留学のいろいろ (10)

留学のような、留学でないような
明治初期には、実質的に東京の官立高等教育機関での修学は「留学」であった。つまり、そのころの高等教育は欧米人教師によって外国語(英・仏・独語)でなされていたからである。
柴五郎が通った陸軍幼年学校ではフランス語で教育が行なわれていた。明治6年(1873)入学したその学校では、「教官はすべてフランス人にてプーセ教頭のもとに、モンセ、ヴァンサンヌ、ルシェ、グーピル、ルイ等あり。日本人は助手、通弁のみ。/国語、国史、修身、習字などいっさいなく、数学の九九までフランス語を用い、地理、歴史など教えるもフランス本国の地理、歴史なり。日本の地理、歴史など教えられたることきわめてまれなりしが、フランスの山河、都市村落、河川、気候など暗記し、問わるればただちに回答す」。「食事もまた洋食にて、スープ、パン、肉類なり。ただ土曜日の昼食のみ、ライスカレーの一皿を付す」(石光b:10f.)。これ、留学でしょう。場所が東京というだけで。しかし、当然のことながら勉強はたいへんだった。「最初級に編入され、ABCの発声を習いつつ、一年前に入学せる者のうちにまじりて講義を聴く。まったく何が何やら弁え難し。これにてはいかに勉強するも追いつくはずなし。口惜し涙にくれつつ、休憩時間も休日もなく、必死に自習す」(同)。一方で、教えるほうのフランス人教官は、「おそらくは横浜、神戸などに在住の者を採用せるもののごとく、後年、余が大尉か少佐のころ、パリに駐在せるとき、教頭プーセが小さきカフェーを営みおる由聞きたれど、遠慮して訪ねたることなし」(同)。
賊軍会津藩士の息子として困窮の中に育ち、蕨の根や犬の肉を食べるなど生存自体に苦労した人なので、十分な教育を受けていないと自覚していた。やっと受けた正規の教育はこのとおりフランス語だった。だから少年時代の回想録を書いたとき、自分の日本文に自信がなく、それを人に見せて校閲を願ったわけだ(そのためこの本は「石光真人編著」となっている)。整わぬ時代だったが、だからこそ個人の活躍の幅が広かったとも言える。
教師について、明治7年(1874)に来日して1年半ほど東京外国語学校で教えたロシアの革命家メーチニコフはこう書いている。「かつてハンブルグ動物園の園長までつとめた動物学担当のヒルゲンドルフ教授のすぐ隣の生理学講座では、もうろくしたアメリカ人宣教師が教鞭をとるといったことになる。またアメリカの高名な化学者アトキンソンが、逃亡した元砲兵軍曹だとみずから公言して憚らないフランス人(彼は高等数学を講じていた)を同僚にもつ羽目になるのだ」(メーチニコフ:289)。専門知識を必要とせぬ語学教師の調達には困らなかった。「この当時、日本におけるヨーロッパ商業は危機に瀕しており、各開港都市―とりわけ横浜―には、なんの仕事もないおびただしい数のヨーロッパ人、アメリカ人が住んでいたので(・・・)文部省としては東京やすぐ隣の横浜といった、いわば現地でかなり多くの教職希望者を調達することができたからである」(同前:276ff.)。東京外国語学校(および第一高等学校)の前身である明治初年の大学南校など、「商店員、ビール醸造人、薬剤師、百姓、船員、曲馬団の道化師」などがまじり、「無宿人の収容所」と在留外国人に評されていたそうだ(梅渓:242)。前歴を誰も知らない外国語学校の初代ロシア人教師シードルについて伝わる話では、「死ぬほど酒を飲んで、へべれけの姿で教室に現われるや、教壇にどっかと腰をおろしたこのシードル君、そのまま眠りこけてしまい、あとはどうやっても目を覚まさない。かと思うと、ひどくはしたないことばで学生たちを罵りだすしまつ。しまいにはとうとう学生たちととっくみ合いの喧嘩となり、学生たちの手でつまみ出されたという」(メーチニコフ:285)。メーチニコフ自身は、細菌学者でノーベル賞を受けたイリヤ・メーチニコフの兄で、ガリバルディのイタリア統一戦争に加わって戦い、片脚を失ったというような人物であり、二葉亭四迷こと長谷川辰之助(1864−1909)が明治14年(1881)にこの学校の露語科に入ったときの教師ニコライ・グレーも政治的亡命者で、ともに伝説的な教師となった。二葉亭の頃も、日本人の教師はいたけれど、物理や数学などを含めどの科目にもロシア語の教科書が使われ、講義もほとんど全部ロシア語でやっていた。メーチニコフの言、「はじめからヨーロッパの言語や書物の勉強に手をつけた子供や青年は、日本の公文書や文学のことにはまったくチンプンカンプンという状態になってしまう。江戸や大坂の洋学校のもっとも優秀な生徒でさえ、時には公用語で書かれた書類が読めず、友人に多少とも体裁のととのった手紙すら書けないほどに、いわば日本人として文盲状態になってしまうこともあるのだ」(同前:208)は一つ話であるとしても、その懸念は強い。
