アナトリアを駆け足で

ひょんなことで、年末年始は旅に明け暮れることになった。
2011年はアナトリア高原を走る夜行バスの中で迎えた。――と日本語で書くと、一種ただならぬ感じがする。どうして、どんな事情で?「窓は夜露に濡れて、都すでに遠のく…」北帰行か? あらゆる文は、そこから想起されるもろもろを含んでいるのですね。どんな単純な文も無色透明ではありえない。まして旅と新年が関わっていれば。けれど、新年・正月が何ら特別な意味をもっていないこの地では、単なる冬の1日にバス移動をしたというだけ。しかし、それは見送るトルコ人の感じ方で、この場合の旅人は日本人だから、多少「北帰行」的なものがないわけでもないのです。生活感覚がかなりトルコ化されていても。
で、その行き先はデニズリだったんだけど。まだ夜の明けぬ暗い中、バスターミナルでない道端に、重いスーツケースなど3つの荷物とともに降ろされた。そこでは観光ガイド養成コースが開かれていて、ガイドとして就職予定の卒業生が聴講しているので、彼らに会うなどして数日滞在し、パムッカレを見たあと、イズミルへ行った。
イズミルにはまったく興味がなかった。エーゲ海の町が見たければ、ギリシアで見ればいい。トルコへ来たなら、トルコの町を見ろ。そう思っていた。それに、エーゲ海岸はヨーロッパ人観光客が多く、なぜ金を払って奴らを見に行かねばならんのか、とも思っておりました。
イズミルへ行くことになったのは、トルコ語の学校に通うつもりだったのだ。探してみると、冬の時期にはイズミルイスタンブールアンカラにしかコースがなく、アンカラには絶対住みたくなかったし(トルコ人は概して親切だが、親切でないトルコ人を見たければアンカラへ行けばいい)、イスタンブールでは泊まるところが見つからなかったので、消去法でイズミル決まった。だが行ってみると、実におもしろかった。
下宿したのはアルサンジャック地区。ここや共和国広場があるあたりが新市街である。新市街では女性はスカーフなんかしていない。それどころか、スカートをはいて闊歩している。当たり前なことみたいだが、内陸トルコではスカートの女性などほとんど見ることがないので、そういうところから出てきた目にはきわめて印象的だ。それに、ここでトルコに来て初めて犬の散歩を見た。海岸のきれいな公園で。新市街は明らかにヨーロッパであって、トルコではない(逆に言えば、ヨーロッパとは女がスカーフをせずスカートをはいていて、犬を散歩させているところだ、ということになる)。
しかし、旧市街のコナックからバスマネ駅のほうへ続くアナファルタラル通りはバザール地区で、ここはスカーフをした女たち娘たちでいっぱいで、カイセリにもどって来たような安心感を覚える。スカートの女性もいるが、多くない。シャルワルより多いかもしれないが。ひとつの町の中にこんなにはっきりしたコントラストがあるのに驚いた。
加えて、山の上に城砦カディフェカレをいただく地区がある。高台というのはだいたい富裕層が住むものだが、ここは貧しげだ。住民はトルコ語でないことばをしゃべっている。ぽっこりと丸い山に家がぎっしり立ち並んでいる眺めは、その裏を通る電車の窓から見ると非常に印象的だった。
そして、野良犬や野良猫が多い。これは実は妙な感想で、トルコの町はどこでも野良犬野良猫が多いのだ(猫だらけの旧帝都を見よ。「猫町イスタンブールについて誰か書いてくれないか)。なぜイズミルでそう思ったかと言えば、カイセリには野良犬野良猫がほとんどいないのだ。いるにはいるが、非常に少ない。乞食も少ない。町はずれの、昔は荒野だったであろうところに開かれた広大な大学敷地内に住み、月のうち20日は宿舎と校舎を往復するだけの生活だったので、カイセリの町をよく知っているとは言えないのだが、学生たちに聞いても少ないと言っている。そうだったのか。そこに住んでいるだけでは気がつかないが、離れてみるとよくわかる。かなり特殊な町だということが。
英語を話すトルコ人もよく見かけた。そういう人たちは内陸部には少ない。カイセリで何人そんな人に会ったか、指折り数えられそうな気がする。それは観光客の数と正比例し、たとえばカイセリの近くでもカッパドキアには大勢いるのだ。話が通じるのはありがたいが、どこかでそういう人々は「正しいトルコ人」でないとも思っている(英語を話さない日本人のほうが、絶対「正しい日本人」でしょう)。
したがって、観光客もよく見かけた。エフェスでは、1月だというのに半袖半ズボンの男を見た。たしかに暖かかったけれどもさ。色素の薄い高緯度人どものすることにはつきあいきれない。
イズミルに限らず、エーゲ海や地中海岸の町にはシュロの並木なんかがあって、南国を感じさせる。それはいいのだが、少し内陸に入ったデニズリやバルケシルにも立ち並んでいる。冬などわりと冷えそうなところだが、自生なんだろうか。そして、ゆくりなくも思い出したのが、カイセリの6車線道路の分離帯に立っていた作り物のシュロである。冬は相当に冷える中央アナトリアでは、もとよりシュロが育つはずもない。なのにシュロをほしがって、まがいものを立てている。おそらくシュロには、暖かく開けている地域を象徴するポジティブなイメージがあるのだろう。あの造木のシュロは、寒くきびしいカイセリの南への憧れを悲しくも滑稽に表わしているわけだ。また、旧ソ連圏のような寒いところにばかりいたもので、それに連なるカイセリの気候に100パーセント順応していて気づかなかったが、トルコはかなりな暖地なのだった。
海辺で育った人間だから、海を見ると心が落ち着く。カザン時代にサンクトペテルブルクへ行き、はるかにバルト海を望んだとき、またハバロフスク時代にウラジオストクへ、タシケント時代にバクーへ行ったとき、海を見るたびほっとした。バクーはカスピ海なんだけど、海は海だ。海こそ命、わが命、と歌いたいぐらいである。
アルサンジャックの下宿からコナックの図書館へ行くのに、海岸をゆっくり歩いて行くのもいいが、対岸まで船に乗って渡り、そこからコナック行きの船に乗り換える、なんてこともよくやった。ちょっとした船旅気分である。初めてイスタンブールへ行ったとき、ボスポラスの対岸へ渡る船がおもしろくて2往復し、トプカプ宮殿を見る時間をなくしたりしたものだが、あれとまったく同じ。進歩がない。
だから船もいいのだけども、イズミルで気がついたのは、近郊電車に乗ると気分がすっきりするということだ。そういう電車は大都市近郊しか走っていない。カイセリにも駅はあって、鉄道はもとより好きだから、列車には努めて乗るようにしていた。しかし、長距離移動の列車と近郊電車は別物で、むろん列車もいいのだけど、近郊電車に心なじんでいるのだと悟らされた。意外なことに気づかされるのが旅の醍醐味だ。電車なんかにねえ。でも、電車の中に立って、ぼんやり何てことない風景を眺めていると、心はなぜか澄んでゆくのである。


