尊王攘夷

 コロナに打ち勝った大会が開かれた。ロンドンで。

 コロナに打ち負けた大会が開かれた。東京で。

 オリンピックを開催したところで、それが無観客ならほとんど意味はない。テレビ局への奉仕であるだけだ。無観客試合は、サッカーではホームチームやそのサポーターにひどい違反行為があった場合に課される懲罰で、だからJリーグは今回の状況では「無観客試合」の語を使わず、「リモートマッチ」と呼んでいた。言い換えによるごまかしは本来は許しがたいことなのだが、この場合は、懲罰ではないぞ、お上の要求にやむなく従うだけで、決して当事者に落度はないのだぞと示す意地の表現である。五輪無観客も懲罰ではないけれど、「予防拘禁」のようなものであり、やはり罰の一種に見える。

 このいわゆるコロナ禍での無観客試合横行で、選手がいて競技があるだけではスポーツではないということがわかった。トレーニングや決闘は観衆を必要としない。むしろ邪魔である。だが、「スポーツ」と言われるものは観客を必要とするのであり、「運動」と同義ではない。テレビ画面の向こうにいるだけではだめなのだ。演劇と同じだ。ビデオを一人で鑑賞できる映画とは違う。スポーツの試合は観衆の声援込みで成り立つ。そのビデオもしかり。それがなければただの技術解説資料のようなものだ。無観客でもやるというのはテレビの放映権料が目当てであり、入場料収入がない以上、せめて放映権料を得なければ運営が成り立たないという事情によってこんなものが行なわれているのだけれど、観客の声援抜きの試合画像は試合の影に過ぎない。マイナー競技はふだんから観客は非常に少ないのかもしれないが、しかし「少ない」と「いない」は根本的に違う。大観衆が常態である屋外メジャー競技の無観客は哀れなものだった。無観客場所あたりから炎鵬は成績を落とした。小さい力士は取組で不利であるが、その代わり小兵には声援が多い。それを力に変えて好成績を上げてきたわけだ。無観客で特に情けないのが表彰式である。公道を走らない聖火リレーと双璧だった。まったくしまりがない。屋内競技では救いがあった。客席に選手団の関係者が陣取り声援を送っていたからで、観客を入れたとしても拍手のみで声を出すのは禁じられていたはずだから、むしろあれでよかったのかもしれない。とりわけ柔道。本来観衆を必要としない決闘から発展した武術である柔道に観衆がいて、試合らしい試合になっているのは皮肉なことである。札幌での公道競技も観客が来ていてよかった。あれはいわば無観客是か非かの国民投票であった。見たい人が一片の要請で排除されるのはおかしなことなのだ。交通機関から人は排除されていないのに。無観客是か非かの国民投票と言えよう。マイナー競技の場合でも、観客がいればその人たちの体験として何かを残し、また観客からの励ましとして選手にも伝わるものがあるが、無観客なら、その試合がテレビ中継されなければ、翌日の新聞のベタ記事数行としてしか存在しないことになってしまう。見る人もないのに盛大に飾り立てられた記録会だ。客観的にできないのなら是非もない。できるのにしないのは馬鹿げている。

 

 巨額の税金をつぎこんで無観客では、何のための開催かということになる。オリンピックを開催し、それを観客を入れて行なえば、感染者が増えるのはまちがいない。だが、増えること自体は問題ではない。問題は感染者数ではなく、重症者数と死者数だ。これが抑えられていれば大過ないのだ。ブラジルの大統領が言っていたとおり、われわれは必ず死ぬのだから。感染者は増えても、死者はさほど増えないという根拠のある確信があればこそ、イギリス政府はウェンブリーのサッカー・ヨーロッパ選手権勝戦にマスクなしで6万人なんて数の観客を受け入れた。彼の地でワクチン接種が進んでいるというのは理由のひとつにすぎない。日本でも、死亡者の大半を出している65歳以上の年齢層では6割以上がワクチン接種を終え、1回目の接種が終わった人なら8割以上だったのだ。大きな危険は去っていたはずだ。それに、Jリーグやサッカー協会が観客を入れた実証実験をやっていて、よい結果を得ていた。観戦希望者には陰性証明の提示を義務づけるなどの方法はあっただろうに。閉会式で見せられた次回開催地パリのとんでもなく密な様子は、無観客東京に冷水を浴びせるものだった。その東京でも会場周辺に人が集まって密になっていたのだし。加えて、オリンピック反対のデモ隊が密を作って行進するなんて、悪い冗談としか思えない。

