敗者たち、たとえばマニ教(1)

今この世界に生き残っているわれわれは勝者である。そして勝者としてしか世界を見ない。だがその一方で、敗れ去り、わずかな痕跡を残すだけで消え去ったものたちがいる。
敗北には理由がある。退場にはわけがある。だが、敗者となり地上から消えたものたちも、かつてたしかに存在し、そのあるものは覇を唱えてもいたのだ。彼らを知ることなしに世界を知ることはできない。インカやアステカの文明のように理不尽な抹殺もあったことだし。


歴史は結局文字である。文字記録以外のものも史料とするべく、考古学・古銭学・民族学その他さまざまな分野に補助を求めているが、しかしそれらは補助学にとどまり、根幹のところではどうしても文字資料によらざるをえない。それゆえ、先史時代を含む無文字社会は歴史の辺境に位置することになる。
それだけにとどまらない。文明社会は基本的に有文字社会であるけれど、その文明には特有の性格があり、「親歴史的」な文明と「非歴史的」というか「反歴史的」な文明がある。前者は中国およびその影響下の東アジア文明と、ギリシャ−ローマ−ヨーロッパと続く西欧文明であり、後者の代表は言わずと知れたインド文明である。インドは文字資料に乏しくなく、宗教文献はきわめて豊富、文法学や数学、天文学も発達し、性学の書もあるのだが、なぜか歴史記録にはまったく関心がなく、史書と言えるものができたのは、時も後代、場所も辺境の、スリランカの「ディーパヴァンサ」(4世紀)と「マハーヴァンサ」(6世紀)、本土ではカシミールの「ラージャランギニー」(12世紀)を待たねばならない。
「インド誌」を書いたアル・ビールーニー(973−1048)は、「インド人は遺憾ながら物の歴史的順序に多くの注意を払わぬ。かれらはかれらの諸王の年代的な順位を列挙するのに怠慢である。そして人々がかれらのそれを解明するように迫って、而もかれらがどう言ってよいか解らなくなると、かれらは直ちに童話を語ろうとする」(ヴィンテルニッツ「ヴェーダの文学」、中野義照訳、日本印度学会、1964。p.29)と言っている。そのため、「ブッダの生没年やカニシュカ王の在位年について100年以上開きのある説が提唱され、学者たちが論争をくり返すとにった事態も生ずる。人類の祖マヌが制定したとされる『マヌ法典』の成立年代も、西暦前200年から西暦後200年にいたる間、といった程度にしか知ることができないのである」(山崎元一「世界の歴史3古代インドの文明と社会」、中央公論社、1997、p.12)。
インドでも、文字自体は古くからあった。前6世紀からあったらしい。確実なのはアショーカ王の碑文で、これが前3世紀。しかしながら、この文明の特徴として、「インドにおいては最古の時代から今日に至るまで、全部の文献的、及び学術的活動に対して権威のあるのは、言われた言葉であって、書かれたものではないというのが、注目すべき現象である」(ヴィンテルニッツ、p.33)。「無数の古文書があり、これらの古文書が相当の神聖と尊敬を得ており、また最も重要な原典がインドでも安価な版本で得られる今日においてもなお、インドにおいては全部の文献的、及び学術的な流通は口頭上の言葉に基礎を置くのである。人々が原典を学ぶのは写本や書物からではなくして、ただ師の口からのみである ― 今日も数千年前と同じである。書かれた原典はせいぜい研究の補助方法たるのみで、記憶の支えとして利用せられる。しかしそれはかれに何等の権威とはならぬ。師の話された言葉のみが権威をもつのである。そして今日、もし一切の写本と印刷物とが消失することがあっても、それで以てインドの文献は何物も地上から消滅することはない。その大部分は学者と朗誦者との記憶から再現することができるからである。詩人の作品でもインドでは読者に対するものではなく、常に聴者のみを当にしている。そして最近の詩人でも読まれることを欲せず、かれらの願いはかれらの試作が「知者の喉のための荘厳」でありたいのである」(同、p.34)。この文明においては、哲学、法律、医学、天文学建築学、文法書、辞書も韻文で書かれるのだが、それはもちろん暗誦のためである。
「発音、アクセント及び読誦法においても注意深くあらゆる欠点を避けつつ、学生は一語一語師匠の言うことを繰返し、以て自分の記憶にこれを刻印しなければならぬ。そしてこのようにして口誦で伝承することが、根本的な本典の維持に対しては、写本に書いたり写し替えたりするよりも遥かに大きな保証たりうることに疑はない、実にわれわれは、たとえばリグ・ヴェーダの讃歌の本典が、今日われわれの印刷本で読むのと同様に、一語一語、一綴一綴、各アクセントが、西紀前五百年以来不変で残存しているという直接の証明をもっているのである」(同、p.37)。義浄が「南海寄帰内法伝」で、四ヴェーダの書は「悉く口づから相伝授して、これらを紙葉に書せず」と書いているとおりだ。
最古のインドの文献は何か。最古の写本はインドでは12世紀のものだというが、実はインドの領域外のほうがもっと古いものを残していて、ネパールでは10世紀、「日本で発見された棕梠の葉の写本は6世紀の前半に書かれたもの」だと言われ、シュタインがタクラマカン砂漠で発見したものは4世紀に遡る。しかし「これらの文字学的にはそのように貴重な発見も、インドの文献についてのわれわれの知識を従来以上に拡大しないことは注目に値いする」(同、p.38)。
