留学のいろいろ (3)

北京籠城
近代蒸気船の時代には、遣唐使の頃と違い中国渡航自体は難事でないが、渡った先での生活が平穏とは限らない。いや、混乱する清末期では戦乱に遭遇するのは普通にありうることのひとつである。西欧だとて、留学中戦争勃発(第一次・第二次大戦)に立ち会うことはあった。しかし、銃弾飛び交う中みずから武器を取って戦う留学生というのは稀有であろう。
アヘン戦争以来欧米列強の蚕食をうけていた清朝であったが、日清戦争敗北以降、「眠れる獅子」ではないかという恐れが完全に消え失せて、帝国主義的略取に拍車がかかった。その中で「滅洋」を掲げる義和団山東から華北に勢いを得て広がり、キリスト教会や中国人キリスト教徒(教民)、外国人宣教師を襲って暴乱の様相を呈してきたところ、西太后の清廷がそれに便乗して列国に宣戦布告してしまい、北京・天津での戦闘となった。いわゆる義和団の乱、北清事変(1900)である。
情勢が険悪になってきたのを見て、公使以下の外国人居留民を守るため、5月31日に天津から北京へ400人ほどの救援隊が派遣された。さらに6月11日、2000人の増派隊が送られたが、鉄道が破壊されていたため到達できず、天津へ引き返した。その日の朝駅へ出迎えに行った人たちは空しく帰り、午後日本公使館の杉山彬書記生が一人でもう一度駅へ迎えに出たところ、清国兵に殺害された。遺体は切断され、心臓が抉り出されるという無残さだった。結局この増派隊は到着せず、最初の406名(うち日本兵27名)の兵士で東交民巷の外国公使館地域を守ることになるのだが、これでは少なすぎるので、義勇兵が集められた。欧米人が44名、日本人31名。一見して数が非常にアンバランスなのがわかる。日本人の男は戦える者はほとんどが義勇兵となったが、欧米人はそうでない、ということだ。義勇隊の名簿には、野口多内(外務省留学生)、服部宇之吉(文部省留学生、東京帝国大学文科大学助教授、文学士)、大和久義郎(留学生)、狩野直喜(文部省留学生、文学士)、川上貞信(西本願寺留学生)、竹内菊五郎(留学生)の6人の名がある。安藤辰五郎大尉も留学に来ていたわけで、これらの留学生が戦闘に参加することとなった。そのありさまはいささか滑稽で、服部宇之吉はこう記している。「六月十日、公使館正門内に義勇隊の勢揃いをなしたる時のごときは、とにかく何かの兵器を手にしたるは十人ばかりにて、その他は徒手なりき。……わが義勇隊の様こそ外目には滑稽なりしならめ、急造の支那槍や日本刀などを携えたるは、名こそ義勇隊なれ義和団に似たらずやなどと互いに戯れたることもありき。義勇隊長安藤大尉が、われらに訓示することあらんとして開口一番、義和団諸君といいハッと心づきて、義勇隊諸君といい改めたること一回にはあらざりき。いかに外形の貧弱なりしかを知るべし」(服部宇之吉「北京籠城回顧録」。大山:209)。
さらに6月20日、総理衙門へ交渉に赴いたドイツ公使ケッテラーが清国官兵に殺され、その夕刻にいよいよ戦闘開始となった。各国にそれぞれ防衛区域が割り当てられたのだが、日本の担当はイギリス公使館東隣の粛親王府だった。指揮をとったのは、柴五郎中佐。海関勤務の若いイギリス人下級職員レノックス・シンプソンはウイールの筆名でこう書いている。「数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢日本軍は、王府の高い壁の守備にあたった。その壁はどこまでも延々と続き、それを守るには少なくとも五百名の兵を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付武官・柴中佐である。彼は他の日本人と同様、ぶざまで硬直した足をしているが、真剣そのもので、もうすでに出来ることと出来ないこととの見境をつけていた。/ぼくは長時間かけて各国受け持ちの部署を視察して回ったが、ここで初めて組織化された集団をみた。この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめ込んでいた。彼は自分の注意を要する何千という詳細事を処理することに成功していた。彼は部下たちを組織化し、さらに、大勢の教民を召集して前線を強化した。実のところ、彼はなすべきことはすべてした。ぼくは自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じる。ぼくは間もなく、彼の奴隷になってもいいと思うようになるだろう」(ウイール「率直な北京便り」6月21日付日記。ウッドハウス:109f.)。「小柄な奇才・柴中佐は、やたらと歩き回って時間を無駄にするようなことはしない。彼は緑・青・赤の点を付した地図を備えており、刻々と変わる兵隊たちの部署、それぞれの兵力、戦闘能力を常に監視・記録している。なぜかぼくは日本軍の持ち場から離れることができなくなってしまった。彼らの組織作りが、それほどにも素晴らしいからだ」(同6月23日。同前:110)。
