留学のいろいろ (8)

留学先としての日本
逆に、日本が留学の対象となることにもなった。国をあげ官民をあげて西洋知識や技術を熱心に取り入れた日本は、明治27・28年の日清戦争(1894−95)の頃までには旧文明国中国をしのぎ、アジアに抜きん出る国になっていた。戦争の帰結がそれを示した。同じ漢字国である日本は、「洋務」に遅れた中国にとって、格好の留学先になった。距離も近く(上海からなら北京より九州のほうが近い)、物価も西洋諸国より断然安く、人種も同じだ。何より同じ文明圏で、漢字を使っている。
明治の日本公用語は漢文訓読体である。戊戌新政が潰えて日本に亡命する船上、梁啓超はそのころ人気の小説「佳人之奇遇」を勧められ、おもしろいので読むそばから訳したというエピソードがあるが、たしかに、そのころまったく日本語を知らなかった彼でも訳せる。あれは正調漢文訓読体であるから、要するに復文(書き下し文「朋有り遠方より来たる」を原文「有朋自遠方来」にもどす作業)すれば、ただちに漢文になるのである。
明治の20年代までは文化的には江戸時代の延長で、実は漢学が非常に栄えた時代であった。学問をする青年は必ず漢学を修め、何か感じれば漢詩を作るのが常だった。町の至るところに漢学塾があった。洋学者も漢学の素養が深かったので、西洋文献を翻訳するにあたって漢字によって新概念を吸収咀嚼した。哲学だの物理だの、無数の新漢語・和製漢語が現われた。そして、それらは留学生によって中国に逆輸入された。清国留学生たちはさかんに翻訳活動を行なっていたのである。1900年に訳書彙編社ができ、教科書訳輯社、湖南編訳社、会文学社などが翻訳出版をし、雑誌も多数発行され、それらは国内の留学生に読まれるだけでなく、本国にもしきりに送られた。英書・仏書・独書の翻訳もあるが、もちろん日本語訳からの重訳である(さねとう:432)。Economyを「経済」(「<経世済民」)とするのはよろしくないなどの意見もあったが、結局「経済」で定着してしまった。「情報」が「信息」、「協力」が「合作」などのように別語を使う例もあり、「紹介」と「介紹」のような逆転語もあるが、初め中国で「天演」と訳したevolutionが、今は日本訳の「進化」になったという例もある。「中華人民共和国憲法」のうち、「中華」以外はすべて和製漢語である(「共和」のように語彙自体は昔からあるが、翻訳語としての新しい意味が付与されたものを含め)。「取消」「手続」「場合」のような本来和語であったものも中国語の語彙に入った。現在の中国語の社会科学語彙の6、7割、高級語彙の半分以上は日本でできた新漢語だという。もって日本留学の果たした役割を知るべきである。
日清戦争後の明治29年(1896)、清国は初めて日本に留学生を送ってきた。その後留学生の数は増えつづけ、日露戦争後の明治38・39年(1905・06)にピークに達した。その数8600名以上、1万とも2万ともいう。柔道の創始者として有名だが、当時高等師範学校校長でもあった嘉納治五郎に、最初の留学生の教育が任された。嘉納はのちに清国留学生のために弘文学院を作った。ほかに短期間だが日華学堂というのを高楠順次郎が開いている。彼らはヨーロッパ留学経験者であった。
日本への留学生で最も有名なのは魯迅(1881−1936)だが、そのほかにも、のちの中華民国主席蒋介石(1907年東京振武学校に留学、のちに高田連隊勤務)、中華人民共和国総理周恩来(1898−1976)、文学革命の唱道者で共産党創立者陳独秀(1880−1942)、文学者郭沫若(1892−1978)など、枚挙にいとまがない。
体制側で出世した人もいるが、革命に身を投じた留学生も多く出た。中国人日本留学史を調査した実藤恵秀は、そのあたりのことこう表現している。
日清戦争がおわってから、明治のすえにいたるまで、中国は日本とひとつになっていた。
このあいだが、明治以来、いままでで、いちばん中国が日本にしたしんだ時代であり、日本をちからにした時代である。
中国でうたれる革命劇の楽屋は日本であり、その筋書は、日中合作であり、これに登場する役者は留日学生であり、中国の亡命者であり、日本志士であった。中国の志士は、中国で失敗すると、すぐに東支那海をわたって、日本の楽屋に亡命した」(さねとう:22)。
