「鞍山街並み探検隊」始末

鞍山へ行く前には、昔昭和製鋼所があり日本人がたくさんいたこと(終戦時7万人ほどだったそうだ)、天津から連れ出された溥儀が満州国成立まで潜んでいた湯崗子温泉が近くにあることぐらいしか知らなかった。来てすぐに地図は入手したが、ガイドブックもないしツーリストインフォメーションもない。鞍山についての情報源は、この地図と、戦前ここに住んでいた人の回想記にあった略地図のコピーしかない状態だった。
週末は暇だから散歩に出る。ところが、日本人が100年ちょっと前に造った新しい町で、その後は共産党の支配を受けているのだから、寺廟というものがない。1996年創建のごく新しい玉仏寺しか見たことがない。戦前には日本仏教の寺が複数あったと帰国後に知ったが、そんなものはもちろん取り壊されている。鉄西区に中国人のために娘々廟(興盛廟?)が作られたそうだけども、今も残っているのかどうか。鉄西区はあまり歩かなかったので、現在どうなっているかはわからない。いずれにせよ地図には載っていない。奉天瀋陽)の南満医学堂に勤めていた木下杢太郎がよく皇寺へ出かけていたように、寺廟はよい散歩場所なのだが。大学の近くには公園もない。それで、勢い放浪型の散歩になる。
唯一の情報源である市街地図は実にお粗末なもので、所在地の位置が違っていたり、地図上にある道が存在しなかったりする。博物館も図書館も書かれていないので、この町には博物館はないものだと思っていた。散歩で「発見」したような具合である。博物館の中には本屋もあり、そこでやっと旅行案内書などを入手できたが、それはだいぶ後のことだ。手探りというか、足探りでいろいろ見つけたわけである。


去年の9月18日は日曜日だった。日本人は出歩かないほうがいいと言われていたので、もちろん出歩いた。革命に倒れた戦士を顕彰する烈士山へ行くことにした。烈士紀念館にも入ったが、その前庭に鳥居の柱や灯籠の基台があった。それで、昔の鞍山神社の所在地だと知れた。
また、工事でもあったのか、路線バスのルートが変わっており、窓から「1927」の年号と赤い大きな洋館が見えた。さてはと思い、後日出向くと、市中心医院。戦前の回想略図と突き合わせると、満鉄医院である。ファサードは多少改変され、色も変わっているが、後ろに高層の近代的な病院を建てた上で、今も外来部として使っているのだ。
円形の中央広場をめぐる建築群は、日本時代には完成していなかったようで、取り壊されたものもいくつかあり、日本人が建てたもので残っているのは市政府だけらしいということもわかった。これも昔2階建てだったものが1階増築改修されているのだが(鞍山鋼鉄の本社事務所の大白楼も、昭和製鋼所時代の3階建てを4階に増築している)。
ある日、昔の忠霊塔はもちろん取り払われているだろうが、その跡を見ようと歩いていると、右手に一戸建ての小さな洋館が建ち並ぶ通りがあった。戦前の台町、製鋼所の幹部社員の住宅地域である。事前に何の情報もなかったのだから、「発見」したという感じである。中央広場から5分ほどのところにある一等地が、再開発されずほぼそっくり昔のままに残っているのは奇跡的な感じがするが、やや傾斜があること、戦後老幹部の住宅となったことなどが関係しているのだろう。
この町内の家には、荒れたのもあるし空き家もあるが、改修して立派に保たれているものもある。カフェも多く、6年前ぐらいからできてきて、近年増えている。3年前に1軒、1年前に2軒、6か月前に1軒開店し、いま5軒。市の中心部なのにひっそりと静かな一画だから、適当な利用法だと言えるだろう。


この台町「発見」をきっかけに、学生たちと「街並み探検隊」を作ってもっとよく調べ歩こうと考えた。「探検隊」ではなくて「散歩隊」程度だが。目的は、鞍山に日本人観光客を呼ぶことである。日本人観光客が増えれば日本語を学ぶ彼らにもメリットがあるし、これを調べて日本語で紹介文を書き、さらに仕上げとしてビデオを撮るという目標を設定し、ひとつのプロジェクトワークとして日本語の向上につなげようという意図もあった。学生は教師がやっているからついてくるだけで、主体的に行動するというより中国語で補佐をするという感じだったが、それでも多くは熱心に参加してくれた。
市が観光地として第一に推すのは郊外の仏教道教の聖地千山で、次に、近郊で採れた高さ7メートル、重さ260トンという巨大な玉で造った大仏を安置する玉仏寺、それから湯崗子温泉、鞍山市がその城下町として発展したところの鞍山鋼鉄である。
中国人に対してはそれでいいが、外国人に対しては千山はあまり引きつけない。千山へ行くとなると1日を山に割くわけで、在住者は別だが、日本から来る人がそうするほどのところではない。同じ山ならなら泰山や峨眉山へ行くだろう。玉仏寺も副次的観光地であって、それを目的に鞍山に来ることはない。鞍山に来たあとで、こういうものもあるなら見てみようという程度だ。
日本人が興味を持つのは、温泉好きの国民性からいっても、ラストエンペラー溥儀ゆかりの由緒ある湯崗子温泉が第一だろう。それから、日本人が作ったかつての昭和製鋼所の後身鞍鋼。工場が見学できればなおいいが、展覧館があるのでそれを見るだけでもいい。それに加えて台町散策も入れれば、けっこうアピールするのではないか。
市内からさほど遠くないところにある鉄鉱石露天掘りの大孤山も見ることができれば、名所になりうる。撫順炭鉱ほどではないが、10.6平方キロメートル、もと海抜280メートルだった山を掘り崩し、地下66メートルまで掘り下げた偉観である。
昔の日本時代の建物が残るということで言えば、圧倒的な大連や瀋陽長春とは比べものにならないが(小都市だった鞍山にはほんの数えるほどしか大建築はない)、市内中心部の時空に空いた穴のような台町は十分に魅力的だ。


