ポツンと数軒家

 コロナ流行以来、これ以外のウィルスが減りでもしたものか、ずっときわめて健康で、風邪ひとつひかなかったのだが、ワクチンを打ったらとたんに頭が痛くなった。「ワクチン風邪」をひいてしまった。頭が痛いと本が読めず、パソコン作業もできない。テレビを見るくらいしかすることがないのだけれど、食べ物の好き嫌いはないのにテレビ番組には強烈な好き嫌いがあり、4つか5つほどの好きな番組は欠かさず見る一方、興味のない番組は決して見ない。テレビに限らず、音楽やスポーツもそうだ。音楽を聴きながら仕事をするというのは私には無理で、好きな曲なら聴き入ってしまうし、嫌いな曲ならすぐスイッチを切る。スポーツも、見るのはサッカーと相撲だけ。野球は絶対見ない(サッカー中継があるときは必ずテレビの前にすわっているので、私を狙撃したい人はそのときに狙えばいい。ただし席は窓辺ではないので、狙撃より砲撃のほうがいいだろう)。こんな激しい選り好みはどうかと思うが、この歳までこれでやってきたのだから、あとはこのまま生涯を閉じるだけだ。

 1回目のワクチンのときはパラリンピックをやっていて、好きではなくとも見てもいい番組があるかもしれないNHKBS1、教育が乗っ取られていたので、本当に途方に暮れてしまい、8時半に、翌日は7時半に床についた。それでも朝までちゃんと眠れたから、体は睡眠を必要としていたのだろう。

 

 欠かさず見る数少ないテレビ番組のひとつが、衛星写真で見つけた深い山の中にある一軒家を訪ねて行く番組「ポツンと一軒家」である。あれを見ると、島国日本は山国でもあるのがよくわかる。国土の3分の2以上が森だというし。島国が山国という事情は日本だけのことでなく、東南アジアの島はみなそうで、火山島だから山が高く、湿潤で木々がよく繁茂する。だから、ある程度の大きさのあるアジアの島は、必然山国たらざるをえない。しかし雪降る山島国なのが日本の特性と言える。

 

 この番組は、まずもよりの集落で衛星写真にある一軒家への道を聞くところから始まるのだが、その際、おばさんに聞くと埒が明かなくて、男を呼んでくることがしばしばだ。これは、ひとつには女性には地図が読めない人が多いということがあるのだろう。地図が読めない男もけっこういるが、女のほうが断然多い。だがそれよりも、女は内、男は外という分業があることのほうが大きいと思う。特に村ではそういう役割分担が顕著だ。

 住民が親切に車で道案内してくれることも多い。ヒマだからそんなことができる。ヒマと親切は正比例する。根が親切な人も、忙しかったらそう親切にはしていられない。村は老人が多いからヒマな人も多いわけだけど、働いている人も時間にかなりゆとりがある。自分で自分を裁量できる。人間こうでなくちゃいけない。忙しい都会生活というのは人間性に逆行している異常な生活だと知らなければならない。

 この番組ですばらしいのは、アポなし、予約なしのぶっつけであることだ。万事が予約予約、予約しない行動はルール違反、社会生活不適合者扱いであるような現代は明らかに異常な時代で、単に異常であるばかりでなく、危険でもある。事件は予約なしで起こるからだ。決められた通りの対応しかできない人間ばかり育てていては、人類の将来は危ういよ。それはコロナの教訓でもある。

 

 これに出てくる山中の一軒家には、2つのタイプがある。

 ひとつは趣味の家とか山の仕事場で、持ち主は里に住んでいて、折々そこへ通うというもの。それはその人の生家か、生家のあとに建てたものか、いずれにせよその人の所有地にあり、当人はまず60歳以上。時間がつぎこめる人でないとそんなことはできない。どんなにその家が質素であろうと、すばらしい贅沢である。中には家自体が贅沢なものもある。

 もうひとつは、消滅集落の最後の家である。住んでいるのが年寄りばかりで、遠からず消滅の危機にある集落を指す「限界集落」ということばがあるが、それを通り越して、すでに集落としては消滅してしまったところの最後の一軒に老人が住んでいるというもの。行ってみたら空き家だったということもままあり、そうなればまさしく消滅集落である。

 先ごろ文化勲章を受けた彫刻家澄川喜一氏は島根県鹿足郡旧六日市町(合併して吉賀町)の山間の集落の生まれだが、その集落はもう住民がおらず、消滅しているそうだ(そんな辺鄙な六日市が2人も文化勲章受章者を出していて驚くのだが、もう1人がファッションデザイナーの森英恵であることにさらに驚く)。同郡旧日原町の「日原覚書」(1971)という本を見ると、その頃もう家が一軒もなくなってしまった集落がいくつもあると書かれている。一軒家消滅の歴史は長い。

 住み続けているのではないまでも、山を下り会社勤めをしていた人が定年後に生まれた一軒家の実家にもどって住んでいることもよくあり、常住はしないがときどき麓から帰ってきて維持していることも多い。集落とは言えないが、高度成長期のあと、海を見下ろす山の上に別荘地として開発されたところに、もう一軒しか残っていないなんてこともあった。

