暖かいシベリア

 暑いのが苦手で、冬に雪が降るところでばかりで働いていたが、バンガロールやボルネオでの滞在を経験して、要するにヨーロッパというのは極地地方だとわかった。そこまででないとしても、「暖かいシベリア」というのは妥当な表現であろう。緯度的にも。

 チュコト半島かどこかの民族が、功労への褒美として温暖なクリミアの保養所に行かせてもらったら、暑すぎると言ってすぐ逃げ帰ったそうだ。ヨーロッパ人も(ラッフルズのように)自分たちが植民地とした熱帯地方でその気候ゆえに命を落とすことがよくあった。

 彼らの外見については、「妍美」という評語があるが、美男美女についてはまさにそれだ。青い目にブロンド、目はぱっちりと色白で美しいけれども、しかし要するに色素不足である。病的だと言ってもいいくらいなんじゃないか? プラチナブロンドなんて白髪の親戚だろう。肌の色の薄さはそばかすの多さとなるし、強い光の下ではサングラスで保護しなければならないほど目が弱い。

 美男美女でない人々をよく観察すれば、鼻高く大きく、目はくぼみ眉せり出し、ごつごつして毛むくじゃらで大柄、色は白というより薄赤く、つまり赤鬼の実物はかくもと思われる。そんな男から体毛を除き細身にすれば、魔女である。加うるに、肌のきめ粗く、体臭きつく、太りやすく老化しやすい。人を外見で貶めてはいけない。もちろんそうするつもりはない。だが、彼らが自分たち以外の人々を外見で嘲弄するなら、鏡を突きつけ返す用意はしておかなければならない。

 その衣服も寒冷地仕様である。毛皮は冬の必需品で、シベリアやカナダ征服はその獲得のために行なわれたくらいだ。首にネクタイを結ぶ奇妙な習俗も寒冷地ゆえで、ある清朝の大人は、その弁髪を西洋人に「あんなもの何の役に立つんだ?」と嘲笑されると、その男のネクタイを掴んで「こんなもの何の役に立つんだ?」と言い返したそうだ。いかにも、端を引っ張れば首輪になる服装なんて、弁髪に劣らぬくらい奇天烈だろう。そういう「極北」でこそ着られもするし意味もあるかもしれない装束を、熱帯はもちろん、温帯でも夏暑く湿気多いところで着用させるのは非合理きわまる。彼らによるネクタイの強制があったかどうかは知らない。自発的植民地化かもしれないが、即刻取りやめるべき陋習だと思う。革靴も同様で、高温多湿な日本の夏では水虫培養器となってしまう。男どもが寒冷地仕様の服装をしているため、夏の職場では冷房をガンガンかけ、冷え性の女性職員はカーディガンとひざ掛けで仕事する。どうして「シベリア」の民族衣装に唯々諾々と従うかね。馬鹿なことだ。クールビズなるものが提唱されて普及し、多少改善されたが、まだ十分でない。あの「選良」などと称される人たちの旧態依然を見れば。衣替えは日本の文化だ。夏はかりゆしでしょう。

 中国もそうだが、家の中でも土足なんて不潔な習慣を21世紀まで堅持して文明を誇るのも困ったことだ。革靴という彼らの土地にこそ適合した履物を夏の高温多湿の中でも履いて、水虫を培養している名誉白人志向の日本人も困ったものだけれども。

 人間はサルの仲間である。サルなど霊長類はそもそも熱帯の生き物で、人類もアフリカに発祥した。シベリアにも「暖かいシベリア」にもサルはいない。亜寒帯や寒帯に棲む霊長類はホモ・サピエンスだけだ。それをもって寒冷地霊長類は優越のしるしと見なすかもしれないが、そうではない。サルが棲む地域の人々は、サルを見ることを通じて自分を見ることに慣れている。おのずからなる反省である。サルのいない地方の人間の考えには偏りが出るに違いない。多少向上はしたけれど、われわれは結局サルなのだ。類類人猿なのだ。そういう根っこの部分を忘れると、増上慢の大罪に陥る。軽増上慢の一人として、重増上慢の諸氏に言いたい。

 

