サラワク日本友好協会(SJFC)史稿

サラワクという地名はあるいは多くの人にとって耳慣れないかもしれないので、はなはだ迂遠ながらその説明から始めよう。

サラワクはボルネオにあるマレーシアの州である。すると、あれ、ボルネオはインドネシアじゃなかったっけ、カリマンタンというのは何だったっけ、という疑問を持つ人もいるかもしれない。石油が出るブルネイとかいうのもあのへんにあったような。では、それならまずボルネオから、と話はさらにさかのぼる。

ボルネオはこの島に欧米人がつけた名前であって、マレー語ではカリマンタンといい、インドネシア領の部分は日本でもそう呼ばれる。同じ島である。ブルネイはこの島の西北にある小さな国で、ボルネオの名はこのブルネイに由来する。

さて、ボルネオの歴史は、というところでまた注釈が入る。

歴史はヨーロッパ人と中国人のものである。歴史は文献史料によらなければならず、それは近代以前ではほぼ彼らの占有物であるからだ。

文字を有する民族は近代以前にもたくさんいたのだが、そのような民族のひとつである日本人を考えてみればわかるように、彼らの視線の届く範囲は狭かった。また、文明ごとの特徴もあり、古い文明のインドは歴史にまったく興味がなかった。歴史史料というものをほとんど残していない。人類最古のオリエント文明とその後継イスラム文明は射程が決して広くない。近世以来世界をまたにかけた民族となったヨーロッパはもちろん、せっせとまめに記録する中国人にも及ばないし、ここで問題にするボルネオにはなかなか届きがたかった。

中国文明は記録魔で、王朝の正史を書かねばならぬしきたりを有して、その地に赴いたか否かを問わず、伝え聞きでもとにかく文書に残した。それが貴重な史料となる。

ヨーロッパ文明などたかだか12、3世紀ぐらいから勃興した世界史の新参だが、大航海時代にそれまでのどの文明よりも視野を広げ、世界大になった。彼らも記録好きでは中国人に劣らない。

そんな次第で、こと19世紀以前に関する限り、漢文史料と欧米文献によるしかないのだ。文字がなければ文献はない。先住民ダヤクは無文字民族だ。ジャワでは南インド系のパッラワ文字から作られたジャワ文字が割合古くからあったが、史書となると14世紀まで下るし(「ナーガラ・クルターガマ」)、マレーではアラビア文字の導入による「パサイ王国物語」(14世紀末)まで待たねばならず、かつそれらは物語風で客観的な報告ではない。彼ら自身の古い歴史は中国人とヨーロッパ人(多少はオリエント人)によって書かれる。そのあたりの事情は、古代史が中国史書によって書かれる日本史と同じだ。

 

<ボルネオ>

スマトラと比較すると、ボルネオの特質がよくわかる。緯度はほぼ同じく、ともに赤道をまたぐ代表的な熱帯雨林地域で、オランウータンが棲むのはこの2島だけだ。世界最大の花ラフレシアラッフルズスマトラで見つけ学界に報告したのでその名があるが、それはボルネオの密林にも咲いている。気候のゆえばかりでなく、ボルネオやスマトラが位置するこの海域は浅く、氷河期には陸地(スンダランド)だったため、動植物に共通するものが多いわけのである。富士山より高い山があるのも同じ。スマトラはクリンチ山(3805m)、ボルネオは東南アジア最高峰のキナバル山(4094m)がそびえる。

語源が島の一隅にある代表的な港市国家の名から来ているのも似ていて、ボルネオはそこの西北ある港市国家ブルネイに、スマトラも東北端に近いところにある港市国家サムドラに由来する。

そのブルネイの語源は、サンスクリット語の「varuṇ」(船乗り)とか、水ないし雨の神を意味する「ヴァルナ(váruṇa)」だろうと言われている。ボルネオの呼び名としてはサンスクリット語で「Suvarnabhumi(黄金の土地)」や「Karpuradvipa(樟脳の島)」、ジャワ語で「Puradvipa(ダイヤモンドの島)」があるそうだ。ジャワの「ナーガラ・クルターガマ」には「Nusa Tanjungnagara(タンジュンプーラ王国)」と書かれているという。カリマンタンのほうはサンスクリット語の「Kalamanthana(燃える気候の土地)」とされるが、固有の酸っぱい野生マンゴーとか生サゴ(レマンタ)に出るという説もある(「ボルネオ奥地探検」、p.159)。スマトラのほうは昔、産出する金にちなみサンスクリット語で「Swarnadwīpa(黄金の島)」「Swarnabhūmi(黄金の国)」、また「ナーガラ・クルターガマ」では「マラユの島(Tanah ri Malayu)」と呼ばれていた(渡天竺を志した高岳親王はその途上で「羅越国」に没したが、それは末羅越国Malayuの略で、今のシンガポールあたりだろうと言われている。マラッカ海峡に面したスマトラマレー半島が「マラユ」の土地だったのだろう)。

民族分布も、沿岸部にマレー人と近世に移住してきた華人、奥地に先住民という住み分けになっている。奥地では熱帯雨林の植生と山地である地形から焼畑が行なわれ、また奥地住民は首狩り(ボルネオ:ダヤク族)とか人喰い(スマトラ:バタック族)をしていたことでも知られる。

ボルネオが面積74万3330平方キロで、グリーンランドニューギニアに次ぐ世界で3番目に大きい島であるのに対し、スマトラは面積47万3481平方キロで世界第6位の島。ボルネオは日本の倍の大きさだが、スマトラも日本より大きく、本州の倍である。ただ大きく違うのが人口で、スマトラ5845万5800人(2019)であるのに比べ、ボルネオは2125万8000人(2014)と3分の1以下、4分の1に近い。人口密度はさらに小さく、スマトラが1平方キロ当たり123.46人に対し、わずか28.59人である。

隣接する熱帯の大島で、気候・植生・動物相が同じ、地形も大差ない。石油の産出や木材、ゴムなど、金もいくらか出るというように、産物もほぼ共通しているにもかかわらず、その人口差になってしまうのは、第一には農業生産力による。ボルネオが主に焼畑なのに対し、スマトラでは焼畑もあるが水田耕作も有力だった。焼畑はある区画の森の木を切って焼き、そこに植えつけして収穫して、1、2年たったら放棄、また別の区画の森を切って燃やすことを繰り返す耕作方式だから、広大な「休耕地」の森を必要とする。生産性が低く、大きな人口を養えない。水田が稠密な人口を養えることは、水田地域であるジャワ島はインドネシア全土の1割に満たぬ面積であるのに、人口が6割以上を占めていることからもわかる。

そして、歴史が大きく違う。マラッカ海峡という交通の要衝にあるため、スマトラには古くから貿易の港町が栄えた。交易を基盤にシュリーヴィジャヤという国も栄えた(7世紀)。その後も、マルコ・ポーロイブン・バトゥータのような大旅行家がここを通り、スマトラの諸国について見聞を残している。中国の求法僧法顕も義浄もここを通った。それどころか、義浄のころスマトラにあったシュリーヴィジャヤは大乗仏教の一大中心で、その都マラユ(パレンバン)には僧侶が100人以上もおり、彼はそこに長逗留し仏典の漢訳や著作をした。

スマトラも未開の印象を持たれてきた地域ではあるけれど、トメ・ピレスの「東方諸国記」でボルネオに割かれているのが大部の訳書のわずか2ページなのに対して、スマトラは36ページ。リンスホーテンの「東方案内記」ではわずか3行(!)で、スマトラは6ページである。フィリピン方面から来たマゼラン艦隊がブルネイに立ち寄っているが(「王宮と身分の高い人たちの邸宅をのぞいてはすべて海の上に建てられている」と記している。今も同じ沿岸マレー人の暮らしぶりだ)、西方から香料諸島を目指して来たポルトガル人オランダ人などの眼中にはほとんどなかったわけだ。趙汝适「諸蕃志」にブルネイの記載はあるが、鄭和艦隊遠征の報告である「瀛涯勝覧」にはない。中国からも関心はあまり高くない。

交通の刺激がスマトラを(ボルネオに比して)開かせたのだろうと思われる。そのことは、ニューギニアと比較すればなおいっそうはっきりする。この両者は一般の人からは混同されやすいらしく、ボルネオをフィールドとする民族学者は帰ってくると「ニューギニアはどうだった?」と聞かれることがままあるという。たしかにニューギニアは人喰い首狩りで有名だったりするわけだが。ニューギニアはボルネオよりさらに大きい世界第2位の大島であり(78万6000平方キロ)、動物分布や人種は異なるが(ボルネオのマレー人種に対しニューギニアは色黒縮れ毛のパプア人種)、同じ気候植生の熱帯雨林地域であるなどと共通点が多いながら、人口はその半分にも満たない1000万人程度、20世紀まで山地は石器時代だったというようなところである。主要交通路からややはずれるボルネオと完全にはずれるニューギニアを並べて見れば、交通が発展にとっていかに重要かがわかるだろう。

一方で、ボルネオがスマトラにすぐれるのは、火山なく地震なく津波ない点である。台風も来ない(アグネス・キースがサンダカンでの戦前の生活をつづったエッセイ集の題名「風の下の国Land below the Wind」は、船乗りたちが台風の発生地帯より南の地域を指して言っていた名である)。雪はもちろん降らないから雪害もない等々、自然災害の少ないことは、それに毎年遠慮なく襲われる日本人からするとうらやましい。

 

考古学的には、ボルネオにおける人類居住の歴史は非常に古い。サラワク州ミリの南にあるニアー洞窟からは紀元前4万年から紀元700年までの人骨が出る。だが、それは考古学の話である。

歴史を見ると、ボルネオは他のマレー地域と同じように4層の文明の積み重なりの上にある。

まず、インド文明の波を浴びた。パッラワ文字で書かれたサンスクリット語による4世紀後半のムーラマルワン王の石碑がクタイにある。沿岸部の港市は仏教やヒンドゥー教などインド文明を受け入れたスマトラのシュリーヴィジャヤ王国(7世紀)やジャワのマジャパヒト王国(14世紀)が興隆するとその属領になった。

それから、中国からの波である。クチン近郊サントゥボンの遺跡からは中国の唐・宋時代の陶器が見つかっている。「諸蕃志」(13世紀初め)によると、「渤泥国」(ブルネイ)の王の衣服は中国のものをまねているとのことだ。東南アジア一の高山キナバル(「中国人の寡婦」の意味、山頂に棲む龍が持っている玉を取ろうと中国人が何人も山に登っていき、帰って来なかった。そのため中国人の寡婦が増えた、という伝説がある。ちなみに、あたりの住民には死ぬことを「キナバルに登る」と言う。また、山に登った王子に玉を盗まれ、怒った龍が尾を振ると山が盛り上がり、それを見た龍が「おお、ナバル(新しい)」と言ったからという話もある。「キナバルの民」、p.62)やサバ州東海岸に注ぐキナバタンガン川(「中国人の長い川」の意味、16世紀にやってきた王三品という男に率いられた中国人が住み着いていたと伝えられる。また、キナバル山から龍の霊石を盗むことのできた中国人がここまで逃げてきたというキナバルの語源に呼応する話もある)の語源にも中国の存在がうかがえる。そして近代には華僑が大量に入ってくる。大きな町には華人がいて、彼らの寺廟がある。

イスラム流入は10世紀から始まり、沿岸部のマレー人はイスラム化していった。16世紀初頭のブルネイイスラムスルタン国になっている。しかしマレー人以外はイスラム化することは少なかった。18世紀後半に成立したポンティアナク・スルタン国のスルタンはイエメンのハドラマウト地方に出自をもつアラブ人だった(話がそれるが、このポンティアナク市の名の由来は、ここに同名の女の妖怪が出没していたことによる。マレー伝承中のポンティアナクは妊娠中に死んだ女の化したもので、赤子の声とともに現われ、出会った男の血を吸ったり内臓を食ったりする。建国のスルタンは彼らを砲撃によって追い払い、その跡地にモスクと宮殿を建てたという。閑話休題)。

上に見たとおり、大航海時代の西洋人にあまり注意を払われていなかったけれど、もちろんヨーロッパ文明の波は今までのどの文明よりも大きくかぶった。植民地化が遅れたとはいえ、やはり植民地にされ白人の支配を受けたのだから。

ただし、オランダの支配下に入った南部・東部はいいとして、西北部の「植民地化」は奇妙な道程をたどった。サラワクは1841年白人ラジャの治める王国となり、北ボルネオ(今のサバ州)は1881年にやっとイギリスの支配下になるが、それは時代錯誤的な勅許会社の経営であって(イギリスの東インド会社もオランダのそれもとっくに役割を終えて、1858年・1799年に歴史から退場している)、ともに英国が直接植民地にしているわけではない。かつ、北ボルネオの場合ブルネイとスールーのスルタンに二重支配を受けていたため、会社は租借料を両者に払っていた(そのため戦後の独立にあたってはスールー諸島の属するフィリピンが権利を主張し、係争となった)。大した収奪が見込めなければ、勢力範囲にありさえすればいい、という態度なわけだ。なお、ブルネイ1888年にイギリスの保護国となった。

 

