山陽快晴、山陰は雪

 先日、東京からの帰り道、岡山からの伯備線で、いつもの冬の山陽快晴、山陰積雪の風景を見た。関越道の立往生が発生した寒波のときである。

 雲もほとんどない晴れた広島を出たバスが快調に走行し、少しうとうとしかけていたら、やにわに速度を落としはじめ、窓から見ると雪の中に島根県境の標識、なんてこともあった。この時期の山越えでは普通の経験である。夏はどちらの側でも大して変わらないが、冬は山の南北でこうも気候が違う。雪は北陸よりはずっと浅くて、沿岸部では積もることも少ないが、それは雪の代わりに冷たい雨が降るだけのこと、その分北陸に劣る。国境の長いトンネルもないし、ノーベル賞作もないし。

 

 この季節に寒い思い出はいろいろある。

 ルーマニアを旅したとき、乗る予定の列車が雪で遅延した。はじめは1時間遅れということで、暖かくもない混んだ待合室でそんなに待たされるのかとうんざりしたが、1時間ですめば何でもなかったとすぐに知る。3時間、5時間とどんどん遅れが重なっていくのである。とうとう10時間遅れになり、そしてそれに乗り遅れた。アナウンスのことばがわからないから、折々インフォメーションに聞きに行くのだが、あまりに遅れがひどくなるのでしばらく行かないでいたら、その間に到着し発車してしまっていたのである。しかたなく、もう暗くなった見知らぬ街を凍える雪道に難渋しながら宿を探し、翌朝今度は大した遅れもなくやってきた列車に乗ったことだ。初めから10時間遅れるとわかっていれば、明るいうちに街歩きをしたり食堂やカフェに入って待ったりしたものを、じわじわ遅れを重ねてきたので駅に縛りつけられたまま過ごすことになったのもつまらないことだった。だが、雪で列車が閉じ込められる名作、クリスティーの「オリエント急行の殺人」やヒッチコックの映画「バルカン超特急」のような体験の匂いを嗅いだと考えて、慰めとすることはできる。

 ほかにも、凍結のアムール川の上の雪原散歩とか、サハリンでは海まで凍り、宮沢賢治の旅したスタロドゥープスコエ(栄浜)では岸から少し先まで凍りついていて、恐る恐る海の上を歩いたものだ。

 そのような酷寒の地で困ったのは、カメラである。シャッターチャンスに切れないことがしばしばあった。外国と言わず日本でも、三信遠の山峡の徹夜の冬祭りを見に行ったときには電池の出力低下に難渋した。

 それらの経験を踏まえての疑問なのだが、電気自動車は本当に大丈夫なのだろうか。

 トヨタの社長がガソリン車全廃・電気自動車完全移行に疑義を示したのは二酸化炭素削減の観点からで、電動車の電力需要のため発電量が格段に増えるなら、結局総体として二酸化炭素削減にならないのではないか、そのためガソリン車を打ち捨てていいのかということだが、私の疑問はそれとは違って、電気自動車は寒冷地でどうなのか、災害時に安全を守れるのだろうかというものである。つまり、カメラのように、寒冷地では電池の出力が落ちるのではないか。暖房にも電池を使うなら、さらに消耗するだろう。冬の寒冷地でも温暖な地域並みの性能が保証されるのかどうか。

 世界に冠たる豪雪地域をかかえるこの国では、このあいだのような雪による立往生が発生するのはままあることだし、天災列島だから雪でなくても通行止めの動かぬ長い車列はどこでも現われうる。そんなときに、電池が空になったら? それが冬の夜の山中だったら? ガソリンなら携行缶で補給できるが、電気の場合はどうするのだろう。

 また、水害大国でもあるこの国で、水没したらショートするのではないか、感電はしないのか等々の心配がいろいろある。素人の疑問であって、技術者はとっくに承知で対応していることとは思うが、知りたいものだ。

