただ自分の任務であることの報告につとめ、旅の労苦をこと細かに述べたがる「人間的観察」の悪癖に毒されていないのがすがすがしい。きっと通訳もよかったのだろう。加えて、シナの大人として旅行するというきっぱりした態度が、外国人の旅につきものの不愉快から救っているのだ。近代日本の才子たちは、口をそろえて中国の旅は難儀だと言うが、その根拠は鉄道や汽船が未発達だからというに過ぎない。「文明開化」に遅れた中国を馬鹿にするスタンスである。これに対し、近代交通機関発達以前の段階で言えば、中国は交通が非常に便利であった事実を碩学湖南は喝破しているし(「近代支那の文化生活」昭和3年、『東洋文化氏研究』所収)、旅の達人鳥居竜蔵は身をもって示しているのである。

明治26(1893)年10月30日、ロンドン留学中の南方熊楠(1867-1941)は大英博物館を参観に来た土宜法竜(1854-1923)に会い、終生の友人となった。法竜は、同年9月シカゴで開かれた万国宗教大会に日本代表として参加したあと渡欧、ロンドンに立ち寄ってから、パリのギメ博物館に5ヶ月滞在し、27年セイロン、インドを経て帰朝する。この出会いから、大乗仏教をめぐり、きわめて哲学的にして脱線に脱線を重ね、罵詈雑言にみちみちた、奔放不羈かつ猥雑なる世にも稀な「哲学書簡集」が誕生した(*17)。法竜は、その悪態癖には辟易しながらも、熊楠の真価値を洞察していた。「貴下は仏教中興の祖師の一人となる所存なきか」(「往復書簡」p.33)と書いたほどだ。熊楠もその期待に応え、みごとな大乗論やマンダラ理論を繰り広げたことは、中沢新一の刺激に満ちた南方論『森のバロック』(せりか書房、1992)によって示されている。
「小生は件の土宜師への状を認むるためには、一状に昼夜兼ねて眠りを省き二週間もかかりしことあり。何を書いたか今は覚えねど、これがために自分の学問、灼然と上達せしを記臆しおり候」(明治44年6月25日付柳田国男宛書簡)とみずから回顧するその文通は、チベット行きの話題から始まっている。当時熊楠は、「只今アラビヤ語を学びおれり。必ず近年に、ペルシアよりインドに遊ぶなり」(「往復書簡」p.6)という考えをもっていたらしい。そこに、「小生の今日にして一番の希望はチベットなり。日本の大乗仏教に対し、ことに瑜伽道に対しては、ぜひチベット仏教を学び畢らずんば、断然なる改革の着手は作らざるなり」(「往復書簡」p.28)という当時の入蔵志願者に共通の念願をもち、「かの地に少なくとも三、四年は滞留」したいと思っていた法竜が、「貴君と何とぞして再度の雪山・チベット遊びに御同行願いたく存じ候」(今度の旅の帰路にインドに寄るが、このときはチベットに行けないだろうから、いったん帰国して再度の意。「往復書簡」p.7)と誘う。
法竜の入蔵希望には、例によって「大乗非仏説」克服が背景にあった。熊楠もその点は同じで、「大乗を述べんとするものは、小乗や中乗のことにかまわず、主として一語一句も大乗をしらべたきことなり。これをなすにはチベットの仏教を知ることはなはだ必要と存じ候」(「全集」7、p.231)と書く。そして、「私は近年諸国を乞食して、ペルシアよりインド、チベットに行きたき存念、たぶん生きて帰ることあるまじ」、「今一両年語学(ユダヤ、ペルシア、トルコ、インド諸語、チベット等)にせいを入れ、当地にて日本人を除き他の各国人より醵金し、パレスタインの耶蘇廟およびメッカのマホメット廟にまいり、それよりペルシアに入り、それより舟にてインドに渡り、カシュミール辺にて大乗のことを探り、チベットに往くつもりに候。たぶんかの地にて僧となると存じ候。回々教国にては回々教僧となり、インドにては梵教徒となるつもりに候」(「全集」7、p.238)、「通弁は小生なすべし。仁者いよいよ行く志あらば、拙はペルシア行きを止め、当地にて醵金し、直ちにインドにて待ち合わすべし。…全体チベットには瑜伽藍の法術の大学校二つとかありて、はなはだ西洋人に分からぬこと多き由。拙はその大学校に入り、いかなる苦行をしてもこれを探らんとするなり。…兼ねてチベット現存の経典理書、律蔵およびその史書を取り来んと思う」(同p.240)と応じている。