 開催により大勢の人が国外からやってくることで、ウィルスが持ち込まれるのもまちがいない。外部との接触を断ついわゆるバブル方式でやったところで、それを完全に守ることはできず、綻びが出るのも当たり前である。完璧など、誤り多い人間という生き物の住むこの世界にありうるはずがない。バブルにしようがどうしようが、感染者は出る。大勢が集まれば、その中に風邪をひく者はかならずいるだろう。風邪よりずっと感染力の強いコロナにかかる者が出てこないはずがない。だからリスクは大いにあるのだが、何か催しをすればそれに伴うリスクがあることは当然であり、それは引き受けねばならず、ゼロにはできないが、最小化すべく努力するというだけのこと。コロナのために非常に制限の多い大会になってしまい、海外の観客も受け入れないし、地方での各国選手団のキャンプの受け入れも満足にできない。開催で日本が得られるメリットは非常に少なくなっていた。そこへもって無観客では、メリットはほぼゼロになる。無観客なら、自国でやろうが地球の裏側でやろうが同じである。時差がないだけの違いだ。開催による利益はIOCとテレビ局が得るだけだ。危険がゼロでなければ許せないという態度がまちがっているのと同様、無観客は決定的な誤りだ。得られるメリットがほとんどなければ、開催の理由のほとんどを失う。できないことならしかたがないが、できることをなぜしないのか。困難の中せっかく整えてきた準備なのに、最終段階ですべてを失った格好だ。

 数少ない開催のメリットのひとつは、IOC会長という要職にある人が広島を訪れてくれたことであるが、それを思い切り罵っているのだから世話はない。

 コロナコロナと騒ぐが、感染だけなら無症状者は「健康」であり、軽症は「ただの風邪」だ。重症化のみが問題である。若い死者もいるけれど、重症化し死亡するのは高齢者が大半であり、余命がいくらか縮まるに過ぎない。働き盛りの人が小さい子供を残して死ぬのが悲劇であり、すでに孫のある人が死ぬのは、悲しくはあっても悲劇ではない。重症化したところで、日本でそれはインフルエンザほどの脅威にとどまる。インフルエンザによる死者は年間1万人くらいいるそうだ。それなら新型コロナと大して変わりはない。インフルエンザでオリンピックを無観客にしていては、どの五輪も無観客でなければならなくなる。ガンでは年に37万人も死んでいるではないか。なぜ年間1万人強で血迷うのか。

 百歩譲って、開幕時点で緊急事態宣言が出ていた東京都内の会場の無観客はしかたないものとしても、それ以外の道県では観客を入れてよかったはずだ。それなのに、首都圏以外でも知事たちが続々と無観客を願い出る。しかし埼玉での直前のバスケット強化試合には観客が入っていた。なぜそれはよくてこれはだめなのか、知事は納得のいく説明をしなければならない。日本人ですら理解できないことを、外国人が理解できるはずがない。

 無観客でわずかによかったことは、感染拡大は五輪開幕前から起きていて、無観客での実施だから五輪観戦によって感染が拡がったのではないと証明できることだが、そんなことを慰めとするのは空しい。自国開催によるホームアドバンテージはいろいろあったけれど、最大のアドバンテージ、観客の応援が欠けていた。関係者は観戦し声援も送っていたので、競技によってはアウェイなんじゃないかと思えるのもあった。敗れたサッカー準決勝のあと、「観客がいたら勝っていたんじゃないか」とつぶやいた人がいたが、ひとつのミス、ひとつの好プレーで試合が決まるああいう状況では、応援が大きな後押しになる。声援があれば、あと5センチ足が伸び、0.5秒速く動ける。拮抗した試合ではそんな細部が勝負を決める。観客のいた強化試合といなかった本大会の試合の成績の差として、それも実証可能だ。

