村の論理、村の倫理

 タリバンについてさして知識があるわけではないので、まちがいがあればいつでも訂正する。

 最近アフガニスタンのニュース映像で目にしたのは、腐敗した外国の傀儡政権が地生いの勢力によって打倒された光景だ。南ベトナム崩壊と同じ、あるいはかつてのアフガニスタンでのソ連傀儡政権の崩壊と同じであり、基本的に慶賀すべきことである。

 政府軍に対し兵員数も装備も圧倒的に劣弱だったはずの勢力があんな短期間で首都を制圧できたのは、民衆の支持がなければ考えられない。一定の支持はあったはずだ。先の戦争時の大陸における日本軍のように、外国軍に守られた政府の支配領域は点と線だったのだろう。ソ連傀儡政権の打倒後の軍閥による内戦のあと、そして今度のアメリカ傀儡政権の打倒後と、二度にわたり民衆の支持を得てほぼ全土を支配下に入れたのだから、まぎれもなく「正統政権」である。

 しかし、タリバンと総称される勢力は、実はさまざまな集団の寄り集まりのようで、統制は決してよくとれていないらしい。穏健派から武闘派過激派まで、さまざまな考えの者がいるようだし、考えのない者もいるだろう。末端の兵士まで指導部の方針が伝わらず、指導部がどんなものかもよくわからない。戦闘能力があることはわかったが、統治能力があるのか、人材がいるのかという最も重要なこともまったくわからない。

 だが、あの国をまた混乱させ、いわゆる国際テロ組織の温床にしないためにも、アフガニスタンのためを思う人々は、この「正統政権」の穏健派を盛り立てて、そんな状態を脱し、統制がとれるように、統治できるようにしなければならないと思うのだが、違うだろうか? あの国は「革命の輸出」はしない。国内のことしか考えていない。だから国際テロ組織との関りが断てればいいので、そのためには国がよく統治されていなければならない。外国の介入によって問題が解決しないことは、つぎ込まれ浪費されたばかばかしい巨額の資金と戦乱の犠牲者の数ともに何度も証明されている。アフガニスタン人が自分たちの解決策として選んだタリバンの統治に任せるほかないではないか。

 カブール陥落をきっかけに世に溢れるようになったアフガン関係記事のほとんどは、あの国の人々のことなんかまるで考えていない傲慢なものばかりで、うんざりする。イスラム主義は標榜するが、その存在が世界に揺るぎないイランやサウジアラビアと大して違わない程度ではないのかと思う。けれども、前回の統治の際のさまざまな悪名高い前科があるので、残念ながらタリバンには信用がない。かなり根強い嫌悪感を持たれている。いわゆる国際テロ組織をかくまった前科もあるため、明らかにイスラム国ISなどと混同されている。だが、そんな単純にして乱暴な認識には、正されなければならない点が大いにある。

 

 われわれが見ているのは、「村が国を奪う」という出来事である。そして、村の論理や倫理に対し、首都の連中が驚き恐れているのだ。彼らの祖父の世代にはどっぷり漬かっていたはずのものに。

 首都はその国ではない。東京は日本でなく、モスクワはロシアでなく、北京は中国でなく、カトマンズはネパールでなく、クアラルンプールはマレーシアではない。ただしシンガポールシンガポールだ。首都の異常さを地方がある程度緩和するのだが、シンガポールは首都だけの国だから、異常さがはっきり見える。

 首都は、あるいは都市は癌だとまで極論するつもりはないが、きわめて異様な存在であることはまちがいなく、極論はたいていその中に真理の断片を含んでいるものだ。先進国では都市化比率が高いが、アフガニスタンはそうでない。日本ではすでに3分の2が都市民であるけれど、アフガニスタンでは4分の1に過ぎない。村人のほうが圧倒的に多く、都市住民だって大部分はそう昔でない頃に村から流入してきた者たちだ。

 そこには思想的対立があるのだろう。都市的思考と農村的思考の対立が。そして、俸給生活者の巣である都市にメディアがあり、発言する人々がいる。われわれが現在のアフガニスタンについて知っていることは、ほとんどがカブールからの発信によっているので、アフガニスタンの状況と言うよりカブールの状況を細い管から覗いているに過ぎない。いくら情報がほとんどカブール経由だからとて、カブールの偏向した色眼鏡で見ないようにしよう。アフガン人の大多数は農村に住んでいるのだから。外国からの援助は都市に盤踞する権力者を太らせるだけ、首都をうるおすだけで、民衆の末端まではなかなか行き渡らないものだ。破廉恥なくらい「中抜き」されるから。そのことも草の根の人々をタリバン運動に追いやったに違いない。

 情報はすべて多かれ少なかれ偏向している(このブログがそうであるように。これにはあまり情報としての価値はないが)。どのくらいのどんな偏向かをよく見極めるためには、情報源の性格を知っていなければならない。