二葉亭四迷の場合は、松江の相長舎をはじめ漢学塾に通っていたので、その心配はなかった。しかし、初対面のとき坪内逍遥が「多分、其頃に於けるロシア文学通の第一人者であろう」と認めるのと同時に、「彼の性格までが、・・・ 著しくロシア文学の感化を受けていた。・・・ 私は彼にぶつかって、全く別種の文学論を聴き、別種の人格を見た」(中村:65)と感じたのには、外国語学校の教育がいかなる影響を彼に及ぼしていたかがうかがえる。そうであればこそ、言文一致体の小説を初めて書くということにもなったのだ。
けれども、時代が必要としたそのような稀な成功例ばかり見ているわけにはいかず、大多数の凡才に必要なこと、日本語で高等教育が受けられるようにすることが要請される。明治政府が身の丈以上の金を費やして欧米各国に留学生を送っていた目的のひとつがこれであった。明治13年(1880)、東京大学総理加藤弘之は「東京大学ニ於テハ、方今専ラ、英語ヲ以テ教授ヲナスト雖モ、此事決シテ、本意トスル所ニアラス(中略)将来教師ト書籍ト倶ニ、漸漸具備スルニ至レハ、遂ニ邦語ヲ以下テ教授スルヲ目的トナス」(天野:50)。そのとおり、明治14年(1881)には東京大学の日本人教授数が初めて外国人を上回った(21人/16人)。明治19年(1886)の帝国大学発足時には42人対13人になっている。そしてその7割は留学帰国者であった。非留学者のほとんどは日本の古代法制や和漢学科の教授であるから、実質ほとんどが留学をした人々によって成っていたわけだ。その教授たちも始めは外国語で、多少日本語を混ぜて講義していたのだが、明治16年(1883)には教授言語を英語から日本語に切り替えることを決定した(同前:52ff.)。明治10年代は日本語で教授する私立の法律学校(のちに専修・明治・中央・法政・早稲田大学などになる)が次々に現われた時代で、このころに高等教育の日本語化はほぼ成ったと言える。
だが、それが完遂されるためには、日本語が近代化しなければならない。まず、ヨーロッパの事物概念を表わす新しい語彙が必要になる。そこで活躍したのが漢学教育を受け西洋留学をした人たちで、西周考案の「哲学(希哲学)」や「理性」「技術」などのような漢字の組み合わせによる翻訳語(新漢語)が大量に造られた。終戦までの公式日本語は漢文訓読体であったけれども、それも語彙は古典由来の漢文の素養がなければ理解不能のものから、中等教育で教えられる新漢語を使って大いにわかりやすくなったし、二葉亭らの努力による言文一致体も確実に広がり、公文書以外の書記日本語はその文体になっていた。それらの語彙が中国人留学生によって中国にもたらされたのは見たとおりである。旧植民地の高等教育が今なお宗主国の言語によっているのと変わり、教育の自言語化・自立が達成されたわけで、官費留学はそのための一大プロジェクトであったと言える。それが今、英語による高等教育の奨励によって掘り崩されようとしているのは、明治の遺産の放棄、自主的植民地化と言わなければならない。
なお、朝鮮人や台湾人にとって、内地の大学はもちろんだが、京城帝国大学台北帝国大学で学ぶのも一種の「留学」であっただろうことも付け加えておく必要がある。彼らの昭和戦前期がわれらの明治初期である。


東京の大学がたしかに「自国の大学」、つまり自言語の大学になったあと、今度は「外地」に日本の学校ができていった。
そのさきがけは上海の東亜同文書院で、明治34年(1901)創立だからかなり古い。もとは前年に南京に創立された南京同文書院だったが、義和団事件の混乱で上海に移転した。この学校の最大の特色は、最終学年に数名で隊を組み、3ヶ月から半年の間行なわれる大旅行である。西は四川・雲南・甘粛まで、中国全土を踏査した。その成果は「支那経済全書」「支那省別全誌」「新修支那省別全誌」などの基礎になっている。その始まりは、明治38年(1905)、二期生林出賢次郎・波多野養作ら5人が卒業直後に外務省の嘱託で西域や外蒙古の調査に出かけたことにある。林出は単身イリ(伊犂)まで行った。日野強少佐の「伊犂紀行」の旅より1年早く、一旦帰国後また渡清し、ウルムチに教官として滞在していたときには大谷探検隊の橘瑞超に出会っている。そのころ学僧たち学徒たちは(特務将校たちも)縦横無尽に大陸を歩き回っていたのだ。