どの局面を見ても、「世界史」の波が押し寄せるのが遅いと感じる。

ここでは、沿岸と奥地が別世界である。ブルネイの記録には18世紀までダヤク人が出てこないそうだ。ブルネイのような沿岸部の港市では交易が重要で、密林の茂る奥地では細々と焼畑をする。それぞれ環境条件に適合した暮らしをしていたわけだが、その環境が非常に異なっていたのだ。もちろん関係はあったけれど(でなければ交易に必要な奥地の産物が手に入らない)、それは太いものではなかった。

その交易も、特産品が少なく、中継貿易港としても重要でなかったため、ほかの西方マレー地域のような繁栄はできなかった。産品としては、龍脳、樟脳があり(ボルネオの龍脳は全東方で最上だとリンスホーテンは書いている)、そのほか蜜蝋、蜂蜜、タイマイ、サゴなど。金もあるが品質が劣る。そのくらいだから、領有への意欲は高じない。それで侵略も招かず植民地化も遅くなるという、よかったような悪かったような結果となったのだが、やはりそれはよかったと言えるだろう。

主要通商路の近くはあるが、幾分外れていたために発展が遅れたという点では、ボルネオは清代でもまだ「化外の地」であった台湾と比較するべきかもしれない。大きさこそ違え、沿岸部に周辺からの移民(中国人と、ボルネオではマレー人)、欧米人(イギリス人、台湾の場合一時的にだがオランダ人)が住み、奥地には首狩りを行なう先住民という民族分布は同じだ。ついでに言えば、台湾にも富士山より高い山がある(玉山/新高山、3952m)。

 

だが、台湾と言わず、日本自体がけっこうボルネオに似ている(自然災害のことは措いて)。日本は資源に恵まれない国だが、水と草木だけは豊富だ。さして広くない国土の3分の2は森である。ボルネオ並みと言っていい。しかし、森である点は同じでも、温帯林と熱帯雨林は林相が違う。19世紀にボルネオの森を歩き回った博物学者ウォーレスの叙述によれば、熱帯の森はこのようなものである。

「熱帯の景観をはじめて見た人は、樹木の幹に変化はあるがしかし均斉がとれていることにまず驚かされるだろう。樹幹は枝を出さずに非常な高さまで真っ直ぐ立っていて、少しはなれたところから見ると、何か大きな建物の柱をいったような感じをうける。おそらく三〇メートルもあろうかと思われる頭上には交錯する大木の枝が寄り合って、ほとんど破れ目のない木の葉の天蓋となっている。この天蓋はきわめて密にできているので空の光もほのかに見えるにすぎず、熱帯の強烈な日光でさえ弱められ、ちりぢりになってようやく地面に達する。薄気味悪い暗闇は荘厳な静けさに支配され、ほとんど無限というべき広大な、そして原始的な光景がつくり出されている。そこは人間が侵入者と思わせられる世界であり、大気の単純な要素から高くそびえ立つ大森林をつくりあげた、ほとんど地球をおしひしぐかとさえ思われる間断なしに作用するこの力のことを深く考えるとき、人間はただ圧倒される思いを感ずるのみであろう」(「熱帯の自然」、p.30f.)。

熱帯林の「最も著しい特徴は、どこへ行っても形状や種に変化があり、そして寄生植物や着生植物、およびツル植物の類がそれぞれの生活様式で利用できるあらゆるところに繁茂していることである。旅行者がある一種を見つけ、それと同じものをもっと捜そうとして周囲を見まわしても、たいていは無駄に終わる。まわりの木の形や大きさや色はじつにさまざまであり、同じものを二本と見ることはほとんどない」(同、p.65)。

「それぞれの植物は、地質時代でさえもほとんど変化がなかっただろうと思われるその温和な気候と、十分な湿気に適応しているように見える。(…) 木という木は無数の他の植物を支えている。あるものには種々の着生植物がたくさん群がり、その木の股や横枝はまさに庭園といった観を呈している。匍匐性のシダやアラムはどんな滑らかな幹にも這い上がり、あらゆる攀縁植物はもつれた塊となって絵だから垂れ下がったり、大木の頂へよじ登ったりしている。ラン、ブロメリア、アラム、シダなどは樹幹の突き出たところや裂け目などあらゆるところに生え、腐りかけた倒木を綺麗な布のようにおおっている。これらの寄生植物はそれぞれ寄生生活をしながらも、その葉はしばしば多数の微小な苔類や蘇類を支えている」(同、p.65f.)。

こういうところに葉も茎もない異形の寄生植物ラフレシアの巨大な花も咲くのだ。

毎日のように驟雨のある土地だから、水もまたいやがうえにも豊富である。したがって川も多く、村は川に沿ってできている。密林の中に道はつけがたく、一方で川はどこにでも流れているとなれば、いきおい川が交通路となり、舟が交通手段となるのは自然だ。豪雨による増水もしばしばだから、家は高床でなければならない。水上に建てるのもいい。暑い気候だから、日に2回は水浴び(マンディ)をする。

戦争中陸軍報道班員として南ボルネオのバンジャルマシンに派遣された林芙美子は、河水豊かなその町のようすをこのように記している。

「バンヂャルの乾いた町は、朝から晩までひつそり閑としてゐるけれども、一歩河筋へはいつてゆくと、泥で濁つた河の上はおもちや箱を引つくりかへしたやうな小舟の賑ひで騷々しかつた。楫をつかつてゐる手が、ほんの一寸見える程の、椀状の大笠が水の上を花を流したやうに流れてゆく。その賑やかな小舟の間をものすごい大群の布袋草(イロンイロン)がきしみあつて河筋を潮に押しあげられてゆくのだ。水もみえないほどの水草の流れは、暫く眺めてゐると、自分がレールの上を滑つて動いてゐるやうな錯覺にとらはれてくる。こゝでは地球が動いてゐる感じなのだ。兩岸の家々は水に向つて店を開いてゐる。呉服屋の前にも舟を停めて買ひ物が出來る。米屋も雜貨屋も水ぎはであきなひが出來るのだ。小舟自身もコオヒイをあきなつてゐたり、タバコを並べて楫をゆるく漕いでまはつてゐるのもある。布袋草(イロンイロン)の根をかきわけて眞裸の子供が泳いでゐる。人間と自然とが、この河筋だけは戰爭とはおかまひなしにたはむれあひ、犬ころのやうにふざけあつて如何にも愛らしい自然の國を創つてゐるのだ」(「ボルネオダイヤ」)。

「河岸へ來ると、もう滿潮時で、道の上にまで泥水が押しよせてゐた。二人は小高くなつた草むらのなかを歩いた。「タンバガアン……」 澄子が舟を呼んだ。岸へつき出た黒い樹の下蔭からにぶい聲で船頭が「やあ」と返事をして、軈て楫の音をさせて、二人の足もと近く舟を寄せてきた。二人が舟へ飛び乘ると、屋根つきの細長い船はしばらくハンモックのやうに左右にゆれ動いた。水の上はひつそりとした夜氣が逼り、暗い岸邊が茫んやりと夜霧の彼方に遠く離れてゆく。(…) 河の中心へ舟がくると、船頭は心得て楫をやすめて舟を水の流れに任せた。兩岸の水の上の家々には椰子油の灯が螢の光といつしよに明滅してゐる。球江は茣蓙の上に寢轉んでゐた。白いスンピンの花の匂ひが軟風にのつて甘い香氣をたゞよはせてゐる。「ねえ、詩(パントゥン)を唄(ニャニ)つてよ」 球江がたはむれて船頭へ聲をかけると、船頭ははにかんだやうな聲で笑つてゐたけど、案外若い聲で四行詩を唄ひ出した」(同)。

 

奥地も日本人にとってさほど縁遠いわけではない。そこはダヤク(マレー語の「奥地の人」が語源のようだ)と総称されるプロト・マレーの先住民族の天地であった。イバン族ほかのボルネオの先住民の文化で特徴的なのは、焼畑耕作、ロングハウスと首狩りである。このうち焼畑は日本でも行なわれていた。

ロングハウスというのは、一棟が80mぐらい、長いものでは200mもの長さの、かなり高い高床式の家屋で、ひとつの家でひとつの村をなすというものだ。そこに15から50世帯が暮らす。一方の側が通廊となり、もう一方には仕切られた住民家族の居住部分が並ぶ。ロングハウスはたいてい川沿いに建てられる。彼らの道が川であるからだ。マレー人が同じく高床で川の下流域や沿海部に水上家屋を作るのと一対である(高床は高温多湿の気候に非常に適合した建築様式なのだが、中国人はこの熱帯でも地面の上に建てる)。

英国の作家モームは彼の泊まったロングハウスをこう書いている。「丸太杙の上に建てられた草ぶき屋根の、非常に長い家。荒っぽく段々をきざんだ樹の幹をのぼってはいってゆく。外側がヴェランダで、床は籐を編みつけた竹である。中には檀のある長い共同部屋と、一家族ずつ住むそれぞれの部屋。共同部屋のまわりに大きな甕がならんでいて、これがダイアック人たちの財である。私たちが行くときれいな敷物をひろげて坐り場を作ってくれた。(…) 犬が何匹かうろついていた。(…) 長い家の下では豚ががさがさ屑を食べあさり、ひよことあひるがたえず鳴きさわいだ。家から河までは粗けずりの板で路がついている」(「作家の手帖」、p.157)。なお彼は、シマンガン(今のスリアマン)から川を渡る途中、満潮で海水が川に逆流して起こる潮津波(ボノ)で舟が転覆し、危うく溺れかけたところを囚人の水夫に助けられ、そこにたどりついたのである。

遅れた原始的な農法とされがちな焼畑は、今では次のように考えられている。

焼畑農業は土壌の貧弱な熱帯に大いに適しており、やってゆける農業形態である。熱帯の植物は休閑期に非常に速く成長し、土壌の再生を可能にする。焼畑農業が多くの面で熱帯の森林の生態系を「模倣した」ものであり、定着農業よりも生態学的により健全であることが、研究によってますます明らかになってきた。「焼畑農業は人間が考案したいかなる他の農耕法よりも、自然のエコシステムの構造、機能上の力学とバランスにより近いものである」。また世界の多くの農業限界地では、焼畑に取って代わるべき適切な農業方法はいまだ存在しない。

サラワクでは、全土地面積の約80%は勾配が中程度か急な丘陵地や山間部からなり、焼畑の多くはそこで行われている。土壌はまた一般に不毛で養分に乏しい。こうした土壌の劣悪な地域では、焼畑農業が適切な農業方法である」(「サラワクの先住民」、p.26)。

焼畑農業は低い人口密度、低レベルの技術、貧弱で多湿な土壌、そして十分な土地といった条件のもとでは高度に適合した農業方法であると言えよう。(…)「認めたくないことだが、アフリカ、ラテンアメリカ、東南アジアの多くの熱帯地域で生物学的および経済的に焼畑農業に取って代わりうる食糧生産システムがいまだ開発されていないということは事実である」」(同、p.37f.)。

開墾不適地に適当な農業形態で、広大な面積と少ない人口が前提となるわけだ。だが、大きな人口は養えない。つまり人口増加は抑制されなければならない。昔は高い幼児死亡率が自然に抑制を行なっていたし、マラリアデング熱などの熱帯病のほかに、豊饒をもたらすため敵の首を求める殺し合いもそれに役立っていたと言えよう。つまり首狩りは「生態系維持」の活動であったと言えるのではないか。

文明が進み、幼児死亡率が下がり、首狩りが禁止されれば、人口は増える。それは焼畑農耕では養いきれない。余剰人口を受け入れる産業が必要となる。そこまで含めて「生態系」であろう。首狩りなどはどうしてもやめなければならないものだが、それをしない先住民はもう現代人である。現代人に「昔ながら」を求めてはいけない。コミであり、ヌキでいいとこ取りというわけにはいかない。

首狩りは一般に蛮習とされがちであるが、なに、日本人も首狩り族である。戦国時代の雑兵は敵の首を切り取るのが望みだった。切腹に伴う介錯は首を切り落とすことだった。「寝首を掻く」「首筋が寒くなる」のような慣用句、解雇を「馘首」というなど、首狩り族の痕跡はあちこちにある。処刑方法としての打ち首は世界中多くの地域で行なわれていたし、文明大国を自認するフランスではそう遠くない頃までギロチンが使われていた。たしかに野蛮は野蛮なのだが、毒ガスや原爆などあらゆる手段を用いて敵を殺すことに狂奔する戦時のホモ・サピエンスの無道ぶりの中で、首狩りの「野蛮さ」を測定しなおすべきだろう。

それにしても、ダヤク族の首狩りへの執着はなかなかのものだ。本来奥地の住民であるイバン族(同じくダヤクであるカヤン族が彼らを呼んだ名で、「放浪者」の意味だという。彼らの社会はカヤン族などと対照的に首長の権威が高くなく平等主義的で、若者は村を離れ何年か旅ないし出稼ぎ〈ブジャライ〉に出る習慣があり、そこからこの名がある)は、昔は海賊としても名高かった。だから奥地の民であるのに「海ダヤク族」とも呼ばれたのだが、実際は川の民であり、舟の扱いにたけていたためマレー人の海賊とともに海賊稼業をしていた。「彼らは、もともとは農耕民であるが、好戦的であり、熱心に首狩りを行なっている。バタン・ルパー河やサリバス河に住むイバン族は、かつてはマライ人と協力して、大型戦闘プレーユー(三角帆の快速カヌー)を使い、海岸沿いや川をさかのぼって、海賊のように侵略をしていった。それほど海上遠くまでは出なかったが、それでも海岸周辺の多くの村々を攻撃した。このため、彼らは海ダヤック族と呼ばれているのである。もっとも大きな掠奪はマライ人によって行われ、彼らは小さな掠奪程度のことしかやらなかった。しかし、殺した者の首は、全部もらえるということになっていたので、彼らはつねに、マライ人に付いて行ったのである」(「ボルネオ奥地探検」、p.188)。