最古の「書」がヴェーダであることは間違いない。学者の研究によって、前期ヴェーダ時代(前1500−1000年頃)に「リグ・ヴェーダ」が、後期ヴェーダ時代(前1000−600年頃)にその他の三ヴェーダが成立した、と考えられている。だが、それがいつ筆録されたのかはわからない。ビールーニーが「最近」カシミールで文字に書かれたヴェーダのことを語っているので、そのころにはあった(ルヌー/フィリオザ「インド学大事典」1、金花舎、1981、p.250)。仏典は何度も「結集」されたが、それは記憶した経文のすりあわせで、筆記されたのはスリランカで西暦紀元前後らしい(同、p.223)。


同じアーリア族のイランでも事情は同じである。ゾロアスター教聖典アヴェスターも口伝えだった。ゾロアスター教は仏教よりもキリスト教よりもずっと古い宗教で、今も滅びてはおらず、インドのパールシーたちの宗教として生きており、またイランでもわずかに信徒が残っている。教祖ゾロアスターは前1200年ごろの人とされる。無文字社会なら口誦なのは当然だが(ユーカラが口誦されてきたように)、その時代のイランはすでに無文字社会ではなかったけれど、アーリア族の神官たちは文字を有したあとまでも口誦での伝承を重んじていた。「メディア人やペルシア人は、西イランで数種の文字を知ってはいたが、そのような外国の技術を疑いの目で見ていたということである(ペルシアの叙事詩では、文字は悪魔が発見したとされている)。したがって、次第に実用的な目的のためにその技術は採用されはしたが、昔のイランでは知識人であった祭司たちは聖なる言葉を記録するにはふさわしくないとして、それを拒否したのであった」(ボイス「ゾロアスター教」、山本由美子訳、講談社学術文庫、2010、p.110)。筆録はようやく6世紀のササン朝時代末期で、新しくアヴェスター文字(アヴェスターを書き記すための文字)を作って筆記した。最古の写本は13世紀のものである。筆録後まもなくゾロアスター教を国教としたササン朝イスラム勢力に滅ぼされ(651年)、21巻から成るアヴェスター本文の7割が失われた。
イスラムの勃興が100年早く、筆録前にササン朝が滅びて異教の支配下に入っていたらどうなっていたか。だが、そんな想像をして恐れるのは書物の奴隷である現代のわれわれで、神官は本文を暗誦していたのだから、神官さえ生き残っていれば宗教伝承も絶えなかっただろう。


歴史において、文字記録は卓越している。無文字・先文字時代を考えるための道具はまず考古学で、文字以前や以外の調査を行なうが、ここでも「石の卓越」という現象がある。骨とか土器とか、とにかく鉱物性ものによって考古学は書かれる。そのよりどころとするものは、かなりの部分が墓暴きである(だから天皇の陵墓参考地を掘らせない日本の保守文化は考古学の敵で、つまり学問の敵でもありそうだが、墓暴きが卑しい行為であるという感覚をなくすのは、それはそれで問題だ)。この世界はどうしても不平等だ。テントや木造の文化、墓を造らない文化に考古学ができることは少ない。
それはいいことにしよう。文字はきわめて有用な道具だ。文字にはどうしても頼らねばならない。考古学の「文字」である石や骨についても同様に。
その文字というものは、すぐれて文明の子である。宮崎市定が「歴史的地域と文字の排列法」で指摘しているとおりだ。文字を書くのにどれがよいという決まりはないので、縦でも横でもよければ、右からでも左からでもいい。さすがに下から書く文字は存在しないが、右からか左からかの問題に関しては、左から書くヨーロッパ人は、人類の大多数は右利きであるから、左から書くのが自然であると独善的なことを言うけれど、書くとき筆の陰になる部分が生ずるが、「既に書いた部分が影になるか、これから書こうとする余白が影になるかが、右から文字と左から文字との相違である。そしてこの場合、優劣は殆ど無く、あってもそれは言うに足らぬものであろう。そうでなければ西アジアの諸民族が何千年もの間、右から文字を書き続けて来よう筈がない」(宮崎市定「東西交渉史論」、中公文庫、1998。p.49)。牛耕式という書き方もある。ある方向から読み、行が下ると逆方向から読む、というやり方である。どちらから書いてもよいならば、そういう「どちらでもよい事が、どちらかに決定されているという厳然たる事実の中に、絶大な意義を認めなければならないと思う。それは、どちらでもよい事の中にこそ、反って伝統が十分の威力を発揮しているからである」。「この伝統は大きな力であって、最も抵抗の弱い所、即ち必然性のない所に於いて特に驚く可き保守性を発揮する」(p.50)のである。文字自体の系統と並んで、この書字方向についても目を配る必要はそこにある。文字学は第一に解読、次に文字の系統に目を注いで、書字方向はあまり気を配られる項目ではないが、そういうところにこそ考えるヒントがあることを指摘したこの好論文の着目点によって世界の文字を整理してみると、おもしろいことがわかる。
現行の世界の文字を一瞥すれば、およそ四つに大別できる。ギリシャ系アルファベット(単音文字)・セム系アルファベット・インド系アルファベット・漢字系文字(表意文字・音節文字)である。
