留学のいろいろ (2)

珍談
明治ともなれば、難破遭難など、前時代の漂流記もどきの経験はさすがになくなるが(しかし1912年遭難沈没したタイタニック号にも日本人が乗っていた。細野正文[1870−1939]という人で、鉄道院の在外研究員だったから一応留学だ)、整わぬことは多かった。


松江藩医の息子で物理学者の北尾次郎(1854−1907)は、明治3年(1870)12月3日、池田謙斎・大沢謙二・長井長義らのちの医学界薬学界の重鎮になる人たちとともに、選ばれてプロイセン留学の途についた。大学東校留学生一行中の最年少である。森有礼や伏見満宮、西園寺公望ら(この時代は華族の留学も奨励されていた)の乗るアメリカ船でサンフランシスコへ行き、大陸を横断しニューヨークへ、そこからヨーロッパへ渡った。だが、長井長義(1845−1929)は東校留学生の一員なのに、その船上に姿がない。乗り遅れたのである。
長井と親交のあった石黒忠篤の回想によると、「その時予は長井の平常佩びて居た短刀を荷物の中へ入れて行くことを勧めた。何の為かときくから座を正し声を励まして曰く、大和魂は大和男児の片時も離すべからざるものだ。若し命ぜられた学科の蘊奥を究むることが出来なかつたら、切腹して彼地の土となる事を忘るな。然し郷里に残された両親は、予が粥をすゝるとも生涯安く過させる事を云つたら、長井も座を正して、如何にも左様なりと云つた(…)/そこで当日発船の時刻に海岸に行つた処、船はもう烟を吐いて居る。夫に浪が高いので艀が遅れ、気が急ぐから予も手伝って櫓を押したが、その内にたうとう発船したので、オイ〱と呼んだが構はず出て行つて了ひ、また乗り後れて了つた。止むなく艀を漕ぎ戻す内、又乗り後れたと云つて東京には帰れぬから、発つたと云ふことにして置いて、次の便船までの間、横浜に居て語学をやつたが良からうと云ふことに決し、長井を横浜の知人篠田と云ふ人に頼み、予は東京に帰つた。/長井は篠田の世話で独逸人の処に通ひ、独逸語を習つた。その間二度ほど大学の書生寮に居る予の処に訪ねて来たが、他人に知られると具合が悪いから、晩にこつそり遣つて来て予を近所まで呼び出し、宛然色女にでも会ふ様や具合であつた。/で予は近頃色女に逢つて居るぢやないかと疑はれたが、本当の事を打明ける訳にも行かず、遂にその疑をはらさず仕舞になつた。三十日遅れて二月二日、次の船で漸く出発した」(金尾:67f.)。業成らずんば腹を切れと言い放つ厳粛な場面のあとのいささか間抜けな「色女」出没は、いかにもこの時代ならではのコントラストだ。
長井はその船の中で食事に困った。「私は洋食を食べることが出来ない。只コックが横浜で仕入れたと云ふ薩摩芋だけで、パンもバタでは食へなくて砂糖をつけた。桑港までの廿五日間と云ふもの、私は良く薩摩芋と砂糖をつけたパンと日本の御菓子とだけで過したものである。洋食が食へないと云ふ丈ならまだいゝが、あの肉や脂油の臭ひを嗅ぐと食欲を減殺されてしまふ。殊にバタの臭いが嫌で堪らなかつた。肉はまだ食べたくなかつたが、空腹になるので仕方なく徐々に取るやうになつた。加州のオレンジとクネンボは実にうまくて、之で蘇つたやうな気がした」(同前:77)。
次郎らの一行の大沢謙二の回想では、「それから鏡に突当つたことがある。壁全体が鏡になつて居る所があつたのでね。ハテ向ふから何だか見たやうな男が来るなと思つて行くと、ドンと突当つて驚いた。是は私ぢやないが湯に這入つて水口を捻ったら湯が出て来た。あちらの浴槽には湯と水と二口あつて自身に調合する様にやつて居るのだが、それがどうした加減か湯の口が閉されぬので段々湯槽から溢れるやうになり、熱くてたまらぬから出やうと思つた所が、出口に錠が下ろしてあつて容易に出られぬ。サア周章てて仕舞つて大声で叫び廻つてやつと戸をあけてもらうや否や、裸体で駈出して二階へ飛上つたと云ふやうなことがあつて、イヤ一時は大分評判で新聞へまで出された。何しろ此時分の洋行には色々失敗談がある」(大沢:26)。