冬は旅には適さないが、冬に大いに旅をした。今年は11月にあったクルバンバイラムから3月まで、旅から旅への日々だったと言っていい。
イズミルからエフェスやベルガマに行ったのは観光だが(学生に会うという目的もあった)、ムウラ県のキョイジェイズやアンタリヤには学生のスピーチ指導のために出向いた。
エフェスは三方を山に囲まれ、一方が入り江という温泉津のような町だとわかった。アンタリヤの崖の下の港と迷路のような旧市街(港へ案内するつもりで反対側の市役所に導いてしまった学生の当惑した顔。彼女は新市街に住む)、古い突堤と城砦にぐるりと抱かれたキプロスのギルネ(キレニア)の港など、人間の丈の古い港を見るのは楽しい。
アマスヤとバルケシルにも学生を訪ねた。山に囲まれた川沿いの町アマスヤはすばらしい。ポントス王国の岩窟墓と、オスマン時代の家並みと、モスクやメドレセの数々。トルコで1箇所しか行くことができないなら、イスタンブールへ行くだろう。当然だ。2箇所行けるなら、そのほかに行くべきところはどこか。いろいろな候補があるだろうが、アマスヤを挙げる人がいたら、それに賛成したく思う。
この町の中世のメドレセのひとつでは、精神病者音楽療法をほどこしていたという。そこはいま音楽学校。今も学校である八角形のメドレセ、図書館となったメドレセ。カイセリでも昔のメドレセは文化施設となっていることが多い。そして町中のカラヴァンサライは商業施設に。カイセリの場合、本屋となっているメドレセがいくつもあって、奥まった小部屋に潜んで壁を埋める書物の中から本を探すのは、時代離れしてなかなかいい。
バルケシルは何の変哲もない地方都市だが、そんなところがかえっておもしろい。