満洲の「阿片王」と言われた里見甫(1896−1965)もこの学校の出身で、大正4年(1915)夏に一行4人で北京から太原、延安、西安、秦嶺、漢口と歩き、「中国をイヽナーと思い、その味をかみしめたものである」(佐野:116)。その旅行記の一節を見れば、「宜川より洛川迄二百十支里三日の行程である、一日は谷間を伝ふて九十里を踏破して龍泉鎮に着いた。月光の美しい処であった。翌日は愈々土匪の巣窟を通ふといふ。始め三十里程は谷を伝ふて徐々に山を登る。山が深いので今迄の禿山と違ひ樹木が茂って居る、野は秋草繚乱として山遊びに行った様な心地。/山を下って谷間に出る。清い流れがある、小樹の林がある、鳩が静かに啼く。草間にすだく虫声に誘われて叢に踏み込めば女郎花が倒れる萩の花がハラ〱と散る(中略)。今日の道中が最土匪の横行する処で頻々と掠奪にあった処である此の旧県では百余の壮丁火縄銃を提げ徹宵警戒して居る、昨夜東門外を襲って掠め去ったといふ本隊は東方廿里の処にありと言って居るが警戒するのみで敢て攻めて行く等は中々しない。/夜更けて夜巡り銅鑼の音寂寞を破る。翌廿五日山間の高原を進む、途上の村々皆守望所を設け耕作を止め戦々競々たる様である。僅か四十支里の道だから訳なく済んで丁度正午頃洛川城裏の人となった」(同前:117f.)。
外務省管轄の日露協会学校は大正9年(1920)ハルビンに設立された。満州国建国のあと、昭和8年(1933)文部省所管のハルビン学院となる。6000人のユダヤ人の命を救うビザを発給した在カウナスリトアニア)領事代理、「諸国民の中の正義の人」杉原千畝(1900−86)もこの学校に学んだ。彼は大正8年(1919)に外務省留学生となっており、その頃ソ連には留学できないから、ロシア人の多く住むハルビンに行かされた。そのあとこの学校が創立され、そこに通った。「留学生」が通うなら、まちがいなく「留学」である。のちにここで教えることにもなった。日露協会学校ははじめ3年制、週36時間の授業の半分がロシア語で、みっちり仕込まれる。2学期からは寄宿舎を出て、ロシア人の家に下宿する決まりになっていた。杉原が外務省の試験に合格後「受験と学生」に寄せた体験記は、「哈爾賓は寒いといっても決して恐るるに足らない。厳冬の候でも、室内に於ては、却って日本より暖かで愉快である。来たれ、この謎の国露西亜へ!」(「雪のハルビンより」。渡辺:413)と結ばれている。当時の日本人の認識において、ハルビンはロシアなのだ。白系ロシア人の配偶者も得ているわけだし(1924年結婚)。だが、この白系露人との結びつきがソ連の忌避するところとなり、ソ連への赴任を拒否された。ロシア人の夫人とは離婚していたにもかかわらず。そのため、ヘルシンキカウナスプラハケーニヒスベルクブカレストと、ロシア周辺の小国小都市を渡り歩くことになる。「ロシアとドイツの間」の地域である。その巡りあわせがユダヤ避難民の幸いになったわけだが。ロシア語の達人ながら、モスクワに赴任できたのは、戦後、外務省をやめ商社で働くようになってからである。日本の外交官だからもちろん日本に尽くす立場だけれど、東方においても、「日本とロシアの間」、満州国の外交部に3年勤めていた。そこをやめたのは、夫人によれば「満洲国において日本人が中国人に対してひどい扱いをし、同じ人間と見なしていないことに我慢が出来なかった」(白石:69)からだということである。そのことは、同じ日露協会学校の卒業生岸谷隆一郎が喝破した、「失礼ながら武器をいじくるサラリーマン転勤族、それが軍人というもの。彼らは転勤しないと出世できない。だから、しょせん場当たりのことしかしない。このような軍人たちに抜本策を求めるのはどだい無いものねだりというものだ」という至言と通うところがある。彼は敗戦時満洲熱河省次長の職にあり、「俺は満州国と運命をともにする。満洲国がなくなれば岸谷もない」と言い残して自殺したという(芳地:100f.)。ハルビン学院が幻か、満州国が幻か。少なくともこの両者の崇高な部分を信じ、殉じた人がいたということだ。いかに現実の愚劣によって裏切られようとも、尊い一分まで否定し去ることはできない。
モンゴルについては、善隣協会によってフフホト(厚和・綏遠)に興亜義塾が設立された。昭和14年(1939)の募集広告によると、
「興亜塾給費学生募集
蒙疆及支那西北辺疆一帯ヲ確保シテ赤色ルートヲ壊滅シ、帝国ノ大陸国策ノ遂行ヲ完カラシメンガ為メ、文化事業其ノ他ノ工作ニ従事スル志士的青年ノ養成ヲ使命トスル興亜塾ハ愈々四月ヲ期シテ創立開校セラレントス
