亜州杯2015雑感

大韓航空の財閥令嬢が、ナッツの提供のしかたが悪いと激怒して飛行機を引き返させたあの事件が裁判になり、実刑判決が出たというニュースがあった。あの国には「世間を騒がせた」罪があるのだなと思った。あのくらいのことは起訴猶予でもいいと思うし、最悪執行猶予付き判決だろうに。
などと隣国を憫笑していたら、「世間を騒がせた」罪は本家日本でも適用された。アギーレ「八百長」騒動である。結局、告発受理をもって解任となった。妥当ではある。有罪となったわけでなくとも、告発が受理され起訴されれば、出頭を求められてスペインに行かねばならなくなって、代表監督の仕事に支障が出ることが予想されるから。
しかし、この疑惑が報じられて以来、スポーツ新聞はこぞって解任せよとの論調だった。疑惑に過ぎないのに断罪していた。八百長疑惑自体の白黒はわからないが、「世間」は騒いだ。「世間を騒がせた」件に関しては真っ黒である。その罪は重い。実に日本的な(韓国的でもあるのだろう)罪と罰である。
八百長を忌み嫌う心性は尊い。しかし、冷静な吟味はされていたのだろうか。普通に考えれば、八百長は負けるように頼むものである。アギーレ監督は勝った側だ。どのチームも勝つことを目標に戦うのだから、そうしていればいいだけで、工作する必要はない。工作は負ける側の相手に対して行なわれるはず。ただ、相手クラブに渡す金がアギーレ氏ほかの口座を通ったのではないかとの疑惑がある点で、関与しているのではないかとされているのだ。私は問題の試合を見ていないので何とも言えないが、それを見た信頼すべき人々が、八百長に見えないと言っている。まあ、これについてあれこれ言うのはやめよう。判断材料がないのだから、裁判の結果を見るしかない。
アギーレ氏の監督就任の話が出てきたとき、私は反対だった。メキシコ代表監督のときの選手選考や起用についての報道を読んで、これは南米によくある独裁者タイプの頑固で融通のきかぬ監督ではないかと思ったからだ。風貌はその疑いを裏づけるように見えるし。
だが、就任が決まり、その後に八百長疑惑の報道が出てきて、断然アギーレ支持に変わった(人はそれを「あまのじゃく」と呼ぶかもしれないが、私自身は「正しい方向感覚」と呼んでいる)。疑惑即断罪に本能的に反発し、注意深く報道を追うようになったからだ。原氏がそうへんな人を選ぶはずがないという信頼もあった。選手選考も起用も納得のいくものだったし、代表経験の浅い、言うなら1.5軍の選手をずらりと並べたブラジル戦には驚いたが、これはけっこう大胆な名将ではないかとの期待を抱かせもした。日本人ならあんな選手起用は絶対にしない。だが、日本人にできることなら、わざわざ外国人に頼むことなどないのだ。だいたいスポーツマスコミは、「日本人の常識」と異なることを批判し、外国人監督を日本人の尺度で論評してばかりだ。じゃ、日本人でやりなよ。人は結局おのれの身の丈でしか世界を測れないということである。
批判的にゆがめられたスポーツ新聞の報道を通しても、アギーレ監督の練習でのふるまいは好感を抱かせたし、コメントもよかった。何より、もっとも身近で接する当事者である選手たちが信頼しているのが見えて、これならいいじゃないかと思った。
素人の私は戦術について云々すべきでないし、できもしない。が、選手交代が的確なのには感心した。今までの監督もそれぞれいい監督だったと思うが、共通して言えるのは、選手交代が遅いし、的確でないということだ。少なくともこの点では前進できそうな感じがあった。
解任はやむをえないだろう。代表監督の第一の任務は代表チームを強くすることで、裁判所の聴取に出頭させられ代表の活動に支障が出ることになってはまずい。彼のサッカーは決して悪くなかったと思うから、実質は「世間を騒がせた」罪の適用であるのに、アジアカップ準々決勝どまりという「不成績」を名目とされることなくて、アギーレ氏本人も傷ついていない。もし無罪を勝ち取れば、また代表監督に乞われることもあるだろう。


解任が正当化される理由として、アジア杯での結果もある(もし優勝していたらどうなったことか。しかも圧勝なんかしてたら)。これはたしかに不満だ。だがね、あの準々決勝で責められるのは、監督というより選手だ。いったい何本シュートを打った? フリーのシュートが何本あった? フリーで3回打てば、最低1回は入れなければいけない。フリーでシュートを打つところまでの運びは監督にできるし、しなければならない。そのシュートがゴールネットに入るか入らないかは選手の領分だ。そして、日本代表の見慣れた風景−開始早々にポカをして失点をくらうシーン。あの試合のあれはポカとまでは言えないが、ミスとは言っていい。猛攻をしかけて、何とかもう1点をもぎとって、2−1の薄氷の勝利となるべき試合がそうならなかったのは、本当に紙一重でしかない。
だが、不振や敗戦の責任は監督が取ることになっている。だから、そのこと自体に異議はない。
敗戦の真の理由は、日本の傲慢が罰せられたということだ。スポーツ新聞はどれもこれも、優勝がノルマだなどとふざけたことを書いていたぞ。ロースコアで番狂わせの多いサッカーというスポーツで、優勝がノルマだなどということはありえない。いかに他のアジア諸国を低く見ていたか。身震いを禁じえない。どれだけ物忘れが激しいんだ? アジア杯で苦闘激闘してきた歴史を目の前にしてきただろう?
ドイツがリヒテンシュタインと戦って、敗れることはありえない。だからリヒテンシュタイン戦にのぞむドイツチームにとっては勝利がノルマだ。それならいい。では、日本がドイツで、UAEリヒテンシュタインなのか? そういう考えを表わす日本語は、「傲岸不遜」である。優勝がノルマなら、オーストラリアや韓国もリヒテンシュタインなのか? ことばもないよ。こういう人々は、断じて罰せられなければならない。罰を受けるべき無責任なサッカー記者や評論家に代わって、代表チームと監督が罰を受けた。そういうことだ。
ベスト4がノルマだというならわかる。日本チームがあの大会のベスト4チームのひとつであることは、どの国のどのジャーナリストも認めるだろうし、優勝候補最右翼だとした者も多かったろう。でも、負ける。ブラジルがドイツに1−7で負けるスポーツで、日本がUAEに1−1で引き分けるのは大いにありうることである。そう、PK戦は引き分けである。あの大会で一度も負けなかったのは、実は準々決勝で姿を消した日本とイランだったのだけどね。優勝したオーストラリアはグループリーグで1敗しているから。