白人ラジャの支配に頑強に抵抗を続けたレンタップというイバンの勇将は、「竿の上に空駕籠を下げ、「いつか白人ラジャの首をあそこに入れてやる」と豪語していたという。ちなみにイバン族は、首狩りや掠奪で勇名をあげると、自分で作詞した数行にもなる長い誇称をつける習慣があって、かれの名はその第一行の「大地も震える」から来ている」(「マングローブの沼地で」。P.325)。宛然シェイクスピア劇だ。

モームの観察によれば、「ダイアック人(註:地理的に見てイバン人である)は、小柄な方だがきちんとしたからだつきで、皮膚は褐色、光る眼はエジプト土人のモザイクの眼のように眼窩が平らで、鼻も平たい。彼らはいつもにこにこし、愛嬌ある素振りである。女たちは非常に小さくて内気で、静かな顔にはなにか敬虔さを湛え、若いうちはその華奢で小さいからだが美しい」(「作家の手帖」、p.157)。だが、生活が生活だから、「彼らはすぐ年をとり、髪が灰色になり、骨の上で皮膚がたるんですっかり皺くちゃになる」(同)。

スケッチの最後に、「にこやかで好ましい素振りをするに拘らず、彼らのうちにはちょっとぎくりとするような野蛮性がひそんでいるようだ」(同)と付け加えているのは、白人の抜きがたい先入観によるものではないかと思われる。彼が旅した1922年当時、もう首狩りはやめていたのだから。といっても、簡単にやめられる習慣ではなかったようだ。その習俗を禁圧したブルック王国時代でも、ダヤク族の反乱の鎮圧には別のダヤク族が差し向けられるのが常であって、「政府の側に立って反政府イバンの平定作戦に参加するときにかぎり、首狩りを正当なものとして承認するという政策がとられた」(「森の食べ方」、p.179)。

首狩りを褒賞とするそのようなやり方は、先の大戦の終末時に英軍によっても取られ、彼らはイバン族に首狩りを焚きつけた。敗走の日本兵の首はかなり刈られたらしい。鈴木正一郎はシマンガンで捕縛されたが、彼を連れ歩く兵士は護送の間何度もイバンの若者に「その日本人の首を俺にくれ」と言われたそうだ(「愛傷のサラワク」、p.157;159)。

ごく最近でも、2001 年 2 月、スハルト失脚後のインドネシアの混乱の中で、中カリマンタン州の町でマドゥーラ人とダヤク人の間に暴力的衝突が起こったとき、敵の首を切るナヤヨ・ダヤクの文化が復活した。また、胸を割いて血を啜るのも見られたそうだ。これは以前ダヤク人が敵を打ち負かしたときに行っていた行為である。

民族の伝統は危機的な状況で噴出してくるものらしい。今もなおときどき試みる人が出てくる日本人の切腹のように。

 

奥地の話では、そこに店を出している華僑のことにも触れておかなければならない。キナバタン川の上流の集落で、舟で下っても10日とはかからない(!)サンダカンへも8年に1回しか行っていない若い華僑は、妻には香港に逃げ帰られ、ドゥスン族の女と結婚して暮らしている。その店は系列店で、そこが奥地の物産を買い集めているのだが、「カダイ(註:店)ではたとい不要なものでも、附近の原住民が何かの品物を持参すれば、幾らかの値段をつけて、それを引き取らなければならない義務があった。たとえば原住民が燕巣を持って来る。しかし香港との交通が途絶していて輸出が出来ないことが分かっていても、ちゃんとそれを引き取って、必要な品物と交換してやらなければならない。それが奥地におけるカダイと原住民との間に不文律となっている慣習であった」(「河の民」、p.95)。

「原住民が開墾する期間の食糧と籾を、このカダイが支給する。そして開墾地の収穫期に、陸稲で償還せしめるわけだが、勿論、相当高率の利息がついている」。「ジャングルの中で着のみ着のままで暮らしている彼等には、金の必要がない。必要のないところには慾望がない。従って住居の移動の激しい彼等には、籾の貯蔵などということは嘲うべきことである。少々高い利子を払っても、カダイから籾と食糧を借りて、収穫のあった時に返還する方が、手間がかからない。(…) また一方には、このカダイ組織が一種の行政機関のようなものになっている。政府の徴税、布告の伝達、人口調べ等は、みんなこのカダイを通じて連絡されているのだ。またカダイからカダイを伝って、それが交通機関にもなっている」(同、p.111f.)。駅逓の役目をして、情報を伝えることもしているのだ。

強力なネットワークを築き、単身奥地まで入り、現地人社会に食い込んだ商売をする。こんなことは日本人にできそうにない。華人恐るべしである。福建だの客家だのという出身地別に互助と自治の組織を造り、会館を建て、結婚や墓地の管理までする。国家になどにテンから信を置かず、親族や同郷人だけですべてまかなおうとする彼らに畏敬の念を持たずにはおれない。

原勝郎は、「日本人の出稼ぎは、多くの場合において、既に占住している欧米人の寄生虫となるのである」(「南海一見」、p.133)と喝破しているが、そのイギリス人も、白人が1人きりの奥地駐屯に赴くことをいとわない。群れたがる日本人の弱みを思い知る。彼らもクラブを作る民族で、それは組織であるというより会館の形をした具体物だ。

日本人はきっとマレー人やイバン人に近いのだろう。マレー人の性格をウォーレスはこう述べる。「マレー人は冷静沈着である。控え目で内気で、魅力的でさえあるほどに謙虚であり、それを見た人は、この人種に負わされた残忍で血に飢えた性格はとんでもない誇張にちがいないと考えるだろう。彼らは感情をはっきりとは表現しない。驚きや感嘆、あるいは恐れの感情をけっしておもてにはあらわさず、おそらくはそれほど強くは感じていないのだろう。話しかたはゆっくりとしていて慎重であり、またまわりくどいのでなにを言いたいのかなかなかわからない」(「マレー諸島」下、p.423)。日本人について言われているような感じさえする。「怒らない社会」とも評され、その点日本人よりずっと穏やかに思われる一方、その彼らもひとたび閾を越えれば、狂乱状態、アモック(amok:マレー語由来である)に陥る。「ある人は彼らの真面目さ、礼儀正しさ、善良さを賞賛し、また別の人は彼らの欺瞞性、裏切り、残忍性をののしる」(同、p.424)という二面性があるそうで、そのあたり「菊と刀」的かもしれない。

なお、戦前の日本人入植者は「マレー人は生活上の慾望なく懶惰にして又勤労の念なし」(「ボルネオ視察報告書」、「サラワクと日本人」、p.267)として、ゴム園のマレー人労働者は彼らの倍以上の能率で働く華人労働者の半分の賃金だった(「世界見世物づくし」、p.159)ことも付け加えておくが、しかし、勤勉は年の一度きりの実りを寒い冬のためにせっせと貯えなければならない哀れな温帯人の美徳で、豊かな自然の恵みを受けている熱帯人に当てはめてはいけない尺度であることも言っておかなければならない。

 

日本ボルネオ関係史ということでは、朱印船貿易史の中にブルネイもわずかに姿を見せる。慶長10年(1605)・11年(1606)に艾萊(ブルネイ)宛渡航朱印状が公布されている(「江戸時代における東南アジア漂流記」、p.60)。だが、朱印船の目的地は日本人町のあるマニラ、ホイアン、アユタヤなどが主であり、日本からの貿易においてもボルネオはルートを外れている。

江戸時代は漂流の時代であった。上方から江戸へ行く太平洋航路が開かれ、航海技術未発達のまま1本マストに大きな梶をつけた船が数多く行き交うようになると、勢い遭難する船も増える。強風と激浪にもまれればまず梶をやられるし、難に遭った船は帆柱を切る。船自体は割合頑丈で、食糧もけっこう積んでいる。海の上なら釣りもできる。梶もなくマストもない漂流だから、行方はわからない。いくら頑丈でもいつかは難破するし、食糧も尽きる。むしろさほど頑丈でなく、すぐに沈んでしまったほうが苦しみが長引かなくてよかったようなケースが大半だったろうと思われるが、しかし運よくどこかの島に漂着することもある。それが無人島だった場合、そこで白骨となる人のほうが多かったとしても、生還する者も稀にはいる。また、19世紀になると欧米の捕鯨船や香港と新大陸の間を通う船が太平洋を航行しているので、ジョン万次郎やアメリカ彦蔵のようにそれに拾われることもある。大黒屋光大夫のようにはるか北アリューシャン列島への漂着もある。南方への漂着者としては、ボルネオに売られた唐泊の孫太郎がいる。

孫太郎は博多近在唐泊の出身で、伊勢丸という船に乗っていたが、1764年遭難し、3か月漂流ののち南の島に漂着(ミンダナオ島か)。乗組みの20人のうち9人は病死、残る者は島人によって奴隷に売られた。最後に残った孫太郎と幸五郎の2人もソウロク(スールー)に売られてしまった。そして幸五郎は病死、1人となった孫太郎は南ボルネオのバンジャルマシンの華僑の商人に買われ、反物や陶器を扱うその店で長年奉公する。主人は孝心の篤い人なので、一計を案じ、すでに二親と死別していた身だが、父母に孝行したいから少しの間日本へ帰らせてくれと願い、許される。もとより主人も帰って来ないことは承知で許したのだ。そして1771年、バタヴィアジャカルタ)を経てオランダ船に乗って帰国した。

孫太郎はバンジャルマシンにいたとき、川上のビヤアジォというところまで主人の弟に随行した。そのときの見聞に、「此所ノ人、親子兄弟ナド死スレバ、別人ノ首ヲ斬テ葬ニ添ル事習俗ナリ。木ヲ以テ蛇形ヲ造リ、蛇頭ニ人首ヲ居エ、是ヲ冢上ニ置ク。斯セザレバ、死者必祟リヲナスト云伝ヘリ。豪富ナルモノハ、常々添首ノ儲ケニ、他邦ノ人ヲ捕ヘ、或ハ買取テ養ヒオク」(「江戸時代のロビンソン」、p.182f.)。

そのほか、ボルネオの特産物である燕の巣のこと(「燕窩 黒坊呼テ、サランボロント云フ。大河ノ危岩絶壁ノ陸ヨリ出ツ。孫太郎、其鳥ハ見ザレトモ、サランボロンハ毎々手ニ取タリ。其形椀ノ如ク。色ハ白蝋ニ似テ、凝結タルモノ也。(…) 蕃主ノ利トスル品ナレバ、黒坊ノ私ニ采ル事ヲ厲禁シ。役人アリテ常々是ヲ邏守ル」。「南海紀聞」、p.641)、市内の川に出た鰐のこと、マレー海賊のこと、イスラム教のことなど、南方の興味深い事物を報告している。現地俗謡も覚えて帰った。単発の事件だが、当時の日本人の東南アジア知識に何ほどかは貢献したであろう。彼の体験談は、福岡藩の洋学者青木定遠による聞書き「南海紀聞」をはじめ、15種もの写本刊本として流布し、そのうちのひとつ「孫七天竺物語」(孫太郎は帰国後孫七と改名した)は「督乗丸船長日記」と並び文学的価値のある漂流記の双璧とされている。

また、真偽は知らないが、「リンガという海辺のカンポンには、倭寇の遺跡があるということで、山脇軍司令官がレジャン号で視察に見えたことがあり、武井さんが案内した。武井さんの話では祠があり、日本刀があったとのことだった」(「サラワクと日本人」、p.105)という報告もある。

明治初期文学史を飾る政治小説のうち、「経国美談」で知られる矢野龍溪が書いた「浮城物語」(1890)は、主人公たちの船はまずブルネイに行って交易し、そこから話が展開していく設定で、そののちジャワの王国再興を目指しオランダと交戦する(明治維新か? 鳥羽伏見か?)という、好戦的な二流ヴェルヌといった小説である。フィクションに過ぎないけれど、近代化倭寇とか第二次大戦の先取りと見えなくもない。

 

<サラワク>

ボルネオ自体が大きいのだから、サラワクも決して小さくない。面積は12万4450平方キロであり、1州でほぼマレーシアの半島部(13万598平方キロ)に匹敵するし、北朝鮮よりも広い。だから韓国よりも広い。比べて人口は少なく281万人(2019)、民族構成は、イバン、ビダユーなどダヤクと総称される先住民(ムラナウを含む)が50%、マレー人が24%、華人が24%とされている。宗教上は、マレー人が帰依するイスラムより、ダヤクの大部分と華人の約半分が改宗しているキリスト教のほうが多数である(キリスト教ムスリムを改宗させることはできず、信仰を持つヒンドゥー教徒仏教徒の間にも広まらない。いわゆる未開人や宗教的に弱い人々など、「柔らかい部分」を取り込むだけだ。「新興宗教」的なあり方なのである。イスラムへの改宗はマレー化につながってしまうというアイデンティティ確保の点での恐れがあるのも宗教選択に大いに影響したと思われるし、豚が食べられなくなることもきっとイスラムには不利だったろう。豚の供犠はダヤクの大事な習慣である)。