体力強健、思想堅実、御奉公ノ信念固ク、先駆者ノ意気ト熱意ヲ以テ第一線ニ立チ、積極的ニ活動セントスル青年ヲ求ム
一、興亜塾所在 蒙古 厚和特別市
二、募集人員 拾五名内外
三、応募資格 中等学校・専門学校・並ニ大学卒業生ニシテ年齢二十八歳以下ノ者
四、修学期間 一年六ケ月
五、修学期間中一切ノ費用ハ協会ニ於テ負担ス(衣食住ノ費用、旅費、小遣等ヲモ含ム)
六、卒業後ハ協会職員又ハ現地政府職員トシテ、支那西北一帯、並ニ蒙疆ニ於ケル第一線ノ任務ニ服スルモノトス」(江本:39)。
この学校は、旅行の同文、下宿のハルビンよりさらに進んで、1年間ひとりでモンゴル人のただ中で生活させられるという点できわめて実践的であり、語学習得の根本に触れている。「興亜義塾では一年間学科(蒙・支・露三カ国語、西域の地理・歴史・政治・経済)、それに軍事訓練を受け、さらに一年間は日本人の住んでいない蒙古高原にひとりで放り出されて蒙古人と生活を共にし、一蒙古人になり切る訓練を身を以て体験した。私は包頭北方百霊廟の四子部落サッチン廟で一年間ラマ僧に混って勉強した」(西川a:21)。
藤枝晃(梅棹らとともに西北研究所にいた)の回想によれば、はた目からはこう見える。「綏遠に、興亜義塾という、中田善水が塾長で、日本の中学出たやつをスカウトして来るのやね。あんまり出来の良くない豪傑、少々の事にこたえんような頑丈なやつばっかり。その第二回か第三回かの卒業生の、木村肥佐生いうの、ラマに化けてチベット行って。それからもう一人、西川一三。僕が行った時は、そういう若いのが二人潜入してるという事を聞いたですがね。その後、インド通って帰って来た。ああいうのが出たんは、興亜義塾というのも、成功したという事なんやろうかな。一人のやつは、向こうに入って、住みついて、いづれ、日本軍が来る時、それを迎えるように言われたて、これ見たら書いたるねん(「協会史」214頁)。例の小野田少尉、ああいう人のまだ見付からんやつが、いっぱいおるのやろな、あちこちに消えたやつが」(藤枝:66f.)。
興亜義塾二期生の木村肥佐生(1922−1989)はダワ・サンボ、三期生西川一三(1918−2008)はロブサン・サンボーの名で、ともにラマ僧に化けて、昭和18年(1943)に前後して西北に潜入した。西川によれば、「西北シナに潜入し、シナ辺境民族の友となり、永住せよ」という総理大臣東条英機の命令書を受けたという(西川a:84)。援蒋ルートである西北公路の探索が目的のひとつだったが、新疆への潜入は果たせず、ともに青海からチベットへ進む。寺本がタール寺からラサ入りした様と重なる。そしてチベットで日本の敗戦を知った。
彼らはまさに民衆のただ中にいた。モンゴル人であって日本人でなかった。木村はラクダに乗り、西川に至ってはモンゴルからチベット、インドまで全旅程を歩き通した。特に西川(津和野から四つ目の駅の山口県地福出身)は、冬も裸足で暮らし、乞食もしたし、雨の中にごろりと口を開けて寝ることのできるような人である。だから、彼らを同族だと思っている内モンゴル人が、「今、大勢のモンゴル人が日本軍の制服を身につけ日本に訓練に行っているがね、いつの日か、この連中が別の制服を身につけて、日本人を逆に海のなかに叩きだすだろうよ」(木村:153)と言うのも聞くし、「安心しなされ。戦争は終わりましたぞ。盗人どもはあんたの土地から逃げだしはじめてますぞ」(同前:203)と「祖国の解放」を祝福される。それ以前に中国人やモンゴル人に対する日本軍士官や日本の会社員の横暴傲慢な振舞いを見ていればこそ、さらに耳に痛かったろう。
木村はダンザンハイロブとツェレンツォーの夫婦を連れて(あるいは連れられて)潜入した。このツェレンツォーはまったく素朴な女で、木村は彼女の弟として旅しているのに、雇い主に対するような敬語を使うのをやめない。「だって実の弟じゃないでしょうが!」というわけだ。あるときは客のいる前で、「彼女がそばにいる時のこの人をふるまいときたら……今にも鋤をとりだして、穴を掘り始めるんじゃないかと思ったわ」と木村とその土地の娘とのエピソードについて語り出して、ダンザンと木村を唖然とさせた。「「それだけじゃない、この人ったら自分のナイフを研ぐことを考え始めたのよ。それまでずっと突きさそうともせず、鞘におさめてたのにね」。自分の機知にうっとりとなったのか、彼女はいっかな話しやめようとしない。それどころか聞き手が間違いなく話の露骨な部分をくみとれるように、一句一句を強調してみせた。