ヒヤミズピック讃

 ボルネオにいたとき、ちょうどアジア・マスターズ陸上の大会があり、それに朝原選手らの400メートルリレーチームが出場すると聞いて、見に行った。チームは45歳以上の部で世界記録を出して、みごと優勝した。その記録がどれほどのものかと思って調べてみたら、日本の中学生記録より遅かった。かつてのオリンピック銀メダリストらが出した「世界記録」といえど、あの歳になればそんなものか、男盛りで中学生の後塵を拝すのかとちょっと感慨を持ったが、しかし女子の日本記録よりは速い(女子世界記録よりは遅い)。これにはいろいろ考えさせられる。女性のトップは男子中学生以下。それはうなずけることである。世界チャンピオンにまでなった日本の女子サッカーチームが、日本の県代表でもない男子高校生チームにボロ負けするのだから。

 

 こんな挑発めいたことを書くと憎まれてしまうだろうが、でも書く。オリンピックの女子部門って、いるの?

 その体のつくりを客観的に見るならば、女性は、柄が小さく、胸尻が大きく、激しい運動に向いているとは言えない。

 乳房については、大きさをもってよしとしていいかどうかわからない。男どもを引きつけるという意味では非常にポジティブだが、実用性ではどうなのか、つまり大きければ母乳の出がいいのかどうかよく知らない。モンゴロイドの乳房は概してコーカソイドのより小さいが、子どもを育てる上で別に支障があるとは思えない。チンギス・ハーンのお母さんのおっぱいがどんなのだったか知らないけども、かりに平均的だとして、それは平均的なコーカソイドより小さいわけだが、どんなに小さかろうがチンギス・ハーンが育てられれば十分だ。だから乳房の大きさについては云々しないとして、しかし腰が大きいのは女としてすばらしいことである。安産体型なのは。だが、そういう女性としての望ましさが、運動能力の足枷となる。女性については、必要以上の運動能力の獲得より出産能力のほうが優先されるのは当然のように思うのだけど、まちがってますか? 女性の運動能力の競争って、要するに出産育児に不利な体型の者の競い合いということになりませんか?

 運動能力のピークは出産適齢期と重なる。運動能力が落ちると引退するが、それは出産や育児などの体力を必要とする人類的重要事にとっても能力の衰えてくる時期であるわけだ。サッカーの澤選手が引退したとき、まだまだ中心選手として、あるいは代表選手としてだってやれるのは明らかだったが、引き止める声はほとんどなかった。そりゃそうだ、子供がほしければ30代後半はタイムリミットぎりぎりなんだから。無事子供が生まれて何よりだった。人の考えはそれぞれだとしても、妊娠出産をあきらめてまで選手生活をすることはないというのは常識的な判断だ。

 人生における成功とは何か。よい父親、よい母親になることではないか。金だの名誉だの、そのほかのことはこれに一等ないし数等下がる成功に過ぎない。よい父親母親になることを人生の最重要事とすると、まず似合いの配偶者を得ることが必要になるが、運動能力の高さは男としての価値を高め、その点で有利である。運動能力の高い男と低い男がいたら、高いほうが選ばれるのは自然だ。しかし、運動能力の高い女と低い女の場合、低いほうが選ばれても不自然ではない。運動能力の高さは男としての魅力の大きな部分を占めているが、女にとっては、ほかにいろいろ基準があるうちのそこまで重要でないひとつに過ぎないのである。ドジでトロくさい子のほうがスポーツウーマンよりもてたりするのは、巷間珍しくない風景だ。よい母親になるのに最も有利な条件は愛情深いことだが、トロくささは愛情深くあることを妨げないし、むしろ親和的だろう。

 かつての冷戦期、東ドイツのメダル狩りはすさまじかった。あんな小国が米ソ両超大国と渡り合うメダル獲得数を誇っていたのだ。人口で3倍の西ドイツをも尻目に。特に女子選手が金メダルの荒稼ぎをやっていた。でかくていかつくて、これで女か、というのが正直な感想だった。異様だった。何かクスリをやっているに違いないと当時から言われていた。こんなのに勝たなくても日本女性の値打ちはいささかも減じない、と思った。東ドイツ女子選手がその偉大な体躯とともに示していたのは、女は男に近いほど金メダルに近くなる、ということだ。そりゃセックスチェックするよなあ。実際髭もじゃの男になってしまった選手もいたことだし。