 病床逼迫なんて報道を見て、ずっと不思議に思っていた。医療先進国じゃなかったのか? 病院はたくさんあるんじゃないのか? 医療崩壊なんて言葉もしつこく聞かされた。感染者も重症者も格段に多かった欧米より桁はずれに少ない患者数で、どうして医療崩壊? コロナ病床が少なければ、増やせばいいだけではないのか? 病院はあるのだから。旭川の大学病院でコロナ患者の受け入れを認める病院長と認めぬ学長が争ったニュースなどを聞くにつけ、病床不足に関しては大いなる疑念を抱いていた。素人目にもはっきりしているのは、政府は1年以上たつのにリーダーシップに欠け、対応力が決定的に欠けている。危機対応のプログラムが立てられない政府を戴いているということだ。あまりにも平時に慣れすぎている。

 日本という国がどんな国なのか、五輪をめぐってよく示されたと思う。要求するところは100パーセントか、でなければゼロ。リスクを取らない、取ろうとしない。クレームに過剰に反応する。科学的根拠によらず、それをまじめに受け取らない。客観性なく、何ごとも主観的にしか考えられない。世界大の視野の欠如。判断の基準は国内事情というか、国内感情だけ。ルール至上主義。人のためにルールがあるのではなく、ルールのために人がいる倒錯。そういう弱点が一挙にさらされた。

 オリンピック出場選手がワクチンを優先接種されることに対し、それを非難する声があったのも、驚き以外の何物でもない。悪平等思想の典型だ。自分が接種を受けていいのかと選手が悩むなどありえない。課せられた役割として、国を代表し、倒れる限界まで身体能力を働かせるのだ。外国から来た人たちと至近に接するのだ。優先権があるに決まっている。外出自粛して身を守ることのできる人たちとは職務が違う。首長が優先的に接種するのにも難癖をつけ、あくまで平等を求めるのは異常である。航空機遭難時、酸素マスクが下りてきたら、まず保護者がそれをつけ、そののちに子供につけさせることになっている。優先されるべき人は必ずいる。そんなことも理解できない社会になってしまっている。

 オリンピックを開催するというのは国際公約である。それを守れとIOCが主張するのは当然だ。かなり問題のある組織のようで、オリンピックもかなり問題のある催しだが、それは当面の東京五輪開催とは別個の事案である。それを平気で混同し、反対論返上論を言い募る。韓国には条約も法律も非常識にくつがえすことのできる最高法「国民情緒法」があると揶揄されるが、日本も同じだということがよくわかった。最高決定者は国民の情緒である。オリンピック中止論者には今後一切韓国を嗤ってもらうまい。

 

 身震いするほどいやなのは、国内で日本人相手にしか通用しない論理でなされる主張が横行することだ。まったく尊王攘夷である。国体明徴、国体護持の運動にも酷似する。この国では、幕末や戦前はいつでも回帰しうる。幕末は帯刀していたし、戦前は銃も剣も提げていた。今の市民は武装していないから、聖火リレーに向けられた水鉄砲くらいですんだが、基本的な精神のありようは変わっていない。まさか公使館焼き打ちまではすまいが。青年将校らの騒ぎを眺める幣原や吉田の心境はかくやと思うよ。

 昔上海郊外の列車事故で、修学旅行中の高校生が大勢死んだことがあった。日本の報道を見ると、刻々と死者数が増えるのだが、日本人の死者の数しか言わない。事故の全死者数はどのくらいなのか知りたいのに、一向に報道されない。あるいは日本の生徒の乗った車両でだけ死者が出たのかと思ったが、英字新聞を見たら中国人を含む全死者数が挙げられていた。あの件を思い出す。日本人の命はオリンピックより重く、外国人の命は新聞の1行より軽い。そういう結論か?

