ラグビーW杯雑感

ラグビーのワールドカップが開催されていることは知っていたが、見るつもりはなかった。しかし南アフリカに勝ったと聞いて、驚いて見はじめた。スプリングボックスに勝つ? ありえない! 再放送の南ア戦を後半、22−22のところから見たが、興奮とどまるところを知らなかった。ただ勝つだけじゃない、あんな劇的な、胸の熱くなる勝ち方をするなんて!
ラグビーも、昔はよく見ていた。大学日本一と社会人日本一が日本一の座を賭けて戦っていた時代だ。そのころからサッカーも好きだったが、当時サッカーの試合は、元日の天皇杯決勝、トヨタカップ高校サッカー選手権ぐらいしか中継がなく、むしろラグビー中継のほうが多かった。早明戦は学生スポーツの華だったし、五か国対抗ラグビーも必ず見ていた。
だからラグビーもそこそこファンだったが、あのワールドカップニュージーランド戦を見てから、ふっつり観戦をやめた。大敗という言葉すら空しい、惨敗という言葉さえ生ぬるく感じる負け方。「蹂躙」という言葉をラグビー競技国の日本語学習者に説明するには、「あの日本戦のときのオールブラックスのような」と言えばいい。あれを見て、このスポーツは日本人に根本的に向いていないと思った。そのころからサッカーが見られる機会が多くなったので、ラグビーは見捨てた。
というわけで、実に久しぶりにラグビーの日本代表を見たのだが、「ラグビーは日本人に根本的に向いていないのではないか」という疑問に対する答えは得られていないな、というのが感想である。「外国人」だらけだからだ。3分の1が「外国人」選手で、帰化選手も多いみたいだから、実際の外国人(国籍法上の)は6分の1ぐらいなのかもしれないが、サッカーの日本代表の基準では、あれは「日本代表」とは言えない。スクラムの弱さは日本の宿命なのだが、いくら相手が1人少ないとはいえ、サモアに対してスクラムトライをしていたぞ。スクラムで猛練習を積んだと聞くけれど、それでも日本人(帰化によらず出生による日本人)だけなら考えられないことだ。「外国人」が10人でなくゼロだったとしたら、勝てたか? ゼロでなくとも、たとえば3人だけだったら?
しかしそれは、「ラグビーは日本人(出生日本人)に向いているか」という問いをめぐる問題で、あのチームを「日本代表」と認めるか、という問いとは異なる。ネット右翼あたりはきっと、あれは日本代表じゃないと叫んでいることだろう。