ギリシャ系アルファベットは、ギリシャ文字ラテン文字(ローマ字)・キリル文字アルメニア文字グルジア文字で、左から右へ横書きする(左起横書き)。この文字の使用地域は、宗教はほぼキリスト教であり、言語は印欧語である。ラテン文字は西欧諸国の植民地支配によって広がったので、新大陸はすべてこの文字、サハラ以南のアフリカもそうだし、古い文明地域であるアジアでも、ベトナムインドネシア・フィリピンなどで使われる。トルコで採用されたのは、政教分離原則にもよるし、それ以前に使っていたアラビア文字セム語を記すための文字で、トルコ語表記には不適当だったことにもよる。ウズベキスタンが最近キリル文字からこれに転換したのは、ロシアからの自立という意図がある。キリル文字は旧ロシア帝国ソ連の版図内の民族に使われる。ソ連の勢力圏だった外モンゴルもそうだ。
ヘブライ文字アラビア文字に代表されるセム系アルファベットは、右から左へ横書きする(右起横書き)。宗教はヘブライ文字ユダヤ教アラビア文字イスラム教であり、もともとセム語を記すための子音文字だが、言語を越えてイスラム教地域で使われている。
インド系アルファベットはギリシャ系と同じく左起横書きで、インド亜大陸から東南アジアで使われるさまざまな文字がここに属する。チベット文字もこの系列だ。つまり、ヒンドゥー教・仏教の分布域に広がっている。インド系文字の特徴は音素音節文字であることで、母音を示す印が付加されて、1文字が1音節を表わす。
漢字系文字というのは、表意文字の漢字と音節文字のかな・ハングルで、本来縦書き、行は右から左へ書く(右起縦書き)のだが、左起横書きが浸透中である。中華文明圏の文字であり、この文明は独特の宗教性があって、西方一神教やインドとかなり異なる。祖先崇拝を柱とする儒仏道教(中国で。儒教と仏教と道教ということでなく、三者融合した民間信仰と考えるのがよい)・儒仏神教(日本)・儒仏巫教(朝鮮)としたらいいかもしれない。かなが純粋な音節文字であるのに対して、ハングルは音素音節文字である。昔は漢字圏だったベトナムラテン文字へと移った。
シュメール・エジプトの太古よりさまざまな文字が興亡してきたのだが、現在使われている文字で見れば、世界は単純化されていると言えよう。特に、文字発祥の地西アジア・エジプトが、イスラムの興起とそれによるアラビア文字の覇権により、ほとんど一色に塗りつぶされている。
注目すべきはモンゴル文字で、ウイグル文字、ひいてはソグド文字からできたもので、セム系アルファベットに属す。したがってソグド文字・ウイグル文字と同じくもとは右起横書きだったものが、中国文明圏との接触で、それを90度回転した縦書きになった。しかし行は左から右へと書く(左起縦書き)。やはりセム系と思われる突厥文字も同じである。縦書きで左起というところが、ふたつの文明の影響関係を示している。
シュメールの楔形文字、エジプトの聖刻文字が文字の濫觴であるが、その最初期においては書字方向は一定していなかったという。シュメールの楔形文字は、古くは漢字と同じく右起縦書きされていたが、粘土板に書くときは早くから左起横書きとなった(つまり、のちのモンゴル文字と同様、90度回転したわけだ。ただ縦横の方向は逆である)。最初の「世界帝国」であるアケメネス朝ペルシャ公用語アラム語で、碑文にはアッカド語エラム語・古代ペルシャ語楔形文字が用いられた。これら三つの楔形文字は左起横書きである。一方、フェニキア文字からできたアラム文字は右起横書きだ。
エジプトのヒエログリフの場合は、縦書きも横書きもあり、右からも左からも読む。縦書きがより古く、また右向き(左起)が優勢だというが、聖刻文字には人や動物の形の文字があるので、それの向きによって読む方向もわかるしくみになっている。ただ、聖刻文字を崩した神官書体・民衆書体の場合ははっきりと右起横書きである。
古代西アジアにおいて、書字方向は一定ではなかったようだ。フェニキア文字(最初のアルファベットとされる)に先行するウガリト文字は左起横書きであるが、フェニキア文字が右起横書きであったため、これからのちフェニキア文字の流れを汲むセム系文字は右起横書きとなった。しかし南アラビア文字は左起横書きで、それに由来するエチオピアのアムハラ文字もそうである。この文字は、4世紀ごろ子音文字に母音を示す印を加えて音節を表わす音素音節文字となった。インド系の文字と同じしくみである。
なお、今も解読されていないインダス文字も書字方向には定説があって、右起横書きないし牛耕式とされている。インドの諸文字はインダス文字とは無関係で、西北の一部で使われていた右起横書きのカローシュティー文字はあきらかにセム系であるが、早く消えた。ブラーフミー文字セム系文字が範だろうと考えられているが、書字方向は左起横書きである。このブラーフミー文字からさまざまなインド系文字が現われた。
文字史の考察は、別の知見も与える。われわれはかなという民族文字を使いつづけているため気がつきにくいが、文字は言語を超える。したがって、(言語と密接に結びついている)民族も超える。ふつうに考えれば、文字はそれを使う言語の特徴に応じているはずだと思われ、実際かななどは、中国の文字である漢字が日本語を書き記すのに適さないため、漢字から万葉文字を経て形成されてきたので、日本語を書き表すのに非常によく適合しており、逆に外国語(中国語でも英語でも、あるいは最近隣のアイヌ語でも)を書くのにはまったく不適当だ。そして成立以来ずっとそれを漢字と混ぜて使いつづけている。
