クチン日録(4)

10月某日、カーペンター通りの食堂(クチンで2番目にコロミーがうまい店)でコロミーを食べる。この店の主人は30年前に日本に留学していたそうで、日本語ができる。日本人にとってボルネオは身近でないが、その逆はけっこう身近なようだ。
夕方7時からシティワンで日本映画祭(3-6日)のオープニングセレモニー。授業休講。
そこを抜け出して、先日まで丁&丁スーパーだったところで古晋藝聲閩劇社の公演を見に行く。演技演奏ともお世辞にも上手とはいえないが(中国本土で見た村芝居の足元にも及ばない)、演目「寶蓮燈」はおもしろかった。はるか故国を離れて、先祖が故郷の村で楽しみにしていた芝居を今も演じているのだもの、上手下手は関係ない。またぜひ見たい。
四川で芝居を見たときは四川方言がわからない人のために普通話の字幕が出たが、ここでは英語の字幕が出る。福建語ができない観客のために字幕は必要だが、それが英語であるのは、マレー人観客(わりと多かった)のためばかりでなく、漢字ができず英語ができる華人同胞のためでもあるわけだ。華人の言語事情を映していて、おもしろい。
10月某日、朝KLへ飛ぶ。マラヤ大学でマレーシア日本語教育国際発表会。アイデア広場のコーナーでかなカードを使ったゲームを紹介。
会場の日本文化研究館AAJというのがなかなか見つからず、探し回った。点在する平屋の建物が渡り廊下でつながっている作りで、職員宿舎かと思って通り過ぎてしまったのだ。しかし、熱帯ではこういう造りのほうが涼しくて環境に適合しているだろう。クチンのイスラム博物館(昔のマレー人師範学校)もこんな造りだし。面積は必要になるけれど、傾斜地でも作れる。だが、ポスターや矢印は出しておくべきだ。初めての者はわからない。
午後は国際交流基金の図書室に行った。今回の旅行で、半年ぶりに靴下をはいた。
10月某日、紀伊国屋書店へ行く。英語書店の中に中国語・日本語のコーナーがついているという感じ。かつ日本語コーナーは中国語よりだいぶ狭い。まあ購買人口からいえばこうなるな、商売だから。マンガはマレー語・英語・中国語・日本語版がずらりと並ぶ。
夕方クチン帰着。シティワンへ行き、「アイネクライネナハトムジーク」見る。せっかくの日本映画祭だが、木・金は授業があって行けず、土・日はKLへ行っていたので、最終日最終回のこの映画しか見られなかった。
日本映画祭と学会が重なったので、どちらへ行くべきか迷った。一応学会に申し込みをしたが、SJFCがシティワンから日本文化イベントを頼まれたり、ぜひ見たい映画があったりしたらキャンセルするつもりで最後まで様子を見たけれども、幸いというか残念ながらというか、そのどちらでもなかったので、KLへ行った。イベントは自前でやれるようにしたいものだ。芸者じゃあるまいし、「お座敷がかかる」のを待つだけなのは悲しい。
10月某日、KK領事事務所から「にぽにか」24・25・26号届く。ありがたい。
10月某日、「オタキュン」というオタクイベント(シティワン、13日まで)があった。頼んで1分アフレココンテストのチラシを置かせてもらう。うちのクラスの生徒6人に会った。1人はコスプレしていて、2人は自作イラスト販売のブースに座っている。日本語学習者の半分以上はオタクだね。
マレー人の女の子はスカーフをした上でコスプレをしている。戒律は趣味の上にある。ま、ものによっては御高祖頭巾のように見えるけども。ある生徒に「先生!」と言われても気がつかなかった。彼女はスカーフをしていなかったから。ウィッグをつけていたのだ。自分の髪が見えるようにしなければ、これでもいいわけか。
夜はクチンFAの試合を見にサラワクスタジアムへ行く。日本人選手の所属チームである。首位攻防戦、2-1で勝利。彼は気の利いたプレーをしていて、中心選手なのだと知った。見たところ、選手はほとんどマレー人のようだし、観客もほとんどがマレー人みたいだった。売店をざっと見た限り、サッカー観戦につきもののビールがない。さすがイスラム圏。
10月某日、ローズ・イワナガとYoung Onceという「昔の青年たち」のバンドのコンサートに行った。この人は戦後もここに残った日本人の父と海南人の母の間に生まれ、1960年代にデビューしたそうだから、70過ぎだろう。歌や演奏(老バンドメンバーは座ったままだった)よりおもしろかったのは観衆で、50年前の若者たちが(サイズは違うにしろ)昔着ていたような服でめかしこんで、昔のステップで疲れ知らずに踊っていた。ほとんど全員が中華系だが、白人客もちらほらいて、踊りに加わっていた。60年代に欧米とボルネオは同時代の空気を吸っていたということだ。ちょっと意外で、なかなかすごい。
10月某日、授業で台風の話になり、クチンでも強い風が吹くことがあるのか聞いたら、土曜日に吹いたと言う。その日は外出していたけれど、全然気がつかなかった。その程度の強風ということだ。地震もないし火山もないし、天恵の国だ。ここは大した戦争もなかった。日本軍侵攻のときも敗退のときも、クチンはほとんど被害がなかった(サバはひどかったが)。白人ラジャ建国のときも独立のときもそうだ。クチンよいとこ音頭を作ろうか?
