テレビについていくつか

 ものごころついたときからうちにテレビがあり、ずっと見てきた。テレビ受像機がない状態でなければ、何かしらは見ていた。テレビは24時間いろいろな番組をやっている。各人の好みによって何を見てもいいし、何を見なくてもいいし、全然見なくてもいいどころか、それが最善かもしれない。ここでは自分がどんな番組を好むかを書き上げてみる。個人的な嗜好に過ぎないが、その中からでもテレビというものの特質が知れるのではないかと思う。

 私はいわゆる「ながら見」はしない。見たい番組は最初から最後まで正対して見る。見たくないものは徹底して見ない。「ながら見」しているのはニュースくらいのものだ。では、どんな番組を見ているのかを反省して考えてみて、自分の好きな番組の傾向は次のようなものだと思い至った。

①台本がない

②ナレーションがない

③BGMがない

④司会者がいない

⑤編集がない

 これらの条件は完全には満たしがたいから、度合いが低いということでもいい。

 以上の客観的な傾向に加えて、主観的には以下の好みがある。

⑥うるさくない

⑦欧米でない

⑧発見がある

⑨生活者が見られる

⑩人間以外のものが多く見られる

 

 ②③④は①と大きく関連する。きっちりと台本があるものなら、ナレーションもBGMもだいたい付随するし、取り仕切る司会者も現われがちだ。また①と⑤については、編集があれば台本はある、台本がなければ編集もない、という関係がある。編集があって台本がないというのは、YouTubeなどにはあるだろうが、テレビでは無理だ。台本があって編集がないのは可能で、それは生放送である。生放送は緊張感があって、だいたいおもしろい。芝居好きなら生放送は好きだろう。

 定時ニュースは、台本はあるが基本的に生放送である。しかし編集もかなり行なわれている。とりわけ「街の声」は局の見解に沿って露骨に編集されている部分だ。アナウンサーが意見を語るのはいいが、人の意見を操作するのは許しがたい。これが始まると即座にチャンネルを変える。だからリモコンはありがたい。

 これらの条件をすべて満たすのは、事件や災害の実況中継である。あさま山荘事件のような。何も起こらないのに延々とテレビの画面を見ていたものだ。阪神震災や東北の津波のときは日本にいなかったのでその中継は見ていないが、もし国内にいたらきっと見続けたであろう。テレビの本領はまさにここにあると思う。

 しかし、事件災害は予期もせぬところに突然起こるので、予定は立てようがない。事後的に追いかけるだけだ。テレビというのは番組表という予定表に縛られて毎日のルーティンとして存在するものだから、テレビ性の高さを事件に求めるなら、それは完全な二律背反だ。予定が立った上で条件を満たすのは、スポーツ中継である。テレビの花形であろう。ただし、私個人に関しては、見るのはほとんどサッカーと相撲に限られる。ほかのスポーツはおもしろくないんだよね。野球を筆頭に。

 選挙の開票速報というのも、事件実況中継的であり、かつ予定が立つ。テレビ的である、と言いたいところだが、単調であまり見ていておもしろいものではないけれど、個人的にはけっこう好きである。

 全部はなかなか難しいから、上の条件のうちいくつかをいくらか満たす程度でよくて、そういうものを筆者は好む。

 これらの条件すべてに反し、まさにその対極にあるのがドラマである。これが好きな人がいる(どころか、非常に多い)ことはわかっているが、私にはまったく無縁だ。つまらんこしらえごと、毛が三本多い猿たちがつっぱったこっぱったやってるものの何がおもしろい。あんなのを見るのは愚劣だと思っているが、口に出さないほうがいい意見だろう。ドラマ好きには開票速報などばかばかしいに違いなかろうし。

 

 旅番組というのもけっこう多いのだが、まったくおもしろくない。きれいなものばかり映す立体ガイドブックであり、ナレーションで講釈を聞かされるのは、無理やり口に物を押しこまれるような感じだ。台本と編集の専断である。