考えさせられたのは、「外国人」とは何か、ということだ。オリンピックでは、その国の国籍を持っていることが代表選手になるための条件であり、サッカーも同じだ(他の国の代表選手になったことがないという条件もつく)。だがラグビーの場合は、
1.その国で生まれた
2.両親・祖父母のうち少なくとも1人がその国で生まれた
3.その国に3年以上継続して居住している
のうちのどれかの条件を満たしていればいい。これはいわば「大英帝国ルール」である(クリケットはどうか知らないが、ラグビーと同様ではないかと想像する)。要するに、ニュージーランドからロンドンに働きに来ている者はイングランド代表になっていいということで、アマチュア選手である場合、これは当然しかるべき措置だ。独立はしたものの元をたどればイングランド人である者に、おまえニュージーランド国籍だから地球の裏側に帰って選手になれ、というのは不合理だ。だから、ラグビーの場合はナショナルチームというよりクラブチームなのだと考えたほうがいい。クラブ名が「日本代表」「イングランド代表」である選抜チーム、ということだ。
ラグビーが「大英帝国植民地スポーツ」であり、実際のところアングロサクソン・ナショナルのスポーツであるのに対し、サッカーは最初期からインターナショナル・スポーツであった。ラグビーの場合、アングロサクソン以外ではフランスが唯一強豪で、あとイタリア、ルーマニア、アルゼンチンがそこそこ強い(見ていない間にアルゼンチンも強豪に昇格したみたいだ。ベスト4だからね)。ラテン系に向いているスポーツとは思えないのだが、なぜかそうなっている。南太平洋でも盛んだが、それはクリケットがインド諸国で盛んなのと同じく、おもしろいエピソードとすべきで、クリケットと合わせ、アングロサクソンに偏向したスポーツであることは間違いない(ただしアメリカを除く。彼らはラグビークリケットからアメフトだの野球だのというローカルなマイナースポーツを作り上げ、ドメスチックな「ワールドチャンピオン」なるものを決めて喝采している)。
サッカーはインターナショナルだといっても、そのありかたは時代によって変遷する。ヨーロッパの各国で盛んだから、国内リーグに外国人選手もいるわけだが、その数はボスマン判決以前は少なかったということを除いても、彼らが自国にもどって代表選手として活動するのは、距離的に大した問題ではなかった。ヨーロッパは小さい。中国サイズである。四川代表が北京や広州からもどってきて試合をする、という感じだ。南米選手が少なくて(ペレは最後にニューヨーク・コスモスに行ったほかはずっとブラジルでプレーし、ジーコもようやく30を過ぎてからイタリアで2年ほどやっただけだ。日本にも来たけど)、インターナショナルであってもインターコンチネンタルではなかった時代に、FIFAやワールドカップの骨格ができた。それに、あまりにも人気がありすぎて(特に下層階級に)、代表同士の試合が国家間の「代理戦争」みたいになってしまうので、その国の国民であることが代表選手の条件になるのは自然でもある。その結果、インターコンチネンタルとなりヨーロッパ主要リーグにトップ選手が集中している現在のサッカーでは、南米北米の代表選手は試合のたびに大陸をまたぐ長距離移動を強いられる(飛行機恐怖症の選手というのがときどきいるが、ベルカンプのようにヨーロッパ人なら飛行機に乗らずとも地上海上の移動で何とかなっても、ヨーロッパでプレーする南米選手ならえらいことだ。実際のところどうしているのだろう。ただただ我慢?)。しかしアメリカ大陸なら、距離も時差も日本やオーストラリアの選手に比べてまだましだ。彼らの負担はたいへんなものだ。内田のような犠牲者も出たし。奥寺の時代、ブンデスリーガの第一線で活躍していた彼は、日本代表ではプレーしなかった。距離のみならず時差もただならぬ移動の過酷さを考えれば、むしろそれが自然で、現在の日本代表海外組は多大な消耗を強いられているわけだ。


国籍はその国の国民であるか否かを判定する確固たる基準であり、各国の法律に明確な規定がある。だが民族となると、確かな基準はない。結局のところ、ある民族に属するかどうかは、その人がその民族の一員だと考えているかどうかによる、ということになる。民族を決定するのは帰属意識であって、それ以外の決め手はない。いうなれば、「自己申告制」である。どう見てもジプシーだが、本人が「俺はハンガリー人だ」と言うならハンガリー人だ、ということである。しかし、帰属意識は非常に重要だが、それのみが決定的というのはやはりおかしい。ある人があるグループの成員だと主張し、かつそのグループの成員が彼を成員として認める、というもう一段がなければならない。いくら自分をハンガリー人だと見なしていても、周りのハンガリー人の多くがそれを認めなければハンガリー人とは言えない、ということである。
だが、その部分を確認するのはむずかしい。民族のような、成員数が多いばかりでなく、その境界があいまいな集団であればなおのことだ。
学問は結局計測商売である。線引きをして成り立つ。国籍規定は資格の有無にはっきり線が引ける(二重国籍・無国籍の問題はあるけれど)。私は法律学経済学等をBrotwissenschaftとして軽蔑してやまぬ者だが、なに、Brot(パン)こそなけれ、Wissenshaftも同類たるをまぬがれない。
生まれも育ちも日本で、本人が自分を日本人だと考えていれば、たしかに日本人である。その条件のどれかが欠けている者の場合どうなるか。それが問題なわけだ。私の個人的な基準で言えば、
1.日本語を話す
というのが絶対条件で、加えて
2.日本に住んでいる
3.最も近い家族(父・母・配偶者)が日本人である
のうちのどちらかを満たせば、「日本人」である。当人が自分は日本人だと思っていようがいまいがには束縛されずに。日本人と思っていれば結構、たとえそう考えていなくても、日本人多数のほうであれこそ日本人だと思っているならば、「日本人」と認められる。ましてや国籍は関係ない。「日本」などと国の話になると、利益不利益がからんでくるので事が面倒になるのだが、たとえばそれであることによって何の利得も生じない「石見人」について、誰が石見人でありうるか、というふうに考えてみれば、だいたいこの条件でよかろうと納得できるだろう(利益のある「江戸っ子」などだとケチ臭いことを言う者もいようが)。もちろん、三つとも満たしているだけでなく、出生生育すべて日本で、ことによると国籍まで日本で、韓国語は話せもせずに、それでもなお「俺は韓国人だ」と言うなら、それは尊重する(在韓韓国人のほうで韓国人と認めるかという問題があるが、それは彼の解決すべき問題だ)。三つとも満たして自己認識も日本人のラモス瑠偉なんか、これ以上ない立派な日本人で、あんな日本人らしくない顔形の「日本人」がいてくれるのはうれしいことである。
そういう「出生以後的日本人」には、あるいは実際にはフルメンバーとして認められていないという不満があるかもしれない。それはしかたがない。日本人には非常に細かい無数のルールが課されるが、そのいくつかを(あるいは多くを)守らなくても許される特権があるのだから、それで相殺だ。
この3条件は、実際のところ国籍取得のための条件にも重なる。法律もそう人心から離れて制定はされないということだ。条文を見る限り、国籍取得に日本語能力は特に問われないようだが、大いに考慮はされるだろう。韓国では試験があることを参照。日本を知りたければ(特に日本の欠点を知りたければ)、韓国を見ればいい、という公理が存在する。日本の特徴がデフォルメされているのが韓国だ(その際、だいたいよくない方向に戯画化されている)。