 国内は純潔で、害毒は国外から来るというゆるぎない差別的確信はどうだろう。中国選手団が滞在していたホテルでの感染対策のずさんさに苦情を言ったという。感染が確認されれば出場資格を失うのだから当然だ。シンガポール選手団を取材した記者が感染していたとあとでわかり、シンガポールが激怒しているなんて記事も読んだ。選手や代表団は来日前に検査をし、来日後も毎日検査し、ワクチンも接種している。感染者がいる危険性が高いのは日本人のほうだ。それなのに、外国人記者と日本人記者の入口を分けろとか、「クリーン」と「ダーティー」に分けろとかの要求があるという。まあ、怒ることはないのだけどね。「クリーン」な外国人を「ダーティー」な日本人から守るための措置だから。外国人は「ダーティー」であると信じているその思い込みの強さは、滑稽であるのだけれど、笑ってしまえないそら恐ろしさがある。悪いのは日本人であるのに、それを外国人に転嫁しようとしている、と外国人に感じられてもしかたがない。五輪開催前に感染者が増えたのは日本人のふるまいが原因であるのに、その尻を選手に持っていくのは筋違いだ。

 この国民は、被害者意識が非常に旺盛で、加害者意識が希薄である。先の戦争では100パーセント加害者だったのに、戦地でおぞましいことをしてきた兵士は口をつぐんだままそれを墓まで持って行き、原爆を始めとする国内で受けた被害が語り部なるものによって語り伝えられる。戦争犯罪ロンダリングなんじゃあるまいか。IOC会長が広島訪問でそれに一口かんでくれたのに、非難しているのも妙なことだ。

 来日した記者の行動をGPSで管理するというのも気持ちの悪い規定だ。それはつまり、東京を新疆やチベットにするものである。記者の所在を「密告」するよう奨励しようともしていたようだ。酒を出す飲食店に銀行や販売業者から圧力をかけさせようとした件と同根の、日本人お得意の隠微な対処法である。鎖国以来外国人にはそういう対応ばかりしていたのだから、「伝統の継承」ではあるけれども。

 中国が新疆でメディアの取材にそんな制限を加えるのは、もちろん見せたくないもの、見られてはまずいものが山のようにあるからである。では、「緊急事態宣言」下の東京も、酒を出す店が早く閉まるほかは、多少は減ったにしても相変わらず混んでいる電車を始め、人出の多い平穏な日常であることを見られたらまずいということなのかと邪推したくなる。

 バッハ会長が「何より大切なのはチャイニーズピープル」と失言したという。不愉快であり不都合であるが、その失言に至る心の動きをうかがえば、中国は来年北京で「コロナに打ち勝った大会」開催を着々と準備しているし、サッカーのヨーロッパ選手権にしろウィンブルドンにしろ、アメリカの各種スポーツ大会にしろ、あれほど感染者も死者も多かった国で観客を入れた大会が催されているのに、大して感染者も死者も出ていない日本でなぜ無観客なのか、理解に苦しんでいるに違いない。その日本国内でもJリーグや日本代表の試合、プロ野球やオリンピック予選を兼ねた陸上の日本選手権など観客を入れてやっているわけなのだから。「コロナに打ち勝った大会」が念頭にあったので、つい「中国人」と口から出てしまったのではないかと推察する。そのパロールは日本政府が多用していたのだから、藪蛇みたいなものだ。

 あの人はまた、感染状況が改善したら観客を入れるようにしてくれと要請したという。その発言に怒るというのはヒステリー反応の一種である。日本人以外には、無観客など信じられない過剰対応に見えるということだ。理性をいくらかでも取りもどしたら、観客を入れてみてくださいな、ということである。

 

 オリンピックを中止しろというできもしない要求を繰り返す世論とやらに屈せず、開催へ向けてぶれなかったことだけは評価できるが、そのあげくが無観客では、結局日本人の誰一人得るもののない大会になったということだ。得たのはテレビ局とIOCだけで、それは腹立たしいことではあるが、みずからの所業で日本人が腹を立てるなら、滑稽であるだけだからよしたほうがいい。