「サラワク」はクチンを流れる川の名前でもあり、クチンの町も昔そう呼ばれていた。その語源は、サラワク・マレー語の「アンチモニー(serawak)」である。後述ムダ・ハシムがブルックにこの地を進呈したとき、「Saya serah pada awak(私はあなたにこれを引き渡す)」と言ったことに由来するという説も流布しているけれど、2人称代名詞「awak(あなた)」は標準マレー語で、サラワク語では「kitak」であるし、ブルックの到着以前にすでにその地は「サラワク」と呼ばれていたので、思いつきめいた駄洒落説に過ぎない。

 

サラワクの19世紀は3人(ないし4人)のイギリス人によって彩られている。ラッフルズ、ジェイムズおよびチャールズ・ブルック、ウォーレスである。

シンガポールの建設者として知られるラッフルズは、実際のところはボルネオとはほとんど関係がなかったが、間接的にはその「シンガポール」がボルネオを語る上でのひとつのトピックになる。繁栄するシンガポールがゆるぎない所与である現在からでなく、それが存在しなかった時点から眺めてみよう。1819年にラッフルズシンガプーラ島に上陸したとき、それは200人ばかりが住むつまらぬ島であった。マレー半島の先端、マラッカ海峡の出入り口に当たる部分には無数の島がある。貿易の重要な動脈マラッカ海峡の北の入口にイギリスはすでにペナンを領していた。南の端にもひとつ根拠地を持たなければならない。シンガプーラ島が「シンガポール」になったのは、ラッフルズが(関東軍のごとく上からの訓令を無視して専行し、傀儡スルタンの擁立を図るなどして)そこを占有する断を下したからである。シンガプーラ島が選ばれる前は、「シンガポール」はボルネオでもありえた。

「東方群島におけるわが国の利益」という意見書(1817)で、彼はバンカ島、ビンタン島を候補地として推薦しており、続けて、「この根拠地の獲得に何らかの困難が起こったならば、ボルネオの西岸がまた多くの利点をもっている。とくにサムバスおよびポンティアナの近隣がそうであって、その内地は、現在ボルネオで採掘されている主要な金鉱であり、華僑の人口は十万を越えている。ボルネオのこの沿岸の外には小さな一つの島があって、その島と内地主部のあいだにきわめて良好な港を提供している。それはすでに調査された」(「ラッフルズ伝」、p.286)と書いているのである。

シンガポール」は今の場所にあるのが正解だっただろう。だが、ボルネオに「シンガポール」ができていたらと考えてみるのも、興のないことではない。

今のサラワク州の沿岸部はブルネイのスルタンの支配下にあったが、難治であり、反乱がしばしば起きた。今のクチンを統治していたスルタンの叔父ムダ・ハシムはそれに手を焼き、たまたま船でやってきた冒険家ジェイムズ・ブルックに反乱鎮圧を頼み、その褒賞としてサラワクのラジャとした。それはサラワク川の一帯しか意味していなかったが、彼の王国は拡大をつづけ、現在のサラワク州の版図まで広がった。世にも珍しい「白人ラジャ」の王国の誕生である。

ブルックはブルネイ湾の入口にあるラブアン島も狙っていた。首尾よく1846年にそこをイギリス領とし、初代の知事となった。ブルネイへの入口を扼する位置にある彼の「シンガポール」である。望んだようには発展しなかったけれど。欧米人が沿岸部に拠点を作るのは、遠方から船でやってくる以上当然だが、特に島や岬の突端を占めたがる(ホルムズやマカオなど)。防衛しやすく、万一の場合脱出も容易だ。彼らの強みは遠洋航海をものともしない船で、洋上に出てしまえば在地領主の船は敵でない。土地の領主の側からも島や岬のほうがコントロールしやすい。しかしイギリス人ほど島にこだわる者はない。シンガポールや香港を見ればよい。ポルトガル人・オランダ人の長崎が岬なのに対し、イギリス人の平戸は島だ(平戸の場合敗れ去ったが)。ラブアン島は「シンガポール」にはならなかったとはいえ(マレーシア政府もフリーポートとすることで努力は継続している)、海軍根拠地として海賊の危険に対処する意味はあった。ジェイムズ・ブルックのサラワク統治は海賊討伐で始まっている。1849年にイバン族の海賊に対しサリバス川の河口で決定的な勝利を収めた。

ジェイムズの甥チャールズは、伯父によってリンガという白人は自分1人だけしかいない辺境の砦に詰めさせられた。そこで彼はイバン族を愛するようになった。「私にはイバンの心がわかります。実の兄弟と一緒のときより、イバンと一緒のときの方が気分がいいのです」と書いているという。のちに「かれこそ“サラワクの子”だった」と評されるチャールズは、即位後サラワク王国を「統一的な税制、土地法、官僚規定も創らずに運営した。植民地に白人文明を押しつけるのでなく、支配者である自分の方が土地に同化しようとした」(「マングローブの沼地で」、p.327)。それは彼が王であったから可能だったものだ。白人ラジャが治める王国という異風な形で、かつそのラジャがこのような人であったからできた異形の国と言えよう。「サラワクは、植民地主義がもたらす階級分界や職業分化がもっとも遅れた植民地だった。さまざまなバラエティのある自給自足の村むらが曼陀羅模様のままで維持された。サラワクは、プランテーション一色というような植民地主義的まとまりを生まなかった独特な植民地である」(同、p.329)。

マチュア博物学者だったアルフレッド・ウォーレスは、進化論を打ち立てた人物の1人として、また動物分布上のウォーレス線の発見者として名を残している。彼は1854年から8年間に及ぶマレー諸島(今のマレーシア・インドネシア)に調査と動植物の標本採集旅行を行ない、その途上、進化論の重要論文を次々と書いた。「種は種から生じた」と論じ進化論確立へ大きな一歩をしるす彼の第一論文「新種の導入を調節してきた法則について」が書かれたのは調査地サラワクにおいてであり(1855年2月。新妻昭夫はそれを「サラワク法則」と呼んでいる)、そのあと適者生存の理論に至った決定的な論文「変種がもとの型から限りなく遠ざかる傾向について」がテルナテ島で書かれた(1858年2月)。ダーウィンはそのころすでに進化論の考えを自分の中では確立していて、著述も進めていたが、発表はしていなかった。サラワク論文を読んだ友人からこれを書いた若者に先を越されるぞと注意を喚起され、ダーウィンは自分に送って来られたウォーレスのテルナテ論文を1858年7月にリンネ協会で自分の草稿とともに発表するという形で、進化論を公にした。だから彼はダーウィンと同時に進化論に到達したと主張することもできたのだが、ウォーレスは尊敬するダーウィンに対して恭謙でありつづけ、先取権争いをしなかった。うんざりさせられる先取権争いの巷である欧米にあって、そういう人柄はうれしい。

彼はここで「ジェイムズ・ブルック卿の手厚い歓待を受け、旅行のあいまにサラワクの街(註:クチンのこと)にいたときはいつも彼の家に厄介になった」(「マレー諸島」上、p.77)。サントゥボン山の麓やペニンジャン山にあった彼の別荘にも滞在している。サラワク論文が書かれたのは前者に滞在しているときだった。

彼は標本を得るため森に入り、ミアス(オランウータンの現地語)狩りをしている。ダヤク族の首長によれば、「ミアスに敵はいない。ミアスを襲おうなんて動物は、ワニとニシキヘビぐらいのものだ。ミアスはワニを踏みつけ、満身の力をこめて口をこじ開け、喉まで裂いてかならず殺してしまう。ニシキヘビがミアスを襲ったときは、その頭をひっつかみ、そして咬みついてすぐに殺してしまう。ミアスはとても強い。ジャングルにミアスほど強い動物はいない」(同、p.116f.)。「滞在した建物の近くには数本のドリアンの大木があって、実がちょうど熟していた。ダヤクの人々は私のことを、果樹に大きな被害をあたえていたミアスを撃ちにきた救援者と見ていたので、この果物の皇帝を私たちが望むだけ食べさせてくれ、最高の熟れぐあいのものを満喫させてくれた」(同、p.107)。今は保護されるオランウータンが追い払わなければならないほどいた昔の話だが、ドリアンのほうは今も豊富だ。ウォーレスはドリアンを好み、「それを食べるためだけに東洋に航海してみる価値がある」と言っているが、ラッフルズはこれを嫌った。あの匂いに耐えられなかったのである。ある日の執務中、「突然六個のドリアンを持ったマレー人が入って来た。彼はラッフルズ氏が買ってくれるだろうと思って、家の中に運び込んだのである。彼はドアのところで立って待っていた。ラッフルズ氏はドリアンの匂いをかぐや否や、鼻をつまんで二階へ駆けのぼっていった。これを見ていた人々は皆驚いた」。そして門衛に、「二度とだれにもドリアンを門の中に持って来させてならぬと命令を与えた」(「アブドゥッラー物語」、p.62)。味はともかく、匂いについては好悪のはっきり分かれる果物である。

その熱帯における功績の大きさを思えば気の毒なことだが、ラッフルズは熱帯勤務で命を縮めた人である。妻も子供もそこで失い、自身も45歳の短命だった。反対にウォーレスは90の長命を保った。ドリアンのおかげでもあるか?

 

ブルック王国以前からサラワクには華僑が流入してきていた。客家の移民は西ボルネオ・サンバス周辺の金の出る地域に入り、砂金採りをしながら開墾して、そこにいくつもの自給自足する公司合資会社)を作った。もっとも有名なのがマンドールに1777年に成立した羅芳伯の率いる蘭芳公司で、民主的に運営されたその公司はいわば「公司共和国」であった。羅芳伯は大唐総長を名乗り、清朝朝貢を行なった。最終的にはオランダに潰される(1884年)。

1830年ごろオランダの圧迫を逃れてバウにやってきた客家の金鉱労働者は、そこに十二公司を作った。彼らはブルック王国の金への課税強化に反発して、大反乱を起こし、クチンを攻め落とす。ジェイムズ・ブルックは命からがら逃げることができたが、彼の王国はこれで滅ぶかに思えた。しかし2代目のラジャになる甥のチャールズが辺境の任地からイバン人マレー人の軍勢を率いてやってきて、反乱を打ち破り、華僑叛徒は虐殺され、公司は滅びた。

100年のブルック王朝3代は、日本軍侵攻で倒された。日本占領時代はわずか3年余りであったけれど、歴史の大きな転換点になった。それが「衝撃」であったことは間違いない。

力の支配である軍政はどこでも多かれ少なかれ野蛮なものになりがちで、日本軍政もそうだった。だが、サバのアピ(今のコタ・キナバル)や西カリマンタンのポンティアナクのような虐殺事件がサラワクではなかった。それは僥倖だろうか? いや、前述のようなブルック王国(とりわけその第2代)の収奪を第一としない穏健な統治が、そのような殺伐とした結果に至らしめる素地を醸成していなかった、と考えるのが適当だと思われる。

終戦後3代目ブルックはサラワクを放棄して、イギリスの直接の植民地となり、その後1963年に自治を獲得、同年にマレーシア連邦に加わったが、自治権が強く、外国からはもちろん、半島マレーシアからサラワクに来るときにも入国審査を受け、パスポートに入国(入境)印を押される。

独立インドネシアは、マレーシア独立からしばらくの間「マレーシア粉砕」を叫んでいた。併合したかったのだ。同じマレー語・マレー系諸語を話す人々の国、同じ宗教の国として合同してもよかったはずだが、植民地の歴史が強く濃く印されていて、それがぬぐえない。歴史は近過去の圧力下にある。ボルネオ島もそうして、インドネシアとマレーシア、そしてイギリスの保護国であったがマレーシア連邦に加わらなかったブルネイと、英蘭植民地時代の国境をそのままに、3つに分割されたかっこうになっている。そんな中で、ASEANは旧日本占領地という歴史が背景にあるのではあるまいか(民族はもちろん言語も宗教も植民地化された歴史も異なる「東南アジア」を定義するなら、「インドと中国の間」であるけれど、もっと直接的には「日本に占領された地域」であると言える。タイは占領されていないが、同盟国だった。日本が東南アジアを作り出したというのは、むろん踏み込み過ぎた言い方だけれども、真実の一端は示している)。

 

<クチン>

サラワクの州都はクチンである。SJFCの所在地だ。漢字では「古晋」と書かれる。日本占領時代は「久鎮」と書いていた。

クチンは北緯1度に位置し、東経は110度、広州よりさらに西になる。「東洋」と「西洋」を分かつ線は、「東西洋考」によれば広州とブルネイを結ぶ線だということだから(宮崎市定「南洋を東西洋に分つ根拠に就いて」)、それに従えばクチンは「西洋」ということになる。

ほぼ赤道直下といっても実はそれほど暑くなく、年平均最高気温は31.7度で、35度を超えることは少ない。平均最低気温は23.1度。もっとも暑い5月6月の平均最高気温が32.7度で、もっとも涼しい1月が29.8度。最低気温はもっとも高い5月が23.6度、もっとも低いのは9・10・11・12・1月の22.9度。湿度は89から83%、平均で86%。要するに年中ほとんど同じ気温湿度だということだ。降水量は年4116.7ミリ(東京は1528.8ミリ)。12・1・2月あたりが雨季となり、6月がもっとも雨量が少ない。