注意を引かれるのは、熊楠が語るこの放浪の夢の道筋が、ケーレシ・チョマ・シャーンドルが現実に歩いた行路とかなり重なることだ。彼がチョマの事跡を知っていたことは、「ダージリング、有名なるハンガリーの貧貴族クソマフガス(クソマケリス?)が死せしところなり。この人は年に四十ポンドとかの少資にて、祖先すなわち匈奴種の原地を摂せんとて、チベットに入り、瑜伽を学んで究死せるなり」(明治27年3月19日付、「全集」7、p.303)という言及から明らかだが、ただし「チベットに入り、瑜伽を学んで究死す」の部分は正確でない。彼が行ったのはチベット内地でなくラダックだし、特にヨガを学んだわけではなく、晩年ラサへ行こうとしてその途上で病死したのであるから。しかし、すべての誤りには真実がある。ここにはチョマの真実でなく、熊楠の真実があるのだ。自分の夢をチョマに投影しているのである。
土宜法竜は、明治27年パリからの帰国の途次インドを旅行する。カルカッタで、のちに河口慧海ダージリンの家に受け入れるチャンドラ・ダスと会っている。彼自身は入蔵の希望を果たせなかったが、帰国後「秘密教の研究」(明治28年「伝燈」掲載)を書いて、チベット仏教を紹介した。
法竜はマックス・ミュラーに対してよい印象をもっていなかったようだ。それはミュラーが断然大乗非仏説論者だからである。「ムラ氏が、予は大乗は竜樹の捏造と思うと一口に言い来たり候こと、当方は、予は全然様に存ぜずと言うまでにて、この上、議論となれば、容易のことに御坐なく候」(「往復書簡」p.230)とか、リス・デイヴィスと比べて、「彼は決してマキシュムラ氏の如き狭隘の見にあらず。仏教大乗も大いに敬愛致しおり候」(「往復書簡」p.7)と書いているところから知られる。熊楠も反マックス・ミュラーでは共通していた。しかし、そこにはもちろん単なる大乗大事以外の理由があった。
熊楠はミュラーを「論敵」と定めていたらしい。神話学者ミュラーの学説の柱はふたつある。ひとつは、神話は「言語の疾病」として生まれたという解釈で、太古の比喩的表現を実体的に考えることから発生したとする(「日が暁を追う」が「日の神が暁の女神を追う」と人格化される)。換言すれば、神話は隠喩の体系である、ということ。もうひとつは、その隠喩体系を読み解くための方法として、太陽を中心とする天文学的コードが絶対的に卓越していると見ることである。これは卓見ではあるものの、神話の主人公をすべて太陽をもって解釈しようとする行き過ぎを招きやすい。単純な還元論に対しては、熊楠は断固として反対を貫いた。「西洋に近来アストロノミカル・ミソロジストなどいうて、古人の名などをいろいろ釈義して天象等を人間が付会して人の伝とせしなどいうことを大いにやるなり。予今度一生一代の大篇「燕石考」を出し、これを打ち破り、並びに嘲弄しやりし」(明治36年6月7日付、「全集」7、p.324)と法竜に書き送っているとおりである。
しかし、行き過ぎに注意して再検討すれば、ミュラーの神話学テーゼは今も有効性を失っているわけではなく、デュメジルらの新しい印欧比較神話学によって受け継がれている。
