留学のいろいろ (4)

私的に学ぶ
さて、西周らに戻ると、オランダに到着した幕府留学生一行は、ハーグとライデンの二手に分かれた。「ハーグに居つた人々では内田・榎本・沢・田口は和蘭の海軍大尉ヂノウ(Dinoux)に就いて船具・砲術・運用の諸科を学び、榎本は傍ら海軍機関大監ホイゲンスに就き蒸気学、沢は海軍局軍務局長海軍大佐フレメリーに頼んで其局員に就いて大砲・小銃の事、火薬製造法を質し、伊東・林の両人は先づポンペに就いて理学、化学、人身窮理学の伝習を受け、理・化学の講義には榎本も私も出席して聴講した。伊東・林は幾干もなくハーグの近郊ニュウウェジップの海軍鎮守府病院に入つて一般の医学修行を始めた。
津田・西の両人は其後も永く和蘭学問の淵叢たるライデンに留つて、其地の大学教授フィッセリング(Prof. Vissering)に従ひ法政・経済の学を学んだ。フィッセリングの教授は頗る懇切で要を得、両人は毎週二度案下に侍して口授を筆記すること二年、慶応元乙丑年(一八六五年)十月を以て其業を終へて私たちに先立ち其月十四日(一八六五年十二月一日)ライデンを発し、巴里を経、マルセイユから仏国郵船に乗つてスエズを過ぎ帰朝の途に就いた。横浜に帰着したのは歳も正に暮れんとする十二月二十八日(陽暦二月十三日)であつたといふ。後年私の聞く所によれば西・津田が伝へたフィッセリングの法律・経済の学は、実に我日本に於ける其学問の出発点であつて今日の斐然たる我国の斯学に就いては忘る可らざるものであるとのことである」(赤松:168f.)。
西周津田真道がフィッセリングについて学んだのは性法学(Naturregt)・万国公法学(Volkenregt)・国法学(Staatsregt)・経済学(Staatshuishoudkunde)・政表学(Statistiek)で、まず3ヶ月オランダ語を学んだあと、彼の家に通って講義を受けたのである。
なお、最初の留学でもあるし、チョンマゲ刀の旧幕時代であるから、明治以後には絶えてない苦労もあった。「ハーグに移つた内田始め一同は語学の教師を迎へて和蘭語を始めとして普通学の教授を受けたが、和蘭語に就いては私は専ら発音の匡正に実地の練習を積むことが緊要で、それには上流階級の紳士の家族と交際するに不如といふので、ホフマンやポンペが紹介して呉れて国会議員・市会議員・大学教授などといふ知識階級の人の所へ午餐とか茶とかに招かれて屡々行つた。主人の側では日本の服装で来て呉れとの望みが多いので、何時も例の紋付・打裂羽織・裁付袴に大小を佩し草履穿きで出掛けた。刀身は常に手入れを怠らないで所望に応じては鞘を払ふて示すだけの用意はして居つた。到る所皆親切に歓待して呉れて異境に在る心淋しさを忘るゝ愉快を味つた。招く方では相客に親類・縁者を招待する者が多かつたが、半分は珍しい東洋人見物といふ心持で同席したのであつた。
私たちは江戸を出発する時に幕府に誓詞を差出した其中に、御国風を守ることゝいふ一項があつたから、扮装は全然純日本式で押通して来たが、到着した当時は上陸地から至る所見物の群衆に囲繞され、旅館に居を定めた後も市街へ出れば必ず見物人に難まされ、常に警官の保護を受けなければ買物も容易でなく、当分は市民の目標となつてゐた為めに流行唄まで出来て無邪気な子供に唄はれる始末で、之には殆ど当惑したが、和蘭海軍卿カッテンデーキからの忠告もあつて遂に一同兜を脱いで洋服に更へることにした。併し頭髪だけは何時日本へ呼戻されるか判らないので刈る訳にも行かず、私は月代を生して前の方から見ると西洋風の斬髪で後ろの方には髷を付けて帽子で之を隠してゐた。此点では坊主頭であつた医師の伊東・林の両人は忽ち頭から爪先まで欧羅巴風に改まつたので皆から羨ましがられた」(赤松:163f.)。