柴自身の報告もあるのだが、イギリス人の日記を見るほうがよくわかる。柴五郎はよき日本人の常として謙虚の徳を示し、自分の働きを誇ることがないので、彼の報告ではその功績が見えにくい。外国人はすなおに称賛している。たとえば、「王府の炎上は城壁の上からもよく見える。そこは一大活劇シーンだ。小柄できびきびした柴中佐は、必要な場所には必ずいつもいる」(モリソン日記7月8日。同前:111)。「王府の攻撃があまりにも激しいので、夜明前から援軍が送られた。王府で指揮にあたっているのは、日本軍の柴中佐だ。日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では、柴中佐が最優秀とみなされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきだ。この点では、わがイギリス水兵が次につづく、しかし日本兵はずば抜けて一番だと思う」(イギリス公使館付通訳書記生ランスロット・ジャイルズの日記、6月24日。同前:112)。「午前十時十五分。王府が大火事だ。柴中佐はマクドナルドに援軍を要請。通訳生三人、海関職員三人、水兵六人が行った。しばらくして、王府で一斉射撃の音がした。王府は戦略上のキイ・ポジションだ……日本兵が王府の守備にあたっていてくれることは、ぼくたちみなにとって非常にラッキーなことだ。もし、これがイタリア兵やオーストリア兵だったとしたら、王府はとっくの昔に敵の手に落ち、ぼくたちは全滅していただろう。なぜならば、王府が落ちれば、イギリス公使館は数時間以内にこなごなに吹き飛ばされてしまうからだ」(同7月8日。同前:123)。「戦略上の最重要地・王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。日本を補佐したのは頼りにならないイタリア兵で、日本を補強したのはイギリス義勇兵であった。日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの国の士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。/当時、日本人と付き合う欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになったからだ。日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言も非難を浴びていないのは、日本人だけである」(ピーター・フレミング「北京籠城」。同前:108)
そう、柴以外の日本人も勇敢だった。柴は自分の片腕と思っていた安藤大尉の戦死に涙する。「安藤大尉は、ついにこの日の晩なくなりました。実に哀惜のいたりに堪えませんでした。大尉は久しい以前より支那のことに志し、今回はいよいよその家宅までも売却して、自費留学を思い立ち、事の始まりますわずか五、六日前に北京に到着し、そのうえ北京、天津間の汽車不通となりしその日の朝、要事を帯びて天津に行かんとして停車場まで行き、汽車不通のため果たさず、もって籠城となり、こんどの最後を遂げたるは実に不運の人でありました。戦争中は実に立派な働きをなしました。沈着にして勇敢で、かつ人に向かってきわめて親切であるため、日本人一同敬服したるはもちろん、諸外国人もみな感心しておりました。英公使のごときは、大尉の死を聞きて、ことに悲痛の弔辞を寄こしました。大尉に死なれた時には、私は一手を失いたる心地して、今後はなんといたそうかと、実に当惑いたしました。平常は戦闘の忙わしさに、戦死者埋葬のことなどは本願寺の川上という和尚さまに任せて、私は葬式などに列する遑はありませんでしたが、大尉の時だけは、一方には銃声の盛んなるにもかかわらず、間を偸んで、戦闘線の人に隠れるようにして葬式に列し、一朶の草花を手向けたときは、感慨のきわみ少時は墓前を去るに忍びませんでした」(柴五郎「北京籠城」7月6日の項。大山:53f.)。
