そんなに鎖国したいのか

 カトマンズのタメル地区に、「日本言吾の本3000冊あります/半客頁で買い戻し」「日本の本買います日本の本売ります」などという看板を出し、文庫本を山積みしている古本屋がある。以前はヒマラヤ銀行やノースフェイス、チベット書店などの並ぶ一等地と言っていい広い通りにあったのだが、コロナ流行によるロックダウンの際にずっと奥まった通りに移転し、売り場面積も3分の1程度の狭さになった。それは一見、外国人旅行者の集中的宿泊徘徊地区タメル一般が受けたコロナ禍の打撃の一例に過ぎなく思える。日本人旅行者もその間来なくなっていたわけで、狙いが特定の客層に偏っていれば、打撃がさらに大きくなるのは道理だ。しかしよく見れば、そうとばかりも言えない。「新明解国語辞典」が何冊もあるのだが、第3版(1987年)までのものばかりだし、積んである文庫本も2000年ぐらいまでに出たものがほとんどだ。日本人のバックパッカーが持ってきて読み捨てたものが溜まっているのであろうけれど、その刊行年から見て、近年の流入はかなり細くなっていると思しい。買い手も売り手も減っていたらしく、この古本屋の危機はコロナのだいぶ前から始まっていたようである。

 ほかにも、4年前の「地球の歩き方」に掲載されていた日本料理店が4つも姿を消していたし、日本人相手の安宿でなくなっているものもある。日本のプレゼンスがわずか4年でがた落ちになっているわけで、それは新型コロナのロックダウンによるものとばかり考えることはできない。

 タメルは中国語の看板だらけである。それは4年前からそうだったのだけれど、日本の退潮をかたわらに置くと、さらにいっそう進んでいるように見える。韓国料理店も増えた。日本料理店と同じくらいあるだろう。

 積まれた文庫本に見ているのは過去である。「深夜特急」の時代からの蓄積。日本と日本人が元気で、世界を渡り歩いていた時代の残影である。

 どうも日本経済の引き潮と歩を合わせるかのように、日本人が内向きになり、外へ出かけなくなっているらしい。

 

 だが、「外向きの日本」などというのは一時的な現象だったのかもしれない、とも思う。日本には日本国内でしか通用しないルールが多すぎるのを見ると。輸出攻勢をかけたり、工場が海外進出したりしていても、結局は自国の論理を他国に押し通しているだけなのではないだろうか(かつての八紘一宇よりはマイルドな形で)。

 家電産業がまたたく間に没落した光景は忘れられない。自動車産業もEV化でそうなる危険性をはらんでいる。カメラもバカチョン需要はスマホで消えた。その失敗の元凶には、国内ばかり見ている人たちがいるのではないかと疑っている。それは、日本国内でだけ通用するルールで国内を囲い込んで搾取し、利益を確保する寡占企業の収益モデルのために、国内を得て国外を失った携帯・スマホに特徴的に見られる。スマホ失陥はこれらの失敗の象徴ではないか。

(1億という半端に多い数が躓きの石なのかもしれない。国内需要だけで利益があげられる。国外を得なければ先はないと見定めている韓国とはそこが違う。)

 さらに言えば、危機になると本性が現われる。日本国民は自由の明け渡しを望んでいる。自由が奪われれば奪われるほど政権が支持されるという驚くべき状況をわれわれは見ている。実はこれが日本人の本性だったのである。心の底では、自由より統制を好む中国に憧れているのだろう(今の中国は満州国の後継国家だから当然か。そういえばあの国も鎖国が国是だ)。笑いとばしたい冗談のような話だが、まったく笑えない真実であるのが恐ろしい。世界への視角の徹底的な欠如(これも中国と同じ。それがあると自負している人たちも西欧北米への限られた視角しかない)もまた、日本人の国民性を特徴づける。死に至る病と言うべきか。

 

 海外で日本語を教えるという仕事は、日本の国力に依存し、それを反映している。個々の日本語教師がそれを望むか否かに関係なく、「日本の魅力のセールスマン」という側面を持つことは避けられない。

 断言できることがある。よーいドンで競走すれば、韓国語に負ける。学習者はかならず韓国語に流れる。はるかに学びやすいからだ。文法はほぼ同じで、文字は1種類だけ。漢字がない。語彙が少ない。1000語習得で実際に使われている文章中のどれだけの語彙がカバーできるかという調査を見ると、日本語が60.5%なのに対し、韓国語は73.9%(英語は80.5%)。3000語では日本語75.3%・韓国語85.0%(英語90.0%)、5000語で日本語81.7%・韓国語89.3%(英語93.5%)。つまり、韓国語が1000語でカバーできるところを、日本語は3000語覚えないといけない。5000語覚えても韓国語が3000語でカバーできるところまで届かない、というわけだ(英語との比較ではさらにひどく、5000語でようやく英語の1000語レベルだ)。そのように日本語に語彙が多い理由は、言うまでもなく本来の日本語である和語に加えて膨大な漢語(さらに外来語)があるからだ。それは同音異義語の海をもたらしてもいる。その足枷がない韓国語のほうが学びやすいに決まっている。

 単に語学学習にとどまらず、これまでに積み上げたものがあるから、スタートラインが違っているから優位性を保っているので、それがなくなれば一挙に瓦解する危うい足場の上にふんぞり返っている図を客観的に認識しなければならない。世界史的に活躍した先人の築いた歴史の遺産のおかげで名声をまだ保っているが、努力を怠れば奈落はすぐそこに口を開けている。頭が今なお「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代にある人たちは、早く迷妄から抜けてもらいたい。

 

 死ねばこそ病気は怖い。治るなら怖くない。ただ病気になったというだけだ。それなのに、「コロナ」というレッテルに過剰におびえうろたえている。働き盛りの人が死ぬのは悲劇だが、老人が死ぬのは悲劇ではない。ものの順序だ。パースペクティブが歪んでいる。昔からなのか今の現象か知らないが、日本人は優先順位をつけるのが恐ろしく苦手だと痛感する。かてて加えて、決断ということができない。

 オミクロン出現初期の騒動では、最前線で日本のために働いている同胞から帰国の道を奪おうとしたことも印象深いのだが(遊び暮らしているとでも思っているのだろう)、それよりも問題なのは次のことだ。日本が好きで、日本に多大な興味を持つ人たち、文字や語彙のハンデをものともせず、(動機はどうあれ)われらの大切な異形のことばを真摯に学習習得してくれた人たちが、感謝の対象であるべき人たちがそこにいる。日本に来て勉学し、将来知日・親日派になり、日本の財産となってくれる人たちである。それを入国させない。しっかり隔離をし、PCR検査を何度もやれば問題なかろうに、将来へのたしかな投資を打ち捨てて顧みない。自傷行為である。日本人のほうは外国に留学に出ているのに。かく言う筆者もネパールに語学留学に来て、問題なく入国させてもらっている。秋篠宮家の長女はアメリカへ渡った。

 なぜ日本の友人になってくれる人たちを入国させないのか。答えは簡単で、国民がそれを望んでいるからだ。国内は善で、すべての悪は外国からやってくると信じて疑っていない、素朴で、それだけに頑迷な人々。この国の国民は、自国本位で世界に対して通用せぬロジックを身内で固く言い募り、わずかな先細りの既得権益を守ることだけを考えて、大局を見ようとしていないのだ。つまり、日本の没落を望んでいるのだ。

 「貧すれば鈍する」の目前進行を目の当たりにしている。悲しいことだ。皮肉を言う元気も出ないよ。