遥か欧州を離れて

最近はテレビ朝日のサッカー中継が多くて、苦労した。ヨーロッパ選手権も、キリンカップも。キリンカップボスニア・ヘルツェゴヴィナ戦は見たが、ブルガリア戦は見られなかった。7−2というちょっとありえないスコアだったから、見ていればさぞ楽しかっただろう(日本人には。ブルガリア人には不愉快きわまりないけども)。
ボスニアデンマーク戦BS朝日の中継があったので見られたのだが、あれを見るかぎりでは、特に前半は眠っているようなゆるいプレーだったから、これは勝てると思ったが、ジェコやピヤニッチが来なくても強かった。タフだった。しかし非常にいい試合をしていた。のめりこんで見られた。勝利は無理だが、引き分けはありえた好勝負だった。コンフェデ杯のイタリア戦のような。そして結局負ける。そこまで含めて日本らしい。
私のような素人でも、見ていないブルガリア戦もあたかも見てきたかのようにわかる。中盤で余裕をもってボールが回せればすばらしいサッカーをするが、プレッシャーをかけられるとアジアの格下のチームにもあたふたする。カウンターは覚悟の上で攻撃するものの、カウンターをやられるともろい。それが日本だ。
先日、鳥取へ行ってインターナショナルドリームカップの日本‐メキシコ戦とマリ‐ハンガリー戦を見た。メキシコ戦は6−0の圧勝だった。ボール扱いの技術や組織力が卓越しているのに驚いた。ところが、マリとの試合では何もさせてもらえなかったという。その試合は見ていないので何とも言えないけれど、マリ‐ハンガリー戦を見るかぎりでは、マリはたしかに強いが、球あしらいや組織力で日本が劣っていたとは思えない。フィジカルとメンタルで敗れたのだろう。雨天強風のコンディションだったというから、そういう悪条件に対するひよわさもあるのかもしれない。いずれにせよ、A代表と同じ弱点を持っているのだろうと思われる。


先日のヨーロッパ選手権テレビ朝日の中継で、深夜や未明に数試合の中継があり、準々決勝は2試合、準決勝は1試合だけ(それもつまらないほう)だけだから不満もあるが、まあ無料の放送で中継してくれたことを喜ぶべきだけれども、いずれにせよ、うちらのところでは映らないのだからしかたがない。深夜や未明はつらいが、つらさに見合うだけのことはあったろうとは思う。2試合しか見てないけど。
「事実上の決勝戦」が3つあり(イタリア対スペイン、ドイツ対イタリア、フランス対ドイツ)、そのいずれも勝ったほうが次の「事実上の決勝戦」で負けて、最後の「事実としての決勝戦」に勝ったポルトガルが優勝した。全7試合のうち、90分を見れば1勝6分けの成績で。いつぞやのギリシャの優勝並みに、事実のみが決定的に重いという真理を知らしめる大会だったと言える。
見られたのは2試合だが、美しいドイツのポゼッションを見て(「足りないのはゴールだけ」。それを病む者、あに日本代表のみならんや。ゴールさえ決まっていればほれぼれするような美しさだった。内容に乏しくても結果だけは手に入れるのがドイツだった時代が長くあったのに、世は転変する)、決勝戦のプレーしないロナウドを見るこができたのはよかった。
ロナウドという選手は、非常にストイックだが、ナルシストでエゴイストで、チームメイトと仲良くする必要を感じてないという印象を持っていたが、負傷交代後ピッチの外でチームメイトを鼓舞する姿を見て、こんなにもチームスピリットに溢れていたのかと意外の念に打たれた(チーム愛というより、単にタイトル獲得への執着心のすごさなのかもしれないが)。ポルトガルがきっと負ける、こんなにしても敗れる彼の姿を見ることになるのは残念だなと思っていたから、あの結果になったのはうれしい。負けるフランスはよく見る風景で、ジダンのときの勝つフランス(それはアフリカ選抜だった。今のもそうだが、度合いは減った)が異常だったのだ。