日本が早々と消え去ることによって、アジアカップはその価値を示した。それが収穫だ。日本の「敗戦」は、UAEの10番のすばらしい才能を引き立たせた。その点でも意味がある。
この大会のベストマッチは、疑いなくもうひとつの「無敗チーム」イランがイラクと戦った延長3−3の試合、退場者を出しながら追いつくイランはすばらしかった。「技術」(プレッシャーのないところでボールを曲芸まがいに扱うことを指す日本語)ではない、勝利を飽くなく欲する強い気持ち、戦う気持ちこそが肝だ。それが足りずに、こないだのW杯でも惨敗したのをもう忘れてしまったのか?こういう教訓を胸に深く刻まないなら、アジアカップの意義はますます薄れる。
親善試合など何ものでもない。興行にすぎない。親善試合では、世界王者だったスペインも、現王者のドイツも、けっこうポロリと負けたりする。巡業場所で好成績でも、それは何の意味もない。アナウンサーが仕切りの間の埋め草に使うエピソードにすぎない。その力士の趣味とか、好みの女性のタイプとか、そんなものと同列だ。本場所での活躍のみが評価される。サッカー関係者たちは、もっと相撲を見ろ。アジア杯は真剣勝負の本場所だ。


余談だが、サッカーと相撲はよく似ている。1部が幕内、2部が十両と考えるとわかりやすい。毎場所入れ替えがあって、陥落すまいと必死になる。同じく関取ではあっても、十両になると注目度が圧倒的に低い。好角家や地元の贔屓しか見てくれない。サッカーでは1シーズンにホームとアウェイで2回当たることになっているが、2シーズン制になって1シーズンに1回だけの対戦になると、ますます似てくる。
特にヨーロッパのリーグでは、厳然と番付がある。両横綱が優勝をほぼ独占するスペインリーグ、一人横綱ブンデスリーガ大関が2連覇したことがあったが、結局状況は変わっていない)、横綱大関・関脇まで実力の拮抗しているプレミアリーグ、本来3横綱なのに、うち2人が小結や平幕あたりを低迷しているセリエA(サッカーでは横綱も陥落するのである。もう1人のほうは八百長問題で十両まで落ちたのに、また横綱に君臨している)。Jリーグ横綱大関不在で、関脇以下が優勝を激しく争っている、というところか。
八百長問題がつきまとうのも両者の共通点である。しかし、近代スポーツであるサッカーの場合八百長は許されないが、前近代的スポーツの相撲ではちょっと事情が異なる。星を買うのは問題外であるが、千秋楽で7勝7敗の力士がそろって勝ち越すのはなんらおかしなことではない。それを言挙げするのは野暮のそのまた野暮である(つまり、近代とは野暮天の帝国だ)。
私個人について言えば、芝居や相撲が好きだから、それに似ているサッカーも好き、ということは多分にあるだろう。国際性も非常に好むところで、しかしこいつは相撲や芝居にはちと足りない。フラスコに芝居と相撲を入れて、国際性を点じると、あら不思議、たちまちサッカーに変ずる。私個人を離れても、この化学変化式は有効だと思うが、どうだろう。


閑話休題。大会にもどれば、UAEイラクの3位決定戦もよかった。UAEの10番オマルの才能が輝いた。決勝も、後半ロスタイムの韓国の同点ゴールは見るべきものだった。
日本チームがプレーしていないと、すがすがしくていい。日本戦だと、どうしても応援の熱で画面が曇るし、狭くなる。3位決定戦など、液晶大画面がくっきり広々と涼しく感じられて、実によかった。だいたいこういう大会は、日本の出ない試合を見るために存在するのだ。サッカー本来のおもしろさが感じられる。レベルの話じゃない。日本と異なるサッカーを見て楽しめるということ。違うからこそおもしろい。
オーストラリアは、ついこのあいだまで世代交代に失敗したロートルチームだったのに(ロートルなりに強かったし、その生き残りケーヒルは相変わらずすごかったけど。去年のあのボレー、今年のオーバーヘッドと高い打点のヘッド)、いつのまにか若いチームに変身し、サッカースタイルも一変していた。そして日本が世代交代に失敗したロートルチームになっていた。万物流転である。


自宅のテレビが映らなくなったため、楽山、濾州、焦作、青島と旅しながらホテルのテレビで見てきた今回のアジア杯も、そうするに値する大会だった。日本が弱いとしたら、それはサッカージャーナリズムが弱いからだ。そっちがまともになり、強くなれば、きっと代表チームも強くなるよ。