次郎たちがベルリンにいた明治6年(1873)、文部省は一時官費留学を廃し、留学生の引き揚げを発令した。「当時留学を命ぜられた人の中、我々医学の方は皆洋学をした方であつたけれど、其外の奴は御維新の時分働いた豪傑連、イヤ誰の首を取つて来たとか何とか云つて威張つて居つた男で、指の無い奴や胸に創のある奴や、さう云ふ殺伐な手柄で以て洋行を命ぜられたのだから、アベセーのアの字も分らぬ連中ばかり、従つてこれらの先生たちは退屈して仕方がないから、金のあるに任せて遊んだものだ」(大沢:33)。「玉石混淆あまりにひどいから、下らぬ奴はその中から引抜いて帰国さすがよからうとの主意で、今の枢密顧問の九鬼隆一氏が、当時大学の四等出仕かなんかで、やつて行くと、九鬼の野郎がきやがつた、畜生切つてしまえなどと騒いだこともあつた」(池田:244)。しかし自費なら残ってよかったので、大沢は明治7年8月まで(明治11−15年に再度留学)、池田は9年、次郎は16年、長井は17年まで留学を続けた。


真宗大谷派の学僧で、わが国の近代仏教学・サンスクリット学の祖と言うべき南条文雄(1849−1927)の自伝「懐旧録」は、僧兵であった履歴から始まる。大垣の城下に生まれた彼は、慶応2年から4年の間(1866−68)、藩の僧兵になり、鉄砲を持って三里廻り七里廻りの調練で走らされた。ついに出陣することなく解散したのは幸運だった。終わってしまえば笑い話だろうが、そんな平安時代にまで連なる歴史を生きていたわけである。彼が行きたいと念じていたチベットにもその同類(河口慧海の言う壮士坊主)がいたわけで、東西古今が体現されているような気がする。
彼は、サンスクリット梵語)の知識の必要を痛感していた本願寺法主に英国留学を命ぜられ、笠原研寿(1852−1883)とともに明治9年(1876)6月14日横浜を出港したのだが、その時は二人とも外国語ができなかった。笠原が少しフランス語が読めただけだ。「唖に聾の旅行」と自嘲している。けれども、使命を果たし、立派に学業を成し遂げた。英文大蔵経目録を作り、博士号を受けた。要するに、人物が大事だということだ。道具にすぎない語学など、あとからついてくる。
しかし、「唖に聾」だから、当然失敗もする。ロンドンに着き、出迎えの公使館書記生に宿屋へ案内をしてもらった。「その晩私は旅の疲れでねむたくてしようがない。部屋にはガスが灯っている。しかし私はどうしてそれを消してよいか解らない。しかたがないから、簡単にフッと吹き消して、安心して眠りについたのである。ところが夜中になって何だか外が物騒がしく部屋の中は変な悪臭でいっぱいになっている。外の人たちはどこかにガスが漏れているというので騒ぎだしたのであるが、それが私の部屋の近くに来てますます激しくなるので、ついにこれをしらべに来たのである。そしてようやくのことで螺旋を廻してくれたのでまずまず助かった」(南条:100)。そのまま気がつかずにいたら、留学初日に死亡、なんてことにもなったかもしれない。
そんなことがなくてよかった。留学中のその精励ぶりは、たとえばこうだ。「フランス・パリーに達しとどまること三旬日、日本公使館の保証で、パリー図書館より『飜訳名義大集』(Maha-vyutpatti)の二大冊、及び馬鳴の『仏所行讃』(Asvagosha Buddha-carita)の梵文の写本とを借り出し、二人手を分かち、日をかぎりてこれを謄写した。その他『梵漢辞典』、『法集名数経』の謄写及び『入 伽経』、『金光明経』の抄写を完了したのであるが、これらはいずれもマ先生(マックス・ミュラー)の注意によってであった。十月に入って一堂はオックスフォードに帰り、さらに二日をへてケンブリッジにいたり、同地大学所蔵の梵本を借りて、パリーにおける『仏所行讃』の所写を校合し、十二月オックスフォードに帰ることとなった。今日から回想してみると、この当時ほど緊張したことはない。文字通りの不眠不休で、全く寝食を忘れての研鑽であった」(1881年。同前:136)。
