世代方言簡易アンケートの調査結果

 石見地方の大学生5人と高齢者(60歳以上)5人にアンケートに答えてもらった。ごく簡単なもので、回答者も少なく、予備調査のようなものである。回答者はすべて沿岸部出身者だった。山間部で聞けば結果は多少違ったかもしれない。

 1-4は世代差を見るための問いで、6-10は怪異現象、5・11-14は方言についての質問である。以下それぞれについてコメントする。

 

1) ズボンの腰に締めるものを何と言うか(質問の眼目は:「バンド」か「ベルト」か):高齢層の1人が「バンド」と答えたのを除いて、みな「ベルト」という答えだった。

2) 写真を見せて、山陰線・山手線を走る乗り物を何と言うかを問う(「汽車」か「電車」か)。前者を「汽車」、後者を「電車」と答えた人には、さらに新幹線の写真を見せて、これは「汽車」か「電車」かと聞く。

 山陰線は電化されていないから電車は走っておらず、「電車」という答えは本来出るはずがないのだが、それでもメディア等の影響で「電車」と言う若い人がいるかどうかを見たかった。結果はなかなかおもしろいもので、学生の全員が「汽車」と答えたうち、1人は「家族と話すときは汽車、大学の友達と話すときは電車」ということだった。彼の友達の多くは電車の走る地域の出身なのだろう、彼らと話すときはそれに合わせて「電車」となるわけだ(ことばは相手があってのものであり、だから話す相手によって使い分け、チャンネルを変えながら用いられるのだという社会方言のあり方の素朴な例である)。

 高齢者では、「汽車」2、「列車」1、「ジーゼル車・汽車」1、「列車・ジーゼルカー」1という回答で、「汽車」という答えが若年層よりかえって少ない。この年齢層だと、「汽車」は動力車が客車を引っ張っている昔の形態での認識があるため、現在の山陰線を走っているものをことさらに写真で示してこれは何かと問われると、高齢者は「汽車」と答えにくいのだろうと想像される。新幹線については、1人が「わからない」と答えたほかは、全員が「電車」だった。

3) 「ドラマ」のアクセント(頭高型か平板型か。この語は本来頭高型):回答した全員が頭高型。東京などの若い層の間では、本来頭高や中高型アクセントの外来語を平板型アクセントで言う人が多いそうだが(「アニメ」「クラブ」など)、この地域ではそれはまだ波及していないようだ。高齢者はもちろん頭高型である。

4) 信号の3つの色は何か(「あお」か「みどり」):全員「あお」。信号機の色は実際を見れば緑色なのだが。

5) 日が照っているのに雨が降ることを何と言うか:学生では「テンキアメ」2、「トーリアメ」2、「ハレアメ」1。高齢者で「ヒヨリアメ」2、「テンキアメ」2、「キツネノヨメイリ」1。昔は「ヒヨリアメ」と言うことが多く、それが「テンキアメ」優勢へ移っていったのだろうと思われる。「狐の嫁入り」は日照り雨のほか、地方によっては夜の山野に怪火が連なって見えることにも言う。

 

6) 川などに棲んでいて、泳いでいる子どもを水の中に引き入れる妖怪を何と言うか(「カッパ」か、この地方の方言である「エンコー」か):高齢層の1人が「エンコー」(猿猴)と答えただけだった。もはや「エンコー」という呼び名はすたれているようだ。おもしろいのは、学生の1人が「わからない」と答えていることだ。しかしカッパを知らないはずはない。これはつまり、「泳いでいる子どもを水の中に引き入れる」というカッパの典型的な行動と「カッパ」という名前が結びつかないのであろう。カッパという妖怪を名前として知っていても、その行動については知らないということなのではないかと思われ、名称から行動が脱落していく、つまり妖怪の実質が失われていっていることのひとつの例証と言えるだろう。高齢者の1人は、子どもを水の中に引き入れるものとして「カッパ」のほかに「ナマズサンショウウオ」を挙げた。妖力を持った動物のイメージが残っているのを認めることができる。

7) 夜墓場などさびしい場所に現われる火を何と言うか。見たことがあるか。あるなら、いつ、どこで:学生では「ヒノタマ」(火の玉)3、「ヒトダマ」(人魂)1、「わからない」1。高齢層でも同じく「ヒノタマ」3、「ヒトダマ」1、「わからない」1であった。そして全員見たことがない。

