リオ五輪雑感

ちょっと旧聞だけど。
サッカーの日本代表は残念だったが、本来あの対戦相手で1勝1敗1引き分けは大いにありうるし、決して悪くない成績だ。グループ1位のナイジェリアが3連勝か2勝1分けで走ってくれたら決勝トーナメントに行けたわけだし。スウェーデンには最初から勝つと確信していたが、結果として銅メダルを取ったナイジェリアに1点差負け、南米最優秀選手をオーバーエイジにもってきた大陸の雄コロンビアに引き分け。世界的に見れば何も特別なことは起こっていない。
実は、ナイジェリアには勝つか、悪くても引き分けだと思っていた。大会準備でガーナ、南アフリカギニアと対戦し、きれいに勝っていて、黒人特有の身体能力にも慣れていただろうから、それに振り回されることはあるまいと思って。しかし、オーバーエイジの選手はその試合に出ていなかったし、彼らを含めて世界の大舞台を経験していないので、ひどいミスばかり犯して自滅した。それに、1点差というのはだいたい0−1とか1−2のことである。4−5はありえない。4点取ったら普通は勝つよ。引き分けすら想像しにくいことで、ましてや負けるなんて、常識を逸脱している。
しかしながら、(PKを除いて)日本チームの得点はことごとく美しかった。アジア予選からそうだ。不思議なチームである。得点にならなかった美しい崩しも多い。
けれど、ミスが多かった。あんなに愚かなミスをしていれば、罰せられなければならない。だから、結果は至当である。だが、ミスの多さを得点力と少しの幸運で乗り越えてもよかった。常識外れもいいじゃないか。ま、常識どおりで文句はないけれど。


いろいろな涙を見た。
ブラジル−ドイツの決勝戦は、できすぎたストーリーのようだった。PK戦で5人目のドイツの選手が止められ、最後のキッカー、ネイマールが決めて勝つ。ネイマールは泣いていた。プレッシャーのすさまじさが思われる。ハッピーエンドでそれから解放された瞬間涙が溢れるのは、非常に人間的な光景だ。
ホームだから声援もものすごいのだが、それは期待の反映で、ふがいなければ容赦なく自チームにもブーイングする。予選リーグで0−0なんて試合を続けていたときは、女子選手の名前をコールされていたという。あんな過度の(と日本人には思える)重圧の中でいつもプレーしていたら、そりゃあ鍛えられるよね。
それを思えば、日本のサッカーはプレッシャーがない。南米選手にはそのことを批判しながらも日本が好きな人が多いが、きっと無用なプレッシャーがなくて快適なのだろう。監督は尊敬されるし、給料は必ず支払われるし。


泣いたといえば、レスリングの吉田だ。負けて泣くのは珍しいことではないが、あんなに泣いた選手は初めて見た。期待の重圧を感じていて、責任を果たせなかった気持ちからなのだろう。日本人は露骨にプレッシャーはかけない。無形無言のプレッシャーであり、責任感のあるまじめな日本人はそれをひしひしと感じる。察するというやつだ。よき日本人である彼女は、それを過剰に意識していた。きわめて日本的なあり方だったと言える。
彼女は父親にレスリングを習い、その父親を亡くしていると聞いた。敗戦後、観客席の母親と抱き合いながら、「お父さんに怒られる〜」と言っていたのが耳に残っている。トルコの女の子はみなファザコンだが、日本もけっこうそうなのか? 女子選手と父親の関係はおもしろいかもしれない。重量挙げの三宅親子とか。女子選手は底に愛のある厳しいコーチを父とも兄とも感じ、従順に従うような印象があるのは確かだ。鬼の大松とニチボー貝塚とか。
勝ったアメリカのコーチが声をかけにそばに来たが(長年君臨してきた王者に対する当然の敬意である)、日本のテレビのインタビューが終わらず、吉田選手が泣きつづけていたので、去っていってしまったのがおもしろかった。インターナショナルな配慮がドメスチックな要請に負けていた。