人口は57万人(2019)で、民族構成はマレー人が45%、華人が37%と、川の南の華人地域に住んでいる者には意外なことに、マレー人のほうがだいぶ多い。イバン人など先住民が16%程度(イバン9%・ビダユー4%・その他)、インド人は非常に少なく、0.5%に過ぎない。華人のうちでは、福建と客家が多く、広東は少ない。

 

1922年にここを旅したサマセット・モームの筆を借りて、イギリス人の統治下にあった当時の町の様子を見てみよう。

「サラワク河。河口は非常に広い。両岸ではマングローヴやニーパが水に洗われ、その後は緑の色濃いジャングル、そして遥かかなたでは、峨々とした山容が、青空に黒くシルエットをあらわしている。陰鬱な感じや窮屈な気持はなくて、広々と自由だ。陽にはえる緑と、空の色はこころよく明るい。親しみぶかい肥沃な土地へ来たという感じがする」(「作家の手帖」、p.153)。

「河は幅広く、黄色く濁っていた。砂の岸の後の方に。キャジュアライナ樹が生えていて、そよ風がそのレース細工のような葉をふるわせる時、人のささやきのような音を立てる。土人たちはこれを、物言う木と呼び、真夜中にその下に立っていると、大地の秘密を知らせてくれる、誰か知れない人の声が聞こえるという」(同、p.152) 。

「クアラ・ソロール(註:クチンのこと)は川の左岸にうねうねと連なり、白く清楚な、こじんまりとした町だった。そして右岸の丘の上には要塞とサルタン(註:ラジャ)の宮殿が立っていた。そよ風が吹いて、高い竿の上に掲げられたサルタンの旗が、青空を背景にして凛々しくはためいていた。船は川の中央部に投錨した」(「ニール・マックアダム」、p.198)。

「河に沿うて土人たちの小屋があり、そこには太古のままの生活を営むマレイ人たちが住んでいた。彼らは忙しそうだが、少しもあわただしげなところがなく、よく見ていると幸福らしい正常な生き方をしているのが感じられた。出生と死、愛慾、その他人間に共通した出来事が模様となって織り出す人生のリズムともいうべきものが感じられたのだ。二人はやがて市場に出た。アーケードのある細い通りにできていて、中国人がごった返しながら、彼ら特有のやり方で働いたり食べたり喋ったりして、屈することなく永遠と取組んでいるのだった」(「ニール・マックアダム」、p.199)。そして、「この群衆の中を、彼らを治める白人が通ってゆく。彼は決してその周囲の生活の中の一人ではない。支那人たちが平穏を保ってちゃんと税金を払うかぎり、彼は彼らに交渉がない。彼はあたかも他の遊星から来た者がこの現実の中を動きまわるように、蒼白い異邦人だ。彼はただ一警官にすぎない。終身の放浪者だ。この土地になんの関心もない。年金がつくのを待っているだけで、そしてそれを得た時に、つまりこの土地以外には自分が暮すに適した所はないと知ることだろう。クラブで彼らは始終、引退後どこで暮すかについて論じ合う。彼らは自分に飽き、仲間同士にも飽きあきしている。束縛から解放される将来を見やるが、そのくせ未来については途方にくれるだけである」(「作家の手帖」、p.159)。

同じ白人であるから、白人の観察はかなりうがっていて、おそらくは的確である。ボルネオやマレー半島を舞台にした彼の短編小説は、すべて植民地に暮らすイギリス人が主人公(というより、登場人物のほとんどすべて)だ。

戦時中クチンの捕虜収容所に入れられていたアグネス・キースは、しかしこう書く。

「汗、うだるような暑さ、土砂降りの雨、あたりを揺るがす雷鳴のとどろきなどは、赤道直下のクチンにはつきものだ。たとえお金があろうと、もうこんな赤道直下の地に行くのは真っ平ご免である。赤道直下のクチンは、わたしがいなくても、これからもずっと、大雨が降り、雷が暴れる灼熱の地であり続けることだろう」(「三人は還った」、p.102)。

彼女のクチンは飢えと虐待に苦しんだ捕虜収容所だったのだから、しかたがない。彼女が愛するサンダカンも同じような気候であったはずだが、現地人たちにかしずかれる生活と収容所の奴隷の如き生活の違いの反映だろう。まあ、たしかに雷は多い。

 

生徒の作文によっても紹介する。マレー語で「猫」を意味するその名前の語源については、いろいろなことが言われている。

「私の故郷はサラワク州のクチンです。人口は約57万人で、猫の町としても有名な河港町です。町の中心にはサラワク川が流れています。この川でクチンの行政区域は北クチン特別市(Dewan Bandaraya Kuching Utara)と南クチン市(Majlis Bandaraya Kuching Selatan)に分かれています。サラワク川も有名な観光地です。それは川沿いに約900mに渡って続く遊歩道のウォーターフロント、サラワクの民芸品やアンティーク、生活雑貨、ローカルスイーツなどの品物が集まっているメインバザール、サラワク州議会議事堂(Dewan Undangan Negeri Sarawak)とウォーターフロントを繋いでいるダルハナ橋(Darul Hana Bridge)です。毎日観光客がたくさんいて、とてもにぎやかです。

クチンがどうしてこの名前で呼ばれるのかについては、おもしろい話があります。昔、クチンはサラワクと呼ばれていました。初代白人王のラジャ、ジェームズ·ブルックが来た後で、クチンに替わりました。そのころ、クチンの川岸にはある植物がたくさん生えていました。その植物の名前は「猫の目(Pokok Mata Kucing)」です。しかし、文献や民間伝説によると、クチンの名前は元は潮洲語の“Gu-Jing”だという話もあります。“Go-Jing”は「古い井戸」の意味です。ここの古老によると、昔、クチンには三つの井戸がありました。二つの井戸は建設のため埋められました。まだ残っているものは大伯公の寺の後ろにあります。そして、マレー語では、「クチン(Kucing)」は「猫」という意味なので、クチンは「猫の町」の称号で有名になりました。

クチンにはいろいろな民族がいます。それは華人、マレ―人、先住民のイバン人(Iban)や、ビダユー人(Bidayuh)や、メラナウ人(Melanau)などです。それで、いろいろな言語や方言が存在します。たとえば、福健語(Hokkien)、客家語(Hakka)、潮洲語(Teochew)、福州語(Foochow)、サラワク語(Bahasa Sarawak)、イバン語(Bahasa Iban)など。そういうわけで、ここの住民はほとんど3種類以上の言葉が喋れます。言語だけではなく、クチンにはいろいろな食べ物がたくさんあります。おかげで、ここの人は毎日朝御飯に何を食べたらいいかという悩みがいつもあります。

クチンは首都のクアラルンプールに比べて、あまりにぎやかではありませんが、ここの人々は自分のペースで生活しています。時に忙しくて、時に暇で、でも心の中には平安が感じられます。私はそういうのがすきです。これが私の故郷です」(キュー「私のふるさと」)。

クチンの語源としてはほかにも諸説がある。たとえば、有名なのは、ブルックがここにやってきたとき、町を指さして「これは何というのか?」と聞いたが、そこに猫がいたので、マレー人は猫のことかと思って「kucing」と答えた、という説。しかし、「猫」はたしかに標準マレー語では「kucing」だが、サラワク方言は標準マレー語と異なり「猫」は「pusak」であるから、これはおもしろずくの滑稽説である。マラバール地方の代表的な港町で、その名前が港町を指す一般的な名称となっていた「コーチンCochin」の訛りだという説もある。

 

「クチンはサラワク州の州都です。クチンの意味はマレー語で「猫」です。毎年8月に「猫祭り」が開かれ、おいしい食べ物がたくさん売られます。クチン市の行政区画は、南北2つの区域に分かれています。北部は「Majlis Bandaraya Kuching Utara」で、マレー系と先住民族が多いです。南部は「Majlis Bandaraya Kuching Selatan」で、華人が多いです。

サラワクの歴史は200年前の出来事から始まります。以前、クチンはイギリス人の支配下の植民地でした。James Brookeという人がいました。1839年、ジェームズ・ブルックは先住民の反乱を鎮め、ブルネイ王国は褒賞として、クチン市の権利を与えました。1841年、ジェームズは白人の王国を始めました。

 クチン市はとてもきれいな町です。いろいろな民族がいます。たとえば華人、マレー人、先住民族「ダヤク」、インド人もいます。クチンは多民族の都市だから、いろいろな言語があります。ダヤク人は自分たちの言葉を話しますし、華人は中国語、広東語、客家語、福建語(閩南語)を話します。でも最近は30%の華人は英語だけを話します。彼らの家庭の教育は英語主義であり、いい仕事を得るために国際的な言語、英語だけを使います。この人たちは「バナナ人」と呼ばれます。バナナ人は完全に漢字が読めない人、中国の言語を喋れない人です。マレー人は国語マレー語を使います。

私のおすすめの場所はBako National Park、バコー国立公園です。バコー公園はいたるところきれいな風景があるし、いろいろな動物がいます。たとえば、人気のオランウータンや猿、蛇、イノシシがいます。冒険が好きな人は8時間くらいのジャングルトレイルを歩くことができます。トレイルではいろいろな植物や珍しい種類の動物を見ることができます。森林の愛好家は絶対に楽しめますよ!

 次はやっぱり8月のクチン・フェスティバルです。クチン・フェスティバルは一年に一度のお祭りです。いろいろな活動があり、いろいろな食べ物を食べることができます。この祭りの楽しみは半分以上中華の食べ物です。みんなでいっしょに変な食べ物を試してください。

 クチン市はとても彩り鮮やかな都市です。ぜひお楽しみください」(林高盛「クチン市観光」)。

その食べ物については、

「私のふるさとはクチンです。クチンはマレーシアのサラワク州の州都です。クチンはマレー語で猫の意味です。だからクチンは猫の町としても知られています。クチンの中心部に猫の彫像があり、猫の博物館もあります。でも実はクチンに猫がいっぱいということはありません。では、なぜ「クチン」と呼ばれているのでしょうか? 伝説のひとつは、昔クチンの辺りに果物のマタ・クチンの木がたくさんあったからだそうです。

クチンは赤道にあります。一年中暑いですから、四季がなくてまるで毎日が夏のようです。

マレーシアはいろいろな民族の人が一緒に住んでいるので有名です。だからクチンの食べ物もいろいろな種類があります。例えば、代表的な料理として、中国料理のコロミー、マレー料理のナシレマク、インド料理のロティ・チャナイ、ダヤクのパンシューなどがあります。コロミーはクチンの代表的な食べ物です。乾麺とチャーシューの料理です。白いのもあり赤いのもあります。白いのはオリジナルで、赤いのはチャーシュー油を混ぜ合わせて、少し甘くなります。ふつうはスープに入っていないけれど、スープに入っているコロミーもあります。その名前は水麺(すいめん)です。水麺は赤くなく、白いものだけです。私は小さいころからコロミーが好きです。旅行してクチンに帰るたびに一番食べたいと思うのはコロミーです。これを食べないと、クチンに帰った感じになりません。

ナシレマクはご飯、とりにく、ピーナツ、アンチョビーとサンバル(辛いソース)の料理です。ナシレマクがおいしくなるかどうかはサンバル次第です。マレー料理はだいぶ辛くて、カレーとかレンダンとか全部辛いです。でも私は辛過ぎる食べ物はあまり食べられせんから、いつもサンバルは半分だけにしてだけ食べます。もったいない感じですが外食なら仕方がない。持ち帰ったらいつも残ったサンバルを冷蔵庫に貯蔵して、翌日ご飯と一緒に食べます。

ロティ・チャナイはうすい焼きパンで、カレーソースと一緒に食べます。何も入っていなのはロティ・コソングという名前です。ロティはパンの意味で、コソングは空の意味です。そのほか、ロティ・ススも好きです。ロティ・ススは練乳が入っているうすい焼きパンです。甘くて、カレーと一緒に食べると少し変な感じだから、私はいつもカレーをつけないで食べます。

クチンの料理はおいしくて、値段も日本に比べてとてもやすいです。みなさん、ぜひクチンへ食べに来てください」(グレイスリン・ウン「私のふるさとの食べ物」)。

 

クチン市の中心部は散歩するのに適当な大きさである。昼間の暑い時間は避けて、朝夕の涼しいときにそぞろ歩くのに最適だ。

クチンの中心は旧裁判所である。平屋で高床というこの地の気候に合った造りで、全然宏壮ではないけれど、屋根が大きく柱が太く、堂々としている。もっともすぐれたボルネオ建築だと思う。その前にはブルック記念碑がある。チャールズ・ブルックの肖像メダルと、四隅にマレー人・華人・先住民のレリーフ、碑銘はアルファベット・アラビア文字・漢字で記されている。まことにサラワクにも第2代白人ラジャにもふさわしいものだ。

建物の正面上方には時計がはめこまれているが、そのさりげなさにも好感が持てる。権力は空間だけでなく時間も支配しようとする。中国の町の中央に鼓楼が建っているのもその例で、欧米植民地の場合は時計台が立つ。クチンのこの時計の場合、ことさらさがないのが好ましい。