「小さな人種の中でも、また特に小さい安藤大尉」(ウイール。ウッドハウス:118)の最期はこうだった。「ぼくは安藤大尉のもとに駆けつけた。こんな可哀想な光景を、ぼくは今まで目にしたことがない。地面に広げられたコートの上に寝かされた彼の脇腹、弾丸で引き裂かれ、口を開けていた。彼はひどい事故にあった子供のように見えた。身長は5フィート(約1.52メートル)足らず。彼の剣は約30インチ(76センチメートル)ほどの短いもので、それは紐で手首にしっかりとくくりつけており、彼はそれを解き外されるのを拒んだ。彼は両腕を空中に上げ下げして苦痛と戦っていたが、そのたびに手首の剣も跳ね上がったり下がったりした。しかし、この努力にも力尽きて彼は我にもあらず、うめき声をだしつづけた」(ウイール。同前:119)。
「とびきり勇敢な、眼鏡をかけた日本公使館二等書記官」(ウイール。同前:118)楢原陳政(1862−1900)も、7月23日38歳で戦死した。「この日、朝、楢原君不帰の客となれり。同君の学識と外交の手腕とは人の認めるところにして、いま喋々を要せず、その死はわが対清外交上、実に少なからざる損失といいつべし」(服部宇之吉「北京籠城日記」7月23日。大山:183)。イギリス人の目にもそうであった。「優秀な学者かつ紳士である楢原氏が二十四日亡くなったのは、まことに残念であった」(イギリス公使館付牧師R・アラン「北京公使館籠城」。ウッドハウス:149)。重傷は負ったが、設備さえよければ死ぬことはなかった。死人の使った布団に寝かせられ、古着のきれや綿で手当てされて、破傷風を発したのだ。
彼は留学の経験者で、明治15年(1882)渡清して同20年(1887)までの6年間を過ごし、杭州で兪曲園に従学したほか、清国内各地を巡歴した(その成果は「禹域通纂」としてまとめられた。中国に関する日本人の調査研究の最良のものとされている)。また明治23年(1890)公使館書記生としてイギリスへ行き、エジンバラ大学にも学んだ。日清戦争の講和会議で通訳を務め、日本に来た清国留学生の世話もした。ロンドン・タイムズの記者ジョージ・アーネスト・モリソンは、楢原の友人だった。「楢原は、いつ会っても感じがいい」(同前:150)と言っており、彼の死について、「ああ、楢原! 可哀想な私の親友。彼は重体だ。もう、今夜はもたないだろう」(同前:149)と嘆いていた。
服部宇之吉(1867−1939)もあわや戦死者の列に加えられたかもしれぬところであった。「柴中佐より、粛親王府の一角を守りし伊国指揮官にあてたる手紙を携え行き、その返簡を待つ間、独立の煉瓦壁によりて立ちおりしに、たちまち正面より一丸飛びきたりて壁にあたり、土はサッと予の頭に降りかかれり。驚きて壁を見れば、予の頭より五分ばかり上のところに銃丸入りおれり。予にしてもし身長一寸も高かりしならんには、ま額をうち貫かれて即死すべかりしなり。その他にも二、三回銃丸を免れたることあれども、この時もっとも強く運命ということを感じたり」(大山:222)。
服部宇之吉は明治32年(1899)9月に北京に来た。文部省からドイツを含む4年間の留学を命ぜられたのである。すでに文科大学助教授であった彼が中国に留学に来たのは、清国留学生がそのころから増え始めた事情を背景に、中国教育界を指導し教員養成機関を設置するための準備の視察という目的があったらしい(丹羽:134)。そのときの日本公使は政治小説経国美談」を書いたことで知られる矢野竜渓で、「着京の翌日公使矢野文雄を訪ふと、矢野は君(服部)に『君は誠に悪いときに来た。目下支那人の地位名望ある者は外国人との交際を避けてゐる。紹介はして上げるし、先方も会ふには会ふだらうが、恐らく迷惑がつて到底親密なる交際は出来ないだらう。洵に悪い時勢である』」(丹羽:134)と言ったという。義和団事件の前年、すでに排外の気運が高まっていたのである。同年11月に公使は「中亜細亜紀事」を書いた元ロシア公使の西徳二郎に替わる。