10月某日、10月になってから雨が多い。本格的に雨季になる前にと思って、サマジャヤ自然保護区の中にある日本庭園に行く。5年くらい前に行った生徒の話では、茶室がシロアリに食われて当時すでに閉鎖されていたそうだ。このときもたぶん閉鎖中だったが、座卓を補修する者が中にいて、脇の扉が開いていたので、入ることができた。庭は雑草がはびこっていて、まだまだ修復の必要がありそうだ。
修理の男は人が入ってきても何も言わなかった。日本ならきっと(いや、絶対)閉鎖中だと言って追い出される。大陸ユーラシアなら、入っていいよと言いながら、そのかわり、と金を要求される(日本では、金を渡そうとしたら憤然として突っ返されるだろう。だめだめ一点張りだ)。この地の緩い対応(というか、無対応)が最高であるのは言うをまたない。
夜は授業が終わってからミュージシャンの生徒が出演するジャズコンサートに行った。
10月某日、夜、大井巷で街頭劇を見る。イバン族の儀式を題材にしたものらしい。足や手の動きが日本の民俗芸能に似ていた。ムルデカ広場ではマレー人が集まってタンバリンに合わせて伝統歌唱らしきものを歌っていた。
10月某日、サラワク川でドラゴンボート競漕をやっている。本国では端午(今年は6月7日)にするものなのだけども。粽もまだ売っている。あるいは、粽を売っている間はいつでも龍舟競漕をしていいことになっているのだろうか?
10月27日、ヒンドゥー教の祭日ディワーリ(灯明祭)。近くのヒンドゥー寺院をのぞく。三々五々サリーなどのインド衣装を着て額に印をつけた参拝者が来ていた。半島部と違いインド人の少ないボルネオだが、それでもいるものだ。
10月某日、天気予報が晴れだったので、師範大学内にある旧バトゥ・リンタン捕虜収容所跡に行ってきた。博物館があるが、閉まっている。日本軍の国旗掲揚台跡やインド兵の旧兵舎(修築されたものだが、またも修築が必要な状態になっている)などを見る。日本人の訪問客は非常に少なく、オーストラリア人ほか連合国からの訪問者は多いらしい。きのうも来たというし、グラブタクシーの運転手も何回も白人を運んだことがあると言っていた。被害については語り部だの何だのと積極的に伝承する一方、加害については口をつぐみ忘れようとする日本人の性向を考えさせられた。
帰りに日本人墓地を再訪。盆前に日本人会有志が墓掃除をしたそうだが、もう落ち葉がだいぶたまっていた。熱帯での施設の維持管理はたいへんだと推測できる。
10月某日、国際交流基金にSmall Grantの申請書送る。

11月某日、サラワク川でレガッタが行なわれた。先週末の龍舟競漕はこれの前座だったと知る。だから端午からずいぶん遅いこの時期にやったのだ。今週のほうがずっと力が入っている。もとは川を道としていた川の民だから当然と言える。対岸の村人は見物のため川辺にシートを敷いたりテントを立てたり、露店も並んで村祭りのようだった。
夜は四方堡の両脇に立つ大きなテントで太鼓の演奏会があった。バイオリンやアコーディオンが伴奏し、男2人が腕を横にしてステップを踏みながら踊り、女が太鼓を打つ。踊り手と太鼓の女が掛け合いのように歌う。おそらく即興だ。おもしろかった。ユーラシアの踊りだ。ハンガリーウズベキスタンにいたときを思い出した。
11月9日、朝、下の道を通る歌声が聞こえたので窓から見ると、ムハンマド誕生日の長い行列だった。急いで飛び出し、ついて行く。ムルデカ広場が終点で、大集合していた。イバン族は大半がクリスチャンになったが、ムスリムとなった者もいるようで、民族衣装にスカーフを巻いて参加していた。華人の団体も昔の中国衣装を着て加わっていたが、回族ではなく、華人文化代表としての参加だそうだ。互いの文化に敬意を持つのはいいことだ。
