「日本統一標準身ぶり」

日本語を教えるとき、特に初級を教えるときには、意識的であれ無意識的であれ、誰でも身ぶりを活用しているはずである。相手とはことばによるコミュニケーションがほとんどとれないのだから、外国へ行った人が身ぶり手ぶりで意思疎通をはかるのと同様、自然な行動だ。だが、そのごく自然な身ぶりの活用について、無意識にやっている人はもちろん、意識的に身ぶりを用いている人も、さらに反省を加えてみてはどうだろうか。日本語の「身ぶり」を共有財産にする工夫があってもいいのではなかろうか。
 外国で日本語を教える場合、身ぶりについて二通りのやり方が出てくる。その国で使われている身ぶりを使うか、日本で使われている身ぶりを使うか。どちらの方法にもそれぞれ長所があり、短所がある。当該国の身ぶりを利用すれば、生徒にはすぐわかってもらえる。しかし、その国の身ぶりのすべてを心得ているわけではないだろうから、どうしても日本式の身ぶりも混じってこざるをえない。そこから第三国へ移った場合、前にいた国の身ぶりを用いてはわかってもらえない。だからまたその国の身ぶりを身につけて、しかしやはり日本の身ぶりも混在して、以下同文、というような事情を考えると、日本で行なわれている身ぶりで押し通すのが、合理的でもあり合目的的でもあると思う。
(しかし、教師とてむろん教室の中でのみ生きているわけではなく、一歩外に出れば、たいていの場合自分自身が身ぶり手ぶりで意思疎通をはからねばならぬ言語弱者で、その際にはもちろん当該国の身ぶりを用いているのだから、それが教室でも出てくるのは当たり前ではあるけれども、そこはあえて。)


 ジェスチャーというのは、いわば野放しになっている。規範がない。学校で教わらない。年長者のしぐさを見まねして身につけるだけ。「美しい日本語」を説きたがる人々も、「美しい日本ジェスチャー」は言わない(「美しい日本の所作」は説くが、これはまた別物だ)。いわば「学校制度以前」の状態であり、統一されていない(誤解されると困るが、これではいかん、学校で教えろ、と言っているのではない。ことの性質を見極めているのだ)。
しかしながら、実は、耳が聞こえることを当然として日々を送っている人々の知らないところで、日本人の身ぶりは「日本手話」としてコード化されていた。身ぶりの統一標準化を遅まきながら考える聴覚非障害者が気づいたとき、解決はすでに聾唖者の手でそこに存在していたのである。


だが、普通に言う「身ぶり」と「手話の身ぶり」は同じではない。「手話」は言語である。文法があり、言いたいことをすべて表現する。「身ぶり」は、特に強調したい場合や印象づけたいとき、そのことばを言うことがはばかられるときなどに使われるのであって、限られた数しかない。それに対し、すべての事物や概念を手の動きで表さねばならない手話は、自然発生的な「身ぶり」だけでは足りず、健聴者が使う「身ぶり」の数十倍数百倍も「語彙」を人工的に考案して使っている。そのため、「身ぶり」はその文化の成員であれば理解できるが、「手話の身ぶり」の大半は、手話を知らぬ健聴者には理解不能である。
その一方で、「手話の身ぶり」は基本的にその文化の「身ぶり」を基礎にしている。手話に取り入れられなかった健聴者の「身ぶり」もあるけれど、例外的だ。だから、健聴者が見てわからないような身ぶりは除外した上で、洗練され体系化された「手話の身ぶり」を「日本統一標準身ぶり」(へんな言葉だけど)の基礎とすることができる。