旅行なら丁髷に羽織袴で押し通すこともできようが、留学は長期の滞在であるから、そういうわけにはいかない。彼らのオランダ到着が1863年、御一新が1868年、またたく間に文明開化の散切り頭になったのでこんな苦労は意識にのぼることもないが、それは日本に来た清国留学生が弁髪のためした苦労と同じだということは知っておいたほうがいい。日本の悪童どもが弁髪の清国人をチャンチャン坊主と囃すのを見たら、ヨーロッパの悪童に囃される風采正しい旗本御家人を思わなければならないということだ。こちらのほうは帯刀だから、丸腰の弁髪頭にはなお味方せねばならぬ。


留学というと学校に入ることをすぐ考えるが、学校は留学に特に関係ない。学位その他の証書が必要ならば学校によらなければならないが、それが条件でなければ、学校に拘泥することはない。学ぶには師がいれば足りる。独学だってできる。
夏目漱石(1867−1916)が文部省から英国留学の命を受けたのは明治33年(1900)である。このころにはもう留学制度は自動装置のようになっていて、本人が望む望まぬにかかわらず行かされる。英文学専攻なら行くのは当然とも言えるが、漱石自身はこう述懐する。「ロンドンに住み暮らしたる二年はもっとも不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼群に伍する一匹のむく犬のごとく、あわれなる生活を営みたり」(「文学論」序。夏目:16)。「自己の意思をもってすれば、余は生涯英国の地に一歩もわが足を踏み入るることなかるべし」(同前:17)。
留学の成果の集大成であり、心血はそそがれているが誰も読まぬあの「文学論」の序文に、自分自身で留学の様子をまとめている。最初はオックスフォードかケンブリッジに学ぼうかと思って、ケンブリッジの知人を訪ねてその大学を下見してみると、そこには数名日本人留学生がいたが、「彼等は皆紳商の子弟にしていわゆるゼントルマンたるの資格を作るため、年々数千金を費やすことを確め得たり。余が政府より受る学費は年に千八百円にすぎざれば、この金額にては、すべてが金力に支配せらるる地にあって、彼等と同等に振舞わんことは思いも寄らず。振舞わねばかの土の青年に接触して、いわゆる紳士の気風を窺うことさえ叶わず、たとい交際を謝して、ただ適宜の講義を聞くだけにても給与の金額にては支えがたきを知る。(…) これを聞く、彼等は午前に一二時間の講義に出席し、昼食後は戸外の運動に二三時を消し、茶の刻限には相互を訪問し、夕食にはコレジに行きて大衆と会食すと。余は費用の点において、時間の点において、時間の点において、また性格の点において、とうていこれ等紳士の挙動を学ぶあたわざるを知って、かの地に留まるの念を永久に断てり」(同前:7f.)。いわゆるオックスブリッジが英国紳士(大英帝国エリート)の養成所であることを知ったわけで、そういうエスタブリッシュメントたらんとする希望も、また性格的適合性もない夏目金之助には無用のところだった。敵さんのほうからもそんな者は無用で、白洲次郎のような人が求め求められる場所である。
それでロンドンに住むこととし、まず「大学に赴き、現代文学史の講義を聞きたり。また個人として、私に教師を探り得て随意に不審を質すの便を開けり。/大学の講義は三四カ月にして已めたり。予期の興味も知識をも得るあたわざりしがためなり。私宅教師のほうへは約一年ほど通いたりと記憶す」(同前:9)。そして、「余は下宿に立て籠りたり。いっさいの文学書を行李の底に収めたり。文学書を読んで文学のいかなるものかを知らんとするは血をもって血を洗うがごとき手段たるを信じたればなり」(同前:12)。つまり学校へ通わず、本を買いこんでそれを読破しノートを取る自学勉強法を選んだわけだ。