 男子のナンバーワンは人類のナンバーワンだ。だが女子のナンバーワンは、「人類のアンダーカテゴリー」のナンバーワンである。オリンピック種目に関する限り。女子ボクシングの試合を見て、ぞっとした。これ、男のトップ選手とやったら、一発で破壊される。中学チャンピオンと世界チャンピオンの試合をプロモートしたらスキャンダルだというのと同じだ。男同士の殴り合いは意味がある。メスや縄張りをめぐって闘う動物界のオスどもの習いである。だが、女同士の殴り合いはフィクションだ。女のケンカはよくあるけども、せいぜい掴み合いで、殴り合うことはまずないし、それにすぐ男が止めに入る。護身術なら意味があるが、これは競技にならない。いつから男がすることはすべて女もしなければならないと決まったのだろう。たしかに、男にできることはすべて(ヒゲを生やすこととハゲること以外)女もできる。運動能力についてはそれはジュニアユースレベルだが。女にできることもほとんどが男もできる。だが絶対にできないことがあり、それは出産と哺育だ。つまりこの世界には、男のほうがよくできることと女のほうがよくできること、そして女にしかできないことがある。人類社会で性による分業がはるかな昔から行なわれてきたのはそういう所与に由来する。分業は人類とともに古い。

 女子スポーツが盛んなのは、豊かな国である。つまり、「カネモチピック」である。競争相手も男子の場合よりずっと少ない。男子大会には貧しい国も参加する。だが、女子に対しては態度は異なる。「途上国」とくくられる国の中には、女性には別の役割があるというしごくまっとうな考えをする国々人々がたくさんあるわけだが、一方それを原理的組織的に排斥する「先進国」と称する国々がある。どちらが正しいのか、よく考えてみたほうがいい。オリンピックの女子部門は(男子部門もかつてそうであったような)「カネモチピック」であり、西欧式人間理解を世界に広めるための「センデンピック」である(政治の道具でしかなく、西欧の価値観の押しつけでしかないノーベル平和賞のように)。

 女性には月経がある。それは女性が女性であることの根源に横たわる生理であって、一人前の成人女性たるしるしである。しかし、経験がないのでよくわからないが、個人差はあるにしても、その期間中の数日はメンタルもフィジカルもダウンすると聞く。女性が男性に準じた条件で競わなければならないときには、それは大いにハンデとなる。女性であるがゆえのハンデだ。だったら、「男性に準じた条件」で競わなければいいのではないか? 出産という種の維持のために不可欠な、いわば聖なる仕事のために女性に課せられている生理の働きが「ハンディキャップ」になる状況そのもののほうがおかしいと考えるべきではないかと思うのだが。オリンピックの決勝の期日がメンスの日と重なってしまうことは必ず起きるだろう。そんなときには生理を遅らせたり早めたりする薬を飲んでいると聞くが、オリンピックのような身体能力を競う競技の場合、これドーピングでしょ? クスリによって身体の正常な働きを操作するのだから。クスリ飲まなきゃ競技ができないって、それヤバいってことじゃないですか? 別に禁止しろとは言わないけどさ。また、激しい練習を積んでいるときには、月経がなくなるということも起こるそうだ。絶対マズいだろ、それ。虐待、あるいは本人がそれを望んでいるとしたらマインドコントロールか、いずれにせよ処罰対象にすべきなんじゃないの? そんなのを見れば「狂ってる」と思うのが正常な反応なのでは? 健康的でなく、健全でなく、つまり「スポーツ」的でなく、要するに本末転倒だ。こちらの事情にお構いなく決められた期日に人生がかかるような生き方でなく、そんな日程に従わされない生き方や人生設計をするほうがいいのではないかと真面目に思う。

 つまり、女性はこれを「男性」として見るならば、体格未発達の胸部臀部肥大症および定期性出血症候群罹患者であるわけだ。その人たちの競技は、オリンピックであるより「パラリンピック」であろう。その該当者が人類の半数であるというだけで、「パラリン」から「オリン」に昇格している(ああ、またいけないことを書いてしまった)。