 有観客で開催することをゴールに逆算して対策を立てなければならないのに、そうしなかった。この政権は、開催することだけが目標であり、観客の有無は捨ててよいカードとしか見なしていなかったわけで、結局スポーツは二の次という連中の集まりであったのだ。組織委員会はアスリートを代表してその目標を外さず追求するべきであるのに、そうしなかった。組織委員会も、政府や医師会や浮薄な世論とやらを敵に回しても貫徹する意志を欠いていたのだ。モスクワ五輪ボイコットと同じ構図だ。川淵さんが委員長になっていたら、この点は決して譲らなかっただろうに(あとから考えれば、あの人が排除されたのは非スポーツ的決定者が「無観客カード」を握っておきたかったからではないかと思える)。

 結局、プログラムがないのだ。数字を基準とせず、大まかな感じでこのくらいなら緊急事態宣言、このくらいなら解除、なのだから。そもそも首相の器でなく、その座を目指してもいなかった人が首相になっているのだから、無能なのはわかっている。だが、政府まで無能なのは悲しむべきことだ。首相の器かどうかはよく知らないが、少なくとも真剣に目指していた人がなれなかったのは、彼がなると、前首相がないと言い張っていた書類がたちどころに出てくるのを恐れたからで、それで現首相が内輪で選ばれた。すべてはひと続きである。虚言と無責任の下方スパイラルだ。

 今回の東京五輪は、商業主義五輪の醜悪さを全世界に示す功績はあった。しかし、そんなことをもって慰めとするのはつらいことだ。オリンピックそのものに賛成反対の意見があるのは自然なことである。現在のオリンピックのありように対する批判は真っ当で、オリンピック招致反対論は正当であり、同意してもいい。だが、もうやることに決まっている。オリンピック反対論が中止論に乗っかるのは、ミソもクソもいっしょというやつだ。

 

 ここまでは原則論。個人的に筆者にとってのオリンピックの意義は、サッカー競技のみにある。単純な身体能力の比較は、それはそれとしておもしろいが、チーム競技、特に世界で最も人気のあるサッカーに勝るものはない。サッカーのおもしろさは、国際試合に尽きる。サッカーの国際戦は文化や思想の衝突であり、身体性の民族的特徴のぶつかり合いであるのだから(ニュージーランドチームはラグビーをやっていたし)。国際戦でも親善試合ではおもしろさに限界があり、タイトルのかかった公式戦で興味は最大限になる。オリンピックはワールドカップヨーロッパ選手権コパ・アメリカなどに比べるとレベルがいささか落ちるとはいっても、それが日本で行なわれ、日本チームが優勝候補の一角なら、どうして逸することができようか。

(ただし、選手を保有するサッカークラブが選手派遣を拒否できる今のようなありかたでは、この形でサッカー競技をオリンピックでする必要はないと思う。フランスやドイツなど、本当にU24のベストメンバーが組めれば優勝候補だった国が、満足に選手をそろえられず、予選リーグで敗退している。サッカーは外し、フットサルに代えたほうがいいのではなかろうか。サッカーが見たく、フットサルは別に見たくない私でもそう思う。)

 今回の日本女子代表は、弱い相手に強く、強い相手に弱い、弱きをくじき、強きを助ける情けないチームだった。あれを見ての教訓は、成功体験は足枷であるということだ。下のカテゴリーでは手腕を示した監督だが、フル代表ではさっぱりだった。アンダーカテゴリーで結果を出したサッカーをフル代表でしてはいけない。柿谷や宇佐美を初めて世界大会で見たときは、小野を初めて目にしたとき並みの衝撃だった。こんなうまい選手が出てきたのか。これで日本は強くなると思った。たしかに日本は強くなったが、それは彼らのおかげではなく、アンダーカテゴリーでエリートでなかった選手たちのおかげである。男女を問わず、若い世代の日本チームはけっこう強い。しかしフル代表になるとその強みがしぼんでしまう。それはなぜかをつきつめて考えることが、男子ではできてきているが、女子ではむしろ逆行しているのではないか。なまじ下のカテゴリーで結果を出しているだけに、フル代表で必要な強さに欠けるチームだった。体格で劣るのはしかたがない。身長は遺伝で決まるので、後天的に伸ばしようがない。だが、小柄であれば敏捷性には勝るので、それに加えて、足の速さ、筋力、走り続けられるスタミナ、圧倒的なうまさ、強靭な意志のうちの少なくともふたつ以上は備えていなければならない。それに欠けていたということだ。