ある留学生は、中国の同胞に日本留学を呼びかけて、「異郷にきたという感じはあるが、異国にきたという感じはない」と言っている(同前:131)。また、大正8年(1919)5月4日北京で起きた学生たちの五四運動は、その3日後の5月7日に東京の留学生に波及している。つまり、学生において中日は一体だったのだ。
女性も留学した。辛亥革命前の紹興で起義に失敗して刑死した革命烈女秋瑾(1875−1907)は、青山実践女学校に留学しているが、留学中湖南の女学生に「まず日本へ来れ!」と呼びかけている。「男子のとりしまりから脱するためには、自立せねばなりませぬ、自立するには学芸を求め、協力しなければなりませぬ。日本の女学は日に日に盛大となり、みなみな一芸を執って生活を謀り、上は父母を扶助し、下は夫をたすけ子を教え、男女坐食の人を無くそうとしている。このような国家が強大にならぬはずはありませぬ。諸姉妹に志あれば、日本に遊学せねばなりませぬ。私のもとへ来られれば、一切の便宜をとりはからいます」(武田:109)。
筆名魯迅こと周樹人は、南京の路鉱学堂に学び、卒業後省の給費生として1902年に日本へ留学した。22歳である。初めの2年は東京の弘文学院で日本語と普通学を学び、24歳のとき仙台の医学専門学校に進んだ。初めての中国人学生だった。日本には1909年までとどまる。中国革命の結社光復会のメンバーにもなった。魯迅の留学時の出来事で一生の転換点になったのは、医学から文学への転向である。そのきっかけを彼自身が最初の小説集「吶喊」の自序に書いている(竹内好訳)。
「私の夢はゆたかであった。卒業して国に帰ったら、私の父のように誤られている病人の苦しみを救ってやろう。戦争のときは軍医を志願しよう。そしてかたわら、国民の維新への信仰を促進させよう。そう私は考えていた。私は、微生物学を教える方法がいまどんなに進歩したか、知るべくもないが、ともかくそのころは、幻燈をつかって、微生物の形態を映してみせた。そこで、講義がひとくぎりしてまだ時間にならないときなどには、教師は風景やニュースの画片を映して学生に見せ、それで余った時間をうめることもあった。時あたかも日露戦争の際なので、当然、戦争に関する画片が比較的多かった。私はこの教室の中で、いつも同級生たちの拍手と喝采とに調子を合わせなければならなかった。あるとき、私はとつぜん画面の中で、多くの中国人と絶えて久しい面会をした。一人が真中にしばられており、そのまわりにおおぜい立っている。どれも屈強な体格だが、表情は薄ぼんやりしている。説明によれば、しばられているのはロシア軍のスパイを働いたやつで、見せしめのために日本軍の手で首を斬られようとしているところであり、取りかこんでいるのは、その見せしめのお祭りさわぎを見物に来た連中とのことであった。
この学年がおわらぬうちに、私は東京へ出てしまった。あのことがあって以来、私は、医学など少しも大切なことでない、と考えるようになった。愚弱な国民は、たとい体格がどんなに健全で、どんなに長生きしようとも、せいぜい無意味な見せしめの材料と、その見物人になるだけではないか。病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは不幸とまではいえぬのだ。されば、われわれの最初になすべき任務は、彼らの精神を改造するにある。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第一だった。そこで文芸運動を提唱する気になった」。
「同級生たちの拍手と喝采とに調子を合わせなければならなかった」というところに、留学の寂しさがうかがえる。仙台で中国人は彼一人、あとはみな異邦人である。その異邦人たちは当然差別をする。漱石の英国での孤独を、魯迅は日本で経験したわけだ。構造的な同一性ということだ。魯迅の場合は7年も日本にいたのだから、その寂寞にもかかわらず、居心地は必ずしも悪くなかったかもしれないが。
さしも隆盛だった日本留学も、昭和12年(1937)の日中開戦によって留学生が総引き揚げし、一旦終幕となった。


話はさらに逆転する。中国文学者増田渉(1903−1977)は昭和6年(1931)上海に「留学」した。彼の「留学」については、長くなるが、彼自身の回想によるのが最もよい。