熊楠とマックス・ミュラーを分かつものは、また彼と柳田国男を分かつものでもあった。ミュラーに対する反対は、柳田に対する反対として再度立ち現われてくるのである。
19世紀後半にヨーロッパの人文学界を大きく聳動したのは印欧比較言語学の巨人的な発展だが、南方はそれにまったく感銘を受けていない。このあたりに彼の特質がうかがえる。言語学との無縁ぶりははなはだしくて、蔵書中言語学書はきわめて少なく、しかもそこに分類されるわずか3冊のうちの2冊は「仮想敵」ミュラーの著書である(*18)。印欧比較言語学の達成を踏まえ、神話神名を普通名詞で読み解こうとする彼の方法に対する不信は、「固有名詞の普通名詞化」という柳田のラディカリズムに対する反発として再現される。固有名詞の圧制を排し、それを普通名詞に読みなすことで民衆の生活史を掘り起こす柳田の方法(*19)を、彼は決して理解しようとしなかった。
蔵書に折口信夫の本がないということも何かを物語っていよう。折口とは交際があり、彼が編集した雑誌「民俗学」に寄稿もしているのに。折口に限らず、国学自体に興味がなかったようだ。国学はすぐれて言語の学であり、折口学はもちろん柳田学も「新国学」であった。狭さや貧しさに対する拒絶が南方学の特徴で、漢学や仏法を異国のさかしらとして排斥する国学とは行き方が正反対である。彼は徹底して豊饒の側にあり、和・漢・洋、天竺・震旦・本朝に通じて自在であった。言語ではなく事物を愛する、「辞典」ではなく「事典」の人である。
熊楠はミュラーにアーリアないし西欧中心主義をかぎとっていたようである(*20)。そういうものを許す人ではなかった。柳田の「一国主義」を難詰したのも、狭量と自得に対する拒絶という同一文脈にある。しかしながら、ラ・フォンテーヌの「乳しぼる女の俚話」について、パンチャタントラに類話があることをミュラーが論じているが(南条が『向上論』所収の「物語の移住」でそれを紹介している)、それについて「俚語の訛りを正し伝を露わすぐらいのことは、支那に古くよりありしなり」と剣突をくらわせているけれど(明治27年3月4日付、「全集」7、p.224)、これは難癖言いがかりの類で、彼にとっても名誉にならぬことだ。自身インドや中国に話源を求める「猫一疋の力に憑って大富となりし人の話」等々の論文がある彼の、ライバル視の激しきによってつい漏れた口吻としておくべきであろう。
そのように論難しながら、彼の蔵書にはミュラーの著書が数多く並んでいる(5部11冊)。ミュラーの手強い論敵だったラングが3冊、大人類学者フレイザー(柳田に『金枝篇』を読むように勧めたのは南方である)が5部8冊であるのに比べて、かなり多い。ミュラーの学説と格闘することによって自らを鍛えていたのであろうか。このあたりも、のちの火の出るような柳田との応酬を思い起こさせる。
法竜との文通においてはチベット行きにかなり乗り気で、「ことによれば小生みずからパリに行き、有名なる『西蔵字彙』ただ一冊あるやつを、小生の例の『三才図会』を写せるこんきにて一本写すべし」(明治27年3月19日付、「全集」7、p.303)とまで言っている。ロンドンになくパリにあるのみといえば、おそらく「翻訳名義大集」写本のことであろう。経典翻訳のためサンスクリット語彙にチベット語を対応させた語彙集で、南条と笠原はパリへ出向いてこれを筆写していた(*21)。けれども、今に残る田辺の熊楠蔵書には、ヘブライ語サンスクリット語については辞書も文法書もあって、これらはたしかに勉強していたようだが、アラビア語・ペルシア語・トルコ語チベット語の辞書文法書は見えない。結局チベットへ向かうユーラシア放浪の旅は、美しい夢に終わってしまった。