(…) 客はバーブウ・ノインの若い召使二人だったが、すっかり当惑顔になっている。愚かな女がよりによって二つも大きなタブーを破ったからだ。まず彼女は弟の前でセックスの話をし、さらにツァイダム盆地で禁じられている言葉を使った。ダンザンは当惑しきった表情で、ラサから到着したばかりの晩夏のキャラバン隊の話をもちだして、なんとか話題を変えようと試みた」(木村:133)。この旅で彼女は出産し、後産が下りずに死にかけ、せっかく生まれた赤ん坊を亡くす(おそらく寝ながら乳をやって乳房で窒息死させて)などという経験をしている。そうしてたどりついたラサでは宗教的熱狂のうちに五体投地礼をくりかえし、インドへ下ってブッダガヤの聖なる菩提樹と仏塔に参拝して、「つまらないモンゴル人の女である私が、こんなありがたいお釈迦さまの遺跡にお参りできたのもあなたのおかげです。もういつ死んでも思い残すことはありません」(同前:209)と言う。木村と別れたあと、二人はネパールへ行き、仏塔の番人をしていたが、彼女はそこで病死したという。妻を亡くしたダンザンはラダックへ去った。人生は旅というが、まさにそれを一身に表わした生涯である。木村と同行したからラサへもブッダガヤへも行けた。だが、同行せず、内モンゴルに暮らしつづけていればどんな人生だったか。すでにこうであった以上、考えても詮無いことである。われわれはただ、木村の筆によって、こんな人もいてこんな人生もあったのだと知り、心を揺すられるだけである。
西川は一モンゴル人新米ラマ僧としてレボン寺に入って修学した。興亜義塾だけでなく、ここでも「留学」していたわけだ。しかも、特権ゼロ、茶汲み水汲みなど駆け出し僧の仕事をみなこなしている。最高の学位につくだろうと将来を嘱望されている「同郷」のイシラマを師とした。「イシラマにハタクとグンスク代五円を献じ、三跪三拝し、「なにも分らぬ者ですが、なにぶん宜しくお願い致します」と挨拶を述べた。それに対しイシラマは、「ロブサン、それはお前が取っておけ」とただ一言。その言葉は低くそして慈愛に満ちたものだった。熱いものがこみあげてきて、なにも言えず、涙の出るのを我慢し、「よし、この恩は…」と私はかたく心に誓ったのである」(西川b:49)。耳から覚えてチベット語の会話はなんとかできたが、書くのはもちろんさっぱりである。「親代わりの師匠イシラマは、私が経文もなにも知らぬ無筆者とはいっても、まさか、イロハも知らぬ無学者とは思ってもいなかった様子で、「ラマといって、イロハも知らぬ無学者が、このジュチュ僧舎に来たのは、お前が初めてだろう」とあきれてしまった。「この有様では、学問上の先生を選ぶなどとはとんでもない。俺の弟子として、俺の顔がたたないから、せめて経典が読めるようになるまで俺が教えてやる」ということになり、さっそく入門の翌日からイシラマについて、チベット語の勉強が始まったのである」(同前:74f.)。先生の指導にこたえ熱心に努力したおかげで、「こんどイシのところに来た弟子は、来た当時はイロハも知らなかったが、もうジャブロー(礼賛の経典)を全部暗記したそうだ、凄い奴だ」と言われるほどになった。
慧海が書いている問答修行にも参加しなければならなくなった。「入門して間もないある日のこと、イシ先生が、今夜僧舎で討論会があるが、その時、『一年生立て!』と上級ラマが怒鳴ったら、僧舎ではお前が一番の新参者だから、お前が真っ先に立つのだぞ」と突然言われ、何も知らない私は青くなった。しかし、先生は「シィシジン、サンニット、ヨーワルタル、ヨーウイチル」と二回繰り返され「これを暗記しろ!」と命令された」(同前:155)。そしていよいよその日が来て、「星のきらめく中庭の一段と高い石垣の上には、座布団のように、大きな石板が敷かれた答者の席があり、その席を囲んで九年生以上の全上級生が、その下の広場に集まった。(…) 全員が席につくと、
「一年生から立て!」と背後の九年生から声が起こった。兢々としていた私はままよとばかり、黄帽をかぶり、ダゴムを脱ぎ捨て答者の前に立ったが、足がぶるぶる震えて仕方がなかった。しかし私は、昼間先生から教わった一人芝居をどうにかこうにか、失敗することなく演じた。
答者は私の問に対し答えたが、なんのことか解らないだけではなく、その答に対して次になんと問を発したらよいのか、またどうしてよいのか分ろう筈はない。(…)
ところが、上座の上級ラマの間から、突如そして私に代わって答者に問が発せられた。そのすみきった声は実にわが師イシ先生の声だった。私はどれだけほっとしたことだろう。問答は助け船イシラマと答者の間に自然的に繰り返され、私はただ案山子のように立っていればよかった。まもなく、
