宋寨村の村芝居座について補足的に

宋寨村は、河南省の懐慶府(今の沁陽)や清化鎮(今の博愛県)の近くにある村である。清朝最末期の明治40年(1907)に当時中国に留学中の桑原隲蔵が(宇野哲人とともに)長安への旅の途上にこのあたりを通っているので、その日記を見てみよう(「考史遊記」、岩波文庫、2001、p.33)。
「九月五日 晴 行程一百里
午前五時二十分馬車を賃して清化鎮を発す。暁寒膚に徹す。十時二十分水北関清化鎮より三十五里余に「漢孝子丁蘭故里碑」あり。沁水を渡り十一時懐慶府清化鎮より四十里に着す。府の東関外に「漢孝子郭巨故里碑」あり。城外に「何文定祠」あり。南関外に「明礼部尚書何文定墓」あり。憾むらくは、この日行程遠くしてひとえに前往を急ぎ城の内外を細観するを得ざりしことを。午後七時半孟県清化鎮より一百里の大昇店に宿す。」
丁蘭・郭巨ともに二十四孝に挙げられる孝子である。
なお、リヒトホーフェン(「絹の道(シルクロード)」という語を作った人として知られているドイツの中国学者で、ヘディンの師)も1870年にこの地域を調査しており(「支部那智旅行日記」中、慶応出版、1944)、「清化鎮近在の小村に腰を据え、この賑やかな市場町で陶の手引きによって荷獣と乗獣を傭ふ談判をした」(p.284)と書いている。「町の住民は、この一帯に住む人達と同様に善良であるとはいへ、その数は際限がなかった。二日の滞在期間に、町民といふ町民が、我々を見にやって来た。群集は、再三、旅館の、閉鎖した大戸を圧し潰して、たちまち部屋の中まで闖入した」(p.286)。河南省以外では、「洋鬼!」と罵られたり、襲われそうになったりしているが、この省では、物見高く押し寄せるが危害を加えることはないという同時代の日本と同じありかただったようだ。そして、「懐慶府は、大きな町であるにも拘らず、商業都市ではない。そして、この点では、清化に遥かに及ばないが、しかし、二つの特有な産物を持ってゐる。一つは、鋼製品、特に、小刀、剃刀、道具類の製造である。山西産の鋼は、蕪湖及び漢口から輸入される英国鋼と混合されてゐる。前者だけでは余りに脆く、後者だけでは余りに軟らかすぎるからだ。当地の鋼製品は、大きな名声を獲得してゐた。この町は一種のゾリンゲンである。もう一つの特産物は、此処で沢山作られてゐる、ある植物の根である。その根は、地黄といふ名で呼ばれ、盛んに薬用に使はれてゐる。が聞くところによると、強壮剤として効能があるのださうである」(p.288)と言っている。


「懐梆」というのは、懐慶府近辺の梆子腔という意味だ。梆子というのは拍子木で、それを用いるのが特徴である。この劇は陝西・山西あたりに起こったらしい。
旧劇は雅部(崑曲)と花部(乱弾)に分けられる。「中原大雅の音」と言われる優雅な崑曲に対し、乱弾というのは激しい調子の庶民的な地方劇で、方言を用いる。そのひとつが梆子腔である。京劇は、安徽省の徽班という劇が崑曲や梆子腔のような乱弾を取り入れて成立したものだそうだ。だから梆子腔と京劇、河南省の豫劇などはかなり違うらしいのだが、通じない者には同じように見える。それはちょうど、私のような中国語のわからない者には、中国語の方言の違いがわからず、全部中国語に聞こえるのと同じだ。
梆子は方言で演じるわけだが、そうすると村人には近くなるが、標準語で教育を受けた若い高学歴世代からは遠くなる。


この村の一座の創設は新しく、第二次大戦後、国共内戦後である。
「1949年の建国後の初めての春節を祝うために、板胡が好きな李直基氏は、リーダーとして村の住民と積極的に協力して、宋寨村懐梆劇団を結成した。(…)劇団のメンバーは農民であり、農繁期に農業をし、農閑期に懐梆を演じ、村民を楽しませた。
50、60年代に懐梆は最も輝かしい時期を迎えた。役者たちは新しい演目を学び、あたりの各地を巡って懐梆を演じた。1966年から1977年までの文化大革命期は、革命模範劇だけを演じていた時期だった。懐梆の発展は壊された。1978年、改革開放の後、状況は好転した。村役場の支持を得て、村役場に人民舞台が建てられた。
今の宋寨村懐梆劇団の団長は李長寅氏である。父親の事業を継続した。(…)稽古場と活動室が建てられた」(郭雪奕レポート)。
稽古場は廃された廟である。
「目下、劇団は祭日に出演するだけでなく、市や県で開催する演劇のコンクールで実力を発揮するチャンスも見逃さない」(同)。コンクールではたびたび入賞し、新聞にもしばしば取り上げられている。
「懐慶府一帯では、三分の一の村に舞台がある。仮設舞台も多い。舞台の前方には直方体の穴があって、上にパネルをはめ込む。足の動きがよく響き、遠くの観衆も聞き取れる」(同)。
能舞台では舞台の下に甕を埋めて、足拍子の音をよく響くようにしているが、それと似ている。足音の芸術という側面があるわけだ。