 チップなどという悪習も「シベリア」で根強い。あんなものは奉仕される者と奉仕する者の間に大きな溝がある遅れた社会の前時代的な習慣ではないか。警官に止められ証明書の提示を求められた運転手が、それに金をはさんで渡し見逃してもらうのと変わらない。チップなどを当然の習慣にしている「先進国」とやらは、賄賂がなければことが進まない「後進国」を見下してはいけない。よいサービスに心付けが渡されるのはけっこうだが、ごく普通のサービスにも、いいかげんなサービスにすらもチップが要求されるのでは、見返りがあることが前提の賄賂のほうがまっとうだとさえ言えよう。

 

 見聞を広げるうちに確固とした信念になったのは、この「暖かいシベリア」の後来先住民たちの考えはまずすべて疑ってかかるべきだ、ということだ。いいこともいくつも言っているので、そのあたりを慎重によりわけなければならない。

 問題の多くは、彼らによるメディアの支配に由来する。英語で言われていないこと書かれてないものは存在しないのだ(したがって日本語で書かれているこの文章も存在していない)。世界の支配は発言機会の支配によって完遂できる。

 ノーベル賞のうち、科学賞は英語など西欧語がその分野の共通言語となっているからしかたないとして、文学賞も西欧語でしか評価されない。翻訳で読まれるわけだ。「美しい日本の」川端康成が言語の彫琢師としてそれに不満を漏らしていたのは当然だ。

 また、ノーベル平和賞はノーベル西欧価値観賞と理解すべきもので、世界は彼らの社会のようになるべきという前提で選考されている。ノーベル価値観強要賞である。

 欧米人による意見の独占が行なわれ(彼ら以外の者の発言も、彼らの言語によって行なわれる限り、彼らの意見に倣うものになりがちだ。言語は発想に影響するし、発言のプラットフォームは発言の趣旨を規定してしまうから)、それによる正義の独占がまかり通っている。それは洗脳であり、彼らのようになることが善だと信じ込まされるわけだ。自分たちの管理する広報手段を使い、自画自賛の勝手な自画像を世界に弘めて人々を騙す。まんまと騙されている人たちのなんと多いことか。欧米人の模倣がうまくできれば賞賛を浴び、欧米から評価されれば成功とされる「思考と感性の植民地状況」が植民地失陥後もいまだに続いているのは、情けないと言うだけでは足りない。彼らが作ったルールでゲームをしている限り、彼らを超えることはできず、彼らの業績を拝し続けなければならない。そんなゲームからは降りてもいいのではないか。

 メディアが掌握されているため、欧米諸国の構造的な悪事はほとんど注目されず、非欧米諸国の悪事は過大に増幅される。あちらとこちらで扱いが違うダブルスタンダードを人目をごまかしながら貫徹しているわけだ。欧米の現象的な悪事は報道するので、それが目眩ましとなって、ダブルスタンダードであることさえ一般には認識されていないのである。結果、正義とは西欧北米が認定するものに限られることとなる。

 彼らの言う「歴史」はヨーロッパ史のことであり、「国際」は欧米諸国間関係のことである。半世紀前よりだいぶ向上したが、依然としてそうである。世界共通語として考案されたエスペラントは、実はけっこうむずかしい。ヨーロッパ人に習得しやすい言語であり、印欧語とまったく違う言語を母語とする者には決して学びやすくない。一方で彼らは、ハンガリー語バスク語など印欧語と全然異なる体系の言語は、非常にむずかしいとこぼし、「悪魔の言語」だとまで言う。ハンガリー語など日本人にとってはそこまでむずかしくないのに。バスク語もそれほどでないと思うよ。少なくとも彼らが言うほどではないだろう。数か国語ペラペラの欧米人は多いが、実際はそのペラペラのことばはほとんどすべて印欧語である。印欧語以外のことばができる欧米人なら聞くべきところがある。それ以外のペラペラ氏の意見は割り引こう。

 奇想と偏見に満ち、独善をこととする。彼らの主張に対しては、まずこのことを忘れずに対すべきだ。

 

 欧米人の考え方のひとつの底流となっているのは原理主義で、それがしばしば暴走する。人間性(あるいは人間の動物性)からいって根絶することのできないものを根絶しようというのは、単純に不可能である。不可能事を主張するのはきれいごとだ。肝要なのは節度であり、度を超えないことだ。常識と慎みだ。

 たとえば死刑廃止論である。なるほど、死刑制度には冤罪や政治的乱用のような欠陥がある。冤罪や誤審はゼロにはならない。政治的乱用もしかりだが、限りなくゼロに近づけることはできるし、制度改善の努力はその方向でするべきだ。