 しかしその一方で、私は旅番組を非常に好んでいる、とも言える。欠かさず見るようにしている番組のほとんどが(大きく言って)このカテゴリーに属しているのだから。

 まず、NHK・BSでやっている「こころ旅」。視聴者から寄せられた「わが人生の心に残る風景」を訪ねて、自転車で全国を回るという番組だ。その心の風景は、いわゆる名所旧跡ではない。当人にとって特別であるだけで、他人にとっては何の変哲もない場所であることがほとんどである。村とか郡レベルのローカル聖地であることも多い。埋め墓など、民俗学的に興味深い場所へもよく行く。リクエストを寄せるのは老人が多く、戦後引き揚げて住んだ土地や集団就職で働いた場所なども見せてくれる。庶民史探訪の趣きがある。私的なものが普遍的なものに転換する。旅番組でもあり、歴史番組ともなる。それも聞き書き的な庶民史の。この番組企画を立てた人はすばらしい。

 雨の日も風の日も山坂越えて自転車で走るのがいい。そうでなくちゃいけない。目的地に着いても、肝心のもの(山など)が雨や雲で見えないということもしばしばある。人生と同じだ。

 鉄道や高速道路は自分の論理で造成された通路を走るから、そのため絶景が見られることもあるが、人間の足での往来とは切れている。自転車は普通のそこらの道を走るので、人々の生活の中を行く。

 自転車だと線的移動になるので、それも発見をうながす。移動はすべて線的であるはずだが、列車のように速度が速いと、番組の限られた時間内にまとめれば点と点を結ぶだけの点的移動になってしまうのだ。たとえば、置賜地方は何葺きというのか知らないがとにかく瓦葺きでない屋根ばかりだが、それが庄内地方に入ると鶴岡では瓦屋根が多くなり、加茂水族館のある海辺ではすべて瓦となる。北前船で西国から瓦が運ばれてきていたのだとわかり、同じ山形県でもまったく異なる地域だと知る。

 旅番組ではカメラが気になる。撮らなければ番組にならないから撮るのだけども、そのカメラマンはどこにいるのか。冒険や探険を標榜する番組が非常に興ざめなのは、すごいことをしているはずの冒険者をうつすカメラが横にあることだ。空手の大冒険家より、そのそばで重いカメラを持ってそれを撮っているカメラマンのほうがずっとすごいことになるだろう。ヘリなどから空撮するなら、ヘリで行けるものをわざわざ歩く冒険にどんな価値があるのか。「冒険」が商売になるのは単なる興ざめ以上である。この番組では、旅人火野正平の自転車に設置された小型カメラ、後ろを走るカメラマンの自転車のカメラ、それからときどき道路脇で撮るカメラの3台で映像をまかなっているのがはっきりしていて、そのことにも好感をもつ。手品じゃないんだ、わかりやすさが一番だ。

 道中出会った人々と話をすることもあるが、この旅人はかなり冷淡で、話し込もうとはしない。それが目的ではないから、それでいい。ときに滋味ある会話になることもある程度でちょうどいい。ただ、相手が女だと少し対応が違う。女のかまい方が(特に若い女のかまい方が〔わけても若くてかわいい女のかまい方が〕)うまいのは、さすがと言っていいのだろう。

 田舎を走るのだから野山田畑の中を走行するわけで、その点でもこの人は適任である。作物になにかと興味を示すし、子供のころ野原を駆け回っていたのだろう、虫や鳥や草木にくわしい。

 食堂も選り好みしない。というか、できない。なにせ田舎から田舎へ走るので、途中にある数少ない食堂に入るしかないのだ。ナポリタンやオムライスなどしょうもないものをうまそうに食べる。自転車でけっこうな運動しているのだから、何でもうまいだろう。司馬遼太郎は取材先ではカレーばかり食べていたそうだ。自称名物を食わされ、講釈を聞かされ、感想を言わされるのは迷惑至極に違いなく、そんな面倒を避けるわけだが、それにも通じるものがある。番組の趣旨が庶民的であることを求めている以前に、番組の制約が庶民的であることしか可能にしないのだ。黄金の呼応である。