このような自然で幸福な文字と言語の関係は例外で、当該言語を書くのに適当か不適当かに関わりなく、諸民族とその言語は近隣大文明の文字を採用し、いくらかの改変を加えることで満足している。つまり、文字と言語は対応しない。子音表記で用が足りるセム族の言語に適合したセム系子音文字が、母音表記を必要とする印欧語やテュルク語に採用されるという例が示すとおりだ。文字と言語が対応しないのに対して、文字は文明と分かちがたく結びついている。そして、文明とは宗教なのである。出生以来宗教嫌悪を性格とする近代文明の息子らは認めたがらないかもしれないが、文明は世界観や過去世・現世・来世にわたる史観を基底にもっているのであり、それはまさに宗教の基礎と同じだ。上の一瞥でもわかるように、四種の文字体系がそれぞれ宗教に応じているのが如実に示すとおりである。もちろん、ヘブライ文字ユダヤ教アラビア文字イスラム教のようにきれいに一心同体化しているものばかりではなく、ギリシャ文字はまずヘレニズムの文字として広がり、ローマ帝国キリスト教化を経てギリシャ系文字はキリスト教の文字となったのだけれど、一度そうなってからはこの宗教と分かちがたく結びついていた。
文字の交替は文明の交替である。そのことはエジプトを見ればよくわかる。聖刻書体に神官書体、さらに民衆書体を加えつつ使われてきたエジプト固有の文字は、5世紀を最後に消える。代わって現われたコプト文字は要するにギリシャ文字で、それに民衆書体から採られたいくつかの文字を加えたものにすぎない。当然左起横書きで、いわゆるコプト教徒、エジプト人単性論キリスト教徒の文字である。しかし、イスラムの征服によってここでもアラビア文字に取って代わられることになり、コプト教徒(エジプト人キリスト教徒)こそ今も残っているものの、コプト語コプト文字ともに消えてしまった。


文字を考える場合には、書体だけでなく、何に書くか、何で書くかも見ておかなければならない。
文字が書かれる材料については、三大別できる。鉱物性(いわゆる金石文、つまり石や金属、そして粘土板など。甲骨文字の書かれた亀の甲羅などは動物性とも言えるが、ここに含めるべきだろう)・動物性(羊皮紙などがそうだ。なおカローシュティー文字の名は驢馬の皮に由来するという説がある)・植物性(パピルスやヤシの葉、樹皮、板、竹、布、そして紙)である。さまざまな物が用いられてきたが、結局紙と石が残ったと言っていい。特に紙の有用性は卓絶していて、印刷術はまず木版として隋唐のころ中国でできたのだが、それは紙があったればこそである。紙があって、印刷が可能になったのだ。その意味でほぼ書写材料の最終形態かと思えたが、ここへきて液晶というものが現われて、鉱物が復権した。
書記用具については、日本語の「書く」の語源が「掻く」であるごとく、また英語の「write」、ラテン語の「scribo」の語源が「刻む、ひっかく」であるように、硬いもので掻いて痕をつけることから始まったのは言うまでもない。石碑などはもちろん今でもそのように書くわけだし、書記術の起源メソポタミアで粘土板に葦のペンで「書く」のは「彫る」に近い。インドでは針筆でシュロの葉に鏤刻し、その痕に炭の粉を付着させる方法をとっていた。
漢字「書」の場合は、「聿」があるから筆で書くことを表わしている。竹簡・帛書の時代から筆と墨であったが、これは紙にも非常に適合している。


また、誰が書くのか、という問いもある。最古代において、書くのは祭官や書記に限られていた。書記術は特殊能力で、年月をかけて学習しなければならない。その意味ではエリートであって、識字層は「識字カースト」を成す。古い時代の文字体系はしばしば非常に複雑であるが(今なお使われている「古代文字」である漢字を想起すれば、その一斑はわかる)、書記術がほとんど普及していない段階では、その能力習得のために時間も労力もかけられる「特権カースト」のメンバーには大きな問題ではなく、むしろ複雑さのため余人が近づけないほうが「カースト」成員には有利であった。「秘儀」化は彼らの望むところだ(朝鮮の両班が簡明で便利なハングルを軽蔑し、その普及を妨げて、外国文字の漢字、外国語の漢文を守りつづけていた心根を見よ)。
神官祭司が文字階級であったから、古代の書物に宗教書が多いのは当然だ。また書記官の仕事として歴史・法律も書き記される。その仕事が石に書かれた碑文の形であれば、時を越えて残ることになりやすい。それら宗教・法律・歴史に対し、詩は口誦が原則で、文字に記されるのはさまで古くはない。人類が人類になった時から詩はあったはずだが。
神官はある教義を信奉する者の自然として、自分たちの教義に縛られ、ほかの宗教に対して偏向している。書記官は国家王室の奉仕者であるから、見方は当然狭くなる。古代以降、識字能力がある程度普及してからも、それを保持する者は社会の小さな一部分でしかなく、ひとつの階級をなしていて、彼らの書き物は非識字階級(つまり民衆)や他国他文明に対して大きなバイアスがかかっているし、意図的非意図的な書き落としがある。そのことは決して忘れてはならない。
中国文明の大きな特色として、「神話がない」ということが挙げられる。歴史記録に異様に熱心で、その一方、古代の他の民族のもとでは豊富に見いだされる神話が異常なくらい乏しいのだ。それは中国文明の性格かもしれないが、民族全体の特性というより記録事務にあたった書記階級の特性かもしれない。たぶんその双方の相乗だろう。


印刷術の普及というのは文字の発明以降の文明全体の歴史を通して見ればつい最近のようなものだが、それ以前の長い時代、書物は手写されていた。文字の発明以前には、それを文字に記せば書物となる「原書物」は口誦されていた。太安万侶以前に稗田阿礼がのちに「古事記」となるものを口誦していたように。