 もし死刑廃止によって殺人がなくなるのなら、死刑廃止には意味がある。だがそうはならない。殺人は太古以来どの文明社会でも禁止されているが、にもかかわらず犯され続けている。それなのに死刑のほうは禁止されるというのは、全く論理的でない。殺人は禁止、許されぬ。だが、それは犯される。しかしその犯人を死刑にするのは禁止。変じゃないか? 罪のない人々を何人殺しても、その人たちの命を奪った人間の命は奪われず、生涯寝食を与え生き続けることが保証されるのでは、何のための文明だろうか。

 死刑廃止原理主義であり、それは助長すれば刑務所廃止にまで至るはずだ。一生を刑務所内で送らせるのは死刑以上にばかげている。死刑廃止の論理は、刑務所で自由を奪うことを廃するまで過激化せずにはおかない。銃撃事件やテロの犯人はたいていその場で射殺される。それを殺してはいけないというところにまで進むことにもなるだろうし、そうならなければ不徹底だということにもなる。

 死刑廃止は、殺人のない社会、ひいては犯罪のない社会になることを論理の帰結とするものであるはずだろう。だが、そんなことは不可能だ。残念ながら世に泥棒や人殺しの絶えることはない。

 そこに無辜の人の死体がある。その罪は償われなければならない。殺意をもって人を殺した者は死刑である。なぜそれでいけないのか、不思議なことだ。

 ヒューマニズム人間主義)に与するわけにはいかない。それが人間に都合のいいことを意味するなら。人間ばかりでなく、動物や植物にいいこと、地球にいいことをするべきで、真実を言うならば、生き物や地球にとっていいことの第一は、人間が減ることだ。重犯罪者処刑で減る人口は微々たるものだが、それでもやったほうがいい。食べるためでない、娯楽のための狩猟をする者も、できれば死刑にしてほしい。

 死刑廃止は間違っているが、ひとつの論議ではある。だが、法律の世界の鬼子現象、PC(ポリティカル・コレクトネス)跋扈や訴訟社会などは明らかに逸脱だ。PCなんて良識の問題であり、それでしかないものが、発言コードとなって人々を縛る。上辺をとりつくろった「外交官」ばかりになり、当たり障りのない無菌状態が目指される。無菌を装う表面の下は相変わらずなのに。日本の建前横行もたいがいだが、そのさらにひとつ上を行く。訴訟社会はさらにひどく、常識的にわかることをしないでけがをして、それについて説明がなかったからといって巨額の賠償金をせしめる異常な社会をもたらす。常識や良識のない人々の非常識な主張を代弁して、三百代言、もとい、弁護士を太らせる社会は、文明の末期の感を強くする。自分に1分どころか0.1分の理しかなくても徹底的に主張し争うのが善とされ、それどころか、そうしないのはよほどの馬鹿者とされる。そういうのはちょっと御免蒙りたい。万人の万人に対する戦い。修羅である。

 

 「同性婚」というのも同様に的外れな原理主義だ。同性でも愛し合っているならいっしょに暮らして全然かまわない。それが結婚という形をとるのがおかしいだけである。結婚というのは子供を生み育てるための制度だ。その根幹を忘れて「愛し合うカップルの公認同棲形態」と間違った理解をするから、子供を生むことのない人たちによる結婚なるものが云々されることになる。

 それは恋愛結婚至上主義のひとつの帰結だろう。子供のできる男女の恋愛に限っても、それには弊害がある。恋愛はすばらしい。だから世界のどこでも恋愛物語、殊に悲恋物語が愛好される。だが、恋愛と結婚は別だ。恋愛が心の問題であるのに対し、結婚は社会的制度である。親族と親族の結びつきをはかり、安定的に子孫を残すための制度である。恋愛は激情を、結婚は静穏をその性質とする。激情を静穏にうまく連続させるのは必ずしも容易でなく、つまずく人たちも少なからず出てくる。恋愛結婚奨励は離婚奨励になりかねない。恋愛結婚はもちろんけっこうなことであるが、それ以外を貶めるのは慎まなければならない。

(結婚は子供を生むための制度であるのだから、子供がほしくない人たちが結婚するのは制度の趣旨に反しているのだけれど、そういう結婚や生涯独身の人たちが増えている。生む場合も1人か2人というのが多い。現在では多産は好ましくないものになっている。あまりに人間の数が増えすぎているので。少子化や出産忌避結婚忌避の先進国病は、戦争や疫病に代わる人口調節機能の自動的発現なのかもしれないとも思う。埋め込まれたプログラムなのか?)