行った人々は讃えられてよい。だがそんな人たちは少ない。明治期を通じてわずか3、4人である。行った人をほめるだけでは、物事の根幹部分をのがすことになろう。「行かなかった人々」を知ることで、入蔵熱はもっとよく理解できるのである。
 たかが日本をとってみても、これらの面々が頭をわずらわし心を遣うチベットという国。そこに住む人々がいかにそう望んだとて、鎖国を守り通すことはできない相談だったのである。門をこじあけんとする帝国主義者の野望とは別に、知恵と知識を求める人々の渇きに、チベットは応えねばならなかった。


参考文献および註:
『能海寛遺稿』、五月書房、1998(原著:1917)(「遺稿」)
江本嘉伸『能海寛 チベットに消えた旅人』、求龍堂、1999(「旅人」)
寺本婉雅『蔵蒙旅日記』、芙蓉書房、1974
河口慧海チベット旅行記』1−5、講談社学術文庫、1978(「旅行記」)

*1:ホップカーク『チベットの潜入者たち』、白水社、2004、p.78。
*2:入蔵志願僧には東西真宗が圧倒的に多く、密教である真言宗がそれに次ぐ中、黄檗僧として入蔵を志した慧海はまったく異色で、ここにも彼の一匹狼性が見える。
*3:ダルマパーラも入蔵熱にかかっていた一人である。大宮孝潤によると、明治30年ごろその熱に浮かされていたが、父に止められたという(「印度通信」、「東洋哲学」5−4、明治31年、p.212)。
*4:南方熊楠宛の手紙に「川上貞信は三月十五日カルカッタ出立。ニッポール、シキン、カシュミルの三処へ出遊すと申し来たり候なり」(明治27年)と書いている(「南方土宜往復書簡」p.232)。
*5:河口慧海「我国西蔵語学界の近況」、「大正大学々報」15、昭和8年。奥山直司『評伝 河口慧海』、中央公論新社、2003、p.354。
*6:ミュラーの書斎でまず見せられたのは、日本の書物「梵語雑名」であったという(「マクスミュラー先生」、『向上論』所収)。はるばる地球の裏側までやってきて、そこで始めて自国にあるものを目にするというのは、存外ありがちなことである。日本の悉曇学(梵語学)の伝統はつまりほとんど断絶していたのである。南条は帰国後、悉曇学の大家慈雲尊者旧住の寺に行って調べたりしたようだ(「南方土宜往復書簡」p.93)。
*7:「マックス・ミューラー先生書翰」、『南条先生遺芳』所収(『南条文雄著作選集』10、うしお書店、2003)、p.6; 25f.; 29; 34. 「旅人」p.55; 59 も参照。
*8:『明治シルクロード探検紀行文集成』5所収、ゆまに書房、1988。
*9:南条文雄『懐旧録』、平凡社、1979。
*10:能海は「予ト西蔵」に、「(明治)二十四年一月以来南条師ヨリ少シズツ梵語ヲ学ブ 仏教経典ノ原本ヲ得タキノ念生ス 観無量寿経ノ如キ最モ其ノ一ナリ」と記す(「旅人」p.80)。師の念願をたしかに受け継いでいる。
*11:小栗栖香頂『新注 ラマ教沿革』、群書、1982。
*12:費用まで概算してみせる。「若し満洲に入らんか、一人の費す所千円、十人にして一万円に過ぎず、進んで西蔵近傍に入らんか、一人費す所二千金、三十人にして六万円に過ぎず、日本貧しと雖も、旦夕にして弁ずべからざるに非ず」(「亜細亜大陸の探検」)。
ちなみに、自身の入蔵は断念した土宜法竜は、真言宗の宗費による派遣を提案し、「一年金六百円あれば殆ど足れりと思ふ」(「秘密教の研究」、『木母堂全集』所収、六大出版社、1924、p.50)と費用を見積もっている。実際のところでは、能海は本山から1000円の支給(「旅人」p.145)、河口は自分の貯金と友人からの餞別で、500円余を懐中に日本を出発している(「旅行記」1、p.30)。