力士にも外国人が非常に多い。かつ、日本語がきわめて達者だ。だから上の基準でいけば、外国人力士はみな「日本人」ということになる。それでいいと思う。相撲取りは髷を結って着物を着てちゃんこを食べて、風俗習慣も現代日本にないほど「日本」なわけだから。耳輪に鼻輪までしてヒップホップ踊って日本語も舌足らずな連中が「日本人」なら、力士が「日本人」でない理由はない。ただし、帰国すれば「日本人」でなくなる。国籍がなければ親方になれない決まりのようだから、親方になった外国人力士は、出生地が異色なだけの曇りなき日本人である。
秋場所後にふりかえってみて、愕然とした。好きな力士はみな外国人なのである。大砂嵐とか、栃ノ心、阿夢露(日本人がデブばかりになった今、昔の貴ノ花のような珍しいソップ型)など。ただし、なぜかモンゴル力士は贔屓でない。みな同じに見える。照の富士、逸ノ城がサイズで異なるが。
大砂嵐の相撲を見て感じるのは、自分は荒っぽい相撲取りが好きなんだなということ。昔は陸奥嵐なんか好きだった。北天佑もよかった。じゃあ朝青龍も好きかと言われそうだが、朝青龍は、性格のほうはともかく、荒っぽい相撲とは違う。あれは速い。千代の富士の速さに感心していたが、千代の富士どころではない、尋常でない速さで、悪い態勢になっても即座に挽回し、勝機を決して逃さない。私の好きなのは、時に大ポカをやる、勝つときは無類に強いが一面もろい相撲で(把瑠都のような)、朝青龍のとは全然違う。
魁皇が引退したあと、贔屓の日本人(出生日本人)力士がいなくなった。それはそれで残念なことである。