「つぎ、立て」と九年生の中から声が起こり、その声と共に私はひっこみ、次の者が立った」(同前:156f.)。
二人がインドのチベット人町カリンポンで出会ったときの様子はおもしろい。日本語が話せなくなっていたのだ。「我々だけになるや、西川氏は口をひらいたが、舌がもつれて話せない。私には何が起こったのかよくわかった。日本語で話そうとしたのが、言葉が出てこないのだ。ややあって彼は日本語を話すのをあきらめ、モンゴル語に切り替えた。「日本は戦争に負けたのかね?」」(木村:219)。木村のほうも同様で、カルカッタ港で日本船を見つけ、船長に「自分のことを説明しようとしたが、母国語であるはずの日本語がうまくでてこない。もどかしさのあまりペンを取って紙に書いた。「私の名は木村肥佐生。七年間日本語を話したことがありません」。奇妙なことに書くことには何の困難も覚えなかった」(同前:322)。
昭和25年(1950)、帰国すると二人はGHQから呼び出しを受けた。二人ともそれぞれ外務省に報告しようと考えた。彼らは大使館調査室の勤務とされていて、終戦まで両親のもとに毎月外務省から給料が振り込まれていたからだ。だが外務省はそれにまったく興味を見せなかったので、GHQで1年間日当を受けながら報告書を書いた。その後西川はその見聞を大部の本に著したものの、前半生と無縁の仕事(盛岡で美容器材卸業)をして生を終えた。一方、木村はその経験を生かしたが、それはCIAの下部組織で働くという形である(その後亜細亜大学教授)。これらのことは、敗戦後この国を支配しているのが誰であるかを如実に示している。たぶん今に至るまで。
平成元年(1989)、ウルムチへの旅の途上で病に倒れ、日本に運ばれて手術を受けた木村肥佐生の最期の様子は、夫人によるとこうだ。「手術後に麻酔科の先生が「あなたの名前は。」と尋ねられました。主人は暫く天上を見つめておりましたが、しっかりした口調で「名前は言えません。」と申しましたので、驚いた私は咄嗟に「ダワ・サンボです。」と答えてしまいました。すると主人は、きつい目で私を見てから先生に、「逃亡ではありません。潜行です。」と低い力強い声で訴えました。これが最後の言葉となり、十月九日、力尽き、ダワ・サンボとして他界致しました」(木村:369)。
興亜義塾も西北研究所も、存在した期間はごく短かったが、大きな成果をあげたと言える。しかし興亜義塾の場合、それが戦後に生かされたとは言えない。日本でなくアメリカの手に入ってしまった。同じく成功だった西北研究所のほうの成果は、戦後日本にしっかりもたらされたのに。国家べったりの興亜義塾のおのずからの限界である。スパイはしょせん国に仕えるもの、ということでもある。


満州国の成立は、不思議な「外国留学」を成立させた。満洲生まれ、撫順・奉天育ちの李香蘭こと山口淑子(1920−2014)は、父親の義兄弟である中国人有力者から李香蘭、潘淑華の名前をもらっていた。そして北京の潘家に寄寓して、1934年、そこの娘たちと名門ミッションスクール翊教女学校に通うことになった。これも立派な留学であるが、なんとねじれた留学であることか。彼女は潘家の娘潘淑華として、出自を隠し中国人として中国人の学校に通ったのである。政界の大物だから、親戚や妾、使用人や私兵などを含めて百人もが暮らす豪壮な邸宅の中に、たった一人の日本人であった。中国人の作法も身につけた。「人様に何か言われると、すぐ笑いかえす癖があるが、なぜ笑うのか。日本人の習慣だとすれば改めなさい。意味もないのに愛想笑いをすることを中国では売笑といって軽蔑されます」「日常のあいさつで、点頭(軽い会釈)するのはよいけれど、日本人のように深々とお辞儀をするのはよしなさい。卑屈に見えます」などと奥様に注意され、それにならうと、実家に帰ったとき母親に、「淑子は、大都会に出てから生意気になって礼儀作法がダメになった」と嘆かれる。「中国人になろうとすれば、日本人らしさを失い、日本人であろうとすれば、中国人から誤解される― この二律背反の悩みは、風俗習慣だけでなく、あらゆる面で終戦時までつきまとうが、もっとも悲しかったのは、祖国・日本と故国・中国との対立が次第に激しくなってくることだった。クラスメートたちの日常会話にも「反日」「排日」「抗日」などの言動がひんぱんに表面化し、地下運動に参加する友人もでてきた。/そうした悩みを誰にも打ち明けられないことこそ、最もつらい悩みである。