近代以前、長く暗記は教育の中心であった。なにもインドやイランのアーリア族の極端な例を待つまでもなく、「シノタマワク…」、論語全文を素読暗誦するのは江戸時代教養人の基礎だったし、今もイスラム神学校では子供たちが体を揺すりながらコーラン暗誦に励んである。
書物の出現は明らかにわれわれの記憶能力を著しく減退させているが、そこには触れないことにして、まず写本の問題を見てみよう。
印刷術発明以前、書物は書いて伝えられた。そして、原著者の自筆稿本が残っていることはまずない。聖徳太子の「法華義疏」(615)の自筆稿本が残っているのは稀有の例外で、日本という国の「正倉院的」性格によるものだ。外敵の侵略がなく、4世紀以来ただひとつの王朝が連綿と続いている国など、ほかにあるものではない。内乱はもちろんあったし、地震・洪水・火事などの災害が非常に多く、高温多湿であるという保存に不適当な条件がいくつもあるにもかかわらず、このように古物がよく保たれている。木版印刷が隋唐に始まりながら、中国には最古期の印刷物が残らず、日本に「百万塔陀羅尼」(770)が残っているのも同様だ(木版印刷については新羅仏国寺に伝わる「無垢浄光大陀羅尼経」が8世紀前半と考えられ、最古であるようだが)。そのような例はあるものの、たとえば「古事記」は室町時代初期の写本が最古だし、「源氏物語」も紫式部自筆本などはもちろんなく、最古の写本は鎌倉時代である。
古事記」は稗田阿礼が暗誦していた「帝皇日継」「先代旧辞」を太安万侶が筆録編集したもので、それ以前にも「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部并公民等本紀」のような書物があったようだが、蘇我氏滅亡の際焼失して伝わらない。写本の場合、もし一部しかなければそれが失われれば完全に消え失せてしまうし、数部程度の存在なら散逸の危険性は非常に高い。というより、写本時代の書物は今に伝わらないほうが常態で、伝わっているのが偶然のようなものである。だから始皇帝焚書は伝世の大いなる危機で、あの時代は読書人口も少なく、したがって写本の部数も少なかったであろうから、燃やされて失われた本は多かっただろう(印刷隆盛の時代のナチス焚書はパフォーマンスだけである。版本が多くあるのだから失われることはない。よりタチの悪いのは体制に都合の悪い資料の組織的焼却で、敗戦時に日本の官僚や軍人のしたことが好例だ)。そのように意図的に滅ぼそうとされずとも、災厄災害に遭うことで滅びてしまった書物はきわめて多いはずだ。平安時代の物語で現存しているのは40ほどであるが、名前のみ知られて伝わらないいわゆる散佚物語は240ある。「夜の寝覚」「浜松中納言物語」のようなものは一部が失われている。伝わらなかった大きな理由は写本が少なかった、つまり人気がなかったからであろうし、ほとんどは凡作駄作だろうが、240もあれば中には佳作もあり、あるいは傑作もあったかもしれない。現存40作中にも、一部の傑作以外に凡作が多くあるが、それらが世に残った理由はただ幸運というだけではあるまいか。


中国というのもまたインドに負けず劣らず特異であって、史記以来の各王朝の正史の山に見られるように、できごとの記録を取ることに異常に執着するという文明のありかたをしている。この文明は連続性に大きな特徴があり、日本で特徴的な連続性が「万世一系」の王朝の継続と外敵の侵入を免れていることで支えられているのに対し、王朝は頻繁に交代し、中国史は外敵侵入史と同義と思われるほど侵略されまくりであるにもかかわらず、その文明はとぎれることなく殷周以来今日まで続いている。甲骨文字以来字体は変わっても同一の文字を使いつづけ、紙を発明し印刷術を興した中国文明は、書き物に有利な環境が整っていた。書物の普及でも世界に冠たるものがあった。「1750年までに中国語で出帆された図書の数は世界中の他の言語で書かれた図書全部を合わせたよりも多かったという」(フェアバンク「中国」上、市古宙三訳、東京大学出版会、1972.p.39)。
とはいえ、王朝の力が衰えると必ず戦乱の巷となってきたので、特に写本の時代には伝承が脅かされることはしばしばあった。いわゆる五厄、隋代までの書物の五つの災厄に数えられるのは、始皇帝焚書、王莽打倒の反乱での国家蔵書の焼失、後漢末および西晋末の混乱、梁末の国家蔵書の焼失であるが、それはその後も繰り返された。一方で、漢の武帝を始め、皇帝権力による文献の体系的収集も四庫全書に至るまで行なわれたのだが、それが逆に、王朝滅亡時の戦乱による佚書を招くことにもなるわけだ。現存最古の目録「漢書」芸文志に載っている書目のうち、そのわずか4分の1、約150点が完全にか部分的にか残っているだけである(銭存訓「中国古代書籍史」、宇津木章・沢谷昭次・竹之内信子・広瀬洋子訳、法政大学出版局、1980、p.21)。
中国佚書史の中で、日本はおもしろい役を演じている。「遊仙窟」など、大陸で滅び日本で保存されていた本というのがいくつもある。また、それとは違う意味だが、「揚州十日記」「嘉定屠城紀略」のような清朝初期の満洲軍による虐殺の記録は、大陸では所持しているだけで死罪になる禁書だが、清に服属せぬ独立国の日本では平気で出版されていて、清朝末期の日本留学生は日本でこれらの本を読んで衝撃を受け、滅満興漢革命の意志を堅くした。
