「温泉津誌」刊行

 温泉津を探りながら世界の深みへ落ち込んでいくようなものを書きたい、と思っていた。立論や断定を避け、類似をあちらこちらに見出す喜びを友に。南方翁に倣って。

 はからずもこのコロナ禍で逼塞している間に、不十分ながらそれを一応まとめることができて、自費出版した(報光社、1000円)。暇な時間を無駄にしていたわけではないという自分への言い訳みたいなものだけれども。Amazonのために書いた説明文(客引き文句)があるので、それを転記しよう。Amazonではまだ扱われていないようだが。

「山陰の小さな町の伝説(牛鬼・影わに・エンコー・タヌキ・キツネ・猫・龍・鷺・鹿・むくりこくり・えびす・生き神・タタラ)をめぐり、その探索を試みつつ、逸脱をくりかえしながら彷徨する。そこは温泉町であり港町(津)であるから、旅人が行き過ぎる場でもあった。集中でなく拡散によって、定住でなく移動によって、唯一にして無数の中のひとつでしかない町をとらえてみる。」

 自費出版したのは、非常に読みづらいし内容も一般的でないから、売れるはずは全然ないと著者自身確信しているからだ。こんなものを買って読もうなどという人はまずいない。しかし私はこんなものをこそ読みたい。すると三段論法で、私が読みたいのは誰も読みたくないものだ、ということになってしまうが、まあそれもいくらかは当たっているのだろう。

 読みにくい理由のひとつは省筆癖だが、それよりも引用が多すぎるのがよくない。散逸した書物の一部が他書に引かれていたためそこだけ残ったという古書の事例に感じるところがあり、行文が参差錯落となるのも厭わず、原文引用を行なうのである。引用元の書が失われるよりこの本が消えるほうが百万の自乗倍もありそうだけれど、ばかげた空想はなかなか楽しい。引用過多による読みにくさと、日本語のさまざまな姿に触れる喜びを比べれば、後者のほうがいささか勝るのではないかと勝手に思っている。

 隣町の書店では、「当店激押本!」と書いたポップを立ててくれた。うれしいことだ。少なくともその書店員ひとりは読んでくれたのだから。しかし悪いけど、いくら激推しでも、まず売れまい。平積み10冊のうち、売れるのはせいぜい1、2冊と踏んでいる。売れなくてもいいのだが、読んでほしいのは著者族一般の願いの通りだ。だからこのブログに全文掲載しようかとも思ったが、それはできない。売ってくれる人への仁義として。

 これを知人に進呈しようとして、はたと気がついた。メールアドレスだけ知っていて、リアルなアドレスを知らない人が何人もいる。住所録は前世紀から更新されていない。IT化が進んでいったあのころが文明の転換点だったわけだ。アトムやエヴァンゲリオンの世紀に、牛鬼やエンコーがどうだのこうだの言っているのはアナクロだが、自分にふさわしいとも言える。Eメールにすがるほどには時代の後尾をおぼつかなく追っているけれど、昭和の余臭はぬぐえない。キツネが人を化かすなど信じないけれども、それが信じられないほど信じていた人びとから離れているわけではない。

 

(奇特な方のために:販売元の島根県教科図書販売に直接注文することもできるようです)