暮れには、まだ見ていなかったヒッタイトアッシリアのキュルテペ遺跡と、スルタンハンとカラタイのセルジュク朝期カラヴァンサライを大急ぎで見て回り、ビザの問題が出ないよう一度出国する必要があったので、週末に北キプロスへ行ったりもした。トルコ系住民が住んでいるが、全然トルコではなく、まぎれもない外国だった(当たり前だけど)。マゴーサは、堅固な城壁に囲まれた、教会の廃墟だらけの町だった。十字軍の拠点で、フランス・ゴシック様式の大聖堂があり、それがモスクになっている。いろいろな勢力潮流がぶつかりあう場所で、それは今も続いている。
ずっとトルコにばかりいたので、「外国」に出ると気疲れしてしまって、シリフケにもどるとほっとした。こんなにもトルコ人になじんでいたのかとちょっと驚く。ここもいいところだ。貯水池の跡があって、石掘りの空の矩形の底まで降りられる。イスタンブールの地下貯水池もすごいが、これもいい。イギリスの探偵小説家はきっとここで人を殺す。トルコというのは、ガイドブックにちょっとでも名前が出ているほどなら、どこであれすばらしい。出てなくても、一見の値打ちがあるところがたくさんある。アンカラ以外、トルコはどこへ行ってもいい(そのアンカラも、アナトリア文明博物館とアンカラ城は必見で、アタテュルク廟もおもしろい)。
若い頃は、自分は旅が好きだと思っていた。しかし、年をとってからおのれのふるまいをよく反省してみると、どうもそうでもないらしい。きらいではないし、客観的に見ればけっこうしているが、決して好きというわけではないことに気がついた。旅する状況に迫られれば慣れたふうに旅もするが、そんな状況に迫られたいと思っていない、いや迫られたくないと思っている。年をとって変わったのかもしれないが、若いときは勘違いをしていたのかもしれないとも思う。だが、しなければならないとなったら、場数は踏んでいるのでさしてとまどいもないのだけど。


