「みんなのトルコ語」

デファクト・スタンダード」ということばが好きである。別にスタンダードになることを目指していたわけではないのに、ユーザーがそれを支持することによって結果としてスタンダードとなったもの。日本語教育の分野では、「新日本語の基礎」がそうだ。あれは日本の工場に技術研修に来る外国人の研修生のために開発された教材で、語学を学ぶわけではなく、日本語は技術を習得するための道具にすぎない人たちに、その「道具」を確実に身につけさせることを目的に作られ、それがあまりによく出来ていたので、結果として技術研修とまったく関係ない教育機関に数多く採用されて、初級教科書のスタンダードになってしまったのである。技術研修用の教材だから、スパナだの(工場の)ラインだの、ふつうの初級者には必要のない語彙がぞろぞろ出てくる。愉快な眺めだ。求めに応じて、コンセプトや構成は同一のままで、目的を特化しない一般向けの「みんなの日本語」も作られた。これも人気を博し、現在のスタンダードになっている。基本的に日本で学ぶ学習者のための教科書だから、外国で勉強している人たちには不向きな点が多々あるのだが、直接法で教えるにはいちばん向いていることもあって、海外でも広く使われている。
戦前の植民地帝国時代の日本語(「国語」)教育も前史としてあったが、現在の日本語教育は、戦後の外国人流入という「事情」に迫られてできた。「新日本語の基礎」作成に至る事情がまさにそれだ。主体的な意志によってではなく、状況が先行し、その後追いで形成されてきたのである。それは、見方によっては情けないが、一方で、「翻訳学問」などと違う力強さをもっている。現実の必要を背景としているのだから。
そのため日本語の初級教科書は、状況に鍛えられて、実践的に、これだけ習得すれば日本での生活には(読み書きはともかく、話し聞くのには)十分だ、というものとなっている。それはひるがえって、日本語以外のことばの習得にあたっても、日常生活の必要最低限を示すひとつの単位をなしているだろうと予想していい。
これ、使えるんじゃないか? せっかくの共有財産なんだから。というのが、まず前提としてある。
なければまず探そう。これが基本である。探すためのテクニックを人はそれぞれ自分なりに磨いているにちがいない。さらに進むと、なければ作ろう、という姿勢も出てくる。日曜大工ではないけれど、これも人間として非常に好ましい態度である。
さて、というわけで、トルコ語である。


外国で日本語を教える日本人教師がいる。彼らの多くは、その国に1年から3年ぐらいしかいない。だが、住んでいる以上、その国のことばはサバイバルレベル程度にはできるようになるし、そうならなければならない。
彼らが赴任国のことばを学習する過程そのものを教材とすることができるのではないか。具体的には、「みんなの日本語」の構成に基づいた「みんなの××語」を作ることによって。その目標言語がトルコ語ならば、「みんなのトルコ語」ということになる。


それは日本語とトルコ語の文法を比較対照する作業(大まかにもせよ)となるわけだが、これには3つの目的がある。
1)日本人学習者のために、日本語と対照したトルコ語学習用の教材を作る
2)トルコ人学習者のために、日本語とトルコ語の比較対照することで、日本語およびトルコ語文法の特質の理解を促進する
3)研究者のために、日本語を基準にした比較対照文法の資料を提供する
教科書を作るという建前ではあるけれど、学習用教材にはあまり向いていない。本気で勉強したかったら、専用のものを使ったほうがいいだろう。しかし、トルコ語教材として使えないわけではない。文法の違いを認識しながら学習するという意味では、長所もあるに違いない。
学生といっしょに作れば、いい文法ゼミナールになるのではないか。「みんなの日本語」は自分が使った教科書だからよくわかっているはずで、それが得がたい利点となる。この仕事を通じて、日本語が、そしてトルコ語がどんなことばか、よくわかるようになるはずだ。それは、自分たちの日本語学習にも、日本人にトルコ語を教えるときにも、トルコ人に日本語を教えるときにも、いやトルコ人に英語を教えるときにだって、役に立つだろう。