 田作りの適地乏しい島の住民が、稲田がほしくて、山の上や本土の陸からはたどり着きにくいところに田を開き、作業小屋を建てたという例も知ることができた。陸の孤島のように見える場所も、舟ならアクセス至便なのだ。山奥の集落は林業(製炭業を含む)によって成り立っていたところが多く、つまり日本林業の衰退の歴史を人の生活に即して見ていることにもなる。あれこれ非常に勉強になる。そういえば、司会は予備校の先生だった(国語科だが)。

 

 こんな深い山の中に集落があったことに目開かれる思いがするし、かつては数軒ないし十数軒の家があったというのに、それがすべて草木に埋もれ山に還っていることにもまた驚嘆だ。「引き寄せて結べば草の庵なり 解くればもとの野原なりけり」。ああ、人間もかくありたい、などと見当違いな感想をもったりする。

 その住人は70歳以上で、80を超えるのも普通だ。60代の人が出てきたら、なんと若いと思ってしまう。こんなところに住むには、たいていのことは自分でできるようでなければならなくて、便利な平地で育った若者や中年者がいきなり行って暮らせるものではない。山の中で育ち、山中での生活技術を身に着けた人でないと、つまり高度成長期までに人となっていないと、まず無理である。学校では教わらぬ、父母祖父母から習い覚えた生活知識がふんだんにあり、たいがいのものは自分の手で作ったり直せたりすること、「千の手わざ」ができることが必要とされる。そして、たしかなネットワークをもっていないといけない。家族はもとより、里の人たちとしっかりと関係を築いていることも必要で、どんな山の中の一軒家でも、人は一人で生きられるものではない。そのことを教えてもくれる。

 そこには住人の老人が若い頃に普通だった生活が保存されている。電気は来ていて、車もある。基本的な家電は備わっていて、テレビも楽しみにしているから、その頃より格段に便利にはなっているのだが、それはやはり昔のありさまであって、昭和の頃の平地の生活がそれに近いと思う。

 柳田国男は明治の時代に、「思うに古今は直立する一の棒では無くて、山地に向けて之を横に寝かしたようなのが我国のさまである」(「後狩詞記」序)と喝破し、火を例に、昔は山に残っていると述べた。都会地で電灯がともっていたときも、山にはまだランプの村があり、行燈も壊れずに残っていて、老人たちは子供の頃松のヒデを使ってたとのことで、ヒデ皿が家の隅に転がっていたという(「実験の史学」)。

 いま一軒の家が残るだけの山中に集落があった姿を想像してみる。さすがに柳田が旅していたころの姿までは浮かばなくとも、宮本常一が村々を歩いていたころ、彼はそれを見ていたのだろう。飛行機から見るネパールの山は、よくもまあここまでと思うくらいのところまで段々畑や棚田があり、集落がある。標高が低い分割り引かなければならないが、昔の日本もあんなものだったのではないかと思う。中には戦後外地から引き揚げてきた人たちが開拓した集落だったところもある。歴史であり、そして歴史が草木に埋もれつつあるいまわのさまである。

 こんな番組は5年後10年後には不可能になるだろう。第一のタイプはそのころにもあるし、増えてもいるかもしれないが、第二のタイプはなくなってしまっているに違いない。ある時代の最後のフェーズを見ているのである。山でしかできない換金作物を作っていたら、生計が成り立ち後継者も続くかもしれないが、そんな幸福なケースを除いては、生活技術に熟練した老人が最晩年を過ごしているのを覗かせてもらうのみであり、その死とともに自然に還る。住人も、家も。

 

 あれを見ると、現代の山の暮らしの必需品は薪と車だとわかる。電気電話は来ているし、狭いながらも道もある。水は問題ない。山には湧き水がかならずあるから、それを引く。

 煮炊きや暖を取るための熱源は薪であり、それを確保する必要がある。木自体は山に豊富にあるけれど、それを伐って割って薪にせねばならず、若い頃なら何でもなくても、年を取ればたいへんだろうと思われる。いくらチェーンソーがあっても。薪割り機というのもあるようだが、それにしたって楽ではない。

 車(特に軽トラック)もなくてはならぬもので、電気と同じくらい重要だ。昔はかなりの程度まで自給自足していたのだろうが、きょう日それは不可能、里から食料その他の必需品は運ばねばならない。老人だけの生活ではさすがに徒歩というわけにはいかない。今どきはもう手近の里自体に店などなくなっているから、買い出しや診察にはかなり遠くへ出向く必要がある。壮年の男だったとしても歩いては無理だ。

 移住してきた東京の人が島根は軽自動車ばかりだともらしていたが、それは完全な認識不足で、島根に限らず日本の田舎は軽ばかりである。車が道具として使われているからだ。道具であれば、そこそこの性能があり、値段も維持費も安いほどよく、狭い道が走れる小ささも重要になる。ネパールでバイクが多いのと同じで、あそこではバイクは道具であり、まず半分以上のバイクは2人乗りをしていて、3人乗りも珍しくなく、ことによると一家5人で乗っていたりする。スクーターの足置き部分に袋をいくつも積んで走っているのも普通だ。移動や運搬の道具なのである。日本はそれより発展しているからバイクでなく軽自動車になっているので、軽を見たらネパールのバイクだと思えばいい。

 山国日本には山国ネパールを思わせるものが数多くある。そんな「発展したネパール」が好きだけども、やがて日本から「ネパール」は消えていくのかもしれない。消えるなら消えるでしかたがない。最後の姿を見ておこう。