一方で、定期的にクレイグというシェイクスピア学者を訪ねて、文学について質問をした。「もっとも何を教えてくれるのか分らない。聞いていると、先生の好きな所へ連れて行って、決して帰してくれない。そうしてその好きな所が、時候の変わり目や、天気都合でいろいろに変化する。時によると昨日と今日で両極へ引っ越しをすることさえある。わるく言えば、また出鱈目で、よく評すると文学上の座談をしてくれるのだが、今になって考えてみると、一回七志[シリング]ぐらいで纏った規則正しい講義などのできるわけのものではないのだから、これは先生のほうがもっともなので、それを不平に考えた自分は馬鹿なのである。もっとも先生の頭も、その髯の代表するごとく、少しは乱雑に傾いていたようでもあったから、むしろ報酬の値上げをして、えらい講義をしてもらわないほうが可かったかもしれない」(「クレイグ先生」)。
漱石一流のユーモアある才筆で描かれるこの人のさまをもっと見てみよう。
「先生はアイルランドの人で言葉がすこぶる分らない。少し焦き込んでくると、東京者が薩摩人と喧嘩をした時くらいにむずかしくなる。それでたいへん疎忽しい非常な焦き込み屋なんだから、自分は事が面倒になると、運を天に任せて先生の顔だけ見ていた」(同)。
「先生の得意なのは詩であった。詩を読むときには顔から肩の辺が陽炎のように振動する。― 嘘じゃない。まったく振動した。その代わり自分に読んでくれるのではなくって、自分が一人で読んで楽しむことに帰着してしまうからつまりはこっちの損になる」(同)。
「先生は自分を小供のように考えていた。君こういうことを知ってるか、ああいうことが分ってるかなどと愚にも付かない事をたびたび質問された。かと思うと、突然えらい問題を提出して急に同輩扱いに飛び移ることがある。いつか自分の前でワトソンの詩を読んで、これはシェレーに似たところがあると言う人と、まったく違っていると言う人とあるが、君はどう思うと聞かれた。どう思うたって、自分には西洋の詩が、まず目に訴えて、しかるのち耳を通過しなければまるで分らないのである。そこで好い加減な挨拶をした。シェレーに似ているほうだったか、似ていないほうだったか、今では忘れてしまった。が可笑しいことに、先生はその時例の膝を叩いて僕もそう思うと言われたので、大いに恐縮した」(同)。
クレイグ先生は独身で(当然)、身の回りの世話は家政婦がしていたのだろう。「先生は疎忽しいから、自分の本などをよく置き違える。そうしてそれが見当たらないと、大いに焦き込んで、台所にいる婆さんを、ぼやでも起こったように、仰山な声をして呼びたてる。すると例の婆さんが、これも仰山な顔をして客間にあらわれて来る。
「お、おれの『ウォーズウォース』はどこへ遣った」
婆さんは依然として驚いた目を皿のようにして一応書棚を見回しているが、いくら驚いてもはなはだたしかなもので、すぐに、「ウォーズウォース」を見付け出す。そうして、「ヒヤ・サー」と言って、いささかたしなめるように先生の前に突き付ける。先生はそれを引ったくるように受け取って、二本の指で汚い表紙をぴしゃぴしゃ敲きながら、君、ウォーズウォースが… と遣りだす。婆さんはますます驚いた目をして台所へ退って行く。先生は二分も三分も「ウォーズウォース」を敲いている。そうしてせっかく捜してもらって「ウォーズウォース」をついに開けずにしまう」(同)。これはまったく小説や舞台劇の一情景だ。
この人は沙翁字典の編纂を期しており、そのためウェールズの大学の招きを蹴り、大英博物館に通って考究を続けるためロンドンで暮らしていたのである。だが、「日本へ帰って二年ほどしたら、新着の文芸雑誌にクレイグ氏が死んだという記事が出た。沙翁の専門学者であるということが二、三行書き加えてあっただけである。自分はその時雑誌を下へ置いて、あの字引はついに完成されずに、反故になってしまったのかと考えた」(同)。