そのころの出来事に、「初夏某日、予、狩野、古城両君と馬車を駆りて瑠璃廠にいたり、書肆を訪い、帰途前門外某飯荘に過ぎりて食事をなせるに、故意かはた偶然か二人の偉丈夫入りきたりてまた食を命ぜり。時に他客なし、彼の二人予らの方を見つつ食をとりいたるが、しばらくして予らの卓に進みきたりて話しかけ、一、ニ言の後、体格もっとも勝れたる一人、左手をもって右袖を捲きあげ、太くたくましき右腕をあらわし、拳を握りかためて予らの面前にこれを揮いて曰く、この拳よく堅を破り強きをくじく、天下何物も怖るべきなし、この卓この碗のごときはこれを破ること易々たるのみと、数回拳をふるい勢を示してすなわち去れり」(大山:201)。義和団員との接近遭遇の例だが、この事変は中国民衆側からも見てみなければならない。たとえば「義和団民話集」(平凡社、1973)のような民衆の語りから。
服部は東四牌楼北六条胡同の旧日本公使館に住んでいたが、その外を「洋人討つべし、何を用いてこれを討つべきか、義和拳法の神に通ずるあり」などと歌って過ぎる声を聞くほど危険が身に迫るのを感じて、6月10日台基廠の森中佐の留守宅に移った。乱の平定後、一旦帰国し、ドイツ留学に向かったが、留学期間途中に呼び戻され、明治35年(1902)8月、京師大学堂師範館の正教習として再度北京に赴き、明治42年(1909)まで勤めて、機関整備と教育に尽力した。帰国時には清朝から進士を授与された。彼も戊辰戦争をくぐり抜けた一人で、二本松藩士の子として生まれ、実母は生後すぐに死亡、叔父に養われたが、官軍との戦いで実父は戦死、養父は藩主に従って逃れ、養母とともに農家に潜んで官軍の捜索をあやうく逃れたという。幼児のこととて記憶になく、後年養母に聞いて知るのみとはいえ、人格形成に大きな影響があっただろうことは容易に想像できる。
その服部との初対面の様子を、モリソンはこう記している。「スクワイアーズと一緒に日本陣営を視察して回った。柴と一緒にもう一人日本人が来たが、そのつつましい様子の男はときどき知的なことを口にした。服装その他から察して、この男は理髪店の助手かなと思った。名前を尋ねてみたら服部だといい、「私は帝国大学中国哲学教授です」とつけ加えた」(モリソン日記7月7日。ウッドハウス:144)。
これに限らず、モリソンの日記はかなり直截辛辣で、当時の欧米人が日本人をどう見ていたかがよくわかるだけでなく(たとえば「まったく不思議なくらいよく類人猿に似ている日本公使・西男爵は、外国語はロシア語しかできない」。モリソン日記7月4日、同前:178)、のちに前述のように賛辞を受ける柴五郎も、初めは「あのバカは、自分が何をなすべきか、分かっていないのだ」(モリソン日記6月16日、同前:142)などと侮蔑的に言われていて、逆に、その後の称賛が真実のもの心からのものであることを示すわけである。
柴五郎(1859−1945)は会津藩士の息子で、戊辰戦争では祖母・母・姉妹みな自害、敗北後移封された下北半島では寒さと飢えに苦しみ、青森や東京では下僕の生活を送った。その後陸軍幼年学校に入ることを得、軍人として精励して大将まで進んだ。「ある明治人の記録」は彼が苦闘の半生を語った自伝で、人間はこう鍛えられるのだと知る。「混乱の日本」に育った者は、「混乱の中国」にも動じることはない。軍人としての有能さはイギリス人の証言に見られるとおりだが、こういう苦労を重ねた人だから、無辜の人々に対してやさしかった。籠城時には義和団の暴行の標的になっていた中国人キリスト教徒をよく保護し、援軍到来で公使館地域が包囲から解放されるや、ただちにもうひとつの籠城箇所(北堂と呼ばれる天主教堂)に部隊を差し向け、結果非キリスト教徒の日本軍がそこを解放することとなった。連合軍の首都進撃を前に光緒帝と西太后西安に蒙塵し、主のいない北京を欧米日の軍隊が占領したときは、他国の管轄区域で略奪が横行している一方、柴が担当した日本軍管轄区域は軍紀厳正で治安が保たれていたので、他区域から移ってくる者が多くいたという。日露戦争にも出征し、功があった。明治の大ベストセラー政治小説佳人之奇遇」を書いた東海散士こと柴四朗(1853−1922)は実兄で、彼は白虎隊士であったが、熱病で病臥していたため生き残った。明治12年(1879)アメリカに留学し、ペンシルヴァニア大学で学士号を取り、明治18年(1885)帰国。のちに代議士になった。同じく隊士だった山川健次郎(1854−1931)もアメリカのエール大学に留学(1871−75)、東京帝国大学総長となる。わずかにいる白虎隊士の生き残りは、みなひとかどの人物になっている。