当時ロンドンには日本学生会というものがあって、毎月例会を開いて所感を述べたり研究を発表したりしていた。南条らもここで仏教について話をし、好評だったので英語でそれをまとめることにして、「全文を英文に翻訳してみたが、これを校正してくれたのはハンガリーの人でイギリスに帰化していたディオセー君であった。この人は実に語学の天才で、英独仏三ヶ国語は全く自由なものであった。ことに日本人にもよく交わって、日本語もよくできたのでディオセー君の校正してくれたのは実に好き幸いであった。ディオセー君はおもしろい男で、日本文は片仮名交りでこれを認め、よく「マッテイマス、アソビニイラッシャイ」などといったふうの口語文で手紙を寄こしてくれた。ことに宛名ときては非常に奇抜なもので、いわゆる宗教家に付する尊称Reverendの日本語訳を用いて「南条坊主様下」と書いたのは噴飯に価いするもので、その当時も笠原君とまた坊主様下が来たと言ってよく笑ったものである」(同前:104)。
紹介者を得てサンスクリット学の泰斗マックス・ミュラーのもとに来たのは明治12年(1879)2月のことであったが、そのとき知人が日本で入手したという悉曇の辞書「梵語雑名」を示され、日本における梵文の原典について問われた。慈雲尊者をはじめ邦国にも悉曇学の研究はあったのだが、絶えていたのである。中国経由のその学統が失われたあとで、近代のサンスクリット学が西欧経由で始まった、ということだ。
なお、笠原研寿が明治15年(1882)9月肺疾のため帰国したあと、12月に石見邑智郡川本出身の真宗本願寺派の僧菅了法(1857−1936)がオックスフォードに来たので、彼と同居した。グリム童話を日本で初めて翻訳した人物である(「西洋古事 神仙叢話」、明治20年4月)。帰国後自由民権運動に投じ、第一回の帝国議会で代議士となった。のち、江戸時代念仏禁制で隠れキリシタンならぬ隠れ念仏のいた旧薩摩藩鹿児島県で、真宗寺院の開基となる。
明治16年(1883)「大明三蔵聖教目録」を完成させ、翌年オックスフォード大学からマスター・オブ・アーツの学位を受けた南條は、同年3月、アメリカ回りで帰朝する。しかし、笠原とは帰国時にはかならずインドに立ち寄って仏蹟を礼拝するという約束をしていた。本願寺派の僧北畠道龍がマックス・ミュラーを訪ねてドイツからオックスフォードに来たときに、帰途インドに寄り仏蹟を巡拝するのに同行を誘われたが断っていた。インド行きの宿願は明治20年にようやく果たされる。コロンボカルカッタダージリンブッダガヤ、ボンベイと巡った。カルカッタではアジア学会の図書室で「梵文無量寿経」を校読する。ミュラーの弟子である南条は、イギリスの植民地インドでは知己が多かった(ただし白人ばかりである。インド人の知人もいればいいのだが。ちなみにロンドンで中国人とは交友があった。帰国後南京に金陵刻経処を開設し仏教書籍を刊行した楊文会など)。留学も考えていたようで、ベナレスの梵語専門学校で旧知の校長シフネルに「インド留学の所志を披瀝したが、氏は切にその無用とインドの不健康地なるとを説いてことの断念を勧告せられたので、私もついにその所志を翻してシフナル氏の懇切な注意にしたがうことにした」(同前:233)。この帰途には中国にも立ち寄り、天台山に登っている。ミュラーにはチベットに行って経典を収集するように勧められていたが、これは果たせなかった。やがて弟子の能海寛がチベットへ向かうことになる。
僧侶の留学というのは近代留学の場合見過ごされがちだが、本来留学の正統である。遣唐使や中世の禅僧の入宋入明を見れば明らかだ。近代初期、その古き歴史があざやかによみがえったわけである。


南方熊楠の「履歴書」
南方熊楠(1867−1941)の「留学」は破天荒である。和歌山の資産家の家に生まれ、上京して大学予備門に入ったところまでは立身出世のコースだが(同期生に夏目漱石正岡子規秋山真之などがいる)、じきに退学してアメリカへ渡る。それが明治19年(1886)の暮れで、翌年まずサンフランシスコのパシフィック・ビジネス・カレッジに入学するが、すぐにやめ、ミシガン州ランシングの州立農学校に入る。しかしあるとき日米の学生と寄宿舎で小宴を開き、ウイスキーをしたたか飲んだのを校長に発見され、学友の罪を一身に背負って退学、アナバーへ行って滞留。ここでは大学に入らず、図書館に通いながら林野を歩いて自然を観察、植物を採集していた。