NYM原則から一歩先へ

日本語にも「第三世界」がある。
「第一世界」は、日本に近い地域だ。日本語ができることが実利になり、習う者も実利が主目的である。文化に興味がある場合、それは現代の大衆文化だ。学習者も多い。だから教材や辞書も一応そろっている。学習者全員にはいきわたらないとしても、就職機会も渡航機会も多い。東アジア・東南アジアがこれに当たる。
「第二世界」は、欧米先進国である。日本語学習は必ずしも物質的利益につながるわけではないが、学習者も実利をもっぱら期待しているというわけではない。文化(伝統も現代も含めて)にも関心がある。所得が高いので、趣味・教養として学ぶことが可能だ。教材や辞書はあるし、なくても他国から取り寄せて入手するだけの購買力がある。多くはなくても就職機会はあるし、また自力での日本旅行も可能である。
そして「第三世界」。世界の残余の部分である。ここでは日本語は必ずしも実利につながらない。日系企業はほとんど進出しておらず、就職機会はきわめて限られる。日本のプレゼンスが低く、日本は具体的でない。学習者数も当然少ない。その点で「第二世界」と共通するところが多い。決定的に違うのは所得である。そのため実利を得たい気持ちも強いのだが、「第一世界」と違いその機会が圧倒的に少なくて、漠然とした考えにとどまらざるを得ない。渡航もむずかしい。学習者が少なく教育の歴史も浅いので、辞書・教材はほとんどない。
このほかに、日系移民がいて、スペイン語(とポルトガル語)というメジャー言語を母語とする南米という特殊な地域がある。これは「第二・五世界」とでもなろうか。
広大なロシアは、日本に隣接する極東地域が「第一世界」、モスクワ・サンクトペテルブルクが「第二世界」、それ以外が「第三世界」と分けられよう。
要するに、日本との関係の深さの度合いということである。関係の深い「第一世界」やそこそこある「第二世界」とちがい、ほとんど関係のない「第三世界」など無視していいようなものだし、実際大多数の日本人の眼中には存在していない。しかし、日本にとって重要な地域ではあるのだ。「第三世界」はほとんど例外なく親日的だから。この地域で日本は手が白い。「関係が深い」というのは「アコギなことをしている」のと同義である。「第一世界」で手の汚れている日本にとって、「第三世界」の支持は心強い。むろん日本が何より心がけねばならないのは「第一世界」に友人を作ることだけれど、「第三世界」も大切にしなくてはならない。重要度は、全体としては決して低くない。ただ、国の数が非常に多いので、国ごとに割れば吹けば飛ぶくらいになってしまうだけで。

