「戦時生活様式」

 「新しい生活様式」なんだそうである。

 いろいろな実践例が数多く列挙され推奨されているが、その中にこの新型コロナ禍が収束したあとも本当に必要なものはどれだけあるのか。皆無ではない、という程度ではないのか。実のところで言えば、これは臨時生活様式、もっと言えば「戦時生活様式」である。戦争なら相手が降伏するか停戦協定が結ばれるかすれば終わるが、この病気相手には何をもって「終戦」とするかがわからないから、「新しい」などと言ってごまかしている、ということだ。ことばをいい加減に使ってもらうまい。「ニューノーマル」だって? うそつけ。

 

 あげられているのは、ほとんどが「終戦」となれば間髪入れず打ち捨てるべきものである。人間性に反するものばかりだから。「ほしがりません、勝つまでは」一覧だ。

 「対面ではなく、横並びで座ろう」というが、内田百閒によるとそういう座り方は「気違いの養生」である。人類は何のために表情筋を発達させてきたのか。

 「おしゃべりは控えめに」。言語能力こそが人類とその他の動物を分かつもので、話をするのが人間の人間たるゆえんである。しないわけにはいかない。

 「距離を保て、密閉・密接・密集を避けろ」。社会的動物である人間にとって、密閉はともかく密集・密接はなくてはならぬもので、三密回避とは人間性回避にほかならない。濃厚接触しなければ結婚できないし、子どもは生まれない。愛とは濃厚接触である。

 

 通販の利用が推奨されている。

 通信販売が便利であることはたしかで、店が近くにない人や重くてかさばる物を買う場合には非常に有効である。発展するならすればいい。だが、奨励するのは間違いだ。ゴミを増やす結果になること明らかだから。

 またいわく、デリバリーや持ち帰り。

 利用する必要のある人(購入側だけでなく提供側も)は利用すればいいし、非常時に必要とされるのは理解できる。しかし、これは決して奨励してはならない。何のためにポリ袋を有料化したのだ。プラスチックゴミを減らすはずが、増やすことになるではないか。

 それから、リモートワーク。

 できるならやればいい。手洗いの励行、時差出勤の勧めなどとともに、数少ないコロナ禍後も推し進めるべき方策のひとつだが、しかしこれは、対物業(対植物・動物業、つまり農牧業・漁業・林業や工場・運輸など)・対人業(商店・飲食店・芸能・医療など)では無理である。対情報業でのみ可能だ。だが、人間の社会生活の根本は対物業・対人業である。対情報業はおまけのようなものだ。核最終戦争を遂行するには対情報業は重要だが、その戦争後に(人類が生き残っていたとして)まず必要になるのは対物業、次に対人業である、と考えてみればいいだろう。

 リモートワークが話題になるのは、それが首都で収入も影響力も高い人たちがしている(目新しい)働き方だということによる。だからマスコミが好んで取り上げる。そんなこと絶対にできない人たちのほうが多いのに。リモートワークしているのは最終戦争の側にいる人たち、ぐらいに思っておけばいい。

 

 そして、マスク。

 マスクに本当に効果はあるのか? 流行初期、WHOや欧米諸国は効果はないと明言していた。マスクに狂奔する極東を嗤っていたとさえ言えるが、その夫子ら自身がマスクをつけろと指令する豹変ぶりは滑稽と言ってもいい。だが、人にうつすほうの恐れはたしかに軽減するようだが、うつされるほうはどれだけ防げるのか。エビデンスはあるのか。マスクをしなかった大統領が感染しているのは根拠になりそうだが、あの2人はほかにもいろいろ(これ見よがしに)問題行動をしていたから、どれが主因かわからない。経験的な知恵ならば尊重するけれど、多分に希望的ないし惰性的なものではないかという疑いはぬぐいきれていない。

 検査の結果感染が確認された者は隔離され、ゲームの外に置かれる。だからこの病気で怖いのは、未検査の無症状感染者からの感染拡大だろう。もしマスクが拡散抑制機能が高く防御機能が低いとすれば、マスクが感染を防ぐ効果があるのは日本のようにみんながマスクをしている場合で、欧米のようにマスクをしない者が大勢いる場合には効果がない、ということになるのではないか。日本人は言われたらマスクをする(言われなくてもする)が、アメリカではマスクするしないが政治信条の問題にまでなっている。マスクの効果が全員がそれをつけることによってしか現われないのなら、抑止網が穴だらけの欧米ではマスクはあまり意味がないということになろう。

 ただし日本でも、テレビで見ると、マスクから鼻を出している人がかなりいる。あれでは効果半減だろう。人は口呼吸などあまりせず、だいたい鼻呼吸をしているのだから。

 その点で見ると、マスク着用は効用以前に「規則を守っている」「善良な市民である」という記号になっているように思える。つまり、ムスリムのスカーフのようなものである。家の中ではせず、外出するときにつける。小さい子どもはしなくていい。まったく同じだ。違いは、スカーフは女だけがするが、マスクは男も女もするということのみ。

 社会のひとつの重要な役割は、男の暴力から女と子どもを守ることである。スカーフはそのための一種の手段になっている。この女性は善良で、社会に庇護されているという記号になるのだ。まずは神の庇護、その上に家族や親族の庇護があると示す。この女に手を出したら誰かがおまえを殺しに行く、ということだ。プリミティブだが、警察力の信頼できない時代や場所では効果があるだろう。

 