*13:成田安輝「進蔵日誌」、「山岳」65・66号、1970・71
*14:成田の事跡を追った木村肥佐生は、外務省が彼のためにつかった8260円以上の金は現在の金額にすると1億円だと言っているが(「成田安輝西蔵探検行経緯」下、「亜細亜大学アジア研究所紀要」10、1983、p.221)、これは過大な見積もりだろう。桁はそれよりひとつ少ないはずだ。大谷光瑞は、橘瑞超が2回目の探検行に出る前に、ロンドンで道具や計器を買い求め、4、5千円を払っている(橘瑞超「中亜探検」、中公文庫、1989、p.12)。本願寺法主とはいえ一民間人にすぎない光瑞がポンと出せる額の倍程度なら、木村の推計よりずっと少ないと思われる。
*15:鳥居竜蔵『中国の少数民族地帯を行く』、朝日新聞社、1980。
*16:西洋人が「西洋鬼」であるのに対し、日本人は「東洋鬼」であり、したがって西洋人と同様に「洋鬼」でもあり「東洋人」として「洋人」でもあって、それが日本人の入蔵が(西洋人ほどでなくとも)むずかしい理由であった。能海の厄難ともなった。
*17:『南方熊楠土宜法竜往復書簡』、八坂書房、1990(以下「往復書簡」)。「南方熊楠全集」7、平凡社、1971(以下「全集」7)。奥山直司「土宜法竜とチベット」(「熊楠研究」3、2001)も参照。
*18:『南方熊楠邸蔵書目録』、田辺市南方熊楠邸保存顕彰会、2004。
*19:たとえば、オバケを指す名称としてモーコとかガゴゼというのがあるが、これを「蒙古」(襲来)や「元興寺」(の鬼)とする「歴史主義的」俗解に対して、「(とって)かもう」という妖怪の科白から出たことを示す『妖怪談義』のあざやかな手つきを見よ。
*20:「十二支考」(「全集」1、平凡社、1971)、p.249f.
 世界を制覇していたあの時代の西欧文明の中心にいた者なら、そのような傾向があったとしてもおかしくはないけれど、ミュラーにおいて特にそれが際立つというわけではない。南条とともに彼の門を叩き、ともに研鑽を積みながら結核のため中途で帰国を余儀なくされた笠原研寿が、ついに32歳にして病没したとの報が届いたその日に、ミュラーはこの悲運の弟子の追悼文を書いて、「ロンドン・タイムズ」に送っている。イギリスはもちろん、日本でさえまったく無名の、学界にもまだ何の業績を残さずして死んだ異国の若い学徒のために即日筆をとり、「タイムズ」に寄せる異例をあえてする人であることを考えれば。
*21:パリ写本の元になった写本がサンクトペテルブルク大学図書館にもある。それとは別に、チョマもこれを写し、英訳を添えて出版できる形に整えていたが、実際に公刊されたのは没後半世紀以上たった1910・16・44年である(一島正真「チベット学の先駆者チョーマについて」、「大正大学研究紀要」76,1991)。
ここでも交錯が見られるが、歳も違うし留学していた時期も違うけれど、同じ「仏教者」であるためか、南方と南条には重なる部分が多い。重なりながらベクトルが逆向きになる部分もまた。熊楠は法竜に、「仁者、南条師にあうの日は、フランクス氏、今に「忘れねばこそ思ひ出ださず」と吟じおれりと伝言せられよ」(「全集」7、p.230)と書いている。大英博物館のフランクス部長は熊楠の親しい知人だが、南条も親しかったようで、帰国に際して記念に本をもらっている(『懐旧録』p.176)。法竜がミュラーと対比して評価するリス・デイヴィスは、南条がまだオックスフォードへ行きミュラーに弟子入りする前、彼にパーリ語の学習を勧めたが、南条は梵語にこだわってそれを謝絶したという(『懐旧録』p.126)。そして、マックス・ミュラーをめぐって両者は対極にある。