比較対照の効果のいちばん簡単な例は、あいさつだ。「こんばんは」は「İyi akşamlar.」ではない。「İyi akşamlar.」は、会ったときにも別れるときにも言う。日本語の「こんばんは」は会ったときだけ。日本語から見るだけなら、たしかに「こんばんは」は「İyi akşamlar.」だが、トルコ語から見ると、「İyi akşamlar.」は「こんばんは」ではなく、それは意味の?で、?として「さようなら」や「おやすみなさい」もあることがわかる。では「İyi geceler.」は「おやすみなさい」か?というふうに検討は続いていくことになる。


みんなの日本語」という教科書は、文型・例文・会話・練習A・B・Cから構成されている。
文型は「その課で学ぶ基本文型」、例文は「基本文型が実際にどのように用いられているかを質問及び答えという小さい談話の形で示した」もの。このふたつは暗唱できるくらいになるのが望ましい。会話は、日本に住む外国人が登場するさまざまな場面でのやりとり。
練習Aは、その課の基本文型を代入公式のように示したもの。練習Bはパターンプラクティスによるドリル練習。練習Cは短い会話ドリルである。


みんなの日本語」には「翻訳・文法解説」という副教材がある。英・独・仏・露・西・葡・中・韓・タイ・ベトナムインドネシア語の11か国語で、文型・例文・会話の訳をつけ、文法の解説をしたものだ。
これのトルコ語版はないが、あったとしてもそれはトルコ人が日本語を学ぶためのものだから、日本人がトルコ語を学ぶため(という建前)の「みんなのトルコ語」とはコンセプトが正反対であり、したがって根本的なところで大きく違う。しかし、後者は前者の代替にもなる(その逆はむずかしい)。


「みんなのトルコ語」は、とりあえずトルコ語の文型・例文と、練習A・Bから成る。それらは、「みんなの日本語」文型・例文・練習A・Bのトルコ語訳をもとに作られる。
文型・例文は、基本的に日本語の原文に対応するトルコ語文をあげるが、不適当な文は差し替え書き換え、再構成する。
会話練習である「みんなの日本語」の会話・練習Cは、ほかの国・ほかのことばの学習ではそのまま使えないので、新たに作ることになる。
語彙にも検討が必要だ。たとえば「残業」は、日本で働く場合には初級の基本語彙のひとつで、必須である。この意味の表現(fazla mesai yapmak)はトルコ語にもあるが、それはトルコで働くときの基本語彙ではない。そういうものは初級で出す必要はなく、逆に日本語を習う場合はさほどいらないが、トルコ語を習うときには必須だということばもあるだろう。それらを考えることは、日本事情・トルコ事情の勉強にもなる。


日本語のトピックにそって、トルコ語文法を反省し、検討し、整理する。それは、ひるがえって日本語の反省にもなる。
トルコ語にあって日本語にないもの(人称変化など)もあるし、日本語にあってトルコ語にないもの(授受表現など)もある。当然のことではあるけれど、それが具体的に手に取るようにわかる。
みんなの日本語」では、形容詞が第8課、「あります」が第10課で出る。非常に遅い。これは、日本語にはイ形容詞・ナ形容詞(形容詞・形容動詞)、「いる/ある」の別があって、外国人学習者にはむずかしいので、そうなっている。しかし、それに対応するトルコ語の部分はとても簡単だ。また、第20課では普通形・普通体を学習する。日本語にとっては重要なトピックだが、トルコ語ではほとんど意味がない。
逆に第1課は、人称変化のない日本語では簡単至極(「Aさんは学生です/学生じゃありません/学生ですか/Bさんも学生です」)だが、トルコ語のような人称変化のある言語ではその練習をたっぷりしなければならない。日本語の疑問の「か」に当たる「mI」にも人称語尾がつくのでなかなかたいへんだし、またトルコ語には母音調和があって(それも2タイプがある)、接辞や語尾の母音がいろいろに変わるので、その練習も必要だ。だから1課ではまかないきれず、2、3課に分けなければならないだろう、ということもわかる。