その向かいの川べりには広場、そして小さな四角形の建物四方堡があり、サラワク川に沿って西へ遊歩道が整備されている。

旧裁判所の左脇を南へ行く通りは「英国通り」とでも言っていいようなもので、まずかつてのチャータード銀行で日本占領時代クチン州庁だった中央郵便局、その南に聖トマス教会がある。教会の向かいの草地はムルデカ広場。この通りをさらに行くと、美しいサラワク博物館の建物、さらに南には、壁がなく風が通り、屋根が広く大きく日差しの熱射をしのがせる構造のカトリック教会がある。

旧裁判所の東側はカーペンター通りという中華街で、入口に門がある。中華街の建物は、道路に沿った1階部分の一部が歩道になっており、日陰を作り、雨をよけることができるという華南によくある町並みだ。入ってすぐに上帝廟、端には鳳山寺、そして丘のとっつきのところに太伯公廟ある。

そこからは丘が川に迫っている。ヒルトンやリバーサイド・マジェスティックなどのホテルが並ぶ地区だ。それが終わるあたりからまた中華街で、入口には猫の柱、出たところに白猫像があるのは、もちろん市名が「猫」を意味することによる。

丘を越えて行くほうが近道になる場合、夜に上り下りすることもあろう。家が建てられないような急斜面は植物の領分で、日本とは違う虫の鳴く音が聞こえ、夜の灯りに白い花が浮かび上がる。四季のない熱帯の一日を四季とすれば、夜はさしづめ秋口だ。

旧裁判所の西を見れば、川の上に新しい水上モスクがある。その先には古いドック、ピンク色の大きなモスクがあり、その西はマレー人地区となっていて、高床の住居が並ぶ。

カーペンター通りの西の続きは人通りの多い衣服市場のごときインディア通りで、そこから川のほうへ細い路地を入ったところにクチン最古のインディア・モスクがある。

中心部の川の対岸には、ラジャの住まいであり、今は知事公邸となっているアスタナ。やはり屋根が大きい。その左、小高いところに新しい州会が金色の傘のような屋根で聳える。そのさらに東の丘の上には白いマルゲリータ砦。2代目ラジャの妻の名前を取って名づけられた(サラワクには要所に砦があるが、みなラジャ一族の女性の名前をつけられている)。この程度の砦で守られるなら、平和なことであったろうと思わせる。

サラワク川は市中心部には橋がなく、最近おもしろい形の歩行者専用の橋が架けられた。だがこれは橋というより展望台と言ったほうがいいような実用性の乏しいもので、川の北のマレー人地区と結ぶのはサンパンと呼ばれる渡し舟である。これに乗れば、目が水面のわずかに上だから、新鮮な眺めが得られる。川風も心地よい。

中心部の道は狭く、というより人間的な広さでと言ったほうがいいか、交通も繁からず、ゆったりした気持ちになれる。このあたりは高層建築は多くなく、平屋やせいぜい2階3階建てぐらいで、人間の足が水平にも垂直にも使われるようにできている。

しかし交通のことを言えば、ここには他の東南アジア諸国を特徴づけているトゥクトゥク(三輪タクシー)やバイクタクシーの姿はない。中流以上の家庭は2、3台の車を持っている。これにはちょっと驚かされる。交通に限らず、町に東南アジア的な雑然としたところは少ない。小ぶりで落ち着いている。

この町の心地よさの理由のひとつに、銅像がないことも挙げていいだろう。しゃらくさい人間どもの像のかわりに、姿態千変の猫の像があちこちにある。本物の猫もよく見かけて、こちらはなお好ましい(日本は欧米起源の銅像病に冒されてはいるが、病膏肓というほどではなく、もっとも有名な銅像は渋谷と上野の犬である(上野のは人間を連れているが)点で救われている。神社にはときどき馬や牛の銅像があり、それもまた結構)。

 

クチンに残る日本人の遺物を見れば、近代の日沙関係史が概略たどれる。それは日本人墓地・依岡神社・日本屋・捕虜収容所跡・日本庭園である。数が多くないのは、日本との関係が深い東南アジア地域の中での日古関係の浅さを物語っていると思えるけれど、ふつうの日本人はまず名前を聞いたこともないクチンにこれだけあるのは、むしろ切っても切りようがない日本と東南アジアの関係の深さの一端と見るべきではなかろうか。

 

日本人墓地

バトゥ・リンタン通りから少し北に入ったところ、かつての捕虜収容所から遠からず、華人墓地の東に、「極楽山」と書かれた門と柵に囲まれた日本人墓地がある。紀元2600年(1940)記念に日本人会によって整備されたものだ。現在、明治35年(1902)から昭和19年(1944)まで、30基の墓がある。かつては46基あったらしい。サンダカンと同じく、クチンの日本人墓地も南向きである。つまり、日本に背を向けている。だがこれは、どちらも華人墓地の続きであることによるのだと思う。北に山を背負い、南に水に臨むという中国流風水の考えによる墓地選択であり、その華人墓地の並びに造られた日本人墓地は当然同じ向きになる。日本人だけを見ていてはいけない。海外の日本人は中国人と寄り添っているのだ。

その中に、島原・天草出身の女性の墓が多くある。いわゆる「からゆきさん」であろう。明治36年(1903)に18・20・21歳の若さで死んだ彼女らの墓標の前に立つと、感慨を催さずにはいられない。

鰐集うボルネオ島に来てみれば港々に大和撫子

1915 年にボルネオ各地を訪れた「邦人新発展地としての北ボルネオ」の著者三穂五郎は、こんな戯れ歌を詠んだ(「アグネス・キースのボルネオと日本(1)」、p.83)。山崎朋子の「サンダカン八番娼館」によってボルネオのからゆきさんの居留地としてはサンダカンがとりわけ有名になった。1891年にそこには「華人の無頼漢47人、あらゆる人種の受刑者144人、華人博徒69人、華人の淫売宿20軒、淫売婦は華人73人、日本人71人。日本人総数90人」(「マングローブの沼地で」、p.241)がいたという。

日沙商会創立者依岡省三が事業の可能性を探るためサラワクに来たとき同行した林基一は、「ボルネオ視察報告書」(1910)を書いているが、そこにはこう書かれている。

「クチンはサラワーク河の上流二十里の所にある、サラワーク国の首府にして、人口凡そ二万其内支那人六分を占め、馬来人三分、其残り一分が欧州人印度人其他の人種なり。言語は馬来語を通用語とす、支那人との間にても、馬来語を使用せるには驚くの外なし、英語を知るものは不便を感ぜず。

欧州人の此地に住するもの凡そ四十人、何れも官憲の関係者なり、我が同胞は凡そ六十人あり、内男二十女四十あれ共、其大多数は例の賎陋なる醜業婦と、是れに関係の無頼の徒のみなるに至つては又驚くの外なし。

新興国として一等国の列に入り、其一挙一動悉く世界の視線を惹くに至れる我が日本帝国の人民が、斯く万里異域の地迄も、身を汚し、醜を売り、以て我が国民の体面を汚せるは真に寒心に堪江ず、余は市中を散歩して之等売笑婦人を見、傍ら額に汗して車を挽ける支那苦力に対し、誠に穴にも入りたき心地せられし事幾度なるを知らず」(「日本とサラワク」、p.259)。

この墓地に墓のある者は、男16人・女20人である。次に見るように移民はふつう男が多いものだが、ここで女に上回れているのは、やはり彼女たちがいたからだろう。それでも1910年の数字ほどでないのには少し安心する。

この問題を考えるときには、なぜ彼女らが必要とされたかを視野から外してはならない。サンダカンの1891年の男女比は3対1だった。半島マレーシアの華人の男女比に至っては10対1である。ヨーロッパ人も圧倒的に男が多く女が少ない。新開地の常である。男たちが土地を開く。だが男ばかりで労働できるわけではない。そこに需要がある。それがプル要因。貧しい当時の日本の農村がプッシュ要因。天草を歩いていた研究者は、道端でかつてこの仕事をしていた人に出逢う。「椿咲く港の、段々畠のほとりで老女が地蔵さんを洗っていた。南洋に働きにいっていたので子どもはいない、とのことであった。老女は「働きにいったちゅうても、おなごのしごとたい」と、こともなげにいった」(「からゆきさん」、p.21)。いばれることでないにしても、卑下することもない。違法行為でなく、求められる仕事をしたのだから。

自分で自分を売りとばし、中には人に売りとばされた貧窮の苦力たちと同じ境遇だ、ということである。女性残酷物語は男性残酷物語と地続きの場にある。膨大な数の中国人と違い、日本人の男にはそういう境遇で海外へ出て行った者が彼らほどに多くないから、からゆきさんの商売が際立つのである。それでも、たとえば明治36年(1903)マニラとバギオを結ぶ道路建設の難工事に3000人の労働者が応募して海を渡り、700名の犠牲者の墓標を路傍に並べた(「排日の歴史」、p.41f.)。大正3年(1920)にボルネオからフィリピンへの船旅をした原勝郎は、サンダカンから三等船室に乗り込む20人ばかりの日本人と遭遇した。ホロ島で真珠貝採りをしに行く労働者である(「南海一見」、p.134)。真珠貝採りはそのころこの海域で盛んであり、日本人は優秀なダイバーだった。特に有名なのがニューギニアの南にあるオーストラリア領の木曜島で、かつて800人も日本人がいた。それはなかなかたいへんな仕事で、ダイバーの死亡率は10%だったそうだ。シベリア抑留者の死亡率と同じである。「あの時代(昭和初年)が食えるというような時代だったかね。(…) われとわが身を売って行ったようなものじゃ」(「木曜島の夜会」、p.23;25)という老人の述懐。危険に見合ったものか、金をつかんで帰る人も多くあった。からゆきさんもけっこう金を稼ぎ、「サンダカン八番娼館」の主人公、あばら家暮らしのサキさんも、仕送りで兄に田を買わせ、自分も小金を持って帰ってきている。木曜島の真珠貝採りの男たちは、そこにも来ていた日本人娼婦たちと互いを慰め合う対のありようであるのだ。

「醜業婦」と蔑む戦前の一等国志向の人々も、「残酷物語」「性搾取」として糾弾する戦後の意識高い人々も、高みから見下ろす点で同じものの裏表である。哀史はもちろん哀史であるが、木曜島の優秀な同胞ダイバーを誇りに思うように、この女性同胞を誇りに思ってはいけないだろうか?

 

イギリスの作家モームは、ボルネオやマレー半島を旅し、そこを舞台にしたすぐれた短編小説をいくつも書いた。「ニール・マックアダム」では、クチン(作中ではクアラ・ソロールという名)の博物館に勤めるため経由地シンガポールにやってきた大学を卒業したばかりの若者ニールを、日本人(当然元からゆきさんであろう)を妻に持つ船長が世間学習に連れ出す。

「人力車は横町に面したある家の前で止まり、二人はその家の扉をノックした。扉が開けられ、二人は狭い通路を通って大きな部屋へ導かれた。部屋の四隅には、赤い天鵞絨でおおわれたベンチが造りつけてあって、フランス女、イタリア女、アメリカ女など、大勢の女がそのあちらこちらに腰かけていた。自動ピアノがひどく耳障りな音楽を喚き立て、それに合わせて二三組の男女がダンスしていた。ブレドン船長は酒を註文した。彼らが呼んでくれるのを待ちかまえている二三人の女たちが、しきりに誘いかけの視線をからみつけてきていた」。

「二人はぶらぶらとその家を出て歩き、やがてまた別な家に入って行った。そこでは女は中国人ばかりで、まるで草花のようなちっぽけな手足をした、小柄でしなやかな女たちが、花模様のある絹のスーツを身にまとって並んでいた。しかし彼女らの厚化粧をした顔はお面に似ていて、黒い瞳が二人の異人たちを眺める目つきには嘲笑の色がにじんでいた。この女たちには妙に人間らしさが感じられなかった」。

船長の言うには、「ここは絶対に素見だけにしておくべきだ。どうしたものか、この連中はわれわれ白人を嫌うのでね。中国人のやっているこの種の悪所では、われわれに門前払いを喰わすところもあるくらいなんだ。実をいうとね、連中に言わせると、白人は臭いんだそうだ。おかしいじゃないかね、われわれは死骸みたいな匂いがするんですとさ」。

「やがてまた一軒の家に連れて行かれ、肥満した中年の日本婦人が二人を迎えに出て、彼らがその家に入ろうとしたときその婦人は頭を低く下げてお辞儀をした。案内された部屋は、きちんと整頓された清潔な感じで、家具らしいものとては、畳床の上に下敷が何枚か置いてあるだけだった。二人が腰をおろすと間もなく、小娘が盆の上に緑茶を入れた茶碗をのせて入ってきた。その小娘ははにかみながらお辞儀をして、それから二人にそれぞれ茶碗を差し出した。(…) しばらくして四人の女が弾むような足どりで入って来た。キモノを身にまとい、つやつやした黒髪を巧みに結い上げた彼女らは、なかなか美しかった。みな小柄でふっくらしていて、円い顔の目もとにはにこやかな笑みが溢れていた。彼女らは部屋に入るとまず低く頭を下げ、それから行儀よく鄭重な挨拶の言葉を囁いた。その言葉を聞いていると、まるで小鳥の囀りのようだった。それがすむと、男の左右に一人ずつ坐って、なまめかしくしなを作って彼らにたわむれかけて来た。ブレドン船長はぬかりなく、左右の二人のほっそりした腰に手を廻していた。女たちは四人とも、すごい早口でよく喋った。みんな大変なはしゃぎようだった。(…) あとの二人は彼にぴったりと身体をすり寄せて、笑みをたたえながら、ニールになにもかも話が通じるとでも思っているのか、さかんに日本語で話しかけて来た。その態度があまりにも屈託なさそうで、あどけない感じなので、彼はとうとう笑い出してしまった。彼女らは実によく気がついて、彼にお茶をすすめるべく茶碗を手渡し、飲んでしまうと、手に持っていなくてもよいように、すぐ茶碗を取ってくれるのだった。煙草をくわえると直ちに火をつけてくれるし、もう一人のほうが小さくしなやかな手を差し出して、灰が服の上に散らないように受けとめてくれたりする。ニールのなめらかな顔を撫でたり、大きく若々しい両手を珍しそうに眺めたり、まるで仔猫がじゃれついているようなものだった」(「ニール・マックアダム」、p.103f.)。