日本の農村歌舞伎、地芝居・村芝居は江戸の後期から明治にかけて盛んになり、その普及は昭和戦前まで続いているが、特に明治時代に隆盛を迎えている。
概して言えることは、江戸文化は明治に花開いている。歌舞伎や相撲は江戸の華だが、明治期に完成したと言っていい。相撲なら常陸山・梅ケ谷、歌舞伎なら団十郎菊五郎が大成者と言える。漢学塾も幕末から明治20年代にかけて隆盛した。
もともとの江戸文化が、身分制が破られたことで勢いを得た、ということだろう。身分制からの解放による社会的な自由度、交通の発達による空間的な自由度が増したことがかえって旧文化に力を与えたわけだ。
それに、明治は実は天保生まれの人々が担っていた。江戸と明治は連続している。歌舞伎作者の河竹黙阿弥が明治にも活躍していたように、半七捕物帳の半七のモデルになった老人が明治生まれの岡本綺堂の身近に生きていたように。明治が真の意味で近代になるのは、20年代以降、明治生まれの青年たちが社会に出てからである。言文一致運動もそのころ始まる。「江戸を知らない子供たち」が社会で活躍するようになって、初めて明治は近代明治になったのだ。
中国の場合、長い戦乱の時代が終わったということもあるが、そういう明治とパラレルなありかたが指摘できるのではないかと思う。この村の例しか知らないので、どこまで一般化できるかはわからないが。


もともと農民劇団だから、農閑期の上演である。清明節などの祭日に上演することが多く、あたりの村舞台に招かれて公演することもあるし、神農山の二仙廟のような宗教施設で祭事に上演することもある。
中国も日本と同じく、勧進元が一座を招いて行なう勧進公演から常設劇場での定期公演に移っていった。村芝居は、その村の人たちのためにだけ演じられるなら、一種の祭礼行事である。招かれて、つまり買われてほかの村々で上演するなら、発生期の職業劇団の姿をなぞる形と言える。石見神楽などに似たありかただ。


観客は老人ばかりである。人民服や人民帽を見かける。年齢層が非常に高い。その理由は3つ。
1.人口構成の問題。現在の村にはそもそも若い人が少ない。一人っ子政策によるひずみのほかに、生産年齢人口は沿海部に出稼ぎに行っていることによる。
2.機会の問題。老人は見に来る余暇があるが、仕事のある人は見に来られない。中国は基本的に親孝行で、年取った親を働かせるのはよくないと考える。だから老人は働かず、時間がありあまっている。年を取っても体が動くかぎり働くのが美徳である日本とはやや異なる。
そして、3.興味の問題。老人は愛好するが、若い人は興味がない。
この3つが重なりあっているのだろう。
学生は旧劇に興味を示さない。私の学生は全員見たことがなかった。テレビでやっているのを見たことのある者はいるが、公演を見たことはない。日本でも学生はまずほとんど歌舞伎も能も見たことがないが、それとはやや様相が異なる。歌舞伎は東京にあるだけで、地方では見る機会そのものが非常に限られているのだが、中国では、テレビに戯曲専門のチャンネルがあるし、けっこうな数の公立劇団があって巡演もしているので、見たいと思えば見る機会はあるはずだから。また、日本では歌舞伎を見たことのない若者の親の世代、祖父母の世代もあまり見ていないだろうと思われ、いわば低値安定しているのに対し、中国では祖父母の世代は大好きで、孫の世代はほとんど興味がないというように、急激に下降している。
ドッグイヤーという言葉があるが、現代の中国はまさにそれである。
これは私見だが、人は生涯自分の20歳から30歳の時代を生きる、と言っていいのではないか。自分自身を顧みても、今も昭和を生きていると感じる。昭和の人間として死ぬことだろう。
つまり、70歳の人は50年前の1966年を生きている、ということだ。日本では高度成長のさなか、東京オリンピック鉄腕アトムの時代。一方中国では、大躍進政策が失敗したあとで、文化大革命の始まる頃であり、政策の失敗で2000万人とも言われる餓死者を出すような貧しい国だった。
40歳の人は1996年。日本では今とほとんど変わらない。今よりよかったかもしれない。中国では、天安門事件のあとであり、改革開放は始まっていたが、まだまだ貧しかった時代である。
今の20歳は、日中ほとんど変わらない。現在中国は世界第二の経済大国だし、ある面では中国のほうが進んでもいる。
このギャップを考えれば、若者が旧劇に興味を示さないのは当然なように思える。
老人は、若い者は日本をよく知らないなどと言いがちだ。若い中国人に対しても、中国人のくせに中国のことを知らないと考えたり口に出したりすることがあるのではなかろうか。しかし、中国の学生から見れば、私などは「日本人のくせに日本を知らない」と思われているかもしれないのだ、と考えることが大切である。AKBだのジャニーズだの、いま人気のマンガアニメだのをまったく知らないのだから、つまり日本を知らないということになる。お互いさまなのだ。
ともあれ、アニメ・マンガも栄えつつ、旧劇も栄えつづけ、村芝居も失われずにいてほしいと願うのだが、団員に若い人がいなくなっている現状からは、むずかしい将来が予感される。