 女性解放はたいへんよいことだと思うが、おかしなことも多い。ハイヒールという奇怪な靴は、つまりソフト纏足であり、あんなものをはいている限り女性解放などないと思うのだが、違うだろうか?

 ブルキニは禁止で、ビキニはOKどころか奨励される。女子陸上選手や、ビーチバレーなる馬鹿げた競技(浜辺の遊びに過ぎないのに、わざわざ砂のないところへ砂を運んで競技場を造らされるなど、何の罰ゲームだ?)の選手はそれを着けなければならない。

 ムスリム女性の衣服は、キリスト教世界の尼僧の服装である。つまり、ムスリムは女を尼さんにする。欧米キリスト教徒は女を娼婦にする。露出多く挑発的で、娼婦のファッション、娼婦の化粧でしかないと思われるものが大道を闊歩している。女性解放は欲望の解放であるらしい。欲望の追及が善とされるのは異常事態だと思うのだが。挑発へ強く傾く性癖は精神病理の領域であろう。

 あいさつとしてのハグはけっこうだし、頬へのキスもよかろう。習慣は土地土地でさまざまだ。しかし接吻、ましてやディープキスなどは寝室でするもので、人前ですることではない。人目をはばからぬ犬の交尾さながらだ。奇習であり悪習である。それを映画や小説なんかでせっせと世界に広めようとしているのだから、始末が悪い。積極的と言えば聞こえがいいが、アグレッシブで欲望に忠実であることをよしとされるのは迷惑なことだ。

 

 最近の原理主義の暴走は、いわゆるトランスジェンダーをめぐる奇怪な主張だ。体と心の性別が一致しないのは現にあることだし、それによる差別を軽減する(あくまで軽減である。差別は決してなくすことはできないのだから)のはよいことで、推し進めていいのだが、しかしそれにも常識的な限度があるはずだ。女装していれば女子便所や更衣室に入ってもいいみたいなことになるのはどうかと思う。トイレならさほど問題でないかもしれないが、日本ではそれはただちに男湯女湯の問題になる。性転換の手術が終わっていればいいけれど、そうでない人はどちらの湯に入るのか? それとも、そんな区別は廃し、混浴推進? さらに、自分は女だと言い張る男が女子大会に出場していいのかというところまで問題は進むし、ホルモン云々の条件をつけてそれを認めるということにすでになっているらしい。奇怪至極である。原理主義によって常識が蹂躙されている。

 

 男女同権は当然のこと。だが、「男女平等」についてはよく考えなければならない。男と女は平等にできておらず、根本的に異なる存在様態なのだから。性による分業は人類史の原初からあったものだ。力仕事や危険な仕事は男が受け持つ。出産育児は女の仕事だ。少なくとも授乳期間の育児は女がしなければならない。そのため、家事もその流れとして女の仕事とされる。力を要する開墾や耕作、建設や採掘伐採など、また戦争や漁労狩猟も男の領分となる(戦闘や漁・猟はつまり殺す仕事。「板子一枚下は地獄」と観ずれば、死ぬ仕事でもある)。そして生み育てるのは女の仕事。そういう異なる作業分担を有機的に統合したのが家族である。近代になり俸給生活者が社会の大半を占めるようになって、ここに大きな変化が起こった。家族が無機的な接合じみたものになってきた。分業でなく分担によって成り立つ家族、ということになった。そういう分業が不全となった社会で主張される男女平等は奇妙なものだ。夫も妻も外で働くなら、家事の分担は必然である。だが、男も育児休暇を取れというのは、つまり母乳で育てるなということなのか? 男の胸から乳は出ない。そこは分担でなく分業の範疇だろう。現実には無機的接合の家族が大半になっても、有機的統合の家族はしっかりあるし、なくなることはない。そちらのほうが基準とされるべきである。いくら人口の大多数が時間の切り売りをする月給取りだからといって、俸給生活者本位の考えや主張には同意できない。まして、雇われ仕事によって生活しない人たち(「正しい人たち」と言いたい気持ちを抑えることができない)を「遅れている」と見なしたがる世の傾きには、嫌悪しか感じない。あれが「進んでいる」のなら、断固として「遅れて」いたい。