 ふつうの旅番組が多くの人が行きたい場所、行くかもしれない場所を見せるのに対し、この番組では、目的地の大半が国内なのに決して行くことのない場所だというのもすばらしい(「ポツンと一軒家」では、国内なのにまずもって行くことのできない場所を目指すので、これもなかなかいい番組である)。

 

 「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」というのは、テレビ東京だからなかなか見る機会がないが、たまに見たときはいつもおもしろい。決められた日数内にスタート地点からゴール地点までローカル路線バスのみに乗って移動する、バスがなければ歩くというものだから、厳密には旅番組とは言えないような、タスク遂行、現場生身の実物ゲームだ。それがいい。つまらん講釈は聞きたくない。

 一方で、講釈を大いに聞きたくなるのが「ブラタモリ」である。地学地理番組というめったにないもので、台本はきっちりあり、編集もしっかりなされているが、出演者が専門知識のある素人で、専門性と素人性が一生懸命で物慣れない説明にうかがわれ、好ましい。女子アナウンサーも邪魔をせず、仕切らず、テーマについては完全に素人で、視聴者代表みたいになっている。玄人はタモリ一人で十分だ。

 「家族に乾杯」というのは、ぶっつけ本番、事前告知なしの田舎訪問という点で「こころ旅」と共通するものの、出会った人に粘着していいことを言わせようというたくらみがあらわで、あざとい。おもしろいことはおもしろいが、数等落ちる。

 さまざまな国に出向いてそこに暮らす猫のさまを撮る「世界ネコ歩き」というのも実にいい。出るのが土地の生活者どころか生活けものだから、人に倍していい。ナレーションがなかったらもっといいのだが、奴らはしゃべらないからなあ。猫をみながら、そのうしろにある人の生活もうかがえる。意図的にそれを狙っているならたくみな構成だし、非意図的ならなおよろしい。意図から外れたところに宝物はあるものだ。だいたい欠かさず見るが、欧米ロケなら時に避ける(東欧は除く)。欧米人など見たくもないし、出てくる猫も毛並みがよくて、デブが多い。毛並みがいいのはけっこうだが、デブ猫には一文の値打ちもない。

 「イヌ歩き」はできない。もはや放し飼いの犬はなかなかいないし、野良犬はちょっと難しかろう。ときに危険だから。だが、ご主人様といっしょの図ではつまらない。それにあいつらはせわしなくて、撮りにくいに違いない。走り出されたらカメラが追いつかないし、吠えたらうるさい。猫のように木に登ることもなく、地上にへばりついていて、カメラの垂直移動がないのもおもしろくない。「イヌ歩き」が無理な理由を考えれば、「ネコ歩き」がおもしろいわけもわかる。

 「ドキュメント72時間」も好きな番組で、これも「ネコ歩き」と同じく一種の旅番組だと言える。ある一箇所に撮影隊を72時間常駐させ、そこで出会う人々の話を聞くもので、一話ごとにいろいろな場所とそこに行き交う人が見られる。「家族に乾杯」に似たあざとさもあるのだが、本人の漏らす以上に踏み込まず、つとめて断片的であろうとしている。短編小説のためのスケッチという趣きである。

 要するに、ロケがまず先にある類のものがおもしろい、ということだ。きちんとした台本でなく、フォーマット、決まりごとのアウトラインに沿ってロケをし、それを編集する。その際、編集が過剰でなく抑制されていると品がよくなる。

 

 クイズ番組というジャンルもあり、けっこう好きである。しかし、外国では視聴者参加であるはずが、日本ではテレビ芸人が解答していることが多い。それでなくても出演料ががっぽりもらえる彼らに賞金賞品を取らせてもしかたがないだろうに。思うに、地味であまりテレビ映えしない素人よりにぎやかな芸人のほうを優先するテレビ局側の事情のほかに、控え目で出しゃばるのを避けたがり、テレビ芸人に自分を投影して見るのが得意な日本人の性格もあるのだろう。だが、視聴者参加で始まった番組がいつの間にかテレビ芸人に置き換わっていてはがっかりだ。