書物が残ることに関しては、偶然もあり、必然もある。発掘によらなくてはわからないメソポタミアやエジプトの古代と異なり、中国については非常に古い時代の記録が書物の形で連綿と伝えられてきた。中国の古代についてわれわれはかなりよく知っている気になるが、よく見てみれば、われわれが知っているのは魯の歴史や制度なのである。他の諸侯国にも記録はあったが、魯のもののみが残った。要するに孔子の祖国の記録であって、彼とその弟子たちが守ってきたからで、この保存は必然である。むろん失われるより残るほうがよく、一国からも全体は推し量れるが、しかしやはり魯だということは忘れてはならない。


なお、書物先進国中国では紀元前にすでに書店(書肆)が存在していた。大図書館・文書館はアッシリアの昔からあるが、識字層が広がれば写字生を使っての書物生産も商売になるわけで、ギリシャには前5世紀から書店があったという。しかししょせん写本であるから、ギリシャでも佚書は常態で、たとえば「アイスキュロスの劇は少くとも七十あった中からたゞの七つが、ソポクレースのは百十三の中からたゞの七つ、エウリピデースのは九十二の中からたゞの十八、アリストパネースのは少くとも四十三の中からたゞの十一が残ったにすぎないこと、そしてギリシアのその他のすべての悲劇・喜劇詩人の作品は何も残っていないことをわれわれは知っている。五世紀の終り頃にストバイウスが編纂した大抜萃集中には、湮滅した作品からの引用の方が伝存作品より取ったものより遥かに多い。(…)ざっと勘定したところ、ストバイオスの最初の三十部門では三百十四が現在なお残っている作品からの引用で、千百十五が湮滅したものからである」(ケニオン「古代の書物」、高津春繁訳、岩波新書、1953.p.30)。
アリストテレスを見ても、3世紀のディオゲネス・ラエルティオス「哲学者列伝」に挙げられているアリストテレスの著作目録中のかなりの部分が失われている。そのリストは完全ではないことは重要な著作である「形而上学」がそれに漏れていることからもわかるが、一方、失われたと思われていた諸都市国家の国制についての資料集のうち、「アテナイ人の国制」が19世紀末になってエジプトで発見されるなどということも起こった。ギリシャ文明を代表する大学者で、のちの西洋の哲学の基礎をなすビッグネームであるのに、キリスト教の時代には読まれなくなり、8・9世紀のアラビア人やルネサンス期(いわゆる12世紀ルネサンスを含む)のヨーロッパ人によって再発見されたのちに、今日まで続く地位を得たのである。
キリスト教化とはキリスト教著作の絶対的な尊重と「異教」著作の軽視蔑視であって、その意味で明らかな野蛮化、野蛮の過程である。そもそもヘレニズム文明から見れば、ユダヤ教バルバロイの寝言その一であり、キリスト教は寝言その二(ただ、この寝言にはギリシャ人自身が没入してしまい、みずからの過去の栄光のかなりの部分を打ち捨ててしまった)、イスラム教は寝言その三なのである。
古典古代の学問はアラビア経由で西欧に伝わった、などと言われることがよくある。ギリシャ哲学や科学の成果がシリアやバグダッドでシリア語・アラビア語に翻訳され、それがイベリア半島イスラムキリスト教ヨーロッパの接する地点であった)のトレドなどでヘブライ語を通じてラテン語にさらに訳されて、ヨーロッパの学術復興をうながした、という歴史である(その際、ネストリウス派キリスト教徒やユダヤ教徒が大きな役割を果たしている)。しかし、その言い方にはいくらか意外の念がこめられているのを感じないわけにはいかない。先進ヨーロッパと後進アラビア、文明ヨーロッパと野蛮アラビア、という近代の眼差しからくる意外さである。だが、古典古代文明と相容れないキリスト教なんぞを信奉している土地、武力による成り上がり(ローマ人)と蛮族の土地である西ローマで忘れられたのはごく自然なことであって、故地である東ローマ帝国ビザンツ帝国)の領域内でそれが保たれたのもまたごく自然だ。ヘレニズムの中心はギリシャ本土およびアレクサンドリアアナトリア、シリアの地域で、つまり東ローマ帝国領である。バビロニアはヘレニズムから見れば周縁部だが、文明一般からは中心だ。このうち、ギリシャ本土とアナトリアを除いてはイスラムの勃興によってイスラム帝国領となった。ギリシャの遺産がアラビア人の手に渡り、ヨーロッパ人の手に残らないことに何らの不思議もない。中心から周縁へ文化は流れる。いわゆる12世紀ルネサンスは古代の学問がアラビア文化からイベリア経由でヨーロッパに流れ込んだ現象、ルネサンスは(オスマン帝国によって滅ぼされた)ビザンツから流れ込んだ現象と捉えるのが実態に即している。


古典を読め、と言う。古くから読み継がれてきた本には価値があるに違いない。教えられること多いのは確かだと思う。そのことに異存はない。だが、「古典を読む」ことに関しては、実のところわれわれは自文化の古典しか読めないのだ、という事実がある。
そこそこ教養のある日本人が実際に読んでいる「古典」とは何か。四書五経諸子百家の書や史記などの史書、日本の古代中世文学、仏典、聖書、ギリシャ・ローマの哲学書や歴史書叙事詩・劇作、ルネサンス期以降の西欧文学、啓蒙期以降の西欧哲学、まあこんなところだろうが、一見して非常に偏っているのがわかる。簡単に言えば、ヨーロッパ人が「古典」と考えるものと、明治以前の日本人が「古典」と考えていたものの足し合わせにすぎない。日本人たるわれわれの現在の文明がそういうものであり、だからわれわれの「古典」もそういうものであるわけだ。東亜文明と西欧文明だけによっているということで、それは世界の全体ではありえない。ま、西欧文明しか知らない欧米人よりずっとましではあるのだが。単純に倍だからね。