 

 彼らの信奉し賛美し、世の光として宣伝に務めるキリスト教は、実のところは未開人の宗教である。未開人しか改宗しないのだ。ローマ帝国を唯一の例外として。その旧ローマ帝国も、イスラムが勃興すると先進地域だったエジプトや東地中海地方はあっけなくイスラム化された。今の欧米人の祖先の大部分は北方の蛮族である。だいたいが、ギリシャを除く今のヨーロッパ地域は世界の文明史の中では新参の成り上がりだ。その後弘布に成功したのは新大陸やブラックアフリカなどの後進地域のみで、古い文明を誇るアジアではきわめて限定的な弘まりしか見せない。すでにしっかりと自分たちのアイデンティティの背骨となる宗教を持っていたら、好きこのんであんなものを受け入れることはないのだ。だから逆に、キリスト教に改宗するのは未開人だというふうにも言えるので、世界の主要交通路から外れていたフィリピンや太平洋諸島などそうであろう。ボルネオのキリスト教徒の大半は元首狩り族だ。フィジー系・インド系がほぼ半々のフィジー諸島で、食人種だったフィジー人がキリスト教に改宗し、移民のインド人がヒンドゥームスリムでありつづけているのも非常に示唆的である。改宗者には被差別民や恵まれない人々が多く、その点新興宗教によく似ている。韓国にクリスチャンが多い理由も、固有宗教が弱く、隣国に蹂躙され続けていた弱小国だったことによるだろう。明治時代に旧幕臣や士族に改宗者が出たのも没落階級だったことによる。

 キリスト教で困るのは、その布教熱である(これもきわめて新興宗教的だ)。自分たちだけで救われればいいのに、お節介なことをされるのは迷惑だ。それと表裏をなすのが殉教への妖しい熱情で、先ごろもアンダマン諸島の孤絶した島へ布教に行こうとして島民に殺された男が出たように、禁教や鎖国の地に赴くことに異様な情熱を注ぐ。あれはどうしたものだろう。明らかに病理の範疇である。彼らにカミカゼを嗤うことはできない。

 布教は単に迷惑なだけでなく、自分が死んだあとは先に死んだ先祖たちと合一したいと望むのが自然であるのに、よき父祖らを地獄に堕とし、自分たちだけ天国に行こうとするその心根がいやだ。他宗教を貶める態度も特徴的で、それもまた新興宗教的である。「永遠の新興宗教」と言ってもいいかもしれない。基本的に非寛容であるのは、キリスト教そのものの特性によるのか、それを奉じる欧米人の文明の性格によるのか判然としがたいけれども、とにかく非寛容で狭量である。

 イデオロギーをこよなく愛し、その虜となって、自分の信奉するイデオロギーに染まっていない(健全な、と言いたい)他者は総力あげて洗脳しようとする彼らの性向は、この宗教に発するのかもしれない。独善はどの宗教にも見られる悪弊だが、キリスト教とその信者は一頭地を抜いて独善的だと思う。それには独善において他に譲ることの少ない「中華」を自称する文明さえ一籌を輸するのではないか。

 

 捕鯨や犬肉食に対する度を過ぎた悪意のことも言わなければならない。食人はやはりまずいと思うし、カニバリズムもひとつの文化ではあるが、それに反対するのには同意できる。だが、なぜカンガルーやワニは食べてよくて、鯨や犬は食べてはいけないのか、わけがわからない。脳に先天的な欠陥があるのではないかとまで疑う。自分たちがルールを決める。自分たちの考えが正しい。この傲慢さはどうだろう。彼らの意見は要するに、彼らが食べるものはみんなが食べるべきで、彼らが食べないものは食べてはいけない。自分たちの意見を残余の世界に押しつけることにあまりにも慣れすぎている。ずいぶん学習してその悪癖は部分的に克服しているが、なおもかなり残る。

 韓国人は犬肉を食べろと他民族に言わないのに、欧米人は牛や豚の肉を食べず牛の乳を飲まなかった日本人にそれを押しつけた。それが「文明」だということらしい(しかし今も牛乳を飲むと腹の調子の悪くなる日本人はけっこういて、刑事は張り込みのとき牛乳は飲まないそうだ。「体を張っての抵抗」だろうか?)。ま、肉食をするようになったおかげで、かつて彼らに「小人」と嘲られていた日本人の体格が向上したことも事実だが。肉を食べるようになって得たものもたくさんあるが、失ったもののことも頭に置いておくべきだろう。そこに還れというわけでなくとも。