11月某日、受講生の車に乗せてもらって、依岡神社に行く。小さなものだ。屋根がかけられているとはいえ、もはや崩壊を待つばかりのように見える。鳥居も蔓植物に寄生されて自然木に化しそうだ。神社の周囲やそのまわりの昔日本人の家があったところは、全部背の高いアブラヤシの農園になっている。16000haだそうだ。神社のほかにも、Strong Roomという土蔵式の倉など、いくつか遺物がある。堤を築いて溜池を造り、田に水が引けるようにしたり、トロッコのレールを敷いたりしたというが、それも埋もれかけている。歴史とは草木風雨の浸食のことである。
河口に位置するわけではないこの村を、日本人は「ムアラ」(マレー語で「河口」)と呼んでいたと伝わる。もちろん日本語の「むら」の訛伝だ。近くにもうひとつ「セニアワン」という名前の村があるため、この村にある道標は「Seniawan Jepon」となっている。退去させられた日本人とのつながりを、村人がこんな形でも守ってくれているのはうれしい。なお、案内してくれた村長はボーハン・サブロー氏の甥だそうだ。
11月某日、世界の日本語学習者作文コンクールに4点応募。
11月某日、アフレココンテスト締め切り。応募5点のみ。やはり空振りだった。しかしミリから応募があったのはうれしい。「サラワク」日本友好協会なのだから。審査の結果、そのミリ理科中等学校からの「ジョジョの奇妙な冒険」が1位、「ワンピース」が2位。1位の2人は15歳、2位は21歳。のべ11人が参加したが、15歳が3人、18歳が2人、21歳3人(のべ)。平均年齢の低いコンテストだった。
KKで日本語教師をしている人がSJFC訪問。授業の終わりに手品を演じてもらう。
11月某日、SJFC委員会。藤井杯作文コンクール、ミニ運動会兼文化祭について話し合う。そのあと香港麺粥家で会食。
11月某日、ムルデカ・プラザでBudayaw FestivalというBIMP-EAGA(ブルネイ、マレーシアのボルネオ2州、インドネシアカリマンタン以東、フィリピンのミンダナオという東南アジア島嶼部のうちでも周縁地域の連合)の催しが19日から23日まで行なわれている。午後その催しのうちの舞踊公演を見た。ステージ公演にアレンジされた舞踊ショーであるが、ブルネイインドネシア、マレーシア、フィリピンの舞踊のさわりが見られたのはよかった。男女2人ずつが裸足で手踊りするブルネイのがあまり加工されていないこの地域の舞踊の標準型だろうと思うが、一方マレーシアではポルトガル、フィリピンではスペインの影響を受けた踊りがあったのもおもしろかった。
クチンでは次から次にいろいろな催しや祭りがある。前には国際コダーイ学会もあったし。人口から見れば岡山くらいの町だが、文化的な催しの多さ多様さでは日本の地方都市を断然圧する。かつ、無料で見られる公演が多いのがうれしい。かなりの予算を文化・観光に投じているはずで、それは日本も見習うべきではないか。「ルック・サウスイースト」。
11月某日、朝、国際交流基金クアラルンプールのスキットコンテストの公開審査がインターネットを通じて行なわれた。SJFCの「中がいっぱい」は3位になった。
夜はサッカーの2部と3部リーグの入れ替え戦を見に行く。クチンFAとサラワクFAというクチンの2チームが昇格・残留を争う。S選手の属するクチンFAが3-1で勝利、昇格を決める。帰りはグラブタクシーがなく、歩いて帰宅。1時間強。
11月某日、藤井杯作文コンクール告知。
11月某日、ある生徒から、日本人が12月2日から開かれるアジアマスターズ陸上での広報手伝いのためアルバイトをもう1人探していると聞き、急遽心当たりに連絡を取るが、そのすぐ後にいらなくなったと伝えられる。直前にあやふやな話で踊らされた。日本人に。日本人は、自分たちは計画的で周到で時間厳守だという勝手な自画像を描いているが、海外にいると全然そうでない事例に頻繁に遭遇する。