西は西でおもしろいとわかっても、やっぱり好きなのは東アナトリアだ。
カイセリはだいたいトルコの中央に位置する。そこより西のほうが人口も多く平均収入も多く、教育程度も高い。それより東はその逆。というわけで、人口からいってもともと東の学生は少ないのだけど、人口比をはるかに超えて日本語学科には少ない。4学年で4人だけ。東のほうにより親近感を覚える者として、この少なさにはちょっと驚いた。
東部の学生は日本語など勉強しない、と東部出身の学生が言っていた。せっかく大学へ行くのなら、法律とか医学工学とか、いわば「実学」を学び、日本語のような「閑人の趣味」めいたものはやらないのだ。日本語学科の学生にはしたがってエーゲ地方のような余裕のある地域出身者が多く、彼らは中央アナトリアの寒くてイスラム色の強いカイセリに来て、ショックを受けることになる。東部ほどではないのだが、彼らにとってはカイセリでも十分「異世界」なのだ。広い国である。
その4人はエルズルム、トラブゾン、バトマン、アンテップの出身で、その4つとも行ってきた。前2者は以前旅行したときすでに訪れていたが、後2者は今回学生を訪ねて行った。
アンテップにはクルバンバイラムの休みに行った。バクラワという甘い菓子が有名で、通りを歩けばバクラワ屋に当たる。そこに、大の男が連れ立って入り、まじめな顔して食べているのがおかしい。この町は狭い道をたどる町歩きがおもしろく、バクラワ屋が疲れたときの足休めオプションでついてくる。
帰りにコザン(シス)にも寄っていこうと思って、アダナへのバスに乗って夕方着き、翌日の切符を買おうとしたら、その日はバイラムの最終日だから、バスはもちろん汽車の切符も1枚もない。わずかに今晩の切符が1枚だけあるというので、あわててその最後の切符を買って、10分後に発車する列車に飛び乗って帰ってきた。バイラムとトルコ人の帰省の情熱を甘く見ていた。シスにはまた日を改めて出かけていった。アルメニア人のキリキア王国の首都だったところだが、ここがまたよかった。聳え立つ城跡の眺めは。
「キリキアの門」と呼ばれる峠の眺めがすばらしいと、アガサ・クリスティも称賛している。バスの窓からしっかり眺めようと思っていたが、さいわい窓側にも座れたのに、手前で故障して2時間もストップ、その間に日が暮れてしまった。幹線だから見るチャンスはいくらでもありそうなものなんだけど。まったくの余談だが、私は富士山を車窓から見たことは1度しかない。高校生のとき、初めて上京した折に。映像画像でなく自分の目でしかと見て、世の中にこんなに美しいものがあるのかと圧倒されたのを覚えているが、その後はとんと。東海道線は何度も通るのだが、夜行で行くことが多く、たまに新幹線に乗ったときは、晴れの日なら海側の席で、山側にすわったら例外なく雨なのだ。厳密には例外はあるが、それは日没後。縁がなければ、縁はないものだ。
スーフィー聖者メヴラーナ(ルーミー)の廟があることで有名なコンヤに行ったのは、やはりクルバンバイラムの休みで、アンテップに出かける前だった。廟は善男善女でごったがえす。その中で、癲癇か何かで倒れる男がいた。こういう者こそメヴラーナは喜んで受け入れただろうと思うと、中世と現在が一瞬ショートしたような感じを受けた。
コンヤとカイセリはだいたい似たような規模の町だが、カイセリは道路が広く、ビルが新しく、路面電車は最新型で、21世紀の町だと思わせる。コンヤのほうは、目抜き通りがやや狭く、ビルが古く(フルシチョフ期風)、市電がかなり古い。「昭和の町」という印象で、一種なつかしくもあった。
初めて来た土地で感じるなつかしさの正体は何だろう。それは個別の記憶によることもあろうが、集合的な記憶にも掉さしているだろう。なつかしがるために旅しているような気がしなくもない。

トラブゾンは実に好ましい町。再訪はかなわなかったが。イスタンブールに次ぐ第二の座をアマスヤと争える。アヤソフィアは必見。海もよし。ただし蒸し暑い。山に入れば、崖にはりついたスュメラ僧院がある。西の懸空寺だ。
エルズルムは、カルスへ行ったときに再訪した。カルスでは、近郊のかつてのドイツ人村とアニ遺跡へ行くのが目的だったけど、この町自体がすばらしかった。ここはロシア領だった歴史がある。山の上の城砦にいたる斜面の古い町と、ロシア人が作った平地に碁盤目の新しい町の組み合わせ。もう一度行けたら、今度はゆっくりしたい。といつも思うのだが、なに、日本人のさがで、次回もあくせくすることでしょう。
アニでは、対岸のアルメニアをはろばろと眺めわたした。向こう側からはこちらに来れないアルメニア人たちが展望台から眺めていることだろう。視線の橋を架けるには、距離が長すぎる。早く国境が開かれることを願う。


中央から東アナトリアにかけては、ふたつの世界遺産がある。
ディヴリイに行ったのは前回の旅行時で、世界遺産のモスクももちろん見たかった。木彫りのような細かい彫刻が石にほどこされていて、素材と表現との落差に軽い目まいを感じる。病院が併設され、薄暗いその中に泉がある。しかしながら実のところは、キリスト教の異端パウロ派の砦を見ることのほうが主な目的だった。そう思った上で見れば非常におもしろいのだが、そのおもしろさは人に伝わりにくい。伝わらなくてもいい、と思うようになると、人間そろそろ終わりに近い。
ネムルト山へはマラテヤからのツアーで行った。山上の首の落ちた巨像たちは、学生のころ写真で見て異様な感動を覚えたもの。石を積み上げて造った墓所だから、盗掘されない。石積みは掘ることができないから。全部崩すか、手をつけないかのどちらかしかない。賢い。マラテヤのそぞろ歩きも印象に残る。職人たちの仕事場が並ぶ路地がいくつもあって。