「私は学校を出てから(学校にいるときからであるが)しばらく佐藤春夫氏の手伝いをして中国小説の翻訳などをしていたが、しきりに中国へ行ってみたくなって、千枚ぐらいの長い翻訳が一段落ついた時、それをしおに上海に行く決心をした。それは昭和五年の暮れであったが、船の都合などで翌年三月に上海についた。最初は一か月ぐらいの旅行のつもりだったし、当時は別に中国の文壇事情についてあまり注意していたわけではなし、魯迅が上海にいることなど初めから知っていたのではない。ただ、佐藤春夫氏から内山完造氏あての紹介状をもらっていたので、ある日内山書店を訪ねたら、ちょうど魯迅が上海にいる、しかも毎日同書店にあらわれると聞いた。(…)
私はとにかく、彼について勉強しようという気持ちから、最初は毎日内山書店へ、彼があらわれる時間を見はからって出かけて行った。たぶん私が彼に向かって、中国の文学を勉強するにはどんな本から読んだらいいかとでもきいたものだろうが、彼は自分の幼少年時代の思い出を書いた『朝花夕拾』という本をくれた。私はその本を私の下宿で読んで行って、不審な字句や内容の事柄について、翌日内山書店で彼から教えてもらう―ということを当分つづけていた。(…)
その次に『中国小説史略』についての質問をはじめた。それは最初から翻訳するつもりであったし(内山完造氏がそれをすすめた)、ほとんど逐字的に講解してもらった。そのころは内山書店の店頭ではなく、魯迅の宅に直接出かけるようになっていた。内山での「漫談」(当時そういっていた)をすますと、彼とともに彼の寓居へ行き(内山からその寓居までは二分か三分の距離)、それから彼のテーブルに二人並んで腰かけ、私が小説史の原文を逐字的に日本訳にして読む、読みにくいところは教えてもらう、そして字句なり内容なりについて不審のところは徹底的に質問する。その答えが、字句の解釈なら簡単であるが、内容となるといろいろの説明がいるので相当時間がかかる。たいてい午後の二時あるいは三時ごろからはじめて夕方の五時から六時ごろまでつづけた。むろんいつしか雑談にわたったり、日々生起する時事に対する意見や批評をきいたりする合いの手がはいることも多かったが、およそ三か月はその本一冊の講読に費やされたと思う。当時、彼は外部とほとんど交渉をもたなかったから客はまずなかった。広い書斎兼応接間に、夫人の広平女史が少し離れたところで彼女自身の仕事(本を読んだり、抄写をしたり、編物をしたり)をしている(息子の海嬰は子守婆さんがたいてい外へつれて出ていて部屋にはあまりいなかった)、だから、じゃまするものもなく、私は十分教えをうけることができた。(…)これが済んだときは、私もホッとしたが、彼もホッとしたであろうと思われる。それから『吶喊』と『彷徨』との二小説集の講解も終わったのがその年の暮れであった。私はだからその一年、春夏秋冬、毎日彼の書斎に通ったわけである。そして一日、三時間くらい彼の個人教授をうけたことになる。毎日許夫人から点心とお茶を接待され、また一週間に二回くらいは彼の食堂で晩飯を御馳走になった。実に飽きもせず、諄々として彼は手をとるようによく教えてくれた。私は感謝の言葉もないほど今でも恩に感じている」(増田a:15ff.)。
そのころ反政府的な文学者の大弾圧があり、魯迅は身を潜める必要があった。内山書店主に提供されたアパートに住んで、姿を見られるのを恐れ、窓辺にもけっして寄りつかなかったという。したがって雑用もなく、訪問者にわずらわされることもなかったので、増田青年の来訪は暇をもてあます魯迅にとってもいい機会だったと言える。
昭和6年(1931)3月から12月末までわずか10ヶ月足らずの「留学」であるが、これこそが真の留学である。もともとは旅行であり、その延長としての滞留であって、それなら当時の大陸浪人と、あるいは今もアジア各地の安宿に沈殿している連中と同じだが、師と学びがこれを留学とする。ここには師がいて、弟子がいる。師はこれその時その地で得られる最良最善の人、背景は東西世界のうねりのぶつかる魔力に満ちた都市。「そのころの上海といえば、「魔都」とか「国際都市」とかいわれ、世界各国の人間が流れこみ、商業と革命と歓楽とがはげしくからみ合って渦巻き、何ものかが崩壊し、何ものかが突き上げ、ひしめき、せめぐ乱雑喧騒な足音が絶え間なくきこえた。