以下述べることは、この「第三世界」の事情である。辞書や教材に困らないそのほかの世界には当てはまらない。それをまず断った上で。


世の中には、「NYM(ないよりまし)公理」というものがある。どんなつまらないものだって、ないよりはましである。
アルメニアの学生は和露辞典・露和辞典を使っており、「アルメニア語・日本語辞典」はアルメニア人教師によって作られた先駆的なものがあるのみ。そこで、この辞典をもとにして、それを逆に置き換える(アルメニア語の訳語を見出し語にし、日本語の見出し語を訳語にする)ことで「日本語・アルメニア語辞典」を作ろうとする動きがあった。なぜか元の辞書を作った人はその作業に当たっておらず、アルメニア語ができない日本人と日本語ができないアルメニア人が企てていた。だが、単語をぽとぽと並べただけのそれは索引と呼ぶべきものであって、とても辞書とは言えない。「あさって」や「おととい」などの能力試験4級語彙もかなり抜けているようなお粗末な代物である(英語がそうであるように−day after tomorrow, day before yesterday−、アルメニア語でもこれらは1語で言わないので、「アルメニア語・日本語辞典」の見出し語にはない。だからそれを逆にしただけの「辞典」には見出し語としてこれらが出てこないわけだ)。このようなものを麗々しく辞書として出版してはいけない、と心ある教師なら思うはずだが、しかしほかに日本語・アルメニア語辞典はなく、学生たちは辞書を必要としているのだ。こんなものだってNYMだ。
もしこれがいけないというのだったら、その代案が提供できなければならない。NYMは、見方を変えれば「NHM(ないほうがまし)」でもある。まちがい多く、不十分さも度が過ぎるようなものの場合、人を誤る恐れがある。そんなものはないほうがいい。それは正しい。だが、それは恵まれた立場の人が言うことである。手がかりも足がかりもない、暗闇で手さぐりの状態の学習者には、どんなものでもNYMだ。それをNHMだと断じるためには、そうでないものを自分で作る覚悟がなければならず、でなければ単なる評論家で終わってしまう。
進歩はすべて一歩ずつである。まず不十分ながらも一歩を踏み出し、その足らざる点を補う第二歩が続き、さらに三歩目、四歩目と進んでいってスタンダードな著作に到るのが筋道だ。NYMをNHMに押しやって、次々に乗り越えていく、という過程である。だが、それを可能にするのは裾野の大きさだ。
マーケットが大きくていいものならどんどん出せるなら、あるいは健全な批評が確立し権威をもっているなら、NHMは自然に淘汰される。改定し、また改定する。それが発展というものだ。けれども、よちよち歩きすらおぼつかないような状態では、「改定する力」にも乏しくなる。そこではどんなNHMもNYMである。マーケットというものがほとんど存在しないところでは、一度出したものが乗り越えにくくなる。逆説的だが、そういうところでは初めから一定水準以上のものを作らなければならない。


アルメニアでのその経験から、NHMでは決してなく、NYMよりもずっと進んだ、ほんとうに役に立つものを作ってみよう、誰もやらないなら自分がやろうと決意した。見出し語は8000語とした。「日本語能力試験出題基準」にある1級語彙表によって。品詞分けはもちろんだが、アクセント、動詞では変化形や自他動詞の別、第1グループ動詞の場合はテ形をあげ、対になる自他動詞、結びつく助詞、簡単な例句をそえる。たとえばこのように。


あう [1] 合う 鄴 動(自Ⅰ・あって/他:あわせる) ①〔ナニ・ダレと〕 彼(かれ)と意見(いけん)が合う ②〔ナニに〕 答(こた)えが合う この靴(くつ)は足(あし)に合う ③〔ナニに〕 あの服(ふく)にこのネクタイは合う ④〔Vマス語幹+〕 助(たす)け合う 


ただし、私が作るのは日本語の部分だけである(もちろん、それしかできない)。それにそれぞれの国の人が自分のことばで訳語をつければ、まずまずものの役に立つ辞書ができあがるだろう。いわば「学習辞典キット」である。
こういうものがあれば、世界各地で同時多発的に日本語学習辞典がにょきにょき生えてくる。それは心楽しい眺めではないか。
また、訳語を空欄にした、白地図ならぬ「白辞書」として出すことも考えられる。学生が勉強しながらそれぞれ自分で自分の辞書を作っていく。勉強が進むにつれて、自分専用の辞書ができてくる。学習効果も高いだろうし、そういう個人辞書がいくつもできあがる頃には、木々に木の実がなるように、よい辞書が自然に「なって」くるだろう。そう考えると、それも楽しい。辞典キットは第三世界向けだが、白辞書なら第一・第二世界でも有用だと思われる。


むろん、これはあくまで学習辞典である。本式の辞書にはなりえない。ロシアでよく使われているが、どうも感心しないあの「和露小辞典」だって、収録語数は15000語だ。中学生向けの和英辞典が12000−16000語で、小学生向けの国語辞典が30000語以上だから、まともな辞書を作るなら収載語彙はこれの倍から3倍にする必要がある。だが、それはもはや日本人の手を離れたその国々の人たちの仕事である。

(しかし、夢想はいつも楽しいが、実行はけっこうしんどいのですね。4分の3まではできたから、あと一息なのだけど。)