それ以外にももちろん「古典」はある。だが、インドやイスラムの人々が古典としているものをわれわれはよく知らない、ヴェーダコーラン、そのほかにマハーバーラタラーマーヤナ、カーリダーサの作品、ウパニシャッド、また千一夜物語、王書などは、邦訳もあり読んでいる人もいようが、「必読」とされているわけではないし(上記東亜西欧古典を知らなければ知識人として軽侮を招くおそれがあるが、こちらのほうは読んでなくとも何ら欠格条件にはならず、ただオプションであるだけだ)、これら以外についてはほぼ無知である。
古典について言えるのは、「生きている」ものしか読めないということだ。まさか写本を読むわけではあるまいし、読むのはいずれ校訂された刊本である。つまりまず校訂を経ていて、さらに、現代と大いに異なる古い時代の書であるから、注釈や解説が必要だ。外国語のものの場合、あるいは必要なら古語の場合も、翻訳されているわけで、「古典」はそのようなさまざまな「加工」を通して提供されているのだということを忘れてはならない。そのような労力がつぎこまれるのは、その書を読むことをその社会が奨励しているからである。つまり、古典に親しむというのは、所属する社会がよしとするものをよしとする追認の態度である、ということだ。
自分の社会が奨励する「古典」はもちろん読むとして、それ以外の「古典」、インドにはインドの、イスラムにはイスラムの「古典」があり、それらについても読めるなら読めばいい。だが、話はそこではないのだ。無文字段階が長く続いていた文化には読むべき自文化の「古典」が乏しく、他文化の(多くの場合植民地宗主国の文化の)「古典」を読むことをそれらの宗主国式に教育された教師に奨励されるという事情が一方であり、みずからの「古典」を堂々と保持している文明についても、生き残っている時点で「勝者」であり、彼らについての知見を広げるのは結局勝者の間のやりとりだ。言いたいのは、敗者、「失われた世界」について、われわれは何を知っているだろうか、ということである。
勝者は敗者の書物を滅ぼす。ヨーロッパのキリスト教徒はイスラムによる異教の図書の破却を非難するが(「もしその本がコーランに反せば、異端である。焼くべきだ。もしコーランに同じなら、無用である。焼くべきだ」)、パウロ焚書をしたと聖書に書いてある(「使徒行伝」)のを想起すべきだろう。パウロによる布教を受け入れたエフェソスの人々は、改宗の熱狂により所持していた魔術の本を焼き捨てた。それらはあわせて銀5万もの値打ちがあったという。「魔術」と言っているが、当時の魔術は占星術をはじめとする当時の科学を含むのである。キリスト教によって滅ぼされなかった場合、その「魔術書」のうちから「古典」が現われなかったと誰に言えよう。かれを批判しこれを称揚するのは、その人がこちら側に属していることをしか意味しない。始皇帝ナチス焚書が非難されるのは彼らが敗者であるからで、パウロが褒めたたえられるのは勝者であるからだ。イデオロギーのなすわざとして何の違いもない。
古典は読むべきだ。だが、読むときに「古典」をめぐるこういう事情もわきまえておくべきだろう。


歴史なんかは徹底的に疑わなければならない。
アレクサンドロス大王というのは破壊と掠奪をこととする征服者なのだが、英雄の光輝にのみつつまれて、賞賛の声のみを聞く。権力の栄華で堕落する前に、若くして華々しい成功のうちに死んだからでもあり、賛美者に恵まれているからでもある。滅ぼされたペルシャの側から見ないからである。ギリシャ人はもちろん自分たちの英雄を賛美する。そのギリシャからローマ、西欧へと続く文明は歴史記録に熱心で、われわれの教えられる歴史のかなりの部分は彼らの記録によって書かれている。その側にずっと属しつづけたアレクサンドロスが英雄でありつづけるのは当然だ。
相手側、ペルシャ帝国の建設者キュロスは、同じく世界帝国を築いた大征服者で、より慈悲深かったと思われるのに、その栄光は十分に賞賛されていない。アレクサンドロスに比べると影が薄い。それは、のちに彼の帝国が滅びたことにもいくらかはよるが、主にペルシャが歴史記録に熱心でなかったことによる。ペルシャ帝国については碑文以外の記録に乏しく、ギリシャヘロドトスの書が主要な史料という状態では、実態に即したペルシャ像が歴史の中に座を占められないのもやむをえないのだが、正しいことではない。
チンギス・ハーンはもっぱら破壊と虐殺をしてまわった無慈悲残虐な征服者というイメージが強い。チムールも破壊虐殺では引けを取るわけではないが(征服というものはたいてい破壊と虐殺を伴うから、大征服者にこれはつきものだ)、そのイメージは決して悪くない。中央アジア西アジアで暴れまわっただけで、チンギス・ハーンに比べれば規模が小さいということもあるけれども、もちろんそんなことが理由ではない。歴史記録に執心する西欧文明と東亜文明が攻撃されなかったからだ。西欧にしてみれば、直接の敵で脅威であったオスマン帝国を打ちひしいでくれたわけで、「敵の敵」で味方である。最晩年、征明の軍を起こす直前に死んだため、明とも直接事を構えなかった。これが征明に成功していたら、評価も違っていただろう。モンゴル軍は、中国はもとより東欧までも侵掠していたので、両文明は貶め罵る言辞を記録に残したのである。ユーラシアの歴史はほぼこの両文明の記録によって書かれるのだから、イメージは悪くなるに決まっている。遊牧民と定住民の違いもあろう。チンギス・ハーンは純然たる遊牧民であった。移動を常とする遊牧民は、そもそも記録や書記の作業から縁遠く、それはほぼ定住者の専管である。首都サマルカンドを飾り立てるのに熱心だった定住者のチムールは、この点でも有利だった。