 イザベラ・バードの「日本奥地」の旅行で、彼女はある村で農婦から鶏を買ったが、食べるためと知った農婦はその鶏を買い戻しに来たという。毛唐人の獣肉を食べる習俗は、食べない日本人農婦には鬼の所業とも感じられたかもしれないが、自分の飼っている動物が喰われない限りそれに反対することはない。それでいいのではないか? あの農婦もおそらく「文明開化」ののちは毛唐の持ち込んだ習慣に従って肉を食べるようになっただろう。だから西洋人も韓国人日本人に倣って犬や鯨を食べなさい、というわけではない。食べたくなければ食べなくていい。ただ、他民族のすることに口出しするな、というだけのことである。

 獣肉をむさぼり喰う一方で、動物愛護を説く。彼らの言う「愛護」は、要するに死ななければならないものは安楽死させろということだ。苦しんで死ぬよりそちらのほうがいいから反対はしないが、自分勝手な理屈であることは免れない。これもまた「ヒューマニズム」である。つまり「人間本位」だ。

 

 「自然保護」というのも奇態な言辞である。私たちのほうこそ自然に保護されなければならないのに。地震津波・噴火・台風・豪雨・豪雪・洪水その他その他、この列島は天災に事欠かず、次から次へと見舞われていて、住民は自然の猛威をいやというほど知っている。それを屈服させようなど思いもよらぬ。一方で、雨や雪はきれいな水を豊かに流し、火山は温泉を湧き出させ、草木は茂り緑あざやかに、農耕にも漁労にも適していて、自然は恵みもたっぷり与えてくれる。自然に守られ、その力と折り合いをつけて生きることこそ人の道である。「自然保護」など大それた不埒な物言いだ。

 自然に抗う、自然に対峙するのが文明の基本的な性格であり、そもそも農地開墾や都市建設は自然破壊によって成るものだから、すべての文明には多かれ少なかれ自然に敵対的な性質があるものだが、西欧文明はそれが突出して高い。自然は人間によって加工されるべき素材としか見ていないと疑われる。厳しくないわけではないが、猛威を振るうほどでもなく、一方さして恵みを与えてもくれず、こちらから奪い取りにいかなければ何も得られない。そんな痩せた自然だったわけだ、あの「極西シベリア」では。

 世界史の授業でヨーロッパ中世の三圃式農法を習ったとき、どういうことなのかすぐには理解できず、なぜそんな面倒なことを?と思った。今はわかる。農耕と休耕の繰り返し、要するに焼畑農業の高緯度版である。植物の勢いが強いところでは焼畑になり、植物弱く地味豊かならざるところでは三圃式となる、というわけだ。自然環境に対応し折り合いをつけるという点でどちらもけっこうであるけれど、そこから導かれる結論は、自らを貴しとして焼畑を見下してもらうまい、ということである。

 夏時間などにも彼らの自然観が現われている。自分の都合で時間を勝手に操作する。時間に関して自然の与えてくれる基準点は日昇・日没・太陽南中ぐらいで、時間はそもそも人間が勝手に区切ったものだから、それをどう動かしてもいいという理屈は成り立つが、人間(のうちでも高緯度地方住民)本位で自然を無視したふるまいである点はゆるがない。潮の満ち引きや動物の生活リズムは夏時間などと無縁に続くのだから、それによって生活を営む人々(漁師・猟師や農夫など)も無視されるわけで、だから高緯度地方俸給生活者本位と言い換えるべきだけども。

 また、自然は外にだけあるのではない。内側にもある。女性は子供を生むようにできているのであって、虫や魚ではそれが生の究極の目的となっている。魚や虫ならぬ人類はそこまででなくとも、生物として重要であることに違いはない。できないというわけでなく、(社会的宗教的な理由以外で)結婚しない、しても子供を作らないと決めている人たちが、先進国には少なからずいる。いわゆる後進国ではそんな態度はそしられたりもするだろうが、いわゆる先進国では全然問題にならないどころか、「進歩」のしるしとされる。「埋め込まれたプログラム」の発動として地球にとっていいことではあるのだけれど、自然に反する行動であることも確かだ。そんな人たちがもっともらしく「自然保護」を語るのはおかしなことであろう。自然はみずからのうちにあるだろうに。