 英語を話す者を信用するな、と言いたい気持ちをいつも持っている。外国メディアは情報のほぼすべてをその人たちから得るわけだが、それは構造的に歪んでいると考えたほうがいい。その発言内容はよくよく吟味されなければならない。英語を話す人たちは、外国人の後ろ盾で利益を得ている点で、植民地時代の買弁と同じである。カブールに住む外国語ができる連中の多くは、外国からの支援で生活する人たちである。それを忘れてはならない。

 国外への脱出希望者が非常に多いようだ。勝利した者が敗れた側に対して暴慢な行為をするのは古今東西いつでもどこでもあったことだし、復讐もまた人類の普遍的なモラルである(普遍的だとも。アメリカ軍もそのモラルに従っている。ファルージャを見よ)。だから敗者たちに危険はあるに違いないが、それがあるということによってではなく、どの程度か、目に余るかどうかによって判断すべきだろう。

 敵に協力した人たちがタリバンを恐れるのはわかる。日本やドイツ敗戦後の中国における漢奸、フランスにおける対独協力者の扱いを見れば。だが、現実に危険がある人々のほかに、この機会を利用して先進国へ移住したい人も一定数(かなりの数?)含まれているだろう。身の危険でなく、単に今までの恵まれた立場から不利な状態に転落するのを恐れるという程度の人がかなりいるだろうとは考えられることだ。そして脱出希望者や脱出成功者(つまり旧政権側の人々)は、自己正当化のために、状況が悪いことを実際以上に誇張して言い立てるに違いない。割引きは必ず必要になる。

 ジャーナリズムの問題もある。ジャーナリストによってわれわれは情報を得る。だから彼らは必要であるが、ジャーナリストは、こう言ってはなんだが、いわば蠅である。そこに暮らす人でなく、獲物を嗅ぎつけてニュースバリューのある場所へ押し寄せ、収まると引き上げる根無し草だ。食い荒らしては去っていく。自分が赴いた地が危険であればあるほど、環境劣悪であればあるほど「売り物」になる。その報道を鵜呑みにしていてはきっと誤る。

 日本のある地方新聞で、以前その地の大学に留学していたアフガン人(カブール在住の30代公務員)からのメールが紹介されていた。「祈りだけで私たちを救うことはできない。卒業生やアフガニスタンのスタッフが他国に移動できるようにするなり、計画を立ててほしい」。コンテクストも全文もわからないからこれだけで論じるのは酷かもしれないが、外国の援助に頼るだけで、それを当然そうに要求する態度のように見えてしまう。そんな連中ばかりだから、あんなにあっけなく政権が崩壊したのではないかと思える。

 これだけ報道がありながら、外国ジャーナリズムの目(魔手?)の最も届きにくい、カブールから遠い村里に住む人たちの声がほとんど聞けていない。そこにサイレント・マジョリティーがいるんじゃないのか?

 

 「普遍的な価値」を守れと欧米人は言うが、それは「欧米に普遍的な価値」でしかなかろう。タリバンとそれを受け入れる人々は、人類的常識というか、少し前までは常識であったこと、第三世界の農村部では今でも常識であることを信奉しているに過ぎないように思える。それを非難する人たちの「常識」は、人類史から見ればほんのこないだ人類生息地のごく一部で信奉され始めたことではないのか。

 「民主主義」は採用しないとタリバンははっきり言明しているが、それは欧米式の民主主義を採らないということで、ジルガという彼ら流の合議制度には則るだろう。「長老会議」などと訳されるが、要するに家長の会議であり(したがってメンバーは年配の男に限られる)、それは西日本の村の寄り合い(宮本常一が村の民主主義として感心した対馬の漁村の寄り合いを見よ)とそっくりなものだ。直接民主制とされるスイス山間の郷会ランズゲマインデもそうである。

 民衆が圧制と狂信を支持するわけがなく、彼らは自分たち本来のやり方を貫きたいと思っているだけ、欧米流を望まないだけではないか。欧米人が主張する「普遍的な価値」の土地流の対応物を彼らが持っていないと考えるのは非常に傲慢だ。

 

 「女性の権利」が云々されるが、それより「女性の保護」が先である。「女子供」と言われるように、女性や子供は力弱く、力によって権利が主張される社会では、暴力的な男に対して非常に不利である。男の暴力から女子供を守るのが社会のひとつの大きな責務であるのだが、男の暴力から女を守る手段が男の暴力(家族・親族・夫による攻撃抑止と反撃)、という社会は今なお多い。そして、被保護者が十全の権利が得られないのは、あらゆる社会で公理である。