問題は、外国人でそれに興味を持つのは日本人だけということだ。日本の満州支配に対して中国には厳然たる公式見解が存在し、日本人が「満州ノスタルジー」を持つのはいいとして、中国の公的機関がそれを押し出して観光集客するのはどうなのかという懸念がある。
だいたいが、中国の文献には日本時代の記述が少ない上に、侵略収奪批判にほぼ終始している。「鞍山冶鉄文化」という大判の本は、270ページのうち日本時代に割かれているのは21ページだけである。冶鉄業は清代にとだえ、近代製鉄は日本の手で始められ、今の鞍鋼はその後継者であるのに。同じシリーズの「鞍山旅游文化」には「日本人は敗戦時すべての核心技術資料と生産設備を破壊した」という記述がある。破壊したのは、設備を取り去り自国へ運び出した共産党ソ連であり、国民党との争奪戦で一時的に敗れ撤退するとき爆破した共産党軍である。たしかに敗戦時関東軍は爆破指令を出したが、それは出先で握りつぶされたし、文書を焼却したのも事実だか、留用された日本人技師が工場を再建するとき参考にした資料は残っていた。明らかな虚偽の記述であり、このあたりのことに関しては何でも日本が悪いことにすればすむような大勢があるのだろう。共産党がしたことを日本の所業とするなど、無知なら慚愧、意図的ならほぼ犯罪である。学問的には明らかな偏向が今なおまかり通っていると言わねばならない。
しかし、逆に日本人の書いたものは日露戦争から引き揚げまでに偏っている。難しい問題はたしかにある。
外国人のうちで日本人にしか興味を持たれないのなら、中国人がどれだけ興味を持つかが重要になってくる。この点で、大連はかつての日本人住宅地南山(清岡卓行もここに住んでいた)を整備して風情旅游街にしたり、児童図書館になっていた昔の満鉄図書館を日本文献資料館にしたりと、歴史を中立的に扱うようになってきている。瀋陽も日本時代の建築の建ち並ぶかつての大広場、今の中山広場を歴史的な遺産として認めているようだ。中国がみずからに自信を持てば、過度に屈辱を感じることなく歴史を客観的に受け入れられるようになるだろう。もはや中国の資産である。放置することはないし、貶めることもない。自分のものだ、活用するにしくはない。特に若い世代の中国人には十分アトラクティブになるのではないか。
台町のカフェも、「1919カフェ」(1919年建造の建物)や「51茶餐庁」(台町51号という昔の住所名を標榜している)のように歴史をむしろ前面に出しているし、「珈琲館」は「コーヒーカン」と日本語読みだったりする。あるカフェ発行の冊子に台町散策が特集されてもいる。また、すでに大連の旅行社が「満州ノスタルジー」の観点での日本人向け鞍山ツアーを企画している。このようなさまざまな動きからも、鞍山観光は将来的に有望だと思われる。


2か月弱の期間で、半分は学生の日本語の勉強が目的という、表立つことのない趣味的なサークルであったが、一通り歩き通した上での提案としては、
・台町の街歩き地図やパンフレットを作る、
・柵を統一的に美しく整備する、
・昔図書館だった建物を買い上げて児童図書館とし、そこに資料コーナーを設け、地図やパンフレットを置く、
・台町にある東山賓館別館は、戦後の建築ながら周恩来や�殀小平、金日成なども泊まった由緒ある鞍山の迎賓館だが、そこに泊まれるようにする、
・大孤山に展望台を設ける、
・竜宮温泉を修繕する、
などがある。
時間も資料的裏付けも十分でなかったので、ほんの上っ面なことしかできなかった。それでも肝の部分は押さえられたかと思っている。しかしまだまだ発掘できることはたくさんあるだろう。