今でもサッカー強豪国は欧州と南米にあり、クラブチームにおいてもかつては南米が欧州並みに強かったが、今はヨーロッパだけがはるかに高く君臨している状態で、南米は選手供給地域となってしまっている。サッカーの覇権は欧州にある。学問芸術などのように、サッカーもヨーロッパが支配しているわけだ。それをせっせと学習模倣するのが「後進国」の定めである。しかたがない。だが、しかたがないといって、何でも真似していればいいわけではない。ヨーロッパを尺度にしてものを考えるのは根本的にまちがっているという認識は、つねに持っていなければならない。ヨーロッパには学ぶ。進んでいるのだから。だが、学んだ上で、サッカーは「日本化」されなければならない。
「世界の(つまりヨーロッパの)トレンド」と称するものを受け売りしたがる人たちを見ると、本当にいやになる。それは学問や評論の世界でも、ファッションや芸術の世界でも同じで、「欧米の最新」を目ざとくとらえて新語をふりまく連中が「時代の最先端」顔をしている情けない状況が明治以来ずっと続いているわけだ。紹介屋さんたち、自分の頭で考えず、「上の人」に考えてもらっている人たちが跋扈するのが近代日本の精神風景である。そこにサッカーも含まれる。残念極まりない。
たとえば、シーズンを春−秋から秋−春に変えようとしている。愚かしい議論である。それは冬が好天の東京の人間の考えだ。日本海側や北日本の冬がどんなものか知らない連中の。雪については議論があるが、雨も多いのだよ。雪はもちろん、冬の冷たい雨が降る中を観戦に来ると思うのか。コアなファンはそれでも来るとしても、そう熱心でない一般のファンの足を遠ざける行為である。それでなくても冬に天気の悪い地方のチームのファンは少ないのに。子供連れの母親が来るかどうか。それが基準だ(重要な基準である。ヨーロッパではしばしばスタジアムが暴力的な男たちの集会所になっているが、日本はその正反対であって、それは誇るべきことだ。そして子連れの母親はまさしくスタジアムの平和の証拠であり、保証なのだから)。スポーツ観戦には夏の夕方などまことにけっこうだ。夏は高温多湿で、選手には消耗を強いるが、高温多湿の国の多いアジアでの戦いのためには有利だし、日本サッカーにおいて第一に重要なのはアジアでの覇権である。アジアを見ず、ヨーロッパばかり見ようとするのは天狗のふるまいだ。試合は選手のためにするんじゃない。協会のためにするんじゃない。観客のためにするのだ。間違えてはいけない。


興行優先でなく、強化のためヨーロッパに出向いてアウェイで試合しろという意見がある。強化を第一に考えるなら、それは正論である。今や代表選手の大半が向こうでプレーしている。ヨーロッパのチームを招いてホームで試合を組むと、派遣メンバーも落ちるし、観光気分で本気の試合をしないことがままある(南米チームはわりと本気で試合をしてくれるが)。気分の問題もあるけれど、より多くはコンディションの問題だろう。距離と時差が克服しがたいのだ。日本の代表選手たちは、代表の試合のたびに疲れる長旅を強いられ、その悪条件の下で奮闘している。ヨーロッパの選手たちは、日本へ来て彼らの苦労を知るがいい。
(距離と時差こそが、ヨーロッパと南米のクラブ世界一を決めるトヨタカップが日本で開かれていた理由である。どちらにとっても同じ条件の中立地なのだから。今のクラブワールドカップなるものは、UAEだのモロッコだのでもやっているが、それは根本的に間違っている。ヨーロッパから距離も時差もほとんどないところでやったら、ただでさえ強いヨーロッパのチームにさらにアドバンテージを与えるだけではないか。いつも距離も時差もほとんどないところでやっている奴らにその苛酷さを教えるいいチャンスなのだから、教えてやらなければいけないのだよ。)
やさしい日本のサポーターは、応援するクラブのスター選手、代表の主力選手をこころよくヨーロッパに送り出している。だから、いつものテレビ画面でなく、目の前でわれらのスター選手を見たい、われらのヒーローがわれらの名誉のために戦っている姿を見たいというそれでなくても当然至極の感情に対しては、よりいっそう顧慮してもらいたい。距離は衛星中継で克服できても、時差はいかんともしがたい。ヨーロッパでの試合なんて、深夜か未明か、まともな人間は寝ている時間だよ。招待されて行くならけっこうなことだが、こちらから押しかけてそんな試合を組むのは本末転倒のきらいがある。興行は悪しざまに言われることが多いが、そもそもプロスポーツは興行以外の何物でもない。日本での親善試合を云々するとき、問題なのは興行ではなく、批評である。その試合がどのように評価されるべきかわかっていて、大勝にむやみに浮かれ、惨敗に過度に悲観することがなければいいのだ。
サッカー専門誌はともかく、一般紙やスポーツ紙にはサッカー批評が存在していない(日経新聞を除いて)。試合のあと、民放のアナウンサーが選手にインタビューするとうんざりする。「どんな思いでしたか」「意気込みを聞かせてください」「サポーターに一言」、この三つしか聞かない。要するに彼らはサッカーのことは知らず、ゴールシーン以外は見ていないのだ。野球は見ないので知らないが、野球のヒーローインタビューはもっとましなことを聞くだろうと想像している。日本人における野球の教養とサッカーの教養の違いということなのだろう。