 

 原爆はドイツも日本も開発しようとしていた。使うつもりだから研究していたわけで、だから原爆を使用したこと自体は先んじた者と遅れた者の差でしかないけれども、しかしそれで一般市民を残虐に大量殺戮した「戦争犯罪」でなくなるわけではない。それまで広島を空爆せず、「実験場」として取っておいたことにも胸が悪くなる。そして戦後、市街を見下ろす(「ろ」を取ると「見下す」となる)山の上に、治療をせず人体への原爆の効果を研究するだけの機関を設立した。つまり被爆者をモルモットにしたわけで、これなんか「人道に反する」行為なんじゃないのかね?

 細菌兵器の開発を目指していた731部隊は、生きた捕虜を使って生体実験を繰り返していた。こんな研究開発は非道この上ないもので、日本人は恥じ入るほかなく、鉄槌が容赦なく下されて当然の所業なのだが、実際は、アメリカは実験記録を譲渡するのと引き換えに関係者を免罪した。「同じ穴の狢」だということを如実に示している。

 焼夷弾による絨毯爆撃も、木造家屋を焼き払い一般市民を焼き殺すのを目的とするもので、非戦闘員の大量殺戮のための作戦であり、正真正銘の「戦争犯罪」であろう。無差別爆撃も敵味方ともやっていた点で原爆開発と同じだが、原爆同様「犯罪」であることを失いはしないし、だいたい犠牲者の数がケタ違いだ。敗者がやれば犯罪で、勝者がやれば犯罪でなくなる? そんな理屈は身勝手すぎよう。

 勝者が敗者を裁く。古来行なわれてきたことで、それ自体は何でもない。いくら戦争とはいえ罰せられて当然の蛮行はずいぶんとしてきたのだから、それを追及するのは正当である。ああいうことは繰り返されてはならず、厳しく懲罰を加えるべきなのは明白だ。だが、先の大戦のあとには妙な新機軸が打ち出された。戦争をしたこと自体が裁かれるいわれはないはずだ。復讐とすなおに認めるなら問題ないが、そこに正義をふりかざす偽善はどうだろう。「人道に対する罪」だって? よく言うよ。自分たちは植民地で何をしてきたか。よほど健忘症と見える。

 

 人種差別も欧米の宿痾のひとつだ。どの国にも異民族差別や身分差別はある。異質なものを排除しようとするのは自然な行動であり、弱い個体、異質な個体をいじめるのは、動物的か霊長類的か、いずれにせよ動物生態学の範疇であって、ある程度はやむをえない。非難は度を超えたものにだけ向けられる。そして、欧米ではたしかに度を超えている。

 差別の背後にあるのは傲慢ないし恐怖であり、そのふたつがさまざまな濃度で交じりあったものとして現われる。欧米人の差別は、昔は傲慢が主体だった。「未開人」をチンパンジー扱いしたり、狩猟の対象のごとく殺戮したりしたのは極端な例にしても、そこまでやっていた。今は背後に転落の恐怖を秘めた差別であるように見える。白人であることにしか優越点のない連中がすることが多くなり、自分は低級人類であるとわざわざ示してくれている。それは日本でも同じで、自分の手柄でも何でもない、単なる偶然にすぎない「日本人であること」しか取り柄がない連中が差別の先頭に立つ。馬鹿な白人と同列にならないように心しなければならない。

 反ユダヤ主義(アンティセミティズム)も欧米の骨がらみの病いだ。ヨーロッパ人を定義するなら、「定期的にユダヤ人を虐殺していた人々」である。だいぶ克服されたように見えるが、セム人種であるアラブ人に対する反イスラム主義として依然根強い。それはヨーロッパの成立に関わる根源的な病理なのだろう。

 

 戦争は人類から切り離しがたい。人類史が戦争史であるのは真実だが、欧米は一線をずっと超えていると思う。

 ナチスソ連アメリカは西欧文明の鬼子である。それらの体制に共通するのは過剰な暴力性だ。戦争や粛清をこととした前二者(党国家)についてそれは明白だが、アメリカの暴力性はそれらと質が異なり、いっそう根深い。市民が銃で武装しているから凶悪犯罪が増えるし、ささいなことで人命が奪われる。治安を担う警官は過剰に武器を使用せざるをえない。敵が銃を持っているから、こちらも銃を持つ。恐怖のエスカレートであり、「テロリズム」が浸透した社会である。それを是正しようとする行動は強力に反対され、常に無力化される。かなりまずい体制であり、あれが世界が範とすべき体制であるはずがない。