8) 知り合いがキツネやタヌキに化かされた話を聞いたことがあるか:ほぼ全員がない。高齢者の1人が、直接の知り合いでなく、父親からその知り合いがキツネに化かされた話を聞いただけである。一晩中山の中をぐるぐる歩き回されたという話だった。キツネやタヌキが化かす話はもう世間話としてもすたれていっているのであろう。昔話や伝説に残るだけなのかもしれない。かつてはどこでもよく語られていたキツネにだまされる話が、1965年頃を境に口の端にのぼることがなくなっていったという指摘があるが(内山節「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」、講談社現代新書、2007)、その例証でもあろうか。

 上記3つのような「伝統的」怪異・妖怪に対して、次の2つは現代の怪異についての質問である。

9) a.寝ているとき急に体が動かなくなることを何と言うか。b.そうなったことがあるか。c.どうしてそうなるのか。d.ほどくためにはどうすればいいか、を問うたところ、高齢者の2人が「しらない」と答えたほかは、全員「カナシバリ」との回答だった。学生の1人は「よくある」、高齢者の1人が「ある」。学生・高齢者ともあとのそれぞれ4人はそうなったことがなく、うち学生の2人は知り合い(母親・友達)がなったことがあるという答えだった。「よくある」と答えた学生は特に大学受験前に多かったとのことで、c.について彼は「自律神経と副交感神経のバランスが乱れる」とした。そのほかのc.の答えは、学生では「脳は寝ていて体が起きているから」「疲れによる」、また「幽霊にとりつかれる」という回答もあった。高齢者では「追い詰められたときに」「疲れているときになる」。そしてd.には、学生で「もがく、自然にまかせる」「全身に力を入れる」、高齢者では「ただ耐える」「じっとまつ」という答えがあった。

 こういうものは医学的には睡眠麻痺というそうだ。ヨーロッパや中国をはじめ世界の多くの地域で夢魔や幽鬼などの魔物に押さえつけられたために起きると考えられていた(中国語で「鬼圧身」)。現象自体は日本でも昔からあったに違いないが、それが「金縛り」と呼ばれるようになったのは新しいことである。この名称は、修験者の行なう「金縛りの法」(不動明王の威力によって相手を身動きできないようにする法)に由来するものだが、「定本柳田国男集」に「金縛り」の語はないし、「広辞苑」第2版(1969)でも「金縛り」は「①動くことができないようにきびしく縛りつけること、②金銭を与えて自由を束縛すること」とのみ説明されている。しかし第7版(2018)では、前記2つに「動くことができないようにきびしく縛りつけること。恐怖などで体が動かなくなることにもいう」も加えられていて、手元の辞書を見ると、「例解新国語辞典」第6版(2002)が「意識がふつうにあるのに、からだが動かないこと。寝入りばなや、ゆめの中でこの状態になることがある」と睡眠麻痺を明示している。1985年時点で子供の間でもこの意味で用いられているのが確認できるから、この間に一般的になったのだろう。それを経験する人が増えてきたからだろうか。

 キツネにだまされる話の終焉と金縛りの興隆は、多少前後しつつもほぼ同じ時期に交差していると思われる。共同体での語り伝えがしぼみ、個人的な経験が前面に出てくる社会の変化を反映しているのであろう。

10) a.便所には神様とか妖怪がいるとよく言われるが、どんなものがいるか。b.何をするか。c.どんな姿か。d.見たことがあるか。この質問には、学生・高齢者のそれぞれ1人が「しらない」と答えているが、そのほかの回答は非常にバラエティに富んでいる。学生で、「a.霊的なもの、いいもの」「a.花子さん・c.おかっぱ、制服姿、小学生、10歳くらい」「a.神様・b.きれいに掃除したらきれいになれる・c.女神」「a.神様・b.何もしない・c.若い女」、高齢者で、「a.ボイボイサンが出る・b.c.わからない」「a.神様、名前はない・b.大事にしないといけない・c.わからない」「b.手を出す、引っ張り込む」「a.神様・b.c.わからない」。

 何かがいるとはほとんどの人が感じている。ただ、見たことはない。見たことのないものを心裡に見るのが人間の能力であるわけだが、そこには「トイレの神様」「トイレの花子さん」「ボイボイ」「手が出てくる」など、新旧さまざまな異なる伝承が交錯している。

 古来の民俗伝承における厠神は、センチガミ(雪隠神)・カンジョガミ(閑所神)などと呼ばれ、特に定まった名前はないが、粗末にしてはならない。女の神だとされることも多く、お産に関わることも多い。だから妊婦が便所をきれいに掃除したら美しい子が生まれるという話も出てくる。少し前のヒット曲「トイレの神様」はそれを踏まえている。今の小中学生の間で語られる怖い話、いわゆる「学校の怪談」の中でも人気のあるもののひとつ「トイレの花子さん」では、3番目のトイレに「花子さん」と呼びかけると「はーい」と返事がある。してはいけないことをすると危害を加えられるとも語られる。花子さんの話は1970から80年代に広まったらしい(朝里樹「日本現代怪異事典副読本」、笠間書院、2019)。

