留学のいろいろ (9)

伊東忠太の「留学」辞令
建築家・建築史家の伊東忠太(1867−1954)は、築地本願寺平安神宮一橋大学兼松講堂などの設計をしたことで知られるが、明治35年(1902)3月から38年(1905)6月にかけて、奇妙な大「留学」をした。
「私は大学院を兎に角一と先づ卒業したが、是非とも少くとも三ヶ年中国から埃及希臘に至る迄、その間の諸邦を訪ひ、日本建築史を完成せねばならぬと決心して、時の工科大学長に懇請して見たが、学長は頑として認許されず、曰く『凡そ外国留学の規則は欧米に限る事である、中国より極西亜細亜迄の諸国留学は未だ曾て無き例である』と申さる。私は『外国留学は欧米に限るとは如何と思ふ、何処の邦でも必要あらば行いて留学するに何の不都合ありや』と質問し哀訴したれども承諾されず、数年の後明治三十四年に至つて始めて中国・印度・土耳古・合せて三ヶ年間の留学を命ずる辞令を頂きたるが、同時に『但し欧米諸国を経由して帰朝すべし』との命令を受けた」(伊東a:2)。「欧米諸国を経由して帰朝すべし」の但し書きはいかにも官僚的な辻褄合わせであるが、こんな一文を加える必要があったわけだ。欧米留学はすでに厳として確立した制度であり、その2年前に出発した漱石は別に希望もせぬのにイギリスへ行かされ、生涯で「もっとも不愉快の二年」を過ごさせられた。建築史研究のためにいかにアジア諸国の実地調査が必要だとて、それは「欧米経由」の装いをせずには受け入れられなかった。笑い話めくこの一条も、そんな施しをした上で願いを聞き届けてくれた度量を謝すべきだろう。
その行程は、北京から山西に行き、雲崗石窟を「発見」、五台山に登り、河南を経て西安、蜀の桟道を越えて成都重慶、漢口、湖南から貴州、雲南を通ってビルマミャンマー)へ抜け、カルカッタから北インドを回りボンベイへ。アジャンタ、エローラを見てカシミールまで行き、ガンダーラ地方へ。さらに南インド、セイロンの古跡、ハンピまで見ている。アフガニスタンには入れないので、船でトルコへ。小アジア各地を見たあとエジプト、エルサレム、シリアを経てコンスタンチノープルに戻り、ギリシア、イタリア、英独仏米を通って帰朝した。留学というより一大調査旅行と言うべきだが、これをしも「留学」とするのは留学にとっての快事である。一方で非常な歓待を受けることもありながら、南京虫に食われ、悪童に石を投げられ、護衛に金を強請され、ほとんど探検にも等しい「西遊六万哩」の大旅行だ。その意味で、一方で留学に対する批評であり、他方探検に対する批評ともなっている。
名高い大谷探検隊の行跡とは、中央アジア部分を除いて重なっている。大谷探検隊中央アジア探検のみが云々されるし、実際それがこの一連のミッションの最大の貢献であるのだが、実はインド・ビルマ・清国を含む大調査行であった。いわゆる「探検」と大旅行の間の距離はわずかしかない。第一次探検隊はロシア領西トルキスタンのブハラ駅で井上雅二という日本人に会っているし、中国領東トルキスタンでも電報や送金が受け取れた。「探検」と見なされることの多い慧海らのチベット入りも、慧海をラサで待っていたのが日本製のマッチであったように、商人・使節・巡礼などが行き交う道の上にラサもあったわけで、単にその交通が繁くなく難儀なだけのこと。成都で知府に「自分は不日官命を以て入蔵するが、貴君若し同行の意があるならば、便宜取計らつても宜しい、但貴君は中国人に変装し、万事中国の風俗習慣に従ふことが絶対必要である」、あるいはカシミールの文部大臣に、もしラダック(カシミールチベット人地域)に行くなら「案内者護衛兵等を差出し、少しも不自由のないように取計らつて進ぜる」などと言われたという(伊東a:149f.)。もちろんそれは可能性と言うばかりで、もしその申し出に乗っても実際実現できたかどうかわからないが(食言、遅延、朝令暮改等々はこうした企画の標準装備である)、人外境に行くわけでなし、道はあるし、その道が他愛もなく開くこともままあるだろう。「探検だ探検だ、不惜身命」と力んでいる人の前にこそ開かれない、ということなのかもしれない。ただし、このような保護された形の旅では、見聞に制約が多くなるだろうけれども。
人の歩かぬ砂漠や南極北極を踏査するならたしかに探検だろう。だが、中央アジアだろうがチベットだろうが、人は行き来しているのであって、地元民の行き交う道を歩くだけなら探検とは言えない。その土地の人の注意せぬものに科学の光を当て、調査報告を行なってやっと探検になる、ということである。その意味では、報告もきちんと行なった伊東のこれは、本人自身旅行であると思っているが、「探検」と旅行の間の線がきわめてあいまいなことを示している。隊伍を組んで洋装備洋習俗で押し入るのが「探検」なのかもしれない。いや、まじめにそう思う。