 また、世代交代に失敗したチームのみじめさも感じた。ドイツやイタリアなど、成功を収めたあとずっと世代交代ができずに低迷したチームの例は多い。最後に帳尻は合わせたようだが、アメリカ女子代表にもそれが近づいているのではあるまいか。女子日本代表もそうであったので、リオ五輪出場を逃してしまった。その後就任した監督で世代交代を断行したが、無理に進めた感は否めない。女子サッカーはほとんど見ていないのでわからないが、それでもあのメンバーが最善とは思えない。監督の仕事は選手選考が8割と言ってもいい。そこで疑念があっては勝てない。長谷川選手が途中交代させられることがあったが、そのたびに不満げだった。実際代わって入った選手に可能性があるようにも見えなかったし、不満はわかるけれども、「あとは任せた、点を取ってくれ」という気持ちが見えないのは問題だ。チームとして信頼感や一体感がなかったのであろう。

 ロシアW杯の日本代表もロートルチームで、「おっさんジャパン」だったのに、本大会で決勝トーナメント進出という「成功」を収めているのだけれど(日本の場合「成功」のハードルは低い)、あのケースは、世代交代を進めていた監督が直前に解任され、時間のない中揺り戻しで起用されることになったロートルたちが、くすぶりからの反発で力を見せたという特殊事情があったのだ。後任監督は世代交代を一挙に進めたし、戦術や采配には心もとなさを覚えるけども、選手選考に疑問はない。五輪代表とA代表を兼任することのメリットが存分に発揮された。

 いつも見慣れた風景が今回も見られた。日本選手もディフェンダーやキーパーは巨人化してはいるけれども、男女とも日本はゴール前を屈強な選手でがっちり固められたら点が取れない「ちびっこジャパン」である。前線がちびっこなのはかまわない。それがわれわれの体格なのだから、われわれのチームがそうなのは、まさに「日本代表」であるのだ。それだけに、岩淵選手がカナダ戦で決めた得点は痛快だった。

 ディフェンスの巨人化のおかげで、守備の非常に安定したチームだったのが快進撃の要因であり、日本代表の泣きどころだった守備がこんなに強いチームなのは驚きだが、もうひとつの泣きどころ、点が取れないフォワードは相変わらずで、二列目のちびっこで得点を奪取するスタイルではやはり限界がある。ぎりぎりの戦い、「真実の瞬間」に堪え得ない(平均身長かそれ以上あるのだからそう低いわけではなく、ちびっこちびっこと連呼して申し訳ないけれど、細身なのでどうしても小さく見える)。釜本再来があるまでは、そのスタイルを突き詰めていくしかないのだけども。

 選手宣誓というのが大嫌いで、ニュースであれを映しているのを見てもすぐにチャンネルを替える。だが、ニュースでも報じるほどだから、あれが好きな人のほうが多数派で、おそらくは絶対的多数派で、用意されたそらぞらしい美辞を大声で唱えるのは醜悪だと心底感じる自分がへそまがりということになってしまうのだろうが、官僚の書いた原稿を棒読みする国会答弁のあの醜怪さを嫌う人なら同感してもらえそうなものだが。日本選手のインタビューも嫌いで、「えーと、えーと」などと間投詞を挟みつつ準備してきた公式見解じみたことを思い出しながら答えているさまは、正視に堪えない。そんな中で、久保選手のインタビューはすばらしい。よどみなく的確なことを的確な表現で答えるのにはほれぼれする。スペイン戦で負けた悔しさの中で、ことばが出ないことをことばと表情で表わしていて、打たれた。「スペインが勝利し、これで一面はすべてスペインだ。日本のことは誰の記憶にも残らない」。残酷だが客観的に真実でしかないことを言い切る。彼がすばらしいのはプレーだけではない。重要なのは客観性である。天上の視点から自分を見ることのできる人のことばであった。吉田選手のインタビューもいい。だてにヨーロッパで長くやっていない。あと、陸上中長距離で入賞した選手も落ち着いたいい受け答えだった。おのれをよく知り、目標をはっきり見すえていることが伝わった。