もちろん外側からの観察でしかないのだが、しかし私の皮膚は異様な、ドライな重苦しさを感じた。私は圧倒されてしまった。私のよんだ書物のなかの「中国」とはまるで異質の、しかしなまなましい中国がそこにはあった」(増田a:270)。「上海は、そのころの中国の街に特有な、油じみた臭気をただよわせて、頽廃と革命がまざり合って渦巻いていた。その六月には中共中央の総書記、向忠発が上海でつかまり、処刑されたし、九月には満州事変が起って、上海でもあちこちに抗議デモがあり、日本人にそそがれる眼差しは痛かった。やがて一一月には江西省の瑞金に「中華ソビエト臨時政府」が成立した。上海にきて私は、いきなり異常な、強烈な刺戟を受けどおしであった。そのような刺戟が、いつか日常的なものにさえなってしまった」(増田b:427)。留学のひとつの理想形である。ただ決定的に惜しまれる点があって、それは増田が中国語が話せなかったことだ(日本語ができる魯迅はいいが、できない茅盾とは通訳を介さねばならなかった)。読めるが、話せない。日本人の宿痾である。漢文漢学に反発して竹内好武田泰淳らと「中国文学研究会」を作り(1924年)、漢文学でない「中国文学」を標榜していた増田にしてこうであった。
増田は明治36年(1903)日本海に面した島根半島の恵曇村に医師の息子として生まれた。魯迅からの手紙に、「恵曇村と写真屋とがそんなに遠いですか? 実に桃花源の感を起します」(増田a:166)とあるようなところだ。東京帝国大学支那文学科を卒業。戦後大阪市立大学の教授になったが、その講義は出雲弁で、学生が聞き取れなくて困った。ある学生が苦情を言うと、授業内容をプリントにして配布した、という逸話がある。40年来の友人竹内好の葬儀の席上、弔辞を読んでいるさなかに倒れ、そのまま不帰の客となった。昭和52年(1977)3月10日のことである。心臓発作だった。魯迅竹内好のような好師好友に恵まれたとも言えるし、また、魯迅や竹内が好弟子好友に恵まれたとも言える。一種理想的な死に方だ。
帰国時魯迅から「送増田渉君帰国」という詩を贈られた(増田a:140)。
扶桑正是秋光好 楓葉如丹照嫩寒
却折垂楊送帰客 心随東掉憶華年
扶桑は正にこれ秋光好し、楓葉は丹の如く嫩寒に照る。
却て垂楊を折り帰客を送る、心は東掉に随って華年を憶う。
日本の風光をしのび、彼が東へ帰るを見るにつけても、自分の日本での若かりし日のことを憶う、というものだ。帰国後増田が岩波文庫で「魯迅選集」を出すとき、どれを入れたらよいか問い合わせたら、どれを選んでもいい、だが「藤野先生」だけはぜひ入れてもらいたい、ということであったそうだ。仙台医学専門学校で中国の留学生を親身に指導したあの先生、周青年のノートを毎週びっしり添削補筆してくれた風采の上がらない藤野先生の存在が、上海で偶然出会った中国文学研究志望の日本の青年を教えることに結びついているだろう。好意は人のためならず。人の人の、そのまた人にまで伝わってゆく。
「彼の写真だけは、今なお北京のわが寓居の東の壁に、机に面してかけてある。夜ごと、仕事に倦んでなまけたくなるとき、仰いで燈火のなかに、彼の黒い、痩せた、今にも抑揚のひどい口調で語り出しそうな顔を眺めやると、たちまちまた私は良心を発し、かつ勇気を与えられる」(「藤野先生」、松枝茂夫訳)。だがその先生は、大学の教授でこそあったが、まったく無名の人だった。魯迅が自分の選集にこの作品を入れてくれと頼んだのも、それによって藤野先生の消息が知れるかもしれないと思ったからだ。しかし何の情報もなく、病床を見舞いに上海を再訪した増田渉に、もう先生はこの世におられないのだろうと嘆息をもらしたそうだ。だが、藤野先生は当時福井の田舎に存命で、小さな診療所を開いていた。そういう人である。魯迅と並び立つような人物ではない。つまり、よき師はよき弟子が作るのである。弟子の心のうちにある。感化の力はたしかに師にあったわけだが、それを受けとめる弟子の感激の中によき師の像は結ばれる。わずか8か月教えただけの生徒が優秀で感受性が強かったため、札幌で伝説的な「大志」の銅像になったクラーク博士や、門人の庭にポンペ神社なる祠を建てられ朝夕拝まれていた長崎海軍伝習所のポンペ医師なども同じだ。魯迅やマックス・ミュラーのように大きさで弟子を圧している場合でも、それは変わらない。