この事件での働きを機に、日本は列強クラブの仲間入りを果たしたと言っていい。その2年後に日英同盟が締結される。晴れて狼の仲間入りをしたわけである。略奪、暴行、強き者の自尊と弱き者への軽蔑。狼の振舞い方のよいレッスンになったことだろう。柴五郎個人は薩長軍からすでにその振舞いを見せつけられていたので、美質を傷つけられることはなかったけれども。敗戦の年、87歳の彼は自刃をはかる。それがもとで、その年の暮れに病没した。最後のサムライの死と言っていいかもしれない。
内藤湖南とともに京都帝国大学文科大学教授を勤め、京大支那学の基礎を築いた君山狩野直喜(1868−1947)は、文部省留学生として明治33年(1900)4月に北京に渡った。服部宇之吉と同じところに住んだが、すぐに義和団事変が勃発する。乱後帰国、改めて明治34年(1901)8月に今度は上海に留学に来て、明治36年(1903)4月まで滞在した。上海には王立アジア協会北中国支部(亜州文会)があり、その図書館は充実していた。上海への留学は欧米人のシノロジー研究に親しむ機会を得ることでもあった。あのモリソンの東洋学文献の一大収集が東京にもたらされ東洋文庫の基礎となったのにも、北清事変での日本人とモリソンの交情がひとつの機縁になったであろうことを考えると、中国と欧米の研究を踏まえた日本の東洋学の起こりは義和団にあった、ということも言えるかもしれない。敦煌文書の発見で有名なフランス人東洋学者ポール・ペリオ(1878−1945)はそのころハノイの極東フランス学院の研究員であり、そのときは北京に派遣されていて、籠城組だったのだ。
イギリス人看護婦ジェシー・ランサムの「北京籠城病院物語」に、「日本兵はみな一つの病棟に入り、お互いにいたわり合っていましたし、同胞人が看護にあたりよく面倒をみていました。柴中佐や日本婦人がときどき見舞いに来ましたが、なかでも毎日来て常に負傷兵のもとにいたのは若い僧侶でした。彼は非常にインテリで英語もよく解し、通訳としても役立ってくれました。彼はお葬式の時以外は、仏僧としての仕事はしていないようでしたが、負傷兵の実際的な世話は、実によくしていました」(ウッドハウス:125)と書かれている西本願寺留学生川上貞信(1864−1922)は、その後日露戦争にも従軍僧として参加し、乃木希典を総司令官とする陸軍第三軍に従った。


そのころ黒竜江の清国対岸に位置するロシアの町ブラゴヴェシチェンスクには、陸軍を休職して「留学」中の大尉石光真清(1867−1942)がいた。熊本の出身で、柴五郎を見出し家に置いてくれた野田豁道は叔父、柴の手記を編集した石光真人は息子である。日清戦争後、次の敵ロシアを知るためにロシア語の必要を感じてやってきたもので、軍も支援していた。明治32年(1899)10月に仮名を使ってやってきて、小学校教師の家に寄寓し、「昼はア[レキセーフ]氏の勤める小学校へ通学して坊主頭の子供たちとともに読み書きを学び、夜はア氏夫人から作文の手ほどきをしてもらった」(石光a:19)。在留邦人に怪しまれるので、そのあと「カザック連隊付騎兵大尉ポポーフ方へ寄食することにした」(同前:21)。夕食後夫人にロシア語作文を見てもらうのを日課にしていたという。ロシア語を学ぶだけならウラジオストクでもハバロフスクでも用は足りるのに、わざわざブラゴヴェシチェンスクへ三十を過ぎた壮漢が来るというのが怪しさいっぱいなのは道理だ。彼の手記はまるで小説のようにおもしろくて、だいぶ脚色されているだろうと思われるが、これしかよるものがないので、これに従う(たとえば日露戦争前軍を離れて情報収集のためハルビンでやっていた写真館に二葉亭四迷が来ていたとき、たまたま手に入ったロシア軍の異動命令書の翻訳を頼んだが、こんなつまらぬものは嫌だと断られ、「今後は何があっても君には頼まん」と言ったというのだけれども、その後ロシア革命時にブラゴヴェシチェンスクに差し向けられたときは、アムール州の革命派・反革命派の歴々と単身丁々発止のやりとりをしていることになっている。必ずや叙述に誇張があるはずだ)。彼はここで「アムール川の流血」を目撃することになる。北清事変で満洲在留のロシア人が多数殺された報復に、7月16日三千人の中国人が虐殺され河に投げ込まれた事件である。翌月そこを脱出し、ウラジオに向かった。
偽名を使った留学というのも妙なもので、語学の勉強はするものの、留学に名を借りた情報収集活動というのが実態だが、スパイ成田安輝(陸軍士官学校中退者)の秘境チベット行きが「探検」なら、これも確かに「留学」である。本人が留学だと言っていることだし。