 しかしクイズ番組というのは、ただ知識の量とそれを引き出す速さを競うのみ、正解を求めるだけだと単純すぎるので、正答競争というオーソドックスな形なら、よほどマニアックな難問を出すよう深掘りしなければならない。でなければ、いろいろなひねりを加えることになる。プロの解答者に素人衆が金を賭けるとか、トンチンカンな答えを楽しむとか、知恵を絞ってさまざまな変異形を送り出している。バカな解答を喜ぶなら、テレビ芸人でないといけないわけだ。「100人に聞きました」というのは正解がないスタイルだった。正解ではなく、人々がどう考えているかを当てるので、意識調査番組の観があった。たとえば、「独眼竜政宗」が人気だったころ、「殿様が似合う役者は誰?」というような質問があり、渡辺謙の名は挙がったものの下位で、もっとも多い答えは「バカ殿」の志村けんと「風雲たけし城」のビートたけしだった。つまり人々の考える殿様というのは、第一義的には太平の世で家老家来にかしずかれ、「よきにはからえ」などと言っているきれいな服着た人のことであり、戦国武将ではない。目からウロコが落ちるようだった。この番組、またやらないものか。

 「笑点」も、プロの解答者が笑える答えを競っているわけだが、出題に対し答えで応じる点では、クイズ番組の一種と言えよう。

 

 演芸番組は好きなのだが、落語はテレビで見る気がしないのはなぜだろう。漫才やコントはテレビによくなじむのに、落語はそうでない。劇場中継も見ない。田舎暮らしで歌舞伎が見られないのを残念に思っているが、だからといってテレビの歌舞伎中継を見ようとは全然思わない。あれは舞台の舞台たる肝の部分を失った影である。映像記録でしかない。ほかの芝居についても同じだ。テレビにまったくなじまず、水と油を無理に攪拌しているようなものだ。だが、吉本新喜劇ならよくなじむ。「てなもんや三度笠」もそうだった。落語と漫才・コント、芝居と吉本新喜劇の間には、テレビとの親和性をめぐって明確に線が引けるのだが、それは何に由来するのだろうか。

 

 テレビのアニメは見ない。子供の頃は見ていたが、見なくなって久しい。最後に見たのは「メルモちゃん」だったと思う。しかし、ドラマは蛇蝎のごとく徹底的に避けるが(見ることに決めている「こころ旅」の前には朝の連続テレビ小説をやっているので、それを見ないようにチャンネルを切り替え切り替えして目当ての番組の開始を待つのは、われながらいじらしい)、アニメはおもしろいものが適当な時間帯にあったら見るかもしれない。その差は何か。たぶん、アニメが純粋映像作品であることによるのだろう。テレビドラマもアニメも映像であって、映画とは連続している。演劇とアニメはもちろん連続しないが、ドラマの場合、演劇とは一応切れているけれど、生身の人間が演技をし、重力法則を始めとする地上のもろもろの制約に逆らえないという点では連続している。その純粋さと不純さの間には、明らかに一線がある。

 また思うのは、アニメやドラマなど作品性が高くなれば、テレビでその時間に見る必要が減ずるということだ。映画のように、録画やインターネット配信でいいどころか、そのほうが適切だとさえ言える。テレビは番組を番組表の時間の拘束の中に置く。完結自足した「作品」はそういう拘束がないほうがむしろ望ましい。その点でも、リアルタイムの事件報道、実況中継や生放送がテレビの神髄であることがわかる。

 

 以上、個人的な趣味について講釈を垂れてみただけのことだが、それでもテレビの性格のいくつかは見えてきたのではないかと思う。ま、筆者の面倒な性格が見えるのは確かだ。

(むかし大学で和田勉氏の講義を聴いたとき、期末にレポートを課され、褒実況・貶ドラマの文を書いた頃から見方は変わっていない。高名なドラマ演出家であった氏には気に入らぬ論旨だったかもしれないが、単位はくれた。)