小説ではあるが、この人は写実主義で、旅先でも見たこと感じたことをまめにノートに書いていて、それを作中で使っている。背景や設定については現実を写していると考えてよい。この日本人娼館はたぶん一流店なのだろうが、こう並べてみると、なぜ日本人女性の人気が高かったかがよくわかる。日本娘に対する恐るべき需要があったことは想像に難くない。強いヒキがあり、だから供給も絶えなかった。しなくていいならそれがいちばんいいが、しなければならないならこうするのがいい。帰国した元からゆきさんの言葉、「いやですねえ、日本はつくづくいやになりますよ、みんな心がせもうて。わたしらを変な目で見て。外国人はそうじゃありませんよ」(「からゆきさん」、p.46)は、事実そうなのだろう。元娼婦であろうと妻に求める外国の男が多かったのは当然だ、と思う。モノが違う。

ある人は明治末期にラブアン島でからゆきさんからこんな話を聞いたそうだ。「サァあにしゃま、日露戦争の話をしてください。今度の戦争でボルネオだけの妾等の仲間で献金をしました。百円、二百円、千円もした人もあります。英領から蘭領じゃと千人位は居ります。あにしゃま、此次に亜米利加とやる時は少くとも二三倍の献金が出来ますばい」(朝倉文夫「航南瑣話」。「クチン歴史散歩」、p.75f.)。孫文が南洋華僑の拠金で革命を目指したのと重なる、遥かなる祖国への思いと行動である。幕末の志士をかくまう商売女たちとも重ねたい。仕事によって人の尊卑は測られない。心根によって測られる。

 

サラワク王国在留邦人の状況」(1928)では、在留邦人総数は男52人・女38人・子供25人の計115人、そのうちゴム園関係者は78人、ほかには商人16人・その他21人となっている(「日本とサラワク」、p.274)。その頃までには「からゆきさん」はほぼ消えていたようだ。1920年に日本領事はシンガポールをはじめマレー半島の娼楼をやめさせたというから、その廃娼令によるものだろう。

しかし、戦時中陸軍報道班から南洋に派遣されボルネオを訪れた林芙美子は、「ボルネオダイヤ」(1946)でバンジャルマシンの慰安婦を描いている。これも一種の「からゆきさん」なら、その歴史はもう少し続いた。

クチンの日本人墓地は、隣に住んでいた高Kohという台湾出身の人が世話してくれていた。今は、サラワク生活が40年を超える旅行会社Insar Tours & Travel社長酒井和枝が中心となり、日本人会が管理に当たっている。

 

依岡神社

依岡神社はクチン郊外のシニアワン村のアブラヤシ・プランテーションの中にある。高い台座の上の小さな祠で、保護のための屋根で覆われているものの、もうほとんど壊れかけている。鳥居は蔓植物に絡みつかれ、自然の景観の一部に戻ろうとしているようだ。

祀られているのは日沙商会の創立者依岡省三で、彼は1910年サラワクのラジャより土地の租借を許され、サマラハンにゴム園を開こうとしたが、翌年それに取りかかる前に病没した。事業は弟の省輔が受け継ぎ、日沙商会を発展させた。事業は発展し、大正9年(1920)に省輔はこの小さな神社を建てた。しかし敗戦により日本人は追放されたので、いつく人もなく荒れ果てているのである。

上に引いた1928年の「サラワク王国在留邦人の状況」に見られるように、その頃はゴム園を営む日本人が多かった。1916年には北ボルネオ勅許会社領(今のサバ州)のタワウに久原農園が開かれている。マレー半島には特に日本人ゴム園が多く、金子光晴はそれを頼って旅をした。

日沙商会設立につながる前引「ボルネオ視察報告書」は、「水質も甚だ良好」とか「健康に就ては新嘉坡より遥かに良好なり」とし(「日本とサラワク」、p.262)、

「予が今回の旅行に於て、サラワーク国を察するに其美点

一、他の熱帯国に比し気候順良なる事

一、企業すべき事業夥多なる事

一、土地借得に便利にして費用少なき事

一、労働者を得るに便なる事

一、土人が日本人を企慕する事

其欠点

一、内地の交通不便なる事

一、官憲の日本人を猜疑する事」(同、p.271)

と結論している。すべて現在にも当てはまるし、欠点の2番目は大いに改善しているだろう。

 

依岡神社に行ったことのあるSJFCスタッフの1人は、こんな訪問記を書いている。

「私はクチン出身です。クチンはボルネオのサラワク州の州都です。クチンの近くのセニアワン村に昔日本人が残した神社の遺構があると新聞記事で知り、先週見に行きました。そしていろいろおもしろいことがわかりました。

神社の周囲やそのまわりの昔日本人の家があったところは、全部背の高いアブラヤシの農園になっているので、村の人の案内がなければなかなか見つけられません。

でもなぜそんなところに日本神社の遺構があるのでしょうか。

第二次世界大戦が始まる前に、もうすでに日本商人がクチンにいました。ヨリオカ・ショーゾーも商人としてクチンに来て、ここでゴムや稲などを植えたいと思い、サラワク政府に土地の使用権を申し込みましたが、残念ながら許可が出る寸前に病気で亡くなりました。その後、弟のヨリオカ・ショースケが彼の意志を継ぎ、ニッサ商会株式会社を創って、日本人と地元の人を雇用し、ここに農園を開発しました。

ショースケは兄のショーゾーを記念して、セニアワンにヨリオカ神社という小さな神社を建てました。日本人がいた時期はセニアワンの繁栄時代です。病院も店も揃っていて、クチン市の住民もそれを知り、ここへ来て仕事と暮らしを始めました。

一度修理して屋根がかけられているので、何とか神社の形を保っていますが、あちこちが腐り始め崩れかけています。鳥居も寄生されて自然木に化しそうです。

戦後日本人が帰国させられたあとも、彼らに関する話が伝えられています。たとえば去った日本人は埋蔵金を残していったとかの話です。また、日本人はセニアワンを「ムアラ」と呼んでいたと村人は言っています。「ムアラ」はマレー語で「河口」の意味ですが、この場所は河口ではありません。これはたぶん日本語の「村」だと思います。

日本人は堤を築いて溜池を造り、田に水が引けるようにしたり、トロッコのレールを敷いたりしました。村にはヨリオカ神社のほかにも、Strong Roomという監獄みたいな倉など、いくつか遺物があります。村の歴史を忘れないように、力を尽くして保護したいと村長は言いました。役所からの許可も得ないまま、村にある道標を全部「Seniawan Jepon」(日本のセニアワン)に変えたほどです。

村人の気持ちを知り、もっと日本人にこの場所を知って見に来てほしいと思って、これを書きました。マレーシア人も含めて、多くの人に知ってもらい、いっしょにこの神社を守ってほしいです。」(ヘンリー・ヤン「クチンにあるヨリオカ神社」)

 

日沙商会で働いていた人のうちには、石原裕次郎映画や「南極物語」の監督として知られている蔵原惟繕の父惟門もいた。蔵原惟繕はクチン生まれである。

久能清次も日沙商会で働いていた。彼はマレー人の女性と結婚、イスラムに改宗しサラワクに帰化もした。だが敗戦後は他の日本人と同様日本へ強制送還された。しかし子供たちの尽力でまたサラワクに戻ることができ(1954年)、1959年にクチンで没し、ムスリムの墓地に葬られた。3男5女の子だくさんであり、その子らにも多くの子供がいる。

「昭和十年、クチン郊外の農園主の山下亭で日本人七十名による日本人会が発足し、清次は理事に選出されている」(中川「ボルネオ島の日本人入植者」、p.113f.)そうだ。この日本人会は現地在住者たちの会で、戦後の企業駐在員の会とは性格が異なる。戦争がなくこれが持続し発展していれば、華人の出身地別の会館のような存在になっただろう。

清次三男のボーハン・サブローは土地測量部門の長官を務め、その功績でダトという名誉称号を受けたほどで、日本サラワク協会とも関わり深く、日本との関係強化に尽くした。

「著者がマレーにあること三十年、その間、ボルネオのサラワク王国立マレー語学校に学び、後、古河合名会社スマトラ出張所に勤め、その余暇を利用して編纂した苦心の著作」(「東京日日新聞」の記事、「可護記」、p.35)である「模範馬日辞典」(文原堂発行・シンガポール花屋商会発売、1941)を独力で作った藤野可護も、日沙商会に関係があった。1887年那智勝浦に生まれた藤野は、1904年にクチンへ渡り、そこのS.P.G.スクールで学んでいるとき、依岡省三がやってきて、その世話でクチンに店を開いた。1910年に省三が土地租借を願い出るためラジャを訪問するのに同行し(ラジャは英国帰国中で会えなかったが)、省三と林基一の調査行にも加わり、日沙商会が事業を始めるとしばらくそこで働いたあと、ジョホール州、バタム島、スマトラ島パネのゴム園で働いたり、ラントプラパットで店を開いたりしていた。戦争が始まると抑留され、オーストラリアの収容所に入れられたあと捕虜交換で帰国し、その後軍属として徴用されて、ジャカルタ日本兵にマレー語を教えたりインドネシア人に日本語を教えたりする任務を与えられた。敗戦後1年ほどの抑留を経て、1946年帰国(その時南方軍から、「終戦に依り「インドネシア独立運動熾烈となり、日本人に対する武器強要並びに略奪を企画して、各地に暴民蜂起し、更に物品略奪を目的とする騒擾も起り、日本人を襲撃する事件頻発して、日本軍の武装解除に伴ひ、その殺害せらるるもの累増せり。(…) 依而、同人は、連日、単身危険を省みず、「インドネシア」人部落に入り、その語学を駆使して、宣撫に務め、為に、日本人の損害を最小限に止め得たり」云々の証明書をもらっている。「可護記」、p.129)、郷里で1959年に没した。彼の辞書は、「収録語数は多くないが、動詞、形容詞等の見出し語については、その語意の解釈にしばしば有用なヒントを与えてくれる辞典」と「言語学大辞典」(三省堂)で評されている。

彼は叔父親子といっしょにマレーシアに渡っているし、兄やいとこはアメリカへ、弟は蘭印へ働きに出た。弟はスマトラ島ロボックパカムで写真館を開き、インドネシア人女性と結婚した。可護は叔父の娘とパトパハ(金子光晴南方放浪時の逗留地として知られている。日本人クラブがあった)で結婚、再婚相手前田うめも、父初次郎(福井出身)がクチンでゴム園をやっていた(「サラワク王国在留邦人の状況」(1928)に「詳細は不明」としながら名前の出る「前田護謨園」はあるいはこの人のものか?「サラワクと日本人」、p.281)。木曜島の真珠貝採りは熊野、「アメリカ村」は御坊。明治から戦前の南紀では海外出稼ぎは普通のことであったようだ。戦争がなかったら、島原・天草と南紀は日本の福建・広東になったかもしれない。日本人の場合出稼ぎではあるが、数が多くなれば出先にとどまる人も多くなったであろうから。南洋華僑だってもともとは「落葉帰根」を願った出稼ぎ民だったのだし。

また、クチンで最初の雇い主であった箱嶋房之介は、孫文が「マニラで革命を起こそうとした時、これに参加した」というし、そこには閔妃殺害事件に加わった「志士」が寄寓していたという(「可護記」、p.27)。彼の辞書の世話をし、仲人もしてくれたシンガポールの花屋商会主人の樫尾七太郎は、郡司大尉に従って千島へ行ったり、チリ海軍の旗艦で柔道を教えたりした人であったそうだ(同、p.63)。沸騰するアジアを感じることができる。

なお、日系人ということでは、戦争中日本軍の通訳をしていた岩永ノブオは戦後も2人の妹とともにクチンに残った。妹はセント・メアリー校の教師をしていた。ノブオと海南人の母の間に生まれたローズ・イワナガは、1960年代にバンドのボーカルとして歌手デビューしている。

 

日本屋 Japanese Building

旧裁判所の裏手にその続きとして、カーペンター通りとインディア通りをさえぎる形で建っている。わずか3年の統治時代で、戦争中でもあり、イギリス人や華人の建てたものを接収して使うばかりで、建設をろくにしなかった日本人が建てた数少ない建造物のうち、今も残るのはこれだけだ。建設作業にはバトゥ・リンタン捕虜収容所の捕虜たちが当たった。

 