耐えられなくなると、私はよく太廟に出かけて古木の並木を散歩しながら思いきり泣いたものである」(山口・藤原:75)。あるとき学生の抗議集会に顔を出す羽目になった。「日本軍は偽満州国をでっちあげ、東北地方からこの北京にせまってきている。もし日本軍が北京の城壁を越えて侵入してきたら諸君はどうするか」という問いかけに、「国民政府軍に志願する」とか「パルチザンに参加する」という声があがる中で、彼女の順番がまわってきたとき、とっさに「私は、北京の城壁の上に立ちます」と答えた。城壁に登れば、攻める日本軍か迎え撃つ中国軍の銃弾に当たってまっさきに死ぬだろう。それが自分にふさわしい身の処し方だと思った。
そうであればこそ、満映にスカウトされ新京へ行ったときの新京駅でのあざやかな出現が出迎えの日本人スタッフを驚かせたのだ。そのときの関係者は言う。「新京駅のホームではすっかりあわてましたよ。軟席車(一等車)の停車位置で待っていたのだが、李香蘭らしい女性はおりてこない。どうしたのだろうと心配していると、ホームのはずれにポツンと立っている小柄な娘、それがあなただった。オカッパ頭、青い木綿の中国服の質素な身なり。硬席車の窓から身を乗りだす中国人乗客たちに手をふって別れを告げている。日本人が乗る軟席車の特別車に乗ってこなかった、中国の人たちと打ちとけて話している、それだけでみなが感動してしまった」(山口・藤原:100)。
映画スターとして数々の「国策」映画に出演し、迎えた敗戦後、中国人の対日協力者は「漢奸」として裁判にかけられたのだが、彼女は日本人であることが証明できて、日本に引き揚げることができた。大陸で生まれ育ったのだから、「漢奸」でないように「引き揚げ」でもないのだけれど。中国人ではもとよりないのだが、日本人とも言い切れない(初「来日」のとき、特急列車に乗って目まいで気分が悪くなってしまった。特急あじあ号より遅い日本の特急で。「ごみごみした近景がコマおとしのフィルムのように目まぐるしくかわる」からである)。どちらにも真に属することなく、狭間を生きた人である。「華やかな狭間」ということだ。


その満州国崩壊は、シベリア抑留へとつながる。敗戦後、60万もの日本人兵士や満州国関係者がシベリアを始めソ連各地の収容所に連れ去られ、国際法を無視して囚人のような強制労働をさせられた。うち6万人ほどが寒さと厳しい労働と劣悪な環境のために落命したと言われる。10人に1人はいかにもひどい。隠岐西ノ島の出身で東京外国語学校ロシア語科に入り、社会主義運動に関わって退学処分を受けた後満鉄に入社、北方調査室で働いていたという経歴ですでに妻子のあった山本幡男(1908−1954)も帰国のかなわなかった一人で、収容所で勉強会やアムール句会などを主催し、周りの人に慕われ、紙一枚持ち帰れなかった帰国時に、友人たちがその遺書を暗記して遺族に伝えたことで知られる(辺見じゅん「収容所から来た遺書」)。
そんな悲劇があるため暗い色調で批判的否定的に語られがちなシベリア抑留であるが、抑留記「極光のかげに」を書いた高杉一郎(1908−2008)の言うとおり、これはひとつの「バビロン捕囚」である。抑留者は辛い記憶や恨みばかりを持ち帰ったのか? もちろんそういう人も多くいただろう。国で待っていた家族にとっては、ただ辛かったというだけかもしれない。だが、ここでは日本人の資質が問われているのだ。もし本当にここからネガティブな要素しか引き出せないのなら、日本人はその程度の人間だということである。待っていた人たちの心情もまた構図を歪めているだろう。留学の場合は、国で待つ家族には待ち甲斐があった。よりよい未来のために一時的に忍ばねばならぬことだった。戦争や捕虜の場合はそれと全然違う。帰ってくる保証は何もなく、帰ってきたとて行く前のレベルに戻ることしか期待されていないのだから、待つことの辛さはよくわかるし、それに一部の(多数の)抑留者のルサンチマンが合同すれば、ただ対ソ悪感情の材料になるだけであろう。だが、それだけなのか? それは貴重な経験に、学びの場にならないのか? 否である。日本人と日本文化にとって幸いなことに、それをもってポジティブな生産に結びつけた人たちはしっかりいた。