「攻め続けましたね」「それが自分が教わったレスリングです」
選手の発言では、この受け答えがよかった。だいたい日本人には名文句が少ない。自分のことばで話さないからだ。インタビューは定型句ばかりである。答えるほうだけでなく、質問するほうも。それでは単なるセレモニーだ。日本人のセレモニー好きは骨髄に徹している。
加藤沢男のような最終種目での大逆転で優勝した内村に対し、会見で「あなたは審判に愛されているのではないか(つまり、ひいきされているのではないか)」と質問した記者に、「無駄な質問だ」と横からぴしゃりとやったウクライナの選手もすばらしい。王者の実力を知り、自分がそれにわずかに足りなかったことを知っている最高の銀メダリストの発言だった。とっさに出ることばによって、その人の本当の価値がわかる。


美しい敗者がいる一方、醜い敗者もいる。だだ1人を除いてあとは全員敗者になる運命なのだから、敗北を受け入れるのはつらくても必要なことなのだが。
サッカーの韓国代表は準々決勝で敗れたけれど、終わったあと執拗に抗議をしたようだ。韓国らしい。自チームにも非難を浴びせるが、相手チームのエースで得点者のSNSに罵りの書き込みをしていたそうだ。事実を、現実を認めることができない人々である。罵れば事実がくつがえるとでも思っているのか。
ある中国人が、日本人にとって歴史は学問、中国人にとって歴史は政治、韓国人にとって歴史は願望、と言ったそうだが、至言だね。日本人が学問というのには多少割引が必要だが、あとは本当にそのとおりである。
好太王碑捏造説なんてのもあったな。日本の特務機関が碑文を書き換えたという説。当然のごとく否定された。都合の悪いものは捏造だとする考え方の人は、自分自身が都合が悪ければ捏造をする人間だということを語っているのだ。


この五輪では、観客のブーイングや野次が問題になっていた。要するに、ブラジル人にとってのスポーツはサッカーであり、サッカーの観戦(というか、参戦)様式でしかスポーツが見られない「パブロフの犬たち」だったのだろう。サッカーがしょせん下賤なスポーツだということでもある。その中で時おり高貴の瞬間が輝く。


大会中、強盗のニュースをよく聞かされた。だが、強盗事件はリオデジャネイロではふつうのことであり、リオの日常の視点から見れば、その中にオリンピックがよそものとしてやってきたにすぎない。カモを大勢引き連れて。リオにとってはオリンピックが侵入してきた異物で、オリンピックにとってリオが客体なのではない。
選手村やそのほかのホテルで、湯が出ないだの、水があふれるだの、ドアが閉まらないだのといった苦情が頻出したらしいが、一部の先進国以外のこの地球上ではごくごくふつうのことである。バラの木にバラが咲いているだけ。盗みも日常茶飯事だが、選手村の客室係がしてはさすがにまずい。逆に、客室係を強姦しようとした選手が3人もいたという。こうなると目糞鼻糞じみてくる。
強盗事件も(当然)多かったが、強盗のでっちあげをアメリカの金メダル選手がやったのは新機軸だった。
われわれナイーブな日本人は、オリンピック選手を崇拝する習性があるが、オリンピックは倫理性を競う大会ではない。しかし、日本のスポーツ選手はけっこう倫理的で、選手に倫理を求めることを観衆も選手自身もさほど奇異に思っていない。日本の運動選手はすべて「代表選手」だからであろう。日本のスポーツはまず学校スポーツであって、学校の代表として全校生徒の前で壮行会などやってもらっているから、母校の名誉を賭けるという矜持に慣らされている。私生活としては不良もかなりいるけれど、こういう態度は身についている。まして国を代表するともなれば。高野連の呪縛というか、何にせよ自他ともに倫理的にならざるをえないのである。
そんな日本の特殊事情を離れれば、スポーツ選手は身体能力が高いだけのあんちゃんねえちゃんである。選手村でコンドームが配られるのも、現実に対応しているわけだ。優秀な兵隊だということだ。兵隊とは強姦をする連中のことである。


あと、閉会式で首相がコスプレをやったようだが、つまりコスプレは日本の文化だと宣言したわけだな。