 

 先日実際に見ることができて概念をつかめたマスターズ大会という名の中高年者たちの大会、いわば「ヒヤミズピック」だが、それは年齢別カテゴリーに分けて実施されている。100歳以上の部まであるそのカテゴリーで、たとえば70-74歳のカテゴリーでは、70歳や71歳が断然有利だ。若者に近い者ほど有利なのである。すると、記録達成や勝利が第一の目的とされるような老人競技会なら、その基本思想は「若いってすばらしい」ということでしょう? その伝でいけば、女子スポーツは「男ってすばらしい」ということになってしまう。

(一般論として、制限の存在はリミットに近い者を有利にする。小学校の運動会では3月生まれの子は4月生まれの子にどうしても劣る。ガキ大将の多くはたぶん4月5月生まれだ。ジャイアンは4月生まれ、のび太は3月生まれではないかと睨んでいる。ボクサーが制限体重ぎりぎりまで減量するのもそれによる。遺伝子が男に近い女子選手をめぐって悶着があったのも同じだ。)

 100メートル走のタイムで比べれば、老人は若者にはるかに及ばない。当然である。では、老人の価値は若者より低いことになるのか? もちろんそうではない。年寄りの値打ちは飛んだり跳ねたりすることではなく、別にあると誰でも知っている。老人についてそう考えるのを問題視せず、女性についてそう考えるのを問題視するならば、その異なる扱いの理由は何かと考えてもいいだろう。

 ヒヤミズピックの記録は「世界記録」とされるが、本当に世界記録だろうか。たとえば70代なら70代で、今の記録よりもっといい記録が出せる人はたくさんいると思う。参加しないだけで。実際朝原選手以外のリレー銀メダルメンバーは大会に参加しなかったし、本当に運動能力にすぐれたおっさん爺さんが参加しなくてもまったく勝手である。しないほうが立派だとさえ言える。そんな大会の「世界記録」は、こう言ってよければごっこ遊びである(朝原選手が走ったのは、「世界記録」を出してニュースになって、東京五輪の翌年関西で開かれる世界マスターズ大会を盛り上げるのが目的だったそうだ)。女性についても同じことが言えるだろう。カネモチで、かつ西欧的価値観に同調する女性のナンバーワンを決めるだけでしょう。それ、世界の女性の何分の一をカバーしてる? それとも、ゆくゆくは西欧的価値観が世界を覆いつくすのであって、今はそれまでの過渡期?

 ヒヤミズピックの目的は、競争が第一ではない。ずっと重要なのは自己表現や健康増進であり、交流である。参加者は参加費を払って自腹でやってくる。入場無料のスタジアムに観客はほとんどおらず、出番前や後の参加者たちが陣取って仲間に声援を送るだけ。ペットボトルロケット飛ばしっこの世界大会があるのかどうか知らないが(たぶんあるだろう)、そういうものと同列の趣味の催しなのだと知った。競うことは重要な目的ではあるものの、多くの目的のうちのひとつに過ぎず、日頃の練習の成果を示すことや仲間と交流すること、大会のあと観光したりうまいものを食べたりするのがそれに劣らぬ目的である。そういう催しなら、ヒヤミズピック、大いにやってほしい。

 スポーツはすばらしい。それに異論はない。だが、現代のスポーツは数値化である。わけてもスポーツのオリンピック的形態は。数値で見れば、女は男に、老人は若者に数段劣る。しかし、男が女にかなわない領域、若者が老人に譲る領域はある。それは数値化できない。数値の勝利というオリンピック競技の側面を考えれば、女性や老人がスポーツのそんな形態に没入することはない。

 

 パラリンピックについては、これに対して抱いている疑問が3つある。

 健常者が同一規格なのに対し、障害の度合いは人によって違う(ここでもアンナ・カレーニナ公理が当てはまる)。片足が悪い人、両足が悪い人、片手片足が悪い人など部位も程度もさまざまで、足が不自由でも自力で車椅子が動かせない人もいるわけだから、そういう人は車椅子競技には参加できない。競技が参加者に「規格」への適合を要求する。つまり競技が参加者を選ぶわけで、そんな選別的なありかたは大会の趣旨との大きな矛盾ではないのか。

