ACL雑感

いつも話題に遅れ気味だけど、ACL(アジアチャンピオンズリーグ)はよかったね。ガンバ大阪が優勝、それもホームもアウェイも快勝、完勝だったから、見ていて爽快だった。ウズベキスタンみたいなまだ飲み水を池から汲んでくる町のある国がアウェイでウォシュレット大国日本と引き分けるのもおもしろいが、やっぱり勝ち試合を見るほうがずっと楽しい。
もっと前からそうであるべきだったのだが、JリーグのチームがACLに本腰を入れて取り組むようになったのも喜ばしい。サッカー雑誌で、アウェー貯金をはじめようかと思ってる、なんて投書を見かけた。ホーム・アンド・アウェイで行なわれるから、アウェイの応援は外国旅行ということになる。サッカー強国は中東と東アジアに偏在しており、中でも東端の日本だから、それでなくても広いアジアの端から端まで旅せねばならなくなる可能性が高い。行くとしても弾丸ツアーなのだろうが、応援ひとつでも物入りなことである。少なからぬ金を奮発してもおらが町のチームの晴れ舞台を見に行きたいという気持ちがうれしいし、せっせと貯金してそれに備えようという心根がやさしい。リーグ優勝や天皇杯優勝はむずかしいが、ACL出場資格のリーグ3位以内なら中小クラブにも可能性があって、ひょっとしたら、もしかしたらのワクワクドキドキは、ファンならではの楽しみだ。
驚かされるのは、Jリーグ発足時には存在しなかったクラブの活躍である。新潟の集客力はすごい。2週末に1度はワールドカップをやっているようなものだ。大分トリニータはキャリア官僚を辞めて社長になった人の率いるクラブで、県リーグから今季ついにナビスコカップ優勝まで登りつめた。この両都市とも日韓ワールドカップの開催地で、サッカーが盛んとはお世辞にも言えない地域なのに何であんなところでやるんだろうと思っていたが、あの開催がこの熱気につながったのなら、すぐれた先行投資だったことになる。また、J2に落ちてしまったが、甲府はびっくりするような魅力的なサッカーをしていた。同じく上がってすぐ落ちた横浜FCは、横浜フリューゲルスの後継の市民クラブである。吸収合併され消滅することが決まったシーズンの最後の試合である天皇杯元日決勝で優勝して散ったあのフリューゲルスの。日本サッカーの歴史が今ファンの手によって作られているのに立ち会っているのである。
こつこつアウェー貯金をしている女の子がこの空の下にいるのだと思うと、しあわせな気持ちになれる。彼女にもぜひしあわせになってもらいたい。


しかしACL準決勝は見なかった。浦和とガンバが万博や埼玉でやってるのだから、わざわざ夜遅くまで起きて見る必要はない(深夜の録画放送だからなあ)。日本とは違うサッカーを日本人とは違う体つきや考え方の選手たちがする異国のチームとの対戦を見るのが醍醐味なわけで、リーグや天皇杯でいつもやってるマッチアップじゃあ食指は動かない。決勝なら別だけど。むしろ準決勝のもう一方、アデレード・ユナイテッドとクルブチ戦をやってほしかった。
国際的でないものはサッカーでない。サッカーの大きな楽しみのひとつは、異文化にふれる喜びである。ルールは単純明快で、万国共通。装備も、ボールと野っ原がありさえすればいい。あとはゴール(になりうるもの)と。世界中で、ルールは守りつつ自分たち流のやり方でゲームをしている。そのあり方は、言わばエスペラントだ。身体的「国際共通語」なのである。エスペラントは結局のところ改良ラテン語で、SVO構文だし関係代名詞もあるし、ヨーロッパ人にはよくて、われわれにはいささかハンデがあるという点も似ている。
NHKのニュースで「ワールドスポーツ」というのをやっていたが、取り上げられていたのは大リーグとアメフトだった。これにはのけぞった。「アメリカンローカル」スポーツばかりじゃないか。こういう感覚の人が「国際人」と言われている限り、日本は決して国際的にならないだろう。
野球は実にドメスティックなスポーツで、ドメスティック同士がいくら寄り集まっても「国際的」にはならない。このスポーツにおいては、何の疑問もなく自分たちが最強最高最優秀だと信じている特権的な国がひとつあって、ほかの国々もそのとおりだと思っているのだから、国際的になどなりようがないのである。対等でなく民主的でなければ、「国際的」とは言わない。
「日米同盟」か「日米決戦」しか思考回路のない日本人にとって、アメリカがワン・オブ・ゼムでしかないサッカーは非常に教育的である。アメリカ人にとってはさらにいっそう教育的だが、でも彼らは自分たちがナンバーワンでない競技、イランなんかに負けてしまうスポーツなど決して認めはしないだろう。女子サッカーは別だが、その理由もまた右に同じ。
CNNを見てNEWSWEEKを読んでいる人は「国際人」ではまったくない。正しく「対米従属人」というべきだ。フィリピンとか中国とかから嫁さんをもらい、その支障ない暮らしや異国の親戚とのつきあいにまじめに心を砕いている村のおとうさんや、アウェー貯金をしている女の子のほうが立派に「国際人」である。


このゲームを好ましく思う理由のひとつに、「集合的な知恵」のようなものが認められるということがある。物事をよりよくするための創意工夫がいろいろ見られるのだ。
悪質な反則に対するイェローカード・レッドカードや、延長戦でも決着がつかなかった場合のPK戦などは、このゲームを見はじめたころにはもう導入されていた。それ以後も、勝利の場合の勝ち点を2ではなく3にするとか、リーグ最終戦の同日同時刻キックオフ(優勝や予選突破を争う相手の試合結果を知ったあとでは戦い方を変えることができるから、それを避けるため)や、ゴールキーパーがバックパスを手で扱うのを禁止したり、ロスタイムの目安の時間を表示したりなどの改善を行なっている。
オフサイドポジションにいるだけではオフサイドにならない、というふうに重要なルールの見直しもされた。出されたボールに関与して初めてオフサイドとなる。これはしかし一長一短というか、1.5長0.5短ぐらいな感じがあるけれど。延長戦でゴールが決まった瞬間に試合終了となるサドンデス(ゴールデンゴール)方式の取り入れは、やってみた上でやめてしまった。試行錯誤はあっていい。それこそ人間的だし。
このゲームとその周辺には、好ましくない点、ルールやレギュレーションで解決しない問題が山ほどあるけれど(特に周辺に)、われわれには知恵があることを信じたい気にさせるものもまた多くある。