長谷川四郎(1909−87)の「シベリヤ物語」は、大岡正平の「俘虜記」と並んで捕虜文学の双璧だと思うが、五木寛之に「のんきな本で、捕虜生活の苦しみが出てないですね」と言われるほど、捕虜という名の囚人の生活の辛さがほとんど述べられていない。それは意図的なことで、その感想に対して長谷川自身は「それは罪ある者として私がよろこんでシベリヤに服役したためかもしれない」と言っている。これは重要なポイントだ。抑留者は要するに囚人で、懲役に付されていた。明治大正期の北海道の監獄の懲役労働について読んでいれば、それより(さすがに)ましだが同類のものだとわかる。自分がその罰を受ける理由があると思う者はそこから反省を引き出し、まったくそんないわれはないと思っていた者(兵卒の大部分はそうであろう)はただ恨みしか感じなかった、ということだ。「シベリヤ物語」に描かれるのは厳しいシベリアの環境の中に生きるたくましいが平凡なロシア人と周辺民族の姿で、日本人捕虜はそこでの生活風景の中の自然な構成物だ。場によくなじんでいる。たとえばマリーヤ・ゾロトゥヒナ。「野菜の積み込みにやってきた「兵隊たち」に対し、捕虜とか日本人とかいう観念を全然持っていなかった。彼女にはただ労働者という観念しかなかったように思われる。彼女は兵隊たちをただ未熟な労働者として取扱った。(・・・) トラックが動きだした。すると彼女はあわてて少年の手をはなして、たちまち笑顔になって、ぼくらに向って愛想よく手を振った。/― 幸福で!と彼女は言った」(「シルカ」)。
たとえばラドシュキン。「どういう用件か知らないが、ラドシュキンはモスクワへ出張したのだった。/こうしてラドシュキンなしの日が何日も続いたが、ある朝、私たちが煉瓦工場に近づいてゆくと、彼がいつものように、道具類を並べているのが見えた。彼は私たちが到着しても、別に長いこと不在だった人間のようではなくて、あたかも昨日別れたのと同じような態度だった。
「何処へ行ってたんです?」と私はきいた。
コルホーズへ、牛乳を飲みに」と彼は答えた」(「ラドシュキン」)。
たとえば「かちかちに凍りついた塵芥の山の麓を少しずつツルハシで取崩しにかかった」とき、通行人たちがからかって投げかける言葉。
「「ヤポン、働け、働け」と太い声が言った。
ヤポン、腹が減ったかい」と別の声が言った。
ヤポン、いつ国へ帰るんだい」とまた別の男の声が言った。
ヤポン、えらいぞ、きれいにやれよ」とまた別の声が聞こえて来た。
ヤポン、お前は民主主義者かね」とえらそうな声が言った。
ヤポン、立派な特殊技能を持ってるね」と皮肉な少年の声。
ヤポン、いい匂いでしょう」と若い女の声。
ヤポン、一ルーブリくれないか」と、これは吐き出した唾と同じ声だった。
ヤポン、お前のノルマはいくらだい」」(「掃除人」)。
「警戒兵不要者」という一種のパスをもらって、ひとりで村を歩けるようになった主人公は、本屋に入る。その看板は「細い斜体活字的に「本」と書いてあった。私はこの「本」の中へ入って行ったのである。恐らくは、ある人々が酒場にでも入ってゆくように。(・・・) 私はそれから毎日、馬から降りては、この「一八一二年のモスクワ」を少しずつ読んでみた。(・・・) 本屋の主婦は中年の独身女で、奥の一間にひとりで住んでいたが、彼女は私に対し上等な親切を示した。彼女は私に対し完全な無関心をよそおったのである。この無関心は冷淡なものではなかった。何故なら、私がある日、この「一八一二年のモスクワ」を開いて、ナポレオンがクレムリンの書庫でプガチョフ関係の文庫を調べている所を読んでいると、数人の小学生が入って来た。彼らは私を見て何やらひそひそ話していた。「ヤポン」とか「捕虜」とか言っていたようだ。すると店の主婦が彼らをたしなめて、こう言った。「そうです、あの人は日本人ですよ。それがどうしたのです?」/小学生たちは忽ち黙ってしまった。そして私が振り向くと、彼女はもう編物をしながら、窓辺に開かれた大きな厚い書物を読んでいた。彼女は毎日、その本を少しずつ読み、一枚一枚と頁をめくっていたのだった」(「ラドシュキン」)。
これをしも「留学」と言うのは、留学ということばの乱用であろう。しかし、ゴーリキーの「私の大学」のような意味で「人生の大学」ではあったし、朝鮮慶尚北道生まれの民族学加藤九祚(1922−)のように、そこでロシア語を習得して、昭和25年(1950)に帰国ののち大学で学びなおし、抑留遺産のロシア語を駆使してロシアや旧ソ連の学者と交際し、研究・発掘や翻訳に活躍するみごとな人生を送っている人もいる。このような人にとっては、抑留もたしかにひとつの「留学」であったと言えよう。シベリアから持ち帰った有益なものの筆頭は合唱愛好癖かもしれないが、それだけにとどまらない。
みずからの意志によらず、学ぶ意欲のある者にだけ開かれていたこの寒々しい「学びの場」は、漂流記から始まったこの留学談義をしめくくるのにふさわしい。