これは帰国後、文名上がり小説家として立ったあとに書いたものだから、自虐を交えつつも暗くはない。ロンドン滞在中の手紙にある自画像は、ユーモアがありながら苦い。「それからステッキでも振り回してその辺を散歩するのである。向こうへ出てみると逢う奴も逢う奴も皆厭に背が高い。おまけに愛嬌のない顔ばかりだ。こんな国ではちっと人間の背に税をかけたら少しは倹約した小さな動物ができるだろうと考えるが、それはいわゆる負け惜しみの減らず口という奴で、公平なところが向こうのほうがどうしても立派だ。なんとなく自分が肩身の狭い心持ちがする。向こうから人間並み外れた低い奴が来た。占めたと思ってすれ違ってみると自分より二寸ばかり高い。こんどは向こうから妙な顔色をした一寸法師が来たなと思うと、これすなわち乃公自身の影が姿見に写ったのである。不得已苦笑いをすると向こうでも苦笑いをする。これは理の当然だ」(「倫敦日記」)。
どう見ても健康的でない。事実「英国人は余を目して神経衰弱といえり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりといえるよし」(夏目:18)。そんな噂が立つほどになったころ、明治35年(1902)に帰朝した。こういう留学も「三等国」から「一等国」への留学の一面である。
留学は孤独なものである。同胞とももちろん交際するけれども(自国にいるより親密な交際ができるので、結果友人も多くなったりする)、周囲を囲むのは異邦人だ。大なり小なり留学生が感じる孤独の毒を、漱石は飲みすぎたかもしれない。


独学者の代表例は、何といっても南方熊楠である。大学予備門で同期だったほか、「方丈記」の英訳をしたという点でも漱石と共通する。彼の留学はまさに漱石と行き違いで、1900年、熊楠の乗った帰国の船は漱石の渡欧の船とインド洋ですれ違っている。
足芸人を通じて骨董商を知り、そこから大英博物館のフランクスに紹介されたのは前述の通りで、「その時ちょうど、『ネーチュール』(御承知通り英国で第一の週間科学雑誌)に、天文学上の問題を出せし者ありしが、誰も答うるものなかりしを小生一見して、下宿の老婆に字書一冊を借る。きわめて損じた本でAからQまであって、RよりZまで全く欠けたり。小生その字書を手にして答文を草し、編輯人に送りしに、たちまち『ネーチュール』に掲載されて、『タイムス』以下諸新紙に批評出で大いに名を挙げ、川瀬真孝子(当時の在英公使)より招待されたることあるもことわりし。これは小生見るかげもなき風してさまよいおるうちは日本人一人として相手にするものなかりしに、右の答文で名が多少出ると招待などはまことに眼の明らかならぬ者かなと憤りしゆえなり(小生はこの文出でし翌週に当時開き立てのインペリヤル・インスチチュートより夜宴に招かれたるなり)」(履歴書。南方b:13)。そして、「その答文の校正ずりを手にして、乞食もあきるるような垢じみたるフロックコートでフランクスを訪ねしに(この人は『大英百科全書』一一板にその伝ありて、英国にかかる豪富にして好学の人ありしは幸いなり、と記しあり)、少しも小生の服装などを気にかける体なく、件の印刷文を校正しくれたる上、(…) 大いなる銀器に鵝を丸煮にしたるを出して前に据え、みずから庖丁してその肝をおり出し、小生を饗せられし。英国学士会員の耆宿にして諸大学の大博士号をいやが上にも持ちたるこの七十近き老人が、生処も知れず、たとい知れたところが、和歌山の小さき鍋屋の悴と生まれたものが、何たる資金も学校席位も持たぬ、まるで孤児院出の小僧ごとき当時二十六歳の小生を、かくまで好遇されたるは全く異数のことで、今日始めて学問の尊きを知ると小生思い申し候。それより、この人の手引きで(他の日本人とかわり、日本公使館などの世話を経ずに)ただちに大英博物館に入り、思うままに学問上の便宜を得たることは、今日といえどもその例なきことと存じ候」(同前:13f.)。
熊楠は学校を拒否した人で、さらにはついに師をもたなかった人であるが、図書館・博物館・学界・学術雑誌などの「学問するための装置」に囲まれて、それを存分に活用した人であった。学ぶのはこのようにもできる。