 名前はないものの大事にしなければならない神様だという心意は老若通じて認められるが、高齢層では若年層と異なる古めかしい妖怪の伝えが見られる。「ボイボイ」というのはこの地方で化け物を言う語で、暗いところに出るといい、「泣くのをやめんとボイボイが来るで」などと言って幼児をおどす(広戸・矢富編「島根県方言辞典」、島根県方言学会、1963。「ボイボイ」は「怖い」の意味の方言「ボイシー」から派生した名称であろう)。「手を出す」という答えについては、古くはカッパなどが便所でそんなことをするとされるほか、特別な日の夜便所に行くと尻を撫でられるという伝承(出雲地方で神在月の祭りの最後の夜にカラサデ婆に、京都で節分の夜にカイナデに)もあるし、「学校の怪談」でも同じことが語られている。

 一般に民俗伝承は年長者から年少者へ伝えられるものであったが、共同体の衰退が進むにつれてそのような古来のあり方が弱まっていった。一方で、伝承を踏まえながら児童生徒が自分たちの内輪で行なっていたいた語りが「学校の怪談」として存在感を強めてきた。上から下への流れが滞る中で、下で独自に語りが自生し繁茂するさまと言えようか。伝承は語り手・伝え手だけでなく聞き手・受け手と場があってこそ成り立つので、語り手がなお多くても、聞き手や場のほうがやせ細っていくと衰えてくる。一方で、学校は聞き手が大勢いて、しかも毎年補充される苗床のような場所だ。ここにもまた交代が認められるだろう。その時期は、村社会・共同体社会が衰退し、高度に制度化された産業社会に移行していく高度成長期の終わりごろと見られる。妖怪譚の盛衰は社会変動を明らかに反映している。

 

 11-14は追加した質問なので、それぞれ3人ずつからしか回答を得ていない。「A.自分でも言う・B.自分では言わないが、人が言うのを聞いたことがある・C.言わないし、聞いたこともない」として答えてもらった。

11) きのうは木に葉が残っていたが、朝見ると、葉は全部落ちていた。これを「葉がチットル」と言うか:学生2人は「言う」、1人は「聞いたことがある」、高齢者は3人とも「言う」とのことだ。

12) a.窓からいま木の葉が風に舞っているのが見える。これを「葉がチリヨル」と言うか。b.これを「葉がチットル」と言うか。c.「葉がチリヨル」とも「葉がチットル」とも言うなら、その違いは何か:

a.「チリヨル」については、学生・高齢者ともそれぞれ1人が「言わないが聞いたことがある」、あとのそれぞれ2人は「言う」。b.「チットル」では、高齢者が3人とも「言う」のに対し、学生は「言う」「言わないが聞いたことがある」「言わないし聞いたこともない」がそれぞれ1人ずつだった。違いを聞いたc.では、学生に「チリヨル:過程/チットル:結果」、高齢者に「チリヨル:今のこと・現象/チットル:結果と現象両方」の回答を得た。

13) ワインがすっぱくなっていて、もう飲むことができない。「これはすっぱくなっとって、ノマレン」と言うか:学生・高齢者全員「言う」。

14) a.アルコール度数が60度もある酒で、強すぎて飲むことができない。「これは強すぎて、ヨーノマン」と言うか。b.「これは強すぎて、ノマレン」と言うか。c.「強すぎて、ヨーノマン」とも「強すぎて、ノマレン」とも言うなら、その違いは何か:

a.「ヨーノマン」・b.「ノマレン」とも、学生・高齢者全員「言う」。c.では、学生で「ヨーノマン:いやだという感じ」「ヨーノマン:本当にだめ/ノマレン:飲めないこともない」「同じ」、高齢者で「ヨーノマン:能力がない/ノマレン:気持ちがない・意志がない」「違いはない」という回答があった。

 標準語ではどちらも「チッテイル」となる進行態と結果態を、西日本方言では進行態を「ヨル」と言って区別する。ただし「トル」には標準語「テイル」と同じく進行態・結果態ともあることが多い。また、標準語では状況可能も能力可能も「ノメナイ」としか言えないのだが、西日本方言では能力可能を「ヨーノマン」と言って区別することができる。簡単な調査であるが、このような西日本方言の特徴が若年層でも維持されていると認めていいだろう(この項目では、「ノマレン」だけでなく「ノメン」についても質問するべきだった)。

 

 たった10人に聞いただけの簡易アンケートであるけれど、さらに掘れば地下におもしろい鉱脈があるかもしれないと思わせる結果だった。