 いずれにせよ、設備や制度は非常時を想定して設計されねばならないというのは動かすべからざる真理である。特定の地域や住民が一方的に不利になることも避けてもらいたい。

 シベリア鉄道のロシア号は客車ごとに石炭ストーブを焚く暖房だったという。「いまのシベリア鉄道ならば、電気で暖房するのも、機関車からスチームを送ってもらうのも容易ですよ。しかしですな、もし停電したり、パイプが切れたりしたらどうなりますか。ほかの国ならば震えていればすむでしょう。しかし、シベリア鉄道の客は凍え死んじゃいます。いちばん安全で確実なのは石炭ストーブなのです」という鉄道技術者のトップの説明を宮脇俊三が「シベリア鉄道9400キロ」に書いている。いかにも、いかにもと思う。

 バリバリうるさく排気ガスをまき散らすガソリン車がいいとは全然思わない。それがもっとよいものに席をゆずって退場するなら歓迎するが、それが本当に「もっとよいもの」であることをまず示してもらわなければならない。

 

 延期されたルヴァンカップ決勝も終え、サッカーJリーグのシーズンが終了した。

 新型コロナ流行に悩まされた今シーズン、厳しい条件下でも全日程を消化した。チームに感染者が出ても延期延期で日程をやりくりし、ルヴァンカップまでやりきった。ACL出場チームは見るも気の毒な過密日程になったが、文句を言わずに従った。国際試合の日取りも無駄にすることなく、ヨーロッパのクラブに所属する選手ばかりを集めて相応の相手とヨーロッパで試合を行なった。称賛すべき手腕だ。

 前例のない状況の中、リーグ戦は整然とコントロールされていた。降格なし昇格あり、選手交代は5人まで、前後半とも飲水休憩を入れるなど、今年度限りの特例措置を盛り込みながら。指針が明確に示されていたからできたことである。華々しい勝ち戦は誰もが好むが、今回ははじめから負け戦と決まっていた。強いられた後退戦の中で、観客を含む関係者の被害を最小限に食い止める采配をした。無関心な人の目にアピールしなくても、間違いなく偉業である。

 開幕直後に中断を余儀なくされ、4か月の中絶期間のあと、まず無観客試合(これを「リモートマッチ」などと称していた。それは不適当な言い方で、無観客試合であるものをそう言い換えるのは言語の恣意的な操作、つまり言いくるめ、ごまかしであるのだが、サッカーの世界で「無観客試合」は懲罰として行なわれる習いであるから、これはそれとは違うのだとことばの上で示したかったわけで、それは意地である。意地を張るのは悪いことではない)をもって再開。その後徐々に観客を入れていったが、しかし声を出すことは禁止され、観客もそれに従い、拍手をするだけだった。海外メディアはこれを無言の幽霊のごとき「ゴースト観客」と呼んでいたが、揶揄を多少含みながらも、半分は驚嘆だったろう。彼らにはまったく無理な注文だから。

 サッカーはもともと下層階級のスポーツで、今もそうだ。観客に声を出すななどというのは、犬に吠えるな、鳥に鳴くなと命じるようなもので、守れるはずがない。欧米人はそう考えるし、それはまた実態でもある。

 そんな無理筋の命令、いや命令ですらないお願いが、日本ではしっかり守られる。なぜか。

 日本でサッカーは(それ以外の競技全般も)もともと学校スポーツである。プロリーグが確立している今も、高校サッカーはU18、大学はU22として機能している。

 学校スポーツであるという出自は、「師の教えに従う自己鍛錬」という性格を色濃く持たせ、そういう「出生の記憶」が今も保持されている。プロ選手でもフィールドを出るとき一礼する美習にその一端が見られるとおりだ。年俸が下がってもヨーロッパへ行きたがり、クラブのほうも、主力選手に対してあまりに少額の移籍金であっても快く送り出す。修行だからである。厳しい道場で強くなってこい、ということだ。