フロリダにはまだ知られていない植物が多いと聞き、明治24年(1891)フロリダのジャクソンヴィルへ行き、中国人の牛肉店に寄食して、昼は商売を手伝い、夜は顕微鏡で生物を研究した。同年、キューバに渡った。そこで地衣の新種ギアレクタ・クバナを発見した。「これ東洋人が白人領地内において最初の植物発見なり」(「履歴書」。南方b:9)と自慢している。さらにイタリア人の曲馬団に加わっていた川村駒次郎という曲芸師に誘われ、それに加わって2ヶ月の間ハイチ、ベネズエラ、ジャマイカまで回っている。その間、「小生は各国の語を早く解し、(…) 曲馬中の芸女のために多くの男より来る艶簡を読みやり、また返書をその女の思うままにかきやり、書いた跡で講釈し聞かせ、大いに有難がられ、少々の銭を貰い、それで学問をつづけたること良久しかりし」(柳田国男宛書簡。南方e:363)。
明治25年(1892)9月、渡英。ロンドンで足芸師美津田滝次郎と知り合い、彼を通じてプリンス片岡なる男を知る。「この片岡はcant, slang, dialects, billingsgate種々雑多、刑徒の用語から女郎、スリ、詐偽の外套言うに至るまで、英語という英語通ぜざるところなく、胆略きわめて大きく種々の謀計を行なう。かつて諸貴紳の賛成を経て、ハノーヴァー・スクワヤーに宏壮なる居宅を構え、大規模の東洋骨董店を開き、サルチング、フランクスなど当時有数の骨董好きの金満紳士を得意にもち、大いに気勢を揚げたが、何分本性よからぬ男で毎度尻がわるる。(…) おいおい博賭また買淫等に手を出し、いかがわしき行い多かりしより、警察に拘引せられ、ついには監獄に投ぜらるることもしばしばにて、とうとう英国にもおり得ず、いずれへか逐電したが、どうなり果てたか分からず。(…) 当時小生は英国に着きて一、二の故旧を尋ねしも父が死し弟は若く、それに兄がいろいろと難題を弟に言いかくる最中にて国元より来る金も多からず。日々食乏しく、はなはだしきは絶食というありさまなりしゆえ、誰一人見かえりくれるものもなかりしに、この片岡が小生を見て変な男だが学問はおびただしくしておると気づく。それより小生を大英博物館長たりしサー・ウォラストン・フランクスに紹介しくれたり」(「履歴書」。南方b:12f.)。
無所属独学、住居も「ロンドンにて久しくおりし下宿は、実は馬小屋の二階のようなもの」で、ひどい陋巷で電報も届かなかったという。あまりに部屋のきたなさに、訪ねてきた両翅虫学の権威でシカゴのロシア総領事だったオステン・サッケン男爵は、出された茶を飲まずに帰った。そういう生活をしていただけに、まじめな官費留学生なら決して交わらない類の人間と交際があっておもしろい。たとえば大井憲太郎の子分で高橋謹一という男が、シンガポールから「この者前途何たる目的もこれなく候えども、達て御地へ参り候につき、しかるべく御世話頼み入り候なり」などという珍無類の紹介状をもらって渡英してきて、「少々の荷物をケットに包み、蝙蝠傘にかけて肩に担うただけでも英人は怪しむに、理髪店に入って頭を丸坊主に剃らせ、むかし豊年糖売りが佩びたような油紙製の大袋に火用心と漆書きしたのに煙草を入れ、それを煙管で吸いながら、大英博物館に予を訪れた」(南方c:202)そうだ。「旦に暮を料らずという体だったが、奇態に記憶のよい男で、見るみる会話が巧くなり、古道具屋の賽取りをしてどうやらこうやら糊口しえたところが、生来の疳癪持ちで、何か思う通りにならぬ時は一夕たちまち数月かかって儲けた金を討死と称して飲んでしまう」(南方a:208)。熊楠が大英博物館を追い出されたときには、この高橋入道が助けてくれた。「予五百円の資本で千円ほどの浮世絵を借り入れ、面白くその筆者の略伝、逸事や、ことには数限りなき画題や故事の説明を書き並べ、講釈入りの目録を作り、安値に印刷させ、入道それを持って日々ロンドンの内外へ持ち廻り売り歩いた。予は大英博物館を出て間もなく、戯作の大家アーサー・モリソンの世話で、南ケンジントン国立美術館の技手となり浮世絵の調査を担当した」(南方c:203)。
亡命中の孫文とも交友があったけれども、革命が成功してこそ国父だが、そのころは要するにお尋ね者であって、熊楠と釣り合う境遇である。