 メダル獲得以外は失敗だと思っていた今回の大会で、三位決定戦に敗れたという結果は失敗であって、失望は大きい。フランスもドイツも敵じゃなく、アルゼンチンも下に見ていたが、スペインとブラジルには及ばぬチームだったことはまざまざと見せつけられたし、メキシコも互角かそれ以上で、勝てることもあれば負けることもある相手だとわかった。だからそれら3国より下る結果なのは妥当性に欠けておらず、それよりいい成績を得るためには運命がもう少しほほえんでくれる必要があったということだ。期待というのは裏切られることと表裏だ。分不相応さは感じつつも、優勝という夢を見させてもらった。ワールドカップ出場という夢を見たあとのロスタイムに奈落に突き落とされた経験よりはもっとふわふわした実体感のない夢だったが。はかない夢が泡と消える経験を通じて、選手もファンも成長していくのだ。

 だが、この敗北で得たものもある。子供のように見栄も外聞もなく泣きじゃくる久保選手の涙だ。そこそこのメダルを取ってのそこそこの喜びなどとは願っても取り替えてよいほど、尊く貴重だった。見ているこちらの心が震えた。期待されたメダルが取れなかった選手が泣くのはどのオリンピックでも見せられてきたが、全く心を動かされることなく、不快な雑音としか感じていなかった。しかしあの光景は、こう言ってよければ神話的でさえあった。泣きいさちる猛々しくも無垢なスサノオを、ヤマトタケルを見るような。少年よ神話になれ、と歌おうか。

 女子サッカーの決勝戦の時間と場所が直前に突然変更され、そのあおりで男子の三位決定戦の時間も前倒しになった。三位決定戦のほうはNHKが時間変更に対応してくれたのでよかったが、女子決勝の中継は民放だからあっさりキャンセルされた。女子であろうと決勝であればぜひ見たいのに、見られなくなって怒り心頭だったが、翌朝6時に目が覚め、「こころ旅」の再放送をやっているかと思ってテレビをつけたら、決勝戦の録画を放送していたので、前半途中から見ることができたのは幸運だった(あの日は土曜日だから「こころ旅」再放送はない日だった)。そもそも真夏の11時キックオフなんてのが始めから非常識な日程であり、夜9時からというのはさもあるべきなのだが、最初からそうしておけよ、という話だ。アメリカ代表が決勝に進むという前提で、アメリカでの視聴に適当な時間をアメリカのテレビ局が設定していたけども、スウェーデンとカナダの決勝になったので、選手に好適な時間に急遽変更したのだという解説があったが、さもありなんと思う。オリンピックだけでなく、巨額のテレビ放映権料はスポーツを歪めている。サッカー選手の年俸や移籍金は正気の沙汰とは思えない。早くあのサッカーバブルが崩壊することを心から願う。

 男子柔道のテレビ解説もコーチが選手に飛ばしている指示を聞くようでおもしろかったが、女子サッカーの石清水の解説もよかった。サッカーをエンターテイメントとして見ていない、真剣に勝ってほしい、強くなってほしいと願っている人の声だった。特に、小さく心の声が漏れ出しているようなところには引き込まれた。あの選手(まだ現役だったっけ?)は、アメリカ戦で疾走するモーガンをファウルで止めてレッドカードを出されたことがあったが、あんな賞賛されるレッドカードはなかった。「澤穂希の時代」を生きた人だ。

 ともかくも、結果如何にかかわらず、われらの代表チームを応援しつづけてやまない。無観客試合でも、入れもしない会場の外に来てまで応援する愚かしく美しい人々とともに。