ただひとつ残念だったのは、村へ行けなかったことだ。ことばができないと村へは行けない。村々を渡り歩けてこそ、旅人だ。「旅人未満」がえらそうに、という批判は甘んじて受けねばならない。


トルコという国のおもしろさは、「トルコ」(トルコ・イスラムオスマン)であるという統一性と、基層文化の多様性である。
エーゲ海・地中海・黒海・中央アナトリア・東アナトリア・上メソポタミアとヨーロッパ部であるトラキアの7つの「世界」と、どこでもないイスタンブールから成っている。
ひとつの国の中に多数の「世界」があるのは、大国ならどこでもそうだ。だが、一見「国民国家」(それは大きな規模にはなりえない)である地域の中にこんなに多様な「世界」が隠されているのは、人類最古の文明の地西アジアの北辺にして海洋ギリシア世界との接点、さらには北方ユーラシア遊牧民世界の南縁でもあるためだ。西アジアセム族文明の地は今のアラブ世界だが、その北限でもあり、西アジアに特別な地位を占めるペルシア世界とも交錯している。中央部から東部は独特なヒッタイトとウラルトゥの世界で、それはフリギアアルメニアに、セルジュク朝へと続く。「小アジア」というこの地域名は、大アジアの縮図を意味しているように聞こえる。半島は山岳と海洋の交わるところ。対をなすバルカン半島も魅力的だが、こちらの半島は歴史がより古い分、より魅力的と言えそうだ(それにバルカンは国境が多すぎる)。はるかかなたのイベリアとも呼応するに違いないけれど(行ったことがないので想像するだけだが)、由緒において寄せつけまい。
もっとも美しいイタリアの町(ドブロヴニク)やもっとも美しいドイツの町(シェスブルク)がバルカンにあるように、もっとも美しいギリシアの町(エフェソス)が小アジアにあってもいいわけだ。


バトマンへ行ったときは、マルディン、ミディヤット、ハサンケイフにも足を延ばした。
マルディンもまたすばらしい。アマスヤとトラブゾンについて、トルコ第二の町の有力候補と言ったが、マルディンを推す人があったら、その意見にも傾いてしまう。目移りしてしかたがない。白い石造りの家が並ぶさまは、どうしてもアナトリアではない。別の文化圏に来たことを感じる。上に城砦をいただく山の斜面に広がるマルディンは、道が狭く傾斜がきついので、ロバが現役で活躍している。
このマルディンのように、山城の下の斜面に広がる町という類型があって、カルスとか、グルジアトビリシ、シス、ネヴシェヒルなどがそれだ。このような町に強くひかれる。
「山のないマルディン」であるミディヤット、ティグリス河畔の城と橋(というか、橋げた)の町ハサンケイフ。この町には洞窟が多く、カッパドキアの洞窟など何の不思議でもないことがわかる。ここのような硬い岩をも掘り抜くのなら、カッパドキアの柔らかい岩など縦横にくりぬかれて当然だ。
バトマンで店に入ったら、手首に香水をつけるというサービスを受けた。その優雅さに驚いた。「野蛮な」という形容詞がしばしば前置されるクルディスタンでのことだから。こんなところからも、ここがまぎれもない文明世界であることがわかる。バスに乗ると車掌が手にふりかけてくれるコロンヤを初めて経験したときも驚いたが、香水はさらに上を行く。なかなか奥深いんじゃないか? 安物の香水かもしれない。たぶんそうなのだろうが、そんなことは些事である。まず香水をふるまいなさい。そのあとで意見を聞きましょう。
これほど魅力的なところなのに、外国人観光客は少なく、日本人はもっと少ない。観光地でないところなら観光客の来ないままでいてほしいと思うが、観光地なら来てほしい。
少ない理由の第一は、言うまでもなく距離である。イスタンブールから非常に遠い。2番目には、PKKと軍の存在だ。ほかに、子どもたちのふるまいも挙げられよう。ジズレの町(ノアの墓廟がある)を出るところで、乗っていた車が子どもに石を投げられた。村上春樹が「雨天炎天」の旅(1988年)で東南アナトリアの羊飼いの村を通ったとき、やはり石を投げられたことを書いている。柳宗玄がカッパドキアの調査をしたときも、崖の上から石を投げ落とす子どもらに遭遇している。バトマンへは汽車で行ったのだが、その横腹に石を投げつけるガキもいた。一方で手を振る子どもたちもいたが。自然のままだね。トルコはどこでも子どもが多いと感じるが、この地域はさらにすごい。ミディヤットでは子どもしか見なかったような気がする。
だが、マルディンはいずれ世界遺産になるらしい。そうなれば、日本人客の数は激増することまちがいなしだ。
日本人はどうして世界遺産が好きなのだろうか。トルコ人世界遺産なんて知らないし、欧米人観光客は、知ってはいるかもしれないが、ほとんど意識していない。一方で、韓国人・中国人は日本人と同じくこれが大好きだ。
ひとつには、権威が好きなのだろう。自分の頭で考えるより、しかるべき権威に考えてもらうのを優先し、そこからのお墨付きをありがたがる心性が日本人には色濃くあり、韓国人・中国人にもある。
だが、もっと大きいのは、その権威がユネスコであることだ。日本人は「国際」をむやみに尊重し、「文化」を深く尊敬する。「国連教育科学文化機関」とくればもう最強だ。「国際赤十字」もしかり。若き鴎外が国際赤十字の大会で、新興日本も加盟国の責務を十全に果たす用意があると宣言して面目をほどこしたというエピソードや、わが小学校の卒業式で「仰げば尊し」と並んで赤十字の歌(「あこがれの、ああ、赤十字」!)などと歌ったことなど、赤十字好きの証拠はいくつもある。このような性向は、ナイーブではあるが、尊い(というか、ナイーブなものはだいたい尊い)。
また、ムスリムのように「赤新月」などと「十字」にこだわらないのも東アジアの特徴で、イスラム圏やインドが民族の服装を守っているのに対し、気候風土に合わない洋装をして不思議に思わぬ習性もある。