 このあたりは田舎だから、マスクせず出歩く人もいる。今降りたあの車両にマスクをしていない人はいたかな、と思い出そうとしてみるが、思い出せない。あの店の店員はしていたかどうか考えてみても、認知症かと疑われるぐらいに記憶にない。もちろんしているに決まっているのだが。見えているが、見ていない、ということだ。ふだんマスクをする習慣のない国では、突然そんなものが溢れかえればSFじみた光景にも感じられるかもしれないが、日本では風邪をひいたらすぐマスクをするし、花粉症の季節はマスクだらけになる。見慣れているので気にとまらない。よほど奇抜なマスクをしていたら目に立つだろうが、大坂なおみ選手程度のでもたぶん気づかない。マスク大国日本である。

 インドから帰国したあと、学生たちの写真を見て、彼らはこんなに黒かったのかとちょっと驚いたことがある。滞在中は、みんなあんな色だから、気にとめていなかったのだ。見えているが見ていない例のこれもひとつである。

(こんなことは言わないほうがいいかもしれないな。目の前で殺人事件が起きてもこいつは証人になれないと思われるだけだから。)

 

 意外に思ったのが、このコロナ禍で病院の経営が苦しくなっているというニュースである。病気が話題の中心のこの時期に。飲食店や観光業が苦しむのはわかるが、病院が公的援助を求めるだって? 院内感染を恐れて病院へ行くのを避ける人が多いのだと聞いて、なるほどとは思ったものの、受診も実は不要不急の行為だったというのには、驚くとともに教えられた気持ちになった。病院に行かないことで病気の発見が遅れることもあろうし、その間に病気が重くなってしまうこと、手術の延期がよい結果にならないこともあるだろう等々の悪影響はあっても、医者にかかる人が減ったのはよいことだと思う。減った分のほとんどが「不要不急の受診」によるものだとすれば。

 飲ませてみると、犬にはアリナミンがよく効くそうだ。西洋医学の薬は本来効力高いのであって、19世紀や20世紀初めの探検記には、何でもない薬を与えられた未開人の病気がみるみる治っていったという記述が頻繁に出てくる。そんな「魔法の薬」が効きにくくなっているなら、それはわれわれが薬漬けになってしまっているからだ。病院に行くと山ほど薬をもたされるが、もちろんタダじゃない。もし現代の病院の多くが、大した病気でない、あるいは全然病気でない「不要不急の受診者」にそんなに薬を与えることでしか成り立たない経営であるならば、それは正されてしかるべきだ。医療の本務は人体の自然治癒力の促進であり、「気から病」の軽減であって、その多くは必ずしも病院を必要としない。コロナ禍で「脱病院化」が進むなら、けっこうなことだと思うのだが。どうしても病院を必要とする患者にどうしても必要な医療を施すこと以上に肥大せず、自己目的化しないように考え直す反省の機会を与えてくれるとしたら、それはこの病気の功徳であろう。

 「新しい生活様式」リストには「不要不急の受診をしない」という一条もぜひあってほしいものだが、無理だろうね。

 

 素人考えだが、コロナ対策はどう見てもスウェーデンのものが最善だ。無症状者は「健康体」であり(人に感染させる恐れを除けば)、軽症者は風邪の範囲内だ。対策は結局、重症化を防ぐことに集中すべきで、重症化リスクの高い人たちを守ることに重点を置くべきだと思うのだが。この病気は感染力が非常に強いらしい。だが、それは無症状者も感染にカウントしているからではなかろうか。

 また思う。旧型コロナにワクチンも特効薬もないのに、新型コロナにそれができると考えるのは見当違いではないのか? できるという前提に立って考えてはならず、できないという前提にこそ立たなければならない。その開発に邁進している人たちは励ましつつも、できてくれたらもうけもの、ぐらいに考えておくのが適当だと思う。ワクチンがあってもインフルエンザは毎年流行しているわけだし。

 

 この新型コロナ肺炎は、欧米の死者数を見る限り、ひどい病気である。逆上するのもゆえないことではない。彼らが。

 しかし、なぜだか知らないが、東アジア・(インドネシア・フィリピンを除く)東南アジアでは危険度の低い病気である。インフルエンザ程度かそれ以下だ。この不思議な安全地帯は、「大東亜共栄圏」に重なる。欧米が騒ぐのには騒ぐだけの理由があるのだから、したいようにすればいい。だが、この「共栄圏」ではむやみに欧米に倣うことはない。域外に対しては障壁を設けても、域内では交流制限を緩めるのがいいと思う。ただ、かつて「大東亜共栄圏」であったこの領域は、今では「大中華共栄圏」になってしまっている。「大東亜共栄圏」は近代の一時の幻で、本来華僑経済圏だったことを想えば、あるべき姿にもどったとも言えるが。

 「新しい日常」ということばもよく口にされる。「コロナのある日常」ということだろう。新型コロナがSARSのように消えてしまわない限り、われわれはインフルエンザに対するようにそれとつきあっていかなければならない。「インフルエンザのある日常」は現にある。 毎年流行し、けっこうな数の死者を出すインフルエンザと共存しているこの日常では、ときどき学級閉鎖をするくらいで、人々は食堂や酒場で飲み食いし、観光地や劇場を訪れ、祭りや会合を楽しんでいる。では、コロナを隣人としてもそうするべきだろう。欧米ではまだそんな落ち着いた状況でないにしても、この「共栄圏」ではそうしていいはずだ。

 もう半年以上続くこの騒ぎを見て思うのは、欧米と東京に振り回され、思考停止に陥っているのではないか、ということだ。田舎者の目にはそう映るが、私の目が悪いだけか? ま、実際目は悪いけどね。近視の上に老眼で。