のちの真言宗高野派管長土宜法竜は、シカゴでの万国宗教大会に参加したあとロンドンに寄り、明治26年(1893)10月大英博物館で熊楠と知り合って意気投合し、長く文通を続けた。そのころ法竜はチベット行きの希望を持っていて、一方熊楠は、「只今アラビヤ語を学びおれり。必ず近年に、ペルシアよりインドに遊ぶなり」(南方g:6)と考えていた。このころ公使館にいた後出楢原陳政に喇嘛教について問い合わせてもいる(なお彼はその答えに、「北京には数個の大喇嘛寺あり。紅教、黄教ともに有之。喇嘛僧正は北京雍和宮および西山喇嘛寺におる。喇嘛は清帝満州以来崇むるところにして、これにあらざれば満蒙諸族を圧すること能わず。故に清帝喪祭その他祷雪祷雨は喇嘛僧これを主る。(…)北京の喇嘛寺は、雍和宮、崇慈寺、栴檀寺、隆福寺、護国寺を首とし、喇嘛は総管喇嘛、班弟札薩克大喇嘛一人、同副一人、札薩克喇嘛四人、大喇嘛十八人、この他通常喇嘛は一万以上に及ぶ」と詳細に知らせる。この人の中国知識のほどが知られる。南方d:202)。明治27年(1894)頃には、「私は近年諸国を乞食して、ペルシアよりインド、チベットに行きたき存念、たぶん生きて帰ることあるまじ」、「今一両年語学(ユダヤ、ペルシア、トルコ、インド諸語、チベット等)にせいを入れ、当地にて日本人を除き他の各国人より醵金し、パレスタインの耶蘇廟およびメッカのマホメット廟にまいり、それよりペルシアに入り、それより舟にてインドに渡り、カシュミール辺にて大乗のことを探り、チベットに往くつもりに候。たぶんかの地にて僧となると存じ候。回々教国にては回々教僧となり、インドにては梵教徒となるつもりに候」(南方d:239)と言い、もし法竜がチベット入りをするなら、「通弁は小生なすべし。仁者いよいよ行く志あらば、拙はペルシア行きを止め、当地にて醵金し、直にインドにて待ち合わすべし」(同前:240)と書いているが、結局実現しない夢だった。
当時は世界に冠たる大英帝国の最盛期であり、その首府にある大英博物館はまさに世界の知の集積地であった。熊楠はそこに通い、朝から晩まで本を読んでいた。彼のような「至って勝手千万な」大独学者が人に掣肘されず思うさま学問をする理想的な環境であったかのようだが、そこもまた俗世である。人がいる。衝突する。彼は博物館で白人を殴打し、その後もたびたび紛争を起こして、とうとう出入り禁止になってしまった。鼻の高い白人のもっとも鼻の高い時期だから、東洋人に対する人種差別は当然あった。軽侮に甘んずる人間でない熊楠がそれに反発するのもまた当然で、彼は弁明書にこう書く。「私の友人は、私が最近読書室でやったことは英国民の間に、私の祖国についての悪い評判を抱かせてしまうだろうと、親切に忠告してくれました。この忠告に心から感謝しながら、私はその親切に対するお返しとして、ひとつの指摘をしておきたいと思うのです。それは、私が何人かの英国人から受けた数々の侮辱は、かならずや日本国民の間に、英国民に対する有害な偏見を引き起こさずにはいないであろうという指摘です」(松居:177f.)。正しい指摘だが、正しすぎるために当然撥ねつけられる指摘で、ましてや復館の陳情書にあってはならぬ指摘で、結局彼は大英博物館を去ることになる。なんら不思議のない事の帰結で、このゆえにもなおこの人を愛さずにはおれない。一方にモリソンやロバート・ダグラスなど彼の才を惜しんで復帰に尽力してくれた英国人、他方に「署名して一言しくれたら事容易なりしはず」なのに何もしてくれなかった加藤高明公使ら日本人を配して。世の中には地位を見ず人を見る人たちと、人を見ず地位を見る人たちがいて、前者がイギリス人に多かったことも言っておかねば片手落ちだ。後者が残念ながら地位ある日本人に多いことも。
留学は外国へ学びに行くことであるから、その外国は進歩発展した国であるはずで、そういう国の人々が、彼らの国に学びに来なければならぬほど遅れた国の者を軽侮するのは自然なことではある。つまり、差別だ。これも留学に構造的に付随する問題である。それに憤慨するのは許される。大いにしてよろしい。ただし、そのとき日本人がたとえば中国人留学生を差別してきたことを忘れるのは許されない。