たとえば、欧米では、「OK・よろしい」を表すときに、親指を立てる。「お金」は、親指と人差し指をすりあわせる(お札を数えるしぐさ)。前者は若い人を中心に日本でも普及してきているしぐさだが、後者は全然使わない。日本で「親指を立てる」のは「男」を意味するしぐさだし(小指を立てると「女」)、日本の手話では「親指を立てて突き出す」と、「だめ」の意味になってしまう(「メッ!」)。それではまったく逆だ。「OK」は「親指と人差し指で丸をつくる」というのが普通で、手話でもそうする。
「お金」も「親指と人差し指で丸をつくる」しぐさで表されるのだが、これはいわば「同音異義語」である。「お金」の「指丸」は、「OK」の場合腕を立てるのに対して、腕を横にしてふところあたりで示されることが多く、手話の場合は「指丸」を軽く振ることで「OK」と区別するようだ。
「OK」と「お金」のサインが同じ(後者では軽く振るという動きが加わるが)だとしたら、「OK」と「男」が同じであってもかまわないように見えるかもしれないが、「金」を「親指と人差し指をこする」とする表現は、欧米以外では通じない。現在の日本の健聴者の間で「OK」に「親指立て」と「指で丸」のどちらを使うことが多いのかはよく知らないけれど(ひょっとしたら前者のほうが一般的になってきているのかもしれない)、ここはやはり手話に取り入れられている「指丸=OK」のほうを標準とするべきだ。しかし、必ずしも一般的でない親指を立てて突き出す「メッ!」は取り入れる必要はない、ということである。声を奪われている彼らと違い、われわれは声に出して叱ることができるのだし、日本語を教えているのであって、手話を教えているのではないのだし。


身ぶりには2種類ある。外国人にも(簡単な説明をすれば)わかる身ぶり(「聞く」「泣く」など:A)と、わからない身ぶり(B)である。人類的な普遍性のある身ぶりと、それに乏しい身ぶりということだ。むろん、すべての他の分類と同じく、両者の間の境界線は決して画然とは引けない。
Aについては、学習者の記憶の負担になるわけではないから、どんどん使っていい。Bの場合は説明が必要になるので、Aのように無造作に使えるわけではないが、それでもいくつかは取り入れることができる。
Bのうち、日本人ならわかる身ぶりというのがある。まず、日本人がふつうに使っている身ぶり(「男」「女」など:Ba)と、日本人の健聴者は自分ではあまりやらないが、人がしているのを見れば理解できる身ぶり(「約束」など:Bb)がある。つまり、アクティブ(使用)にもパッシブ(理解)にもOKというもの(Ba)と、アクティブには使わないがパッシブには可(Bb)というものだ。日本人の身ぶりは日本人の文化の一部であり、日本人のコミュニケーション手段の欠くことのできない部分であるから、Baの習得はむしろ奨励される。
また、健聴者は使わないが、日本語を教えるときには役に立ちそうな身ぶり(現在・過去など:Bc)というのもある。そのうち、漢字を指で表すもの(Bd)がいくつかあり、これも知っておくと使えるかもしれない。


身ぶりを使うと効果がありそうな場面としては、次のようなものが考えられる。
学習者が積極的に話しているが、間違いがある場合。発話は奨励したいのだが、誤りは定着させたくない。直さないでおくと、その誤りが定着してしまい、もう直らなくなることがある。だから放っておくわけにはいかないが、いちいち直しをいれて話を切っていては、話す意欲をなえさせてしまう恐れがある。この二律背反に教師はよく遭遇する。教師に直されるより、自発的に当人が直すほうがずっといい。だから、教師が身ぶりでシグナルを送り、本人がそれに気づいて自分で訂正する、ということができれば、流れをさまたげずなめらかに進行して、効果もきわめて大きかろう。
だが、なかなかそううまくはいかない。日本手話は日本語とは異なる言語であって、外国人はよく「ほしい」と「たい」、「あげる」と「くれる」の使い分けを誤るが、手話もこれらを区別せず、同じ身ぶりで表すので、「身ぶりによるシグナル」が送れない。助詞の間違いも多いが、手話には助詞がない等々、いちばん役立つと思われるこのような場面で、期待するほど活躍できない。だが、あやしい個所で「どうかな?」のしぐさをしてみせたり、「違う」「OK」のシグナルを送ったりすることはできる。「過去(完了)」や「未来」は身ぶりで表せるから、そのような間違いではサインが送れる。文末に「です」を落とすこともよくあるが、そのときは「です」の身ぶりで示せるし、「行く」と「来る」を混同したり、概して反意語のペアを取り違えて言ってしまうことがよくあるが、そんなときに「逆」のしぐさで悟らせることもできそうだ。
こういうことは日本語教師の誰もが実際にやっているだろうが、「統一標準身ぶり」を使うことによって、人や時によらず、経験の伝達や蓄積、交換が可能になる。方法として深まっていくはずだ。
絵カードやフラッシュカードの代わりに身ぶりを使うこともでき、ことによるとそれらのカードよりずっと効果的である。動詞の場合、絵カードではわかりにくいことが多いから、そんなときは身ぶりで示したほうがいい。ドリル練習(代入ドリルや変換ドリルなど)で単語を与えるときにも、身ぶりで示すほうが進行がスムーズになるだろう。
語彙を導入する際も、身ぶりを添えるとわかりやすくなるし、印象的だから記憶の支えにもなるだろう。また、身ぶり言語はかなり生産的で、たとえば「男」「女」のサインを示したあとで、親指を立てた右手と小指を立てた左手を合わせて「結婚」、離して「離婚」、右手親指と小指を立てて軽く振り、「夫婦」とやってみる。指で丸をつくる「金」の手つきを覚えたら、右手「金」を向こうに、上に向けた左手のひらをこちらに引きよせて「買う」、逆の動きで「売る」、「金」を上にあげて「高い」、さげて「安い」というふうに、連想の働きを使うこともできる。
 同じ「高い」でも、四つの指を直角に折って上にあげれば「(背が)高い」の意味である。このように多義語や同音異義語(正確にはアクセントが違うものは「同音」とは言えないけれど、外国人には聞き取れないので「同音」としてもよかろう)を区別するときにも、身ぶりの活用は有効だ。「暑い/熱い/厚い」、「切る/着る」などがそうだが、これらは漢字で書けば別語だとすぐわかる。この場合、身ぶりが漢字の役割を果たすことになる。ただ、手話というのは「語彙」数が絶対的に少なく、日本語では使い分けを要する類義語が同じ身ぶりで表されることが多いため(「うれしい」と「たのしい」など)、この分野でも力が発揮できる場は限られる。