 だがそれは、西欧文明の根本に関わる問題なのである。「ラ・マルセイエーズ」の暴力的な殺戮礼賛の歌詞を見るがいい。あんな歌を誇らしく歌いながら、自分らの体制を恩恵のごとくに押しつけられてもなあ。あれを歌うその口で自由・平等・博愛を説くのはどうなのだ? 気恥ずかしくないのか?

 革命フランスがこの世に生み出した国民国家なるものは、つまり「戦争国家」なのである。古今東西を問わず、主権者とは武力を握る者のことであり、だから国民国家が高らかに謳う国民主権は、国民皆兵により実現される。徴兵制は戦争をしやすくする。金で雇われた傭兵と違い、国のために尽くす気持ち十分なのだから。人類の戦争史のグレードがここでひとつ上がった。アメリ銃社会は「暴力なくして主権なし」原則の当然の帰結である。欧米人の近代国家の持つ暴力性は、岡倉天心が「西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行ない始めてから文明国と呼んでいる」(「茶の本」)と喝破した通りだ。

 近代国民国家というのは国民皆兵を思想的バックボーンにする国家である。兵士になる者とその家族が「国民」である。それは「国語」を確立させる。命令が兵士の末端まで理解されなければならないから。だから教育に力を入れ、学校制度を行き届かせる。国民の義務を教え、輝かしい民族の歴史を教え(あるいは逆に、民族の屈辱を教えてそれを拭おうと煽り)、父の仕事でない仕事に就かせるために役立つ教科を教えて俸給生活者を養成する。それは発展の強力なエンジンになる。それらすべての基礎にあるのは、軍隊という暴力である。これらの事実はよく理解しておかねばならない。国民国家は人類にさまざまな益ももたらして、現代のわれわれはたしかにそれを享受しているのだが、その根っこの部分にこのような「出生の秘密」がうずくまっていることは知っておく必要があろう。

 克服されなければならない西欧文明の鬼子として、「党国家」がある。ナチス・ドイツファシスト・イタリアからボルシェビキソ連、国民党中国、共産党中国まで続く一連の党が国を乗っ取った独裁国家だ。バース党イラクやシリアなどというのもあった。党が軍を握ることで力を得ているのだけれども、そもそも組織的で階層的である軍と党と官僚組織は互いに相似形で、親和性があるのだ。そしてこの党国家は、段階を経るに従って強大さを増している。「人民解放軍」なる党の軍隊完全把握の党国家と「暴力主権」国家が太平洋をはさんで向かい合う。その間に置かれるのは実に困ったことだ。

 「テロとの戦い」などというスローガンはダブルスタンダードはなはだしく、「テロリズム」国家アメリカが主唱する奇態さは別にしても、ロシアや中国が「テロ」としているものは独立闘争、民族解放闘争である。アメリカの独立もイスラエル建国も明治維新も、テロリストたちの切り開いた道の上に成就した。要するに、自分たちを脅かすものは「テロ」、敵を脅かすものは「解放闘争」なのである。

 

 中国の体制はまちがっているが、欧米への反発はまちがっていない。中華文明を西洋文明に対置しようとすること自体は正しい。しかし、いま中国がやっていることは中国共産党の体制擁護にすぎない。中共の価値観は西欧の価値観よりはるかに劣悪だ。欧米はいいことを言ったりやったりも多くしているが、中共がやったいいことは自国の急速な発展だけである。欧米の独善性を批判するのはいいけれど、夫子自身がとんでもない独善だ。日本が欧米に対抗する価値観を示せればいいのだが、任に堪えそうにない。そうする資格がないのにそうする気満々な中共を見るにつけ、残念に思う。

 

 虚心坦懐に眺めれば、奇習奇想だらけである。騙されないようによくよく注意しなければならない。マスコミの言うことは、3割正しく、7割は信用できないと思っている。欧米人の考えも同じくらいと見積もっていい。7割にはしっかり気をつけよう。

 いささか激越な辞句もあったかもしれないが、このくらい言わないと伝わらないということもある。ま、いいでしょう。この文章は「存在していない」のだから。