バトゥ・リンタン捕虜収容所跡

1939年にパンジャブ連隊の兵営として造られたもので、日本占領時に捕虜収容所として使われていた。戦争末期、1800人の英豪軍捕虜がサンダカンからラナウへ密林を歩かされ、6人を除いてみな死んでしまった「サンダカン死の行進」があったが、この収容所でも食糧不足から多くの死者が出た。日本占領の汚点のひとつである。そこに収容されていた作家アグネス・キースは言い切る。「日本軍収容所にいた頃の出来事で、また経験してみたいと思うものは何一つない」(「三人は還った」、p.335)。

キースの収容所生活の記録「三人は還った」は読むべき貴重なドキュメントで、あの状況下でユーモアを忘れていない。だがここでは、欧米人が読むのとは違ったふうに、日本人の書いたものと突き合わせながら読んでみよう。

彼女たちサンダカンの白人は、まずべルハラ島の収容所に入れられた。

「雨漏りがして、腐敗が進む。換気設備も電灯もない、窓が板張りの建物だった。このようなひどい建物に住まわせるのは、こんな建物を許したわれわれヨーロッパ人に対する復讐に違いないと思ったものだ。かつては、到着したアジア人を検疫するために使われた建物だが、北ボルネオがまだイギリスの支配下にあった五カ月前までは、われわれが日本人抑留者を収容していたのである。その建物に入るとき、ここに人間を住まわせるなどという考えを起こさなければよかったのに、と思った」(同、p.45)。

そう、イギリス人が日本人居住者を収容した同じところに日本軍はイギリス人をぶちこんだわけで、以下イギリス人と日本人の行為はほとんど鏡うつしだ。

そのあと、「屈辱の日」が来る。男女を問わず、体が動けると判断されたものはサンダカンへ運ばれ、「男性は道路作業に駆り出されて、補修や地ならしや草取りなどの公共事業をやらされた。仕事がすむと町の広場に立たされ、大英帝国崩壊の「証拠物件-A」として見世物にされた」。「女性たちは前のサンダカン・ホテルの裏庭に連れてこられた。以前はダンス・パーティーをやった場所だが、すでに日本兵の営舎になっていた。彼女らは、そこで兵隊の衣服の洗濯と、繕い物をやらされたのである」(同、p.84)。

つまりは生まれによって高い地位にある「貴族」がそこから引きずり降ろされたわけで、「アンシャン・レジームの崩壊」である。日本軍進駐は一種の「革命」だったのだ。

「わたしたちが敵に囚われ、病気に罹り、食糧が十分になく、着る物にもこと欠くというのは、まったく不運なことと言えるが-一番の悲劇は、市民病院の二等アジア人病室に入れられていることなのだ、とメアリーは思っていたのである! 顔が利く、地位がある、純血である、というだけの理由で、わたしたちは大きな顔をして東洋にいられたのである。お金では買えないこんな結構な暮らしに慣れきっていたわたしたちが、二等アジア人の部類に格下げされたのは、まったくもって耐えがたいことだった」(同、p.77)。

戦争末期シマンガンで捕虜になった鈴木正一郎らは、パンツ1枚の裸で町を引き回され、英国旗と中国旗に3回拝礼させ、「英国には決して再び反逆しない」と唱えさせられた(「愛傷のサラワク」、p.171)。イギリスの軍曹は「1ドル払えば何回でも殴ってよい」と言って、現地人に捕虜を殴らせ、その金をポケットに入れた(同、p.175)。「屈辱の日」をやったりやり返されたり、勝者が誰かだけの違いである。ただ、日本軍のが「革命」的であったのに対し、これは革命ではない。いつでもどこでも勝者は敗者にこんなことをしてきたという一例にすぎない。

サンダカンで白人捕虜は現地人からこっそり食料その他の差し入れを受けていた。囚われの鈴木らも同じく現地人から差し入れをもらう。白人に好意を寄せ、その境遇を哀れむ人々がいるのと同様、日本人に好意を寄せ、その境遇を哀れむ人々がいる。彼らの国で主人顔をしてきた連中に対してもあくまでやさしい人たちが。イギリス人が自分たちは好かれていたと考えるなら、同程度に日本人も自分たちは好かれていたと考えていいわけだが、それよりも土地の人々の心根のやさしさを感じるべきだろう。国を奪った当事者たちが「屈辱の日」の応酬ばかりやっているなら、奪われた側のそのふるまいがなおさらに際立つ。

捕虜収容所長菅中佐は、陸軍士官学校を卒業して軍務につき、予備役に編入されたあと渡米して、ワシントン大学を卒業した。そのとき皿洗いなどをして生活を支えていたというから、アメリカ社会のさまざまな面を知っていたはずだ。

「彼はアメリカ西海岸のワシントン州シアトルにあるワシントン大学の卒業生であると明かした上で、なぜアメリカ人は日本人に偏見を持っているのかと尋ねた。日本の低賃金労働がアメリカの労働にとって脅威であることからきているが、これは経済上の偏見である、とわたしは答えた。すると彼は、そんな見方はほんの一部だ、と言い「アメリカ人は日本人を排斥するのを労働のせいにしているが、実際は日本人であるというだけで侮蔑しているのだ。あなたなら分かっているだろう」と切り返して来た」(同、p.xii)。

彼が留学していたのは1924年前後である。「排日移民法」が制定された時代だ。結婚前サンフランシスコで新聞記者をしていたキースは、もちろんその人種差別を知っている。

木曜島などで真珠貝採りをしていた日本人に対する扱いも言及しておくべきだろう。彼らの話によれば、オーストラリアでは上陸しても海岸から2マイル以内の土しか踏めず、酒場に入れば追い出される。戦争が始まると、「軍艦を派遣してきて、日本人三百人を虜囚にし、小さな汽船の船底に押しこめた。暑いころで、船底に風が来ず、たちまち病人が続出した。(…) みなあかまみれになり、家畜小屋よりもひどい匂いが充満した。豪州兵もこの臭気に閉口したのか、一週間に一度だけ、日本人たちを甲板に出した。それも、男女いずれも全裸で出ることが命令された。銃剣を持った兵が、豚を追い立てるように上へあげ、甲板に群らがらせると、船員が海水ホースを動かして、裸の群れに水をぶちあてて行った。ホースの水が激しくぶちあたると、男も女もジャガイモのようにころがった。船員たちはおもしろがって、ホースの先端を奪いあったりした。女がころんで甲板のはしに頭を打ちつけ、血を出した。牛馬以下のあつかいだった」(「木曜島の夜会」、p.95)。飢えなければいいという話でもない。

ボルネオに進駐してきた日本軍の将校にも兵士にも、キースの「風下の国」訳書(野原達夫訳、1940)を読んだ者が多くいた(彼女はそのことに驚いていてもいいと思うのだが。当時そんな読書欲のある米兵がどれだけいただろうかと考えてみれば)。陸軍報道班員として北ボルネオに来た作家里村欣三がその本を読んでいたのは、軍人とは違ってその職業柄驚きはない。彼はキナバタンガン川遡行の旅に出る前にサンダカンで彼女の住んでいた家を見物していて、川旅の途上ではこんな感想を漏らす。「キース夫人のボルネオの生活記を読んでみても、現地人や家庭の使用人に対しては、甚だ親切で、彼等を根気よく愛している。しかしその親切な心持には、やはり自分たちはボルネオの統治者であり、征服者であるという絶対の立場から、現地人たちを愛し、動物を手なずけるのと同じに、彼等を根気よく手なずけている。その心持が私には不満であり、反対であった」(「河の民」、p.119f.)。

モームの「奥地駐屯所」という短編では、奥地にたった1人の白人として勤務する主人公はひどいスノッブで、熱帯猛暑の中でも、彼1人だけしかいなくても、ディナーには必ず正装し、もう1人イギリス人が赴任してきても、気が合わないため用務以外まったく話しかけもしないような男だが、現地人は彼流に愛している。といっても、要するに犬や家畜を愛するように愛しているのだ。世界で犬をしつけることにおいてはイギリス人が一番だという。現地人を手足のごとく使えるのでなければ、40人程度でサラワク全体を治められるはずがないし、膨大な人口のインドを統治できるはずがない。そこに「愛」があることは間違いないが、どういう愛なのかは考えてみてもいい。日本人の多くも日本人なりに現地の人々を愛していたはずだ。愛するのはいずれにせよいいことだ。しかし日本人の愛し方とイギリス人の愛し方は異なっていただろう。

解放前、キースは収容所で男の捕虜を見る機会があった。

「男たちの体は飢餓でやせ衰え、骨は骸骨のように見えている。それに、皺だらけの乾燥した皮膚。目の落ち込んだ頭蓋骨は、不自然に大きく見えた。

患者全体に、栄養失調と血行不良が原因の潰瘍がある。足全体、胸部、腕、大腿部などに広がっているものが多い。足、手、睾丸が壊疽に罹っているいるものも多数いる。指先やつま先が、溶けてしまうとしか言いようのない状態のものもいる。また、指先に穴があいて血まみれになり、血がとまらなくなっているものもいた。

聞いたところでは、捕虜としてシンガポールからクチンに移送されてきた二千人のイギリス兵のうち、いま生きているのは七百五十人にしか過ぎなかった。しかも、そのうちの六百五十人が病人で、作業班に入れるほどの力が残っている兵士は、三十人にも満たなかった」(同、p.296f.)。

加えて、「サンダカン死の行進」である。それと同時期に、ばかな命令で西海岸から東海岸、着くとすぐに元の東海岸へ移動させられ、敵兵のいない密林で飢えと病にばたばた倒れた日本兵の「死の転進」もあった。「餓死した英霊たち」という本がある。戦没日本兵の多くは、飢えとそれによる衰弱によって死んだという。ここにもその例がある。しかしだからといって、戦場でないところで武器もない捕虜が同じように死んでいい理由はない。悲しく恥ずかしい歴史である。日露戦のロシア人、第一次大戦のドイツ人捕虜の扱いは模範的だったが、それは国内の収容所だったし、勝ち戦だったからだ。ポッと出が人様の土地で収容所を運営するなどは、分を過ぎた所業だったのだ。

この本のもう一人の主人公と言える菅中佐(映画化作品では早川雪洲が演じた)について、キースはこうまとめている。「かつてのワシントン大学卒業生、芸術の支援者、第一次世界大戦の連合軍受勲者、丸刈りの軍人、砂糖を食べない糖尿病患者、子供好きの軍人、大きな軍刀をさげた小男、神道信者の家に生まれカトリック教徒になろうとした宗教的ディレッタント、英雄にして嘲弄される人物、日本の愛国者、在ボルネオ全捕虜・抑留者統括司令官…そして一人の人間である小柄な日本人」(同、p.314)。

「スガ中佐が目指した自画像は、クチンにある理想的な捕虜収容所の、教養ある情け深い管理者であった。子供にはいつも優しく、何度もビスケットやキャンディーを持ってきてくれた。また、授業を受けるに必要な物を提供してくれたし、できるだけの自由も与えてくれた。子供たちはみな彼が好きだった」。「これに対し、ボルネオの捕虜全員に、餓死が容赦なく迫ってきていたという厳然たる事実が挙げられよう。戦争捕虜も民間人捕虜も、殴られ、虐待され、拷問にかけられた。収容所の毎日の生活状態は、ほとんど耐えがたいものであった」(同、p.315)。

敗戦後収容所長菅辰次中佐は戦犯容疑者として拘留された。広島に残してきた家族は原爆で死んでしまったと思っていたらしい。研いだフォークで頸動脈を切って自殺したとされているが、クチン市民病院長だった秋田清は、瀕死の彼を止血縫合して救命し、そののち裁判を受け処刑されたと報告している(「サラワクと日本人」、p.148f.)。われわれは彼が処刑されたのは気の毒だと思い、彼らは当然だと思う。しかたのないことである。

収容所跡は今は師範大学になっている。戦争の施設が平和の施設になったのはいいことだ。そこは収容されている子供たちのために、捕囚の修道女が勉強を教え、収容所長がそのために黒板や鉛筆を与えていたというささやかな「前史」のあるところだから(「三人は還った」、p.197)。今は構内に小さな博物館と、日本軍の国旗掲揚台の台座、パンジャブ連隊の兵営が一棟残るばかりである。

 

日本庭園

その名を「広島サラワク友好公園Hiroshima-Sarawak Friendship Garden」と称する日本庭園は、市内の南、都市の中のジャングルの切れ端であるサマ・ジャヤ自然保護区の入口にある。

庭園は1997年に完成し、1999年にオープンした。サラワクと広島の友好、特に林業分野での交流を背景にしている。河内良智(当時日本サラワク協会副会長)の尽力により、広島県は1991年からサラワクの林業関係者の研修を行なっていた。日本とサラワクの関係の大きな柱が、石油・天然ガスと並んで、木材産業であることを示すものである。

 

そして、くたびれた建物の3階部分を賃借しただけのものとはいえ、わがサラワク日本友好協会Sarawak Japan Friendship Club(SJFC)がある。中心部西側の市街地で中華街のパドゥンガン通り入口に猫の柱があり、その手前からヒンドゥー寺院へ向かってSong Thian Cheok(宋天祝)通りが南へ分かれているが、その通りの中ほど左側、ちょうどMaybankの向かいに位置している。

 

さて、ようやくSJFCである。まず、その前史から始めよう。

 

参考文献

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Wikipedia

 

論文

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林ひふみ「アグネス・キースのボルネオと日本(2) 「三人は帰った」と菅辰次」、(「明治大学教養論集」523、20176.1)

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