能海寛の死をめぐってはひとつ伝説があって、彼が殺された宿の壁に大日本帝国島根県石見国那珂郡波佐村出身能海寛と記し、「残念ながら此処にて土人の為めせつがいせらる」という意味の歌が書いてあったというものだ。それを伝えたのは井戸川辰三大尉ともいうし、伊東忠太であるともいう。事実は井戸川が大理の旅宿に能海の筆と思われる「大丈夫志を立つ何事か成らざらん」というような歌が書いてあるのを見た話が訛伝したものらしい。また、貴州と雲南の境あたりで伊東は大谷探検隊支隊の一員でマンダレーから北上中の野村礼譲、茂野純一にばったり遇っている。これらのことは、ひとつにはそのころ日本人がよく大陸を歩き回っていたことを、もうひとつには道は交差するものだということを示している。
伊東は正しい明治紳士で、文明を尊敬し、野蛮をきっぱりと見下していた。中国人とインド人、トルコ人は共通点が多いと指摘している。つまり、三者とも野蛮人だということである。たとえば、印度人と支那人と似ている点が大分あるとして、貪欲、迷信、偽善、懶惰、不潔、喧騒を挙げる(伊東b:444f.)。
しかし、奇異な習慣でも自分が納得できたことに対しては率直にその利を認めている。「印度で某印度紳士の宅に招待され、純印度式の御馳走になつたとき、我輩は『印度人が手掴みで食事をする風は如何にも原始的で感心できない』と云つた処、その紳士は極めて真面目な態度で『それは非常な誤解である。凡そ食物は味覚ばかりで食ふのではなく、必ず嗅覚を以てその美味い香気を嗅ぎつゝ食ふが、更に視覚が手伝つてその美味さうな形や色が味を助ける。我輩等は又その上に触覚を使つて美味さを助成するのである。指先で食物に触れると、先づ一種の美味さを感ずるのである。これを知らないで可惜触覚を利用せずに食ふ人は真に気の毒である』と逆襲した。/我輩は之には一言もなく降参したのである。成程菓子や果実や鮨子などは、掴んで食はなければ美味くない。して見ると、如何なる食物でも手掴みで食ふ方が美味いのであらう、たゞそれは習慣の問題である。又聴覚も不知不識手伝つて居ることは明白である。即ち吾人が飲食する時には五官が悉く活動して居るのである。吾人が印度人の手掴みを笑ふのは余程間違つて居ると思ふ」(伊東a: 13f.)。そして、求めに応じて日本式の食べ方を見せてやると、会席者は驚異の目を見張って、翌日の新聞に「彼の食事の仕方こそは世にも不思議なれ、二本の小さい棒を片手に操りて、如何なる種類の食物をもこれを口に運ぶことの巧妙さは、吾人が手を持てするに比して決して遜色ない」と書かれた。よき文化交流である。
また出すほうでは、「甚だ尾籠な話で恐縮であるが、印度人は使用の後、左手を用ゐて局部を水で洗ふ習慣がある。我輩は総て印度の習慣には従て見たが、これ斗りは出来なかつた。『日本人は潔癖だからこれは出来ない』と云ふと印度人は承知しない。『日本人は使用の後紙を用ゆると云ふが、紙で拭いた位で清潔になると思ふのか、吾人は水で洗ふから徹底的に清められる、紙でこすり放しにして置くと思ふと日本人の不潔さが想はれる』と逆襲して来たので我輩も苦笑を禁じ得なかつた。実際、日本人は潔癖だと云ふけれども、よく考へて見ると随分不潔癖な所もある様だ」(同前:15)。ウォッシュレットのできた今では、インド式の勝利かもしれない。なお、食事用便の習慣はトルコまでずっと同じだ。
トルコ人について、自分の従僕の例を挙げ、「彼は君士坦丁堡の薬種屋の亭主で、九尺間口の店の前に穿山甲や人魚の干物などをぶら下げ、怪しい黒焼と草根木皮とを売つて兎も角も別に困らずに暮してゐる気軽な男である。(・・・) 彼の性質の内で土耳其人に共通な特色と思はれる点を二三数へて見よう。/彼は貧乏な癖に銭勘定は至極無頓著で、不経済なことばかりしてゐた。これは凡て土耳其人に共通した性質の一つである。彼の楽は大抵毎夜酒を飲んで芝居を見て夜を更かすことである。これは日本の寄席の類で、多くは女が音曲歌舞を奏する、頗る日本的の調子のものである。席料は大抵二重銭位だ。土耳其人の音曲を好むことは格外である。誰でも小唄をよく唄ふ。それから彼の癖は乞食に銭をやることである。乞食と見れば必ず欠かさずに銭をやる、或る時は遠くに乞食のゐるのを見つけて走つて行つて銭をやつたが、彼はこれを以て善行であると誤信してゐるらしい。土耳其人は一般に乞食を優遇するから乞食の絶える気遣ひはない。(・・・) 未開国の従僕の通性たる主人の物品を勝手に使用すること、主人の飲食物を竊み喰ひすること、買物の度にいくらか誤魔化すこと、主人を利用して土人に向つて我儘を振舞ふこと、今一歩進むと主人の物品を盗むこと等は避くべからざることだから、たゞ油断なく監督するより外はない。イスマイルは盗みだけはしないが其の他のことはみな行つた。而も彼は珍しい正直者であるのだ」(伊東b:572f.)と言う。だが、飲酒や寄席通いについては日本の庶民にも見られる性質で、喜捨については引用者は断然美徳だと思うのだが、プロテスタンティズムの倫理には反するかもしれない。