歴史について考える場合、歴史は勝者によって書かれるというのが第一の、記録に熱心な文明の史料によって書かれるというのが第二の与件としてあることを知っておかなければならない。歴史というものは根本的に偏向があり、歪んでいるのである。
文明の連続という点では、ギリシャとローマは連続した一体と見なしうるとしても、ローマとヨーロッパの間には切断があって、ローマ帝国の滅亡キリスト教化というのが切断線になるわけだが、滅亡前にキリスト教ローマというのが成立しており、またラテン語使用という連続線もあって、継続性も認められる。客観的には「異教」的ギリシャ・ローマと西欧は別の文明と見られるが、西欧人の自己認識にそれはなく、みずからをギリシャ・ローマ文明の正統の後継者を思っているだろう。
中国については、前に見たとおり殷周以降一貫してひとつの文明を成している。インダス文明以後のインドもひとつの文明と言ってよく、イスラムの侵入によってもそれが破られたわけではない。
それに対して、西アジア北アフリカの文明史は何度も断絶している。アレクサンドロスの征服(つまりヘレニズム)とイスラムの征服によるふたつの大きな切断がある。ペルシャ帝国、キリスト教は切断とは言えないが、それぞれ古代セム族帝国・ヘレニズムに独自の影を入れた。アルタイ系遊牧民の侵入も影響を与えている。言語と文字と宗教がこんなに交替した地域はほかにない。特に言語と文字の交替は伝承の上の大問題で、同じ言語同じ文字であっても写本は絶えず書き継がれることで世に残るのに、ここではその上さらに繰り返し翻訳や転写が行なわれなければならず、それができなければ断絶することになり、実際多くのものが消えた。そういう事情が深くこの地域の文明史を規定している。要するに、西アジア文明史は失われつづけていたのである。言語のみならず文字も変わるので、翻訳や再述によって伝承されないものは読まれなくなり埋もれていった。
古代西アジア史は、聖書学、旧約聖書史料批判の領域であった。西アジア古代史の伝存する有力な史料は、ヘロドトスと岩壁の碑文などを除けば、ほぼ旧約聖書のみであったからだ。ヘロドトスユダヤキリスト教、つまり勝者によって歴史は書かれるのだということを如実に示す例である。それ以外の史料は近代ヨーロッパの考古学的発掘によって土の中から掘り起こされた。聖書のノアの洪水に類似する話がシュメール以来この地域には数々あって、その考古学的発見がヨーロッパでセンセーションを巻き起こすのだが、あの洪水伝説にしても、説話モチーフの伝播という共時的視点で捉えるのはまったく不十分で、言語や文字の、つまり文明の交替にともなって、あるいは翻訳され、あるいは再述されてきた同一の物語の変奏と考えるほうが適当であろう。
さらに。近代まで文字を持たなかった無文字社会には歴史はない。彼らの歴史を再構成しようと、他民族による記録や口伝えの伝承や発掘成果などをかきあつめて手を尽くしているが、根本的な無理はなかなか埋めがたい。当時文字をもたなかった倭人の国邪馬台国について、正史である「三国志」の記載を信じると、その位置はグアム島あたりになってしまうし、洛陽並みの人口があったことになる。むろん誤記だとすぐにわかるが、では邪馬台国の位置はどこかということで、終わりのない論争が繰り広げられているのを見ればいい。また、その国名も「邪馬壹(一)」と記されている。これは「邪馬臺(台)」の誤記だというのが定説だが、「邪馬一」だとする説もある。史料がこれひとつしかなく、それが誤りを含んでいるので、諸説出てくるわけだ。われわれに身近なこの例をもって、他も推し量れよう。
有文字社会でも、近代に至るまで一般庶民はほとんど無筆であった。あの厖大な書籍の山をこしらえた漢民族にしてからが、あれを書いたのは読書人・士大夫層で、彼らに特有の限られた視角から記されたものばかり、それ以外の手になる書など何ほどもない。他の社会に属する者の書いた記録は、一面で同じ社会の者にはない客観性も見られるが、不正確さや誤解曲解はまぬがれないし、偏見や為にする記述が交じり、偏向しているのが普通だ。そんなもので民衆の歴史や想念がわかるはずはないと考えて興ったのが口承の民間伝承を資料とする民俗学で、欧米人が未開人を研究する民族学とは似ていながら根底のところで異なる学問であるが、相補うものでもある。いわゆる「歴史」によっては、真の歴史はわかるはずがないのだ。わからない、と見据えたところから、すべては始まる。「歴史はもと我々の足跡の如く、無意識に後に残されたものではなかった。孔子の筆になるという「春秋」の昔から、筆者が是ぞ伝うるに足ると認めた事実だけを竹帛に垂れたのが歴史である。従うて其内容の如きは、即ち史官の判断選択に依るより他はなかったのである。史官は最初から歴史の一部を無歴史にしようとする意図を持って居たともいえるのである」。「今日の歴史の閑却している部分に、我々が知りたい歴史、即ち自分の謂う史外史が存するのである」(「民間伝承論」)という柳田国男の言が鋭く指摘するとおりである。