そして、カイセリについてもいくつか。
学生に不人気なカイセリも私は気に入っているが、残念なのは、イスラム時代の歴史しか感じられないこと。イスラム時代にあって、セルジュク時代の影が色濃いのはいい(中央から東アナトリアにかけてはだいたいそうだが)。オスマン時代よりこちらのほうに親近感を覚える。しかし、セルジュク時代より前に長いビザンツの歴史があるのだが、それをしのばせるものがほとんど見当たらない。キリスト教以前の古代までは要求しないが(それは考古学博物館で見られる)、キリスト教の一大中心だった時代の記憶がとぎれているのには欠落を感じる。キリスト教会の跡はいくつか残っているけれど、それはオスマン時代のアルメニア人やギリシア人の教会で、ビザンツではない。それを見るためにはカッパドキアの岩窟教会へ行けばいいのだけど。


カイセリおよびカッパドキアには輝かしいキリスト教の伝統があった。
教父たちの時代には、キリスト教のひとつの中心だった。「カッパドキアの三つ星」と呼ばれるカイサレイアのバシレイオス(330頃−379、修道院規則を定めた)と、その弟ニュッサのグレゴリオス(335頃−394)、その友人ナジアンゾスのグレゴリオス(330−390)が足跡を大きくしるしているほかに、アレクサンドレイアのクレメンス(150頃−215以前)は、セプティシウス・セウェルス帝(201−)の迫害のときカッパドキアカイセレイアに移住し、そこで死んだ。
アルメニアキリスト教化した啓蒙者聖グレゴリオス(240頃−332頃)は、カイサレイアで洗礼を受け、叙階されたし、ゴート語に聖書を翻訳したウルフィラ(311頃−383頃)は、祖父がカッパドキア出身のキリスト教徒で、ゴート人の捕虜となった人だ。竜退治伝説で名高い聖ゲオルギウスもカッパドキア生まれと言われる。
9世紀末から10世紀初頭のカイサレイアの大主教にアレタス(任地には赴かなかったらしいが)という大蔵書家もいて、所持した写本(ホメロス、ヘシオドス、プラトンアリストテレス等々)が今日まで伝来している。古典の継承という目立たないが重要な文化の営みにおいて、大きな役割を果たした。
こういう歴史をしのばせる何物も残っていないのは残念だ。改宗は文化の断絶であることがよくわかる。なに、キリスト教徒たちだって、それ以前の彼ら謂うところの「異教」文化を根絶してきたのだから、不平を言う資格はないのだけどね。
第一次と第二次の大戦までは、近世キリスト教文化は残っていた。ここはアルメニア人とギリシア人の町でもあったから。エリア・カザンの父親は、この近郊の出身だった。民族主義がそんな多様性を拭い去った。だが、彼らの痕跡は、トルコ人の中で際立って商売上手でこすいと言われるカイセリ人の中に残っているだろう。「商売上手なトルコ人」というのは、形容矛盾に響く。そんな人がいたら、トルコ化したアルメニア人の子孫ではと疑っていいんじゃあるまいか。