たとえば、必要を表わす「なければならない」(17課)に当たるトルコ語表現はいろいろある。
・V語幹 + -mEz- +-sE- + -m/-n/φ/-k/-nIz/-lEr olmaz.
・V語幹 + -mElI- + -yIm/-sIn/φ/-yIz/-sInIz/-lEr.
・V語幹 + [mEk>]-mE- + -m/-n/-sI/-mIz/-nIz/-lErI lâzım/gerek.
・V語幹 + -mEk zorunda- + -yım/-sın/φ/-yız/-sınız/-lar. など。
トルコ人はもちろんどれも知っているから、日本語をトルコ語に訳す「翻訳・文法解説」の場合は、当該の日本語文にもっとも合っているトルコ語にすればいい。だが、トルコ語を知らない日本人にトルコ語を教えるというコンセプト(仮構にもせよ)の「みんなのトルコ語」の場合は、全体の目配りをしつつ、このうちのどれを教えるかを決めなければならない。
日本語でも、ほかに同系だが意味が微妙に違う「〜ないと いけません」「〜なくては なりません」「〜なくては いけません」「〜なければ いけません」「〜ねば ならぬ」のような言い方があるし、「〜する必要がある」「〜することが求められる」という言い方もある。それらのうちから、「〜なければ ならない」を取り出して教えるのと同じだ。
そして、トルコ語と日本語を比較対照するのも目的のひとつだから、「なければ・ならない」とまったく同じ構成の「V語幹 + -mEz- +-sE- + -m/-n/φ/-k/-nIz/-lEr(なければ) olmaz(ならない)」(Pasaportu göstermezsen olmaz.:パスポートを見せなければなりません)と、動詞に接辞をつける表現はトルコ語に特徴的なので(可能の意味の「-Ebil-」など)、そのひとつとして「-mElI-」による言い方「V語幹 + -mElI- + -yIm/-sIn/φ/-yIz/-sInIz/-lEr.」(Pasaportu göstermelisin.)を取り上げることにする。
また、理由をあらわす「から」は9課でもう出てくる。
「から」は、トルコ語では「için」とか「dolayi」「çünkü」などいろいろな言い方があり、トルコ人のための「翻訳・文法解説」では、その日本語文の意味をもっともよくうつすトルコ語の「から」を使えばいいだけだ。
しかし、「みんなのトルコ語」ではそうはいかない。「için」は「Vstem + -dIk- + 所有語尾 için」(きのうは暑かったから:dün sıcak olduğu için)、「dolayi」は「Vstem + -dIk- + 所有語尾 + dEn dolayi」(dün sıcak olduğundan dolayi)と、作り方がむずかしい。
「çünkü」は、日本語では「なぜなら」というような意味だから、日本語の「から」とうまく合っているわけではないが、構文が簡単なので(çünkü dün sıcaktı)、「みんなのトルコ語」の場合は、まずこれを教え、「-dIk- + 所有語尾」構文を習う22課(連体修飾)のあとで「için」を出す、というふうに構成するのが適当だということになる。


「自然発生」「同時多発」ということばも好きである。世界各地で、「みんなの日本語」を使っている人がその国の言語で「みんなの××語」を作れば、体系的かつ実践的な日本語基軸の好個の比較対照文法資料が地からにょきにょき生えてくる。どうですか、これ。やってみていいんじゃないですか、英・独・仏・露・西・葡・中・韓・タイ・ベトナムインドネシア以外の先生方?


トルコ語には母音調和(vowel harmony)があって、前の母音(vowel)によってうしろにつく母音が変わる。それを大文字の「I」「E」であらわすことにする。
つまり、
I = i (e,i)/ ı (a,ı)/ ü (ö,ü)/ u (o,uのあと)と変わり、 E = e (e,i,ö,ü)/ a (a,ı,o,uのあと)と変わる。
「-dE」は、yerdeともなるし、meydandaともなる。
子音が変わることもあって、sözlükteとも、kitaptaともなるが、それは特に書かない。〕