 サポーターも元は母校の応援に声を嗄らしていた連中である。「母校」の選手のたっての頼みなら、校長以下頭を下げての理のある懇願なら、たいていのことは聞き入れる。彼らあっての自分だという立場を忘れることはない。自分あっての彼らだという思い上がりから遠い。観客の男女比は知らないが、いずれにせよ欧米よりはずっと女性客が多い。「サポーターを喜ばせたい」という選手の思いは、学校時代、活躍すれば、勝利すれば、涙を流して喜んでくれるクラスの女の子の声援に応える気持ちに重なるだろう。

 入場者数制限の上限はしだいに引き上げられ、やがて鳴り物も許可された。むろん、観客数は昨年度に比べ大幅に減った。経営が苦しいところも出てきたようだが、それでも、今期だけ見ればJリーグは世界最多の観客動員数だったのではあるまいか。ルヴァン杯の決勝なんて24000人も集まった。誇ってよいことだ。

 

 そのように称賛すべきところの多い日本サッカーであるが、秋春制推進(春開幕・秋閉幕の春秋制をヨーロッパと同じ秋開幕・春閉幕の秋春制に移そうという欧米かぶれたちの迷妄)という恥ずかしい議論を根絶することがいまだにできていない。すでに結論が出ているはずなのに、否決されても何度も何度も提案してくる。これは冬に天気のいい地方の人間の考えでしかないのだ。雪国では冬の開催は無理なのだ。

 雪が積もればまず除雪がたいへんだ。大雪なら交通にも支障が出る。ただでさえ都会地より少ない観客がさらに減る。週末は昼開催でも、寒さひとしおの平日夜に開催しなければならないことも出てこよう。それでよい集客が見込めるはずがない。さなきだに経営基盤の脆弱な雪国北国の田舎クラブにさらなる負担を強いるだけである。全都道府県にJクラブをという一方の理念をないがしろにするものだ。

 また、秋春制だと学年をまたぐことになり、日本の宝である高校サッカー大学サッカーと別カレンダーになってしまう。

 夏は高温多湿で選手にはつらいが、夏の夜の観戦は観客にとっては快適である。日本が属するアジア地区は熱帯の国が多く、高温多湿の環境で国際試合を行なわなければならないことが多いのだから、それに順応するというメリットもある。選手ファーストは悪いことではないが、だからといってもう一方の柱である観客を虐待していい理由はない。

 秋春制の語を目にするたびに、冬の快晴の空しか知らない人間がこうも多いのかと嘆息する(ま、人口比から言えばそっちのほうが断然多いのではあるけどね)。

 新設の女子プロリーグは秋春制で行なわれるらしい。男子のほうで反対が強固なので、注目薄い女子のほうでそろりと手を出してきた。狡猾なジャップの小ずるいやり口である。統一されたカレンダーが壊される。非常にあくどい。

 

 かつてドイツに留学していた学者文人の回想記を読むと、冬は雪空でなければ重い曇天続き、鬱々として滅入ったなどという記述によく出会った。で、自分がドイツに行ってみると、冬だからといって別段気分に変わりはない。山陰の冬みたいな天気で、いつもと同じなじみの冬である。あれは「君知るや南の国」の人たちの感想であり、ドイツは「山陰」なのだと知った。陰は北、陽は南。だからアルプスの北、「アル陰」なのである(イタリアは「アル陽」で、アルプス真ん中のスイスは「アル中」かな)。

 NHKが職員に地方勤務を課すように、サッカー協会も職員を雪国勤務に出せばいい。そうすれば秋春制などというばかなことは金輪際言い出さないだろう。世界は広いが、日本も十分広いのだ。その気候のバラエティは世界にも稀な幅広さで、匹敵するのは中国とアメリカぐらいしかないほどなのだ。それを忘れてもらうまい。

 で、中国やアメリカに聞きたいのだが、電気自動車を満州チベット、アラスカやカナダで走らせて本当に大丈夫なのか? 石炭ストーブで乗客を守るロシアがEVハラショーと言うなら信用するけども。