強化ということで言えば、昔、現役ブラジル代表の半分が日本でプレーしていた時代は、Jリーグで戦うことが即強化だった。
今のJリーグは、日本人のスター選手はヨーロッパに出て行って、空洞化している。かつてのように外国から代表クラスの選手が来るわけでもない。リーグが強化にあまり貢献していないのではないかという懸念が強くある。代表のレベルが今より低く、リーグのレベルが今より高かった時期には、Jリーグで試合することが強化につながったが、代表のレベルが上がり、リーグのレベルが下がった今では、そうはいかない。パススピードが遅い、プレッシャーがゆるい、ディフェンスが弱い、シュートチャンスでシュートを打たないでパスをする、やさしい笛を吹く審判、警察発表(審判判定)を復唱するだけのマスコミ等々、Jリーグは問題が多々ある。中でもおそらく最大の問題は、選手のドメスティックな心性である。同じ日本人が相手だから、つい「これくらいでいいだろう」と考えてしまう精神の惰性だ。
Jリーグ弱体化の具体的な例証が、ACLでの近年のお粗末な成績である。危機感を持たなければならない。
インターナショナルであることはサッカーがサッカーである理由の根幹部分である。ドメスティックであることが野球の(アメリカスポーツの)根幹であるのと同様に。ドメスティックなありかたがサッカーに見られたら、それは病いであり、おそらくは致命的な癌細胞であるから、すみやかに取り除かねばならない。
スルガ銀行杯は実にけっこうなことだが、あれはJリーグ1チームだけが戦う。国際試合なら何といってもアジアチャンピオンズリーグ(ACL)である。タイトルを賭けた真剣な戦いだ。真剣でないのは日本だけだ。ACLを重視しないのは愚の骨頂である。あれは時に「罰ゲーム」呼ばわりされるが、それはドメスティックの毒素の現われにほかならない。サンフレッチェのように2軍を出すのではなく、リーグ戦以上に、少なくとも同等に、重視してもらいたい。チームやリーグだけでなく、ファンもサッカージャーナリズムも重視しなければならない。チームやファンが後ろ向きなら、サッカージャーナリズムが率先して煽ってほしい。煽動は好きではないが、この際やむをえない。
といって、国際試合を重視するあまりリーグがおろそかになっても困るので、2ステージ制はいいことかもしれない。前期を捨てて後期に賭ける、という戦い方ができる。去年ガンバがやったように。
(しかし、チャンピオンシップは2試合でいい。日程を窮屈にしないためにも。単純明快に、前期優勝チームと後期優勝チームが戦うという形にするべきだ。前後期優勝チームが同一なら、前期2位と後期2位のチームが決定戦を行ない、挑戦者を決める。敗者復活戦である。チャンピオンシップはこの場合1試合のみ、両ステージ優勝チームのホーム戦。アウェイはステージ優勝チームが1−0で勝ったと見なす。つまりステージ優勝チームは勝ちでも引き分けでもチャンピオンシップ優勝。90分で0−1で負ければ、延長戦となる。だがPK戦はなく、延長戦ではアウェイゴール・ルールも適用されず、延長引き分けはステージ優勝チームの勝ちになる。このような、敗者復活の挑戦者はアウェイで2点以上取って勝たないかぎり優勝はない、というハンデ戦でどうだろう。)


キリンカップは一応タイトル戦だったので、ボスニアは本気だった。インターナショナルドリームカップのような若年層の国際大会は日本でもよく開かれているのだから、さらに一歩進めて、代表レベルの選手たちによるインターナショナルなタイトル戦を定期的に開催することが望ましい。
中国のクラブは「爆買い」によって世界の一流選手をかき集めているので、ACL以外で中国の強豪クラブチームとタイトル戦をするのもいい。
日韓定期戦もいいのだが、韓国の歪んだ国民感情によって過剰にエモーショナルになるので、避けたほうが賢明かもしれない。どうせどれかの大会で当たるのだから。
提案したいのは、環太平洋選手権である。環太平洋の国々は、アメリカ、メキシコ、コロンビア、ペルー、チリ、オーストラリア、あるいは中米諸国など、リアルなライバルばかりだ。同格か、格上でも手の届く相手である。切磋琢磨にちょうどいい。
太平洋は広くて、距離も時差もヨーロッパ並みにあるけれども、こういう枠組みなら招待された国もかなり本気で来てくれるだろう。代表でもU23代表でもクラブチームでもいい。日本からは2チームが参加、あと4ないし6チームを招待して、毎年か最低でも隔年に開催する。たとえば、ヨーロッパ選手権が行なわれる年にフル代表6チームを招いて2週間のカップ戦、それ以外の年は3チームを招いて1週間のU23代表戦、というのはどうか。けっこう真剣な提案である。遠いヨーロッパの尻を追いかけるより、同様にヨーロッパからの距離を病む近隣諸国とともに強くなろうじゃないか。実際のところは近くないけれど、地震が起きれば津波が押し寄せてくるのだから、隣ではあるのだ。