 また、スポーツの鍛錬にケガは避けられない。真剣であればあるほど、その恐れは高くなる。それでなくても体に障害をもっているのに、その体をいじめぬいて危険との間の塀の上を走ろうとするのはどうなのかと思う。2つある足の1つをケガしても大ごとなのに、1つしかない足を危険にさらすのは正気の沙汰ではない。

 さらに、障害を補うために、器械の助けを借りることになる。それも競技に特化した器械、日常生活では使わないような器械を。それはその選手個人のために特別に作られた器械であるはずだ。障害の程度も様態も選手によって違うのだから。当然高価になる。特殊な器械に助けられているのでは、器械の性能を競うキカイピックになるし、費用が非常にかさむということでは、女子や老人以上のカネモチピックである。

 私見によれば、身障者は身障者同士ではなく健常者と競うべきだ。失われた能力の代わりに獲得した能力をもって。盲人が目あきより聴覚や触覚に鋭敏であるように、何かを失った人はその代わりに何かを得ているはずで、その能力のあるものは五体満足にのほほんとした健常者よりすぐれているに違いない。それをもって健常者を打ち負かすほうがはるかに有意義だろう。身障者のみ集まるゲットー競技、ゲットーピックにおいてではなくて、健常者も参加する(というより、健常者の中に身障者も参加できる)無差別の競技で力を競うのがよいと考える。

 それで言えば、女も男に勝てる分野のオープンな催しでその能力を示すのがいいと思う。男に決して勝てない分野で、男より劣ることを示すだけの記録をメダルや国旗国歌総出で飾り立てるよりずっといいと思うのだが。

 

 きょうは壮健な若者も、あしたは身障者かもしれない(死者かもしれない。女(生物学的な)であることはなく、虫であることもたぶんないが)。あしたでなくとも、将来は確実に老人である(それまでに死んでいなければ)。そういう可能性を考えた上でなお言えるのは、パラリンピックや女子オリンピックは必要ない、ということだ。このようなコンセプトでは。

 体にいいし、心にいい。女性も老人も身障者も大いにスポーツをするべきだ。その運動能力も低くない。そこらにいる並みの男より、たぶんパラリンピックに出場する車椅子の選手のほうが能力が高いし、女子柔道選手には軽くぶん投げられるだろう。だが、そういう話ではない。彼らの大会が行なわれるならば、それは男子大会とは別の思想やコンセプトに基づいて行なわれるべきであって、男子と同じコンセプトなら「二級男子」「劣化男子」でしかない、と言っているのである。しかもクスリ漬け、器械従属の。

 最前線でスポーツする男は、要するに兵士である。オリンピックの本質は、兵士の品評会だ。つまり女子オリンピックの基本思想は、「女も兵士たれ」である。男はどのみち兵隊だからかまわないが、女が軍鶏の蹴合いの真似をすることはない。スポーツの競争的な性格が行き過ぎてしまっているオリンピック、メダル獲得競争だとか国威発揚だとかの男子大会を、女性や老人や身障者のような「戦争」の前線に出なくていい人たちにまで広げる必要はない。これは女性差別ではなく、身障者差別ではなく、むしろ尊重だと思っている。オリンピックから離れ、「世界新記録」熱、国威の強調(国旗掲揚・国歌吹奏)、ドーピング等々と無縁のところで、スポーツを楽しめばいい。ヒヤミズピックのように。生理の働きを損なわないこと、過剰に競わず、成績を目標に選手をきりきり追い込まないことが大事だ。兵士でない彼らにふさわしいのはスポーツの遊戯的性格、友好的性格であり、それを男子オリンピックに対置することが必要だし、求められることだと思う。男でないこと、若者でないこと、健常者でないことが欠如でなく特権となる場を作るべきだろう。具体的にどうすればいいかはわからないが、今のこれが違うというのは確かである。もう病膏肓で手遅れなのかもしれないけれど、まだ大丈夫なら、最適のやり方にしてほしいと願う。