もうひとつ、「アマチュアリズム」というのもラグビーの大きな特徴だ。ラグビーのトップ選手がプロなのかアマなのか実はよく知らないのだが、そのありかたがアマチュア的なのは確かだ。ワールドカップの優勝賞金がゼロであるところにそれが如実に示されている。サッカー・ワールドカップの優勝賞金は42億円だそうだ。女子サッカーの優勝賞金が男子より格段に少ないこと(2億4千万円)が話題になったが、それどころではない。
このあたりは女子サッカーとも共通するが、ラグビーの大きな特徴は、黒人(アフリカ系黒人)がいないことだ。白い。南アフリカ代表も人口比を考えれば黒人は異常に少ないし(南アの場合、白人はラグビー、黒人はサッカーという棲み分けがあると聞く)、アメリカもアメフトの黒人選手の多さと対照的なくらい少ない。イングランドに少なく、フランスに多少いるのは一見自然な感じだが、サッカーのフランス代表は久しく「アフリカ選抜」と言ったほうがいい状態であり、イングランドもそれに近づきつつあるという兄弟スポーツの現況から見れば、やはり注目に価する。白人に交じって色の黒いのがいても、ラグビーの場合それはたぶんポリネシア人じゃないかと考える必要がある(クリケットならインド人だろう)。
サッカーは貧民のスポーツである。ルールが簡単で、道具もほとんどいらない。野っ原とボールさえあればいい。そして、カネになる。もし才能があれば、体ひとつで莫大なカネが得られる。成り上がれる。低所得層(黒人の多くが今もそうだ)で運動能力の高い子供がサッカーをするのは当然である。そういうのはむしろ健全というべきだが、しかしカネのあるところ、有象無象がそれにたかる。サッカーでいやなところはここだ。FIFAの幹部を筆頭に、サッカーの周りには人品卑しい連中が多すぎる。選手のほうは、程度はともあれスポーツをやっていれば必ず練磨され向上するはずだが、カネにばかりたかる者どもはそうでない。いや、スポーツ面においても、卑劣が許容どころか奨励されている部分がある(逆に、サッカーで示される倫理観は偽善度の薄い真の倫理だと言える)。こんな状態だから、いくらサッカーが好きでも、時にはラグビー女子サッカーのアマチュアリズムに触れて、きれいな空気で息をつくことは望ましい。
開催国のイングランドウェールズやオーストラリアと同組の厳しいグループに入ったのにも、サッカーファンは驚くだろう。サッカーでは開催国は楽な組に入るよう調整するから。開催国のチームが勝ち上がれば盛り上がるので、興行的見地からはそれが合理的だが、ラグビーはそうしないんだね。サッカーでも死のグループは必ずできるが、その一因は開催国が楽園の組に入るしわよせであるので、開催国を死の組に入れてしまうラグビーはすごい。日本も4戦3勝しながら敗退という厳しい結果になったけども、それは日本が弱小国だからで、グループには強豪が2チームいるのが普通であり、組分け自体は自然だ。あれを勝ち抜かなければならないのだ。今回の南ア戦と並ぶ大番狂わせの「マイアミの奇跡」、ブラジルに勝ったオリンピック日本代表がやはりグループリーグ敗退だったのを思い出す。しかしロースコアのサッカーはもともと番狂わせの多い競技で、あのブラジル戦は、猛攻に耐え、ワンチャンス僥倖の1点を守りきった勝利だから、番狂わせの少ない競技で真っ向勝負で勝った南ア戦とは比較にならないが。


しかしながら、いかに今回のエディー・ジャパンに感銘を受けようとも、ラグビーファンにもどることはあるまいな、とも思った。ラグビーはルールが煩雑で、反則規定が多すぎる上、その判定が妥当かどうか観衆にはわからず、レフリーに従うしかない。いわば、審判による判定の独占である。トライシーンはどんなトライでも血湧き肉躍るものだが、実際には実力伯仲のチームの対戦では、トライなどあまり取れずに、ペナルティゴールの応酬で決着がつく。そしてペナルティは観衆に見えないジャッジによるわけだ。サッカーのよさの一つはルールが簡単明解なことで、サッカーを全然知らない人でも10分も試合を見ていればすぐ理解できる。オフサイドがちょっとむずかしいが、あれだって2、3試合見ればだいたいわかる。つまり、ゲームが「開かれている」。今のがファウルか、オフサイドか、コーナーキックゴールキックか、観衆にもわかるのだ。それはつまり、審判の誤審が即座に選手観客にわかってしまうということで、レフリーの受難がこのスポーツの大きな問題になるのだが、「開放性」の代償としてやむをえまい。


南アに勝ったのはまぎれもないセンセーションだが、サモアに勝っても大喜びしている。報じる新聞の活字の大きさを見よ。サモアだよ、サモア。どこにあるのかみんな知ってるのか? 経済でも政治でも軍事でも(軍隊でない自衛隊をもってしても)、比較にもならない太平洋の小さな島国だよ。それに勝って、歓喜。勝ったこともうれしいが、勝ったことに喜ぶさまを見ることのほうが、たぶんもっと楽しい。
クリケットに日本代表チームがあるのかどうか知らないが、あるとして(たぶんあるだろう)、それがバングラデシュスリランカと試合すればケチョンケチョンにやられるに違いない。おもしろい。「打倒バングラデシュ」を合言葉に猛練習する風景を想像すると、楽しい。サッカーも、コスタリカホンジュラスと同レベルである。これもつい頬がゆるんでしまう眺めだ。経済力だの歴史だの国家ステータスだのの一切が捨象され、ただサッカー(ラグビークリケット等々)のみがそこにある。いいじゃないか。スポーツにおいては、そのスポーツでの実力だけがリスペクトされる。それ以外のことなど屁でもないのだ。