カイセリは「ピラミッド・シティ」だ、と言ったら妙な形容だろうか。キュンベットと呼ばれる円柱や多角柱形の廟が町のあちこちに立っている。タージマハルがもっとも美しい例だが、イスラム文明の際立った特徴となっているのが、町中やその周りに点在するあまたの廟だ。カイセリに限らず、イスラム圏ならどこでも廟がたくさんあるわけだけども、ここは、住んでいてそのすべてを見て回ることができたせいか(特にこれという名所のないところなので、調べて休みの日にそれらを見に行くのを趣味にしていた)、とりわけて「キュンベットの町」と呼びたい気持ちがある。
近代的ビル群や背の高いマンションの立ち並ぶ中に押し込められていたり、学校の敷地内に取り残されたように孤独な姿を見せていたり。ひとりですっくと屹立しているのもあるし、メドレセの一部をなすのもある。オスマン朝期のものもあるが、ほとんどがセルジュク朝期の建築で、手入れされているのもあるが、廃墟にならずに踏みとどまっているばかりのものもある。その主たちと言えば、セルジュク朝の王族や貴族の、今では誰も名を知らぬ人がほとんどで、名のある人は、ルーミーの師であったサイード・ブルハネッディンぐらいである。
初めてイスタンブールへ行ったとき、市電の通るローマ時代からの大通りをぶらぶら歩いて、そこにいくつもある廟(テュルベと呼ばれる)に入り、緑の布をかぶせられ頭の部分にターバンをのせた柱のある石棺が並んでいるのを初めて見て、びっくりしたのを思い出す。実際には遺体は地下に埋められていて、棺はシンボルだそうだが、そんなことは知らなかったので、町のあちこちに死体がむきだしで並んでいるように思われ、異様な感じを受けたものだ。
墓ならどこにでもある。ピラミッドや始皇帝陵など。日本にも古墳は山ほどある。だが、廟となると、西アジア地中海世界の大きな特徴だ。世界の七不思議のひとつは、十字軍が破壊しさって今は残らぬボドルム(ハリカルナッスス)のマウソルス廟であった。ギリシア・ローマの遺体をおさめる石棺の文化もその源流だろう。
折にふれ訪ね歩き、それらの廟を写真におさめてきた。最後にひとつ残ったキュンベットは、誰に聞いても知らず、場所がわからなくて行けないままになっていたのだが、カイセリを離れる直前に学生とタクシーで訪れた。メドレセの中にあるもので、建物が閉まっていて入れず、外から眺めただけだったけれども、重たく曇った冬空に浮かぶシルエットは、彼女たちの好意とともに忘れられない。それをもって「ピラミッド・シティ」探訪が完結した。


この文を書き終えたあとで、カッパドキアの奇岩地帯(これも世界遺産だ)が落ちているなと気がついた。あまりに身近だったからだが、あそこへ行くのは旅じゃなくて散歩だからね。ここもいいところだ、とだけ言っておきましょう。


夏にする冬の旅の話の一席。「よかった」づくめで申し訳ないが、本当によかったんだからしかたがない。
多くの旅をしたようだけれど、それは結局、偶然にもせよ自分がそこに住むことを選びとったカイセリという町を理解するための行為だったと言えなくもない。どこにもせよ、私は私の暮らす町を愛す。愛したい気持ちを妨げる人々が多少いたとしても。思い出のはたらきに身をゆだねよう。それは時とともに嫌なものを遠くへおしやり、愛すべき人々を近くへひきよせる。愛すべき人々、それは学生たちだった。私にとってのカイセリの町というのも、学生だったと言えるかもしれない。それなら、すばらしい町だよ、カイセリは。人が何と言おうと。