 女性は、その体力気力のもっとも盛んな時期に、乳飲み子をかかえるのと大きな腹をかかえるのを交互に繰り返す。10人はさすがに多いとしても、5、6人は子どもを生むのがまったく珍しくなかった。そんな時期が10年から20年くらいも続くのがごく普通であった。女性の自然として、行動に大いに制約があるのだ。制約に対し制約をもって保護としようというのが伝統的な社会の対処法だった。

 多産は喜ばしいことで、皆から祝福される。それは多死が前提になっているので、医学の進歩によって少死が実現している現在では少産少死こそ望ましいのだけれど、戦乱で人がよく死ぬ国で今なお多産が喜ばれるのは理解できる。少産少死、あるいは子どもを生まない、あるいはそもそも結婚しない「無産女子」のモラルを、かつての多死の記憶を脱せず、したがって多産奨励である国に持ってくるのは、根本的に無理がある。

 腕力でなく、信頼できる警察力によって守られればいいのだが、整備され行き届いた国家の信頼できる強力な警察力がある国が今現在でもどれだけあるか。警察はあっても力が弱かったり信頼できなかったり、そもそも権力が賄賂によってしか働かなかったりする国は普通のことのようにそこここにある。よく統治されている国家の強力で信頼できる警察に守られた国の人々が、そうでない国の住民を自分らの国のようでないことをもって非難するのは筋違いだ。日本でも150年くらいまで良家の女性は家にいて、外に出ることはめったになかった。それは中国でもヨーロッパでも同じである。100年200年程度の差は、人類史全体から見ればほとんど誤差である。ここ100年50年の進展をさも当然のように享受し、それにあずからぬ者を侮蔑する態度は、悪いけど、吐き気がする。

 できるならすればいい。そうなるのはよいことだと思うが、できもしない国に無理やりそれを要求するのはイデオロギー先行の押しつけで、時期が来るまで決して成功しないだろう。アメリカ軍が侵攻しただけで世紀がひとつもふたつも進むのか、ということだ。やがてはそうなるのかもしれないが、現在および近い将来は無理だ。

 妻は妻で、夫が殺されれば、息子を育てあげ仇を討たせる。そんな烈婦の話は、時代遅れとはいえわれわれになじみのものであった。人は個人としてでなく、家族の一員として存在する。欧米の頭脳侵略により組織的に撲滅され失われてしまったが、われわれのところでも戦前までごく普通だった思想、人はそれぞれに役割のある社会構成体の有機的一成分であるという思想には、なつかしさを覚えてもいいはずのものだ。

 

 何にもあれ、イデオロギーによる批判は受け入れられない。西欧主義イデオロギー、都市化イデオロギー、進歩イデオロギー、さまざまなイデオロギーアフガニスタンをめぐって語られていると感じる。現実をイデオロギーによって見るのは共産主義がさんざんやっていたことだが、なに、「西側」もまったく同じだ。

 「民主主義」も「女性の保護」も、タリバンタリバン流にやるだろう。それは「人類の普遍的価値」から逸脱するものでなく、アフガニスタンの現実にはたぶん適合している。だが、彼らが本気で音楽の禁止を考えているなら、それは奇怪至極だ。アフガン人も歌ったり踊ったりするだろうに。彼らに狂信性があるならここだろう。

 

 タリバンのことはよくわからない。彼らの考え方や行動について、論じてよいほどに知っているとは言えない。だが、タリバンでない人たちの行動から、アフガニスタンという国やその一員であるタリバンの行動も推測できるかもしれない。

 空港に押しかける無防備な群衆の図を見て、あんなことで危なくないのかと案じていた。「われわれは対敵協力者だ」と公然と宣言しているようなものだから、攻撃対象になるだろうに。案の定自爆テロでひどいことになった。飛び立つ飛行機にしがみついていた男たちは、当然のごとく落ちて死んだ。想像力がないのだろうか。アフガニスタンの元駐日大使が、70年代は日本に負けないくらい豊かな国だったなどと言っている。たしかにその頃の日本はまだまだ貧しかった。寅さん映画に見るとおりだ。だが、当時のアフガニスタンが日本と比較にもならないことは、セルーの「鉄道大バザール」など、その頃あの国を旅した人の紀行を読めばわかる。どうも、願望と現実が地続きな認識をする傾向があるようだ。

 反タリバンの人がこんな考え方や行動をするのなら、同じアフガン人であるタリバンの考え方や行動もなかなかのものでありそうで、治められがたく治めがたい人と国なのではないかと前途に不安を抱かせられる。

 不安は不安として、進むべき道筋はあるはずだ。アメリカが逃げ出した今、それはアメリカが指示した道ではない。アフガニスタンの人たちが平穏に暮らせることが何より大事であって、そういうごく当然のことがタリバンの目指すもののひとつであるだろうし、そうと信じて人々は支持しているのだろう。それが実現することを願う。