身ぶりは文化である。日本人がふつうに使っている身ぶり(Ba)は、日本語学習者はもちろん習得しなければならない。あまり一般的でない身ぶり(Bb)についても、それも日本文化に基づいているのだから、日本文化の紹介として取り入れると効果的だろうと思われる。手話には、「安心」(胸をなでおろす)・「自慢」(鼻が高い)のように、「絵解き」身ぶりというものがけっこうある。こういうものは慣用句の説明に使えるかもしれない。
「キツネ」というのは影絵の手ぶりで、日本人なら誰でも知っているが、外国人にはすぐにはわからない。しかし説明すれば、いかにもキツネの頭の形に見えるから、なるほどとすぐのみこめるだろうし、影絵の紹介にもなる。さらに、この「キツネ」の手の形を2回まわすと「だます」という意味になる。これは「キツネに化かされる」という伝承を知っていなければ理解できないことだが、逆に、そのような言い伝えを紹介するためになら、大いに役立つ。「約束」は「両手の小指をからめる」形で表す。言うまでもなく「指切りゲンマン」に由来するわけで、指切りは「日本人の基礎教養」の一部であるから、「約束」のほうから逆にこれを導入するのもいいだろう。


「手話の身ぶり」は、言うならば「動く象形文字」である。紙に書かれず、一瞬一瞬に消え去っていってしまうという点では音声言語のようでもある。だが、耳に聞こえず、聴覚でなく視覚によるのだから、文字との共通性は高い。しかも「表意文字」である。手話一式の中には指文字という「表音文字」のセットも用意されてはいるけれども。漢字は逆に、「凍りついた身ぶり」ととらえることができるかもしれない。日本語は漢字ゆえに同音異義語の氾濫に悩まされている。書くときは漢字によって区別がつく。もし身ぶりのサインを添えられれば、話すときにも截然と区別ができるはずだ。日本語の大きな問題のひとつである漢字を考える際にも、身ぶりを考え合わせることで新たな可能性が広がるのではなかろうか。手話では両手を握り合わせることで示される「友だち」の漢字は、「ナ」も「又」も手を表していて、つまり手と手がよりそう形であることなどが当面の一例である。


多数であることにあぐらをかいてのほほんと暮らしている一般の日本人が知らないうちに、彼らがほったらかしにしていた日本の身ぶりは、弱者である聾唖者によって、それを真摯に必要とする者によって、みがきあげられ、体系化され規範化されていた。求める者と求められる者の幸福な関係。愛の成就を見るようだ。それならば、同じく日本社会の他者であり、日本に暮らせば弱者となりがちな外国人の教育において、聾者たちが生き抜くために編み出したものを、その成果を取り入れるのも、必要にのみ基づいたひそかな同盟を築くのも、また同様に痛快ではないか。しかり、切実な要求